朝鮮人強制労働の史実を伝えてきた「旧光顕寺・笹の墓標展示館」を再建したい

2019年2月、北海道朱鞠内において戦時下強制労働の史実を伝えてきた「旧光顕寺・笹の墓標展示館」が積もった雪の重みにより倒壊しました。私たちは、死者の追悼、歴史の展示のみならず、日本・韓国・在日韓国/朝鮮人はじめ東アジアの若者たちの交流の場となってきた展示館の再建を目指しています。

現在の支援総額

3,882,000

32%

目標金額は12,000,000円

支援者数

381

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2021/06/01に募集を開始し、 381人の支援により 3,882,000円の資金を集め、 2021/07/30に募集を終了しました

朝鮮人強制労働の史実を伝えてきた「旧光顕寺・笹の墓標展示館」を再建したい

現在の支援総額

3,882,000

32%達成

終了

目標金額12,000,000

支援者数381

このプロジェクトは、2021/06/01に募集を開始し、 381人の支援により 3,882,000円の資金を集め、 2021/07/30に募集を終了しました

2019年2月、北海道朱鞠内において戦時下強制労働の史実を伝えてきた「旧光顕寺・笹の墓標展示館」が積もった雪の重みにより倒壊しました。私たちは、死者の追悼、歴史の展示のみならず、日本・韓国・在日韓国/朝鮮人はじめ東アジアの若者たちの交流の場となってきた展示館の再建を目指しています。

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 緑の中に立つ資料館(旧光顕寺 昭和9年建立)を初めて訪れた時、不思議な気持ちでした。中の壁には資料が張られ、奥には鉄道、ダム建設で亡くなられたご位牌が置かれて暗い不気味さを一瞬感じます。しかし、お寺当時の面影を残した大きな木の支柱や板張りの床の深い空気感を感じているうち、心はすがすがしさに変わっていったのです。更に、布団を敷いてここで寝てみたい衝動にさえ駆られました。 後刻、考え直してみると1980年代から続けられた遺骨発掘。世界各国から集まり、汗と共に平和の尊さを共有された先人達の願いや息吹が、無念にも事故で亡くなり、一晩御遺体として横たえられていた本堂の寂しい雰囲気を少しずつ和らげていったのではないだろうかと。こちらを訪れる度、亡くなられた方の冥福と共にダム、道路、鉄道で恩恵を受けている事に感謝を捧げました。 又、このような時の流れを踏まえ、自分はどう生きていくのかという心の再構築の場にもなっていました。祈る人奥矢敏正


 私たちのまわりに、見えなくさせられているものがどれだけあるだろうかと思う。  雪深い朱鞠内にある笹の墓標展示館は、見えなくさせられてきた歴史を、掘り起こし、あらわし、ずっと示し続けてきた場所だ。そして、すぐそばにいてもお互いを知らない者同士が出会い続けてきた場所でもある。 そこには、意思を無視され、労働を強いられ、その場で亡くなった朝鮮、日本の若者たちがいる。そこに、たしかに存在している。私はそこに行くまで、そのことを知らなかったし、今も実感できているのかというと、心もとない。でも、彼らの存在は確実に、私たちの現在生きている日本社会につながっている。同じような生や労働を強いられている人たちが、まだ、続いていて、日本をかたちづくっている。 再び見えなくされ、消えさせたくない。まず彼らの生きた現実を知る、伝えるところから始めないといけない、と思う。そのための、場所の再建。 あともう少し、笹の墓標展示館の再建へのご支援を、どうぞよろしくお願いします。東アジア共同ワークショップ鍋谷美子


