(麻糸を1本ずつ接着してキャンバスの破れを補修している) (株)文化財マネージメントの宮本です。前回に続いて、中右恵理子先生にご執筆いただいた油彩画修復についてのコラムの続きを掲載します。今回は修復作業についてです。 高橋源吉の油彩画は現状では状態がかなり悪いです。画面全体に亀裂が生じ、所々絵具が剥落しかかっています。また、キャンバスが木枠から外れかかって大きな変形が生じています。このような状態の油彩画を修復するためには、絵具の剥落を防ぐ接着作業や変形を修正する作業が行われます。構造的な強化の他に、埃が堆積した画面や裏面のクリーニング、絵具が剥落してしまった箇所に色を補うなどの美的な処置も行われます。写真は大学で行っている他の油彩画の修復作業の様子です。 〇絵具の接着強化剥落しかかっている絵具片を接着剤で固定します。下の写真は接着剤を入れた後に、シリコン製のシートの上から電気ゴテを当てている様子です。油絵具の塗膜は厚みがあり、硬く、変形していることが多いので、絵具を温めながら塗膜をしっかりと固定させます。 (接着剤を入れてシートの上から電気ゴテを当て、絵具を固定している) 〇裏面のクリーニングキャンバスの裏面には、経年による埃などの様々な汚れが積もった状態になっています。虫の巣が発見されたり、カビが付着したりしていることもあります。下の写真は修復作業用の小型クリーナーを使用して埃を除去している様子です。 (小型クリーナーで埃を除去している) 〇キャンバスに生じた破れの補修木枠に張られた状態のキャンバスに物が当たると破れが生じることがあります。昔は破れた箇所全体に裏面から布を接着する補修が多く見られました。そうすると布の形に画面側に変形が出てしまいます。下の写真は麻糸を1本ずつ接着して補強する補修方法で、強度もあり変形も生じにくいです。 (麻糸を1本ずつ接着してキャンバスの破れを補修している) 修復を行うということは、作品に何らかの手が入るということなので、何を重視してどこまで手を加えるかが大事になってきます。描かれた当時の歴史的な情報も重視しながら、今後の保存や絵画としての見やすさなどを慎重に考慮しつつ、作業を行っていきたいと思っています。皆様のご支援、どうぞよろしくお願い致します。
(油彩画のX線写真) (株)文化財マネージメントの宮本です。今回の修復を担当していただく、東北芸術工科大学講師の中右恵理子先生から油彩画修復について、他の作品を事例にコラムをご執筆いただきましたので掲載します。まず今回は、修復に先立っておこなわれる調査についてです。 高橋源吉の油彩画修復を担当する中右恵理子です。現在、山形市にある東北芸術工科大学の文化財保存修復学科で講師をしています。高橋源吉は山寺にとても縁の深い画家で、地元で大切に保管されてきた源吉の油彩画を、より良い状態で長く保存できるよう、今回の修復作業に従事したいと思っています。 修復作業は東北芸術工科大学内にある文化財保存修復センターにて行う予定です。通常、修復にあたっては、作品の材料や構造、損傷状態などを観察し、詳しく把握することから始めます。お医者さんが患者さんを診断するときと同じような感じですね。今回は大学病院にあたる施設でより専門的な検査が行われます。一番の目的は油彩画の損傷を手当てすることですが、作品の状態を知るために、X線や赤外線を使った詳しい検査をし、絵に使用されている絵具などの材料についても分析します。修復の機会に、高橋源吉の油彩画についての技術的な情報が明らかになることも期待できます。 赤外線では絵具の下に隠れて見えない下描き線などが見つかることがあります。下の写真では、手すりの右側に細く写っている線は実際には絵具の下にあって見えません。赤外線で観察すると、船の手すり部分の位置が変更されたことがわかります。画家がどのように制作を進めたかを知るてがかりとなります。 (油彩画の通常写真・部分) (油彩画の赤外線写真・部分) つづいて、X線を当てて撮影するいわゆるレントゲン写真です。絵画の見えない部分の構造や損傷がわかります。下の写真は木枠に張られたキャンバス画で、端に木枠、釘が写っています。釘の形がぼんやりしている箇所は金属の腐食が進んでいます。絵に使用された絵具の材料や塗りの厚さによって明暗に違いが現れます。技法の調査にも役立ちます。 (油彩画の通常写真・部分) (油彩画のX線写真・部分)
(株)文化財マネージメントの宮本です。今回は、高橋源吉について研究している山形大学教授の小林俊介先生から、明治時代の美術界における源吉の位置についての原稿をいただきましたので、以下に掲載します。少し長いですが、ほかでは読むことのできないコラムですので、ぜひご覧くださいませ。 高橋源吉(以下、源吉)は、これまで《鮭》で有名な高橋由一の息子で、画家でもあったという程度の認識でも、あればまだ良い方だったのではないでしょうか。しかし、実際には、彼は明治期に「美術」という「仕組み」や「考え方そのもの」を作った重要な人物のひとりだったのです。 例えば源吉が執筆した『高橋由一履歴』(由一の伝記)に以下のような有名な記述があります。由一が西洋画にめざめたのは、幕末に西洋の写実的な石版画を見て、単に現実をリアルに描いてあるだけではなく、ひとつの“趣味”(taste)をそこに発見したからだと。しかし幕末にはまだ芸術としての「美術」はおろか、その前提となる「趣味」という言葉も感覚もありません。むしろ西洋画は「写真(photograph)」と同様、当時の言葉でいえば「真ヲ写ス」ための「技術」であり、白黒の写真を参考にそれ以上にリアルに描く、というのが由一生涯の仕事であり、目標でした。 今日由一は本邦初の本格的な西洋画家であり、「芸術家」のひとりとされています。