クラウドファンディング終了まであと19日となりました! 目標100万円に対して、419,100円が集まっています。ご支援をお寄せいただいたみなさま、ありがとうございます! プラスではこのプロジェクトをひとりでも多くの方に知っていただけるよう、12月6日(水)21:00~23:00に、Facebookでの「シェア祭り」を開催します。 インターネットにつながる場所であれば、どこからでも、スマホで、パソコンで、どなたでも気軽に参加できます。ぜひぜひ、このプロジェクトをご支援いただいているみなさまにもご参加いただけるとうれしいです! ▼詳細とご参加方法はこちら下記のイベントURLから「参加予定」をクリックくださいhttps://www.facebook.com/events/338394779962806/ 折り返し地点まであと少し。みなさんと一緒に必ずプロジェクト成功できると思っています。どうぞよろしくお願いいたします! 小島
世界エイズデーとは、1988年にWHOが制定したもので、毎年12月1日、世界各地でHIV/エイズに関する活動が行われています。 この機会に世界のHIV/エイズの状況について、知って見ませんか?シェア大歓迎です! 今日という日が、エイズについて知り考えるきっかけとなりますように…!
こんにちは、事務局長の小島です。昨日は、わたしの原点となった10代での2つの経験をお伝えしました。わたしが活動する理由(1)~10代の頃の2つの原点 今日は、大学生になって、それからの人生を大きく変えることになる、プラスとの出会いについて、みなさんにお話します。 「アフリカの真珠」 大学3年生のとき、授業でドキュメンタリー映画をみました。舞台は、ウガンダ。国際協力や開発経済を勉強していた私は、「アフリカ」と聞くと、貧困や紛争といった、「外からの助けが必要な国々」というイメージを持っていました。 けれども、そのドキュメンタリーには、紛争に翻弄されながらも、懸命に生きる子どもたちが描かれていました。(*ウガンダ北部では1988年から2006年まで、政府軍と反政府武装勢力との内戦が続いていました) そして、映像のなかの美しいウガンダの風景に魅了されました。広大な空の下に広がる赤土の道、風にそよぐバナナの樹々の濃い緑・・・ナイル川の源流があるとされ、「アフリカの真珠」とうたわれていることも知りました。 「一度でいいから行ってみたいー。」 就職先が決まり、夏に大学を卒業した私は、働きはじめるまでの間、肩書のない自由な時間がありました。そこで、ウガンダの現地NGOでインターン先をみつけて、飛行機のチケットをとりました。帰りのフライト日程、未定。 出発まであと少しという日、あるボランティアで仲良くなった友人に再会しました。「ウガンダっていう国、知ってる?今度行くんだよー」 そしたら、友人はこう言いました。「ちょうど、エイズ孤児を支援する活動を仲間とはじめたばかりで、現地でしばらく動ける人を探してたんだ」と。そして、「せっかくウガンダに行くなら、やってみない?」と。 それが、プラスとの出会いでした。 こうして、エイズ孤児について何も知らない、アフリカに行くの初めて、という私が、プラスの初めてのプロジェクト、「学校建設プロジェクト」に携わることになりました。 「エイズで親を失っても、学校に通える。そんな当たり前の社会をつくりたい。」 このプロジェクトは、エイズ孤児が多く暮らす、首都カンパラ郊外のスラム地域で小学校を建設することからスタートしました。当時、エイズで親を失ったというだけで、差別や偏見によって学校に受け入れてもらえない子どもたちが数多くいました。また、勉強したくても学校の数が足りず、教室に入れない子どもたちも。屋根は破れていて、床も張られていないから、雨がふると足元は泥だらけ、小さな教室に数十人の子どもたちがぎゅうぎゅう詰め。 そんな現状を変えようと、小さな学校を地域に開いた校長先生と一緒に、木造校舎の教室の全面改築を行いました。 日本からも、ウガンダからも、同世代のボランティアが集まり、朝から暗くなるまで建設作業。そして、小さな木造校舎は、大きなレンガ造りの校舎に生まれ変わりました。さらに、エイズ孤児たちへの差別や偏見をなくすために、地域住民や子どもたちへのエイズ啓発も実施。そうして、支援当初は80名だった生徒数が180名になり、多くのエイズ孤児たちが通えるようになりました。 「何もできなかった」という無力感 そこで出会ったデリック、という男の子がいました。両親をエイズで亡くして小学校をドロップアウト、もう一度小学校に通えるようになったとき、13歳になっていました。 お姉さんと暮らしていましたが、家計は苦しく、小さな赤ちゃんがいたお姉さんは、ある日、親戚を頼り、デリックをひとり置いて、家を出て行きました。学費が払えなくなり、せっかく通えるようになった小学校を諦めてしまったデリック。家賃も払うことができなくなり、ある日、デリックは行方不明になってしまいました。 地域の人たちに聞き込みをしながら、数日後にやっと見つけた彼は、破れた服を着て、沼地のはずれの小さな小屋の中で、うずくまっていました。「パイロットになって世界中に行ってみたい」と話してくれたデリックは、ケガをした足に、どうやって手当したらいいか分からなかったから、と塩を塗って痛みに耐えていました。 このとき、「どんな状況であっても、人は自分の力で未来を切り開いていく可能性をもっている」という、ずっと信じていたことが、一瞬、揺らぎました。そして、子どもたちが未来を切り拓くためには、たった一人では切り拓いていけなくて、その可能性を信じて、支えていく、誰かの存在が必要なのだと感じたのです。 日本への帰国が迫るなか、私は小学校に頼みこみ、引き取り先がなかったデリックを学校の用務室に住まわせてもらうことに。その部屋には、デリックと同じような境遇のエイズ孤児たちが寝泊りしていました。 ウガンダに飛びこんで3カ月。「何も変えることができなかった・・」と無力感を感じながら日本に帰り、すでに内定が決まっていた会社へ就職しました。当時、メンバー全員が無給スタッフ、事務所なし、年間の運営資金は100万円もなかったプラスのボランティアだった私が働くことになったのは、従業員数が世界で24万人、総資産2兆ドルの外資系金融企業でした。 ここまで読んでいただきありがとうございます。この次は、外資系の証券会社で働き始めた私がぶつかった壁と葛藤、そして、人生を変えた一本の電話についてお話します。