(「笹の墓標展示館」再建のための募金活動は、韓国でも取り組まれています。今までの活動で縁があった方々へ協力をお願いしようと鄭明禧(チョン·ミョンヒ)さんが宛てた手紙を紹介します。) アンニョンハセヨ。鄭明禧(チョン·ミョンヒ)です。 皆さんには、本当に久しぶりの挨拶となります。 この手紙を受け取った方々は「日韓大学生ワークショップ」、あるいは「東アジア共同ワークショップ」で、(当時の名称が何であれ) 日本、そして北海道に縁があった方々です。(チョン·ミョンヒと縁のある方でもありますね)別の言葉で言うなら、日本という国を思い浮かべる時、一度は殿平善彦先生や北海道・朱鞠内の光顕寺を思い浮かべるであろう方々です。 私が東アジア共同ワークショップ(その当時の名称は、日韓大学生ワークショップ)に初めて参加したのは1997年です。もう20年以上の時間が流れましたね。 その出会いを通じて、私はたくさんの大切な方々と出会いました(皆さんが、まさにその方々です!)。そのおかげで、人間としても少しは成熟できたのではないかと思ったりもしています。そして、何より、直接には見たことも経験したこともない歴史のために努力するためには「平和」と「愛」が必要だということを、殿平先生と鄭炳浩(チョン・ビョンホ)先生から学びました。 ある期間、とても情熱的にワークショップに参加しました(その「ある期間」が、実は10年以上にもわたる歳月になるんですよね!)。今でも、夏に関する私の思い出のほとんどはワークショップです。今でも夏になると少し緊張と、ときめきを感じます。北海道の新千歳空港の入国審査台、西本願寺・札幌別院で酒を飲みながら夜通し討論したこと、北海道大学の美しい景色を見物することもできずセミナーばかりしたこと、ずっと止むことなく雪が降り続いていた札幌の街角、最初は味が濃すぎて水で薄めて食べた札幌のラーメン、雨が降る発掘現場にテントを張りに出かけたこと、発掘現場で初めて遺骨を発掘し、どう受け止めたら良いのか持て余してしまったこと、朱鞠内の森の中で虻(あぶ)に噛まれてすごく苦労したこと、李泳禧(リ・ヨンヒ)先生と一緒に札幌のビアガーデンに行ったこと、稚内で飽きるほど食べたホタテ、発掘現場で、朝鮮、日本、アイヌのそれぞれの風習にのっとって法事を上げた記憶、北海道に響き渡った鄭泰春(チョン・テチュン)・朴恩玉(パク・ウノク)先生の歌声、在日コリアンの友達と一緒に歌った「なごり雪」、朱鞠内湖でカヌーに乗ったこと、光顕寺で雪下ろしをしたら足下がトイレの屋根ですごく驚いたことなど… こんなすべてのことをどうして忘れることができるでしょうか? その中でも、私の心を一番大きく占めているのは朱鞠内の光顕寺です。私は生まれて初めて、光顕寺で私の歴史、そして日本と韓国の歴史に向かい合いました。光顕寺で保管されている、日本による植民地時代に強制連行・強制労働の犠牲となった方々の位牌を初めて見た時、韓国から飛行機に乗って来るにもこんなにも時間がかかる、あまりにも遠い土地に朝鮮人がダム建設のために連れてこられたということを、心身ともに通じて生々しく感じました。光顕寺は強制労働、強制連行の歴史の現場であり、生きている証人そのものだと思いました。 光顕寺は、このように、歴史に触れる場所でありながらも、新しい歴史を創り出す場所でもありました。いまだにあちこちで話題にされる「アンケート事件(事件と呼ぶべきなんでしょうか?)」のため本当に何日も頭を悩まされ、光顕寺の屋根の下で泣いたこともありました。光顕寺の前の庭で、韓国人、在日コリアン、日本人、アイヌの友人が一緒に集まりカヌーを作ったりもしました。国、国籍、民族を問わず、朝鮮の伝統楽器のチャンゴ(鼓)や銅鑼、太鼓、アイヌの伝統楽器を学び、私が作った数十袋分のラーメンの大鍋で、民族と国の大団結を成し遂げたりもしました。光顕寺の本堂で日韓の友人が肩を組み、声を合わせて「朝露」を歌ったり、光顕寺本堂の床が崩れ落ちそうになるまで友人とお酒を飲み、飛び跳ねたりもしました。今でもそのすべての場面が生々しく浮かんできます。確かに、私は朱鞠内の光顕寺近くの蕎麦畑のどこかに私の魂のかけらを置いてきたようです。 そんなある日、私の心の故郷である光顕寺が倒壊したという知らせを聞きました。人とは本当に愚かなものですね。私が北海道・朱鞠内の光顕寺に初めて出会ってから25年近く経ったのに、なぜ人だけが年をとるものだと錯覚し、建物も年を取ることに考えが至らなかったのでしょうか。光顕寺の「年齢」は、いつしか87才にもなっていたのでした。この光顕寺がなくなってしまえば、日本現地でほぼ唯一、犠牲者とともに強制労働の現場を記録した資料館もなくなってしまうのであり、それに伴って、皆さんの歴史における最も大切な記憶の1ページも消えてしまうのです。 日本では、光顕寺を「笹の墓標展示館 - 強制労働資料館 - 」として再建し、日本の帝国主義の時代の強制労働の歴史を伝え続けるため、「笹の墓標展示館再生・和解と平和の森を創る」実行委員会が結成され、募金を募っています。 2022年の完工を目標にしており、目標金額は3,000万円(約3億ウォン)です。3,000万円は決して小額ではありませんので、本当にたくさんの方からのサポートが必要です。   そのため、韓国でも社団法人「平和の踏み石」の名義で専用口座を開設し、カンパを募集しています。 皆様のご参加、ご支持、ご支援を心からお願い申し上げます。 最後に、古代の数学者ピタゴラスの言葉で締めくくりたいと思います。最古であり最短の言葉である「はい」と「いいえ」は、もっとも多くの考えを求めてくるものだ。- ピタゴラス -  私のお願いに「はい」と答えてくれますよね? 愛していますよ。2021年6月29日鄭明禧(チョン·ミョンヒ)より