しかし由一のような(職人的な)西洋画家は、例えば五姓田芳柳・義松親子など、当時他にもたくさんいたのです。源吉は『履歴』において、明治期にようやく普及してきた芸術家としての「美術」という考え方のスタートに由一がいた、ということを宣伝しているようにみえます。大げさにいえば、実作者として、また今日風にいえばアートディレクターとして、「近代日本美術(史)」という考え方そのものを作り、そのスタートに由一を置いたのが源吉、といってもおかしくありません。 このことは、源吉自身の業績をみるとよく分かります。彼は本邦初の本格的な美術団体である「明治美術会」の創立会員としてその活動をとりしきっています。講演会や展覧会を行い、彼自身も同会で「tasteとstyleについて」という講演を行い、美術という「考え方」の普及を行っています。英語が得意だった源吉は、イギリスの有名な画家アルフレッド・イーストの離日の際には、源吉は同会を代表してイーストに講演の礼を述べに横浜に赴くなど、同会の重鎮として活躍しました。これらはすべて芸術としての「美術」の普及に関係することでした。 明治35年に明治美術会が解消すると、東京で発表の場を失った源吉は地方を放浪した、とされています。しかし実際には、山寺ホテルにある《本合海》の存在が雄弁に物語るように、山形で制作活動を行い、明治41年に山寺で「油絵展覧会」を開き、大正2年に石巻で没するまで、生涯「美術」の普及を行っていたのです。しかもそれは、山形における本格的な西洋画紹介の嚆矢というべきものでした。 源吉の業績をあげれば、他にも由一の開いた画塾「天絵社」での指導やその運営などキリがありません。源吉は父・高橋由一の助手であり、共同制作者であり、伝記作者でした。いうならば“本邦初の西洋画家、由一”という“看板”のもと、西洋画の普及と販売を行っていたのです。東北地方の新開地を記録し、おそらく山寺の「油絵展覧会」でも展示された「三島県令道路改修記念画帖」(山形大学附属博物館蔵)は、由一の下絵(写生)を源吉が石版画に起こしたものです。また由一晩年の作とされている作品のなかには、源吉が加筆・制作したと考えられるものもあります。 『高橋由一履歴』は口伝と伝えられますが、実際には源吉の脚色が相当加わっていると私は考えています。作品制作はもとより、著作や展覧会で由一を「美術」の祖として宣伝すること。それが源吉の「芸術」としての美術や西洋画を普及する方法であり、またそれは美術館や画商はおろか、「美術」という仕組みそのものが定着しない明治期における由一と源吉の「営業」の一環でもあったのです。
(山形市の料亭千歳館で、ご当主の話を伺っている研究会の会員) (株)文化財マネージメントの宮本です。当方と一緒に今回のプロジェクトをおこなっている「山形歴史たてもの研究会」についてご紹介します。 山形歴史たてもの研究会は、平成16年、山形県内の古いたてものを愛する市民によって活動を開始しました。それ以前の平成12年頃にも同様に活動を行っておりましたが、古い建物や周辺景観の保全活動を推進するため、会の名称を現在の「山形歴史たてもの研究会」と改めました。 山形県内外の地域を電車や徒歩でめぐり、文化を物語る建物を発掘し、時には持ち主の方とお話をさせて戴き、写真や文章に記録しています。 平成13年には、結城泰作氏が山形旧市内に残る建物の正面画24点を描き、「やまがたレトロ館絵地図」を作成致しました。その後一部建物の解体ということもあり、改訂を重ねて現在に至っています。結城氏は研究会員が撮影した写真や資料を基に、精密なペン画を描きました。研究会では、地域に密着した郷土館や、銀行、郵便局等で原画展を開催し、歴史的建造物の価値を市民へ発信しています。 また、県外からのレトロ館愛好者のまち案内・説明、シンポジウム企画・開催、及び県内外との交流を深める活動を行っています。平成20年には、東北専門新聞連盟・東北専門記者会主催による「地域づくり社会活動顕彰表彰」を受賞いたしました。研究会の活動については、東北文化友の会発行の『まんだら』vol.29をご参照ください。また、会員の小林和彦は、平成19年より山形コミニティ新聞紙上へ「レトロ山形再発見」を連載し、山形レトロ館の魅力を発信しております。 (旧山寺ホテルの大広間でおこなわれた研究会の模様)
(明治44年10月20日付山形新聞「山寺に遊ぶの記(一)」より抜粋) (株)文化財マネージメントの宮本です。 今回修復を目指す高橋源吉《最上川(本合海)》が展示された「山寺油絵展覧会」の詳細について、前回に続いてお伝えします。 明治44年(1911)に、山寺油絵展覧会は山寺村(現在の山形市山寺)の立石寺・根本中堂内で開催されました。そこには、源吉が描いた《天華岩》、《山寺全景》、《最上川(本合海)》などのほか、源吉の父である高橋由一の作品などもかなりの数が展示されました。 そのうち一つだけ紹介しますと、たとえば、山形新聞には「故高橋由一畫伯の遺墨たる、三島縣令時代に開鑿した縣下各新道の開鑿工事中の見取畫が一同の目を牽ひた」(明治44年10月20日付山形新聞「山寺に遊ぶの記(一)」より抜粋)とあります。 明治17年(1884)、高橋由一は、明治15年(1882)まで山形県令を務めた三島通庸の委嘱により、当時新しく工事された道路の写生を行うため、山形を旅行しました。その時に制作された新道の記録画が、山寺油絵展覧会で展示されたことを、新聞記事は伝えているのです。 「山寺油絵展覧会」は、山寺の地域振興の一環として行われたものでしたが、同時に由一の功績や山形との結びつきを伝えるものでもあったようです。ここに、すでに他界していた父を思う源吉の気持ちが現れていたともいえます。