「酷寒の中の光」 5月、沖縄はすでに若夏。飛行機を乗り継いて朱鞠内へ。空知から雨竜川に沿う道中の雪景色が夢のように美しかった。光顕寺には、僧侶の殿平善彦さんが案内してくださった。沖縄で雪の重みでお寺が傾いたこと、そしてそこに毎年、東アジアの若者が集い交流してきたことなどを伺ったとき、どうしても朱鞠内に行かねばと思いがつのっていた。雪下ろしで、これまで何人も骨折したという。そのような酷寒の中、ダムを掘った人々を想う。 犠牲になった人々の遺骨や位牌は、隣の庫裏に移されていて、殿平さんはその一つ一つを抱きかかえるように語りかけていた。沖縄戦で亡くなった朝鮮や台湾、中国の人々の遺骨は、まだ地中や海底に埋もれたままである。早く故郷におかえししたい。せめて真実を掘り起こし、後世に伝えたい。 北と南の島々は歴史的に多くの共通点をもつ。「笹の墓標展示館」そこに集う若者たち・人々との出会いは、東アジアの平和への希望と光である。NPO法人 沖縄恨之碑の会代表安里英子


 笹の墓標展示館に訪れた最初の台湾人として、台湾とも交流したいと頼まれた時に、嬉しいながら「朱鞠内にとって、台湾は何だろうか」、「台湾にとって、朱鞠内は何だろうか」と悩んでいました。今まで「日・韓・在日」という枠組みで捉えられていた運動でしたから。そして実際に始まった交流の意味は、最初から決まったものより、出会いによって生まれたものなのだと気づきました。 台湾の人々は、様々なルーツによって歴史に対して見方も異なっています。それぞれの葛藤を抱いているからこそ、朱鞠内にやってきました。そしてここで出会ったのは葛藤への「答え」より、一緒に歴史を紐解くために学ぶ、働く、悩む友達なのです。 今まで沖縄、ソウル、台湾でもワークショップを行いました。みんなとどこかで会えるようになったのは、心が朱鞠内に繋がっているから。これからさらに出会いの輪を広げ、次の世代に伝えるために、笹の墓標展示館の再建を心から願っています。東アジア市民ネットワーク台湾許仁碩


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