こんにちは、事務局長の小島です。 昨日みなさんと共有させていただいた「わたしが活動する理由(1)」に、温かいご支援とメッセージをお寄せいただいたみなさま、ありがとうございます!おかげさまで、これまで集まったご支援が本日40万円を超え、目標までの折り返し地点まであと少しとなりました。 「わたしが活動する理由(2)」はただいま執筆中なのですが、実は今日は私の誕生日でもあります。毎年、誕生日が来るたびに、「自分は生かされている」ということを感じます。7年前、長男がおなかの中にいるとき、切迫早産という状況になって緊急入院しました。24時間の点滴と絶対安静で予定日まであと2か月をやり過ごそうというある日の朝、容態が急変、救急車で大学病院に搬送されました。 幸い私はICUで一晩過ごしただけでしたが、長男は仮死状態で生まれ、新生児集中治療室で2か月を過ごしました。 「もしも、私が日本に生まれていなかったら」 ひょっとしたら、私も、息子も、命を落としていたかもしれない。そう思ったとき、学生時代に過ごしたウガンダで何度も目にした、小さな赤ちゃんを抱えてでこぼこ道を歩いていくお母さんたちの後ろ姿が目に浮かびました。 あれから7年、長男は元気に小学校に通っています。そして、今はこう思うんです。 「もしも、私がHIVとともに生きていて、仕事がなくて、たった一人で子どもたちを育てていくお母さんだったら」 生まれてくる子どもたちの命の尊さを知った7年前。今は、その命を守り、育むことの大変さを、ウガンダのお母さんたちに重ね合わせています。 「ウガンダでエイズ孤児を育てるシングルマザーを応援!農業で貧困から脱却する!」には、そんなお母さんたちを応援したい、という思いを込めています。 自分たちの力で貧困から抜け出し、子どもたちの未来を切り拓いていけるように、どうか引き続き皆さまの応援をよろしくお願いいたします。
こんにちは、事務局長の小島です。今日は、なぜ私がプラスで活動するのかみなさんに少しだけお話させてください。ちょっと長いですが・・・プラスの活動と、このクラウドファンディングにかける想いを、みなさんにお伝えしたくて、こうやって自分のことを書くのは苦手なのですが、、お付き合いいただけたら嬉しいです。 10代の頃の、ふたつの原点 プラスの活動にかける想い。そこには、10代の頃の、ふたつの原点があります。ひとつは、中学2年生のとき。学校に行くことが苦しくなった時期がありました。授業で手をあげたり、意見を言ったりすることが多かった当時の私。先生の問いかけに答える人のいない静けさに違和感があって、それなら自分で空気を変えていこう、と思っていました。 けれども、そのうちクラスメートの数人から、こんな言葉が投げかけられるように。「おまえ目立ちすぎ」「うざい」「いい気になんなよ」・・・。教科書が破かれてたり、机の上に「消えろ」と黒いマジックで書いてあったり。 そんな日が続いて、「人からどう見られているか」「まわりから浮いてないか」ばかり気にするようになりました。人と話すことが怖くなり、息を潜めていた教室のなかで、幻聴が聞こえてくることも。 今だったら、昔の私に、「大丈夫、世界はもっと広いよ」と言ってあげられるけど、あの頃は学校と家がすべて。2つの世界のうち1つが壊れてしまい、朝が来るのが怖くて、このまま眠ったまま目が覚めなければいいのに、って夜眠るときに思っていました。 そんなとき、ひとつの転機が来ました。それが、「英語」でした。 当時、私が住んでいた区では、各公立中学から一人ずつ、オーストラリアにホームステイに行けるプログラムがありました。1週間だけ、現地の学校に通えるのです。 行ってみたいー。そう思った私の頭によぎったのは、「私には無理だ」という声と、「消えろ」という机の落書き。 応募〆切まであとちょっとの日、思い切って母に話してみました。かえってきた答えは、「あなたなら、きっとできるよ」。 この一言が、私の背中を押してくれました。 それから、学校にいるときと食事のときと寝ているとき以外は、ずっと英語ラジオのテープ(そう、昔はテープレコーダーでした笑)をまわして、ひたすらスピーキングの練習。校長室での英語面接で、「現地の学校で何を学びたいか?」と聞かれて、こう答えました。 「自分の意見を言えて、他の人の意見も尊重できる、そんな風土を学びたい」「生まれ育った言葉や暮らしが異なっても、きっとそこには、共通するものがあるはず」 これは、国際協力のフィールドで働く今でも、大事にしていることのひとつです。 面接の結果は、合格。 オーストラリアの学校では、相手を尊重しつつ、自由に意見をいう、そんな「対話」が自然にあって、それまでの肩の力がふっと抜けていくのを感じました。 それから、将来は、異なるバックグラウンドを持つ人たちと、学び合いながら対話ができる、そんな仕事をしたい、とぼんやり考えるようになりました。 原点(2) 子どもが持つ無限の可能性 もうひとつの原点は、高校生のとき。大学への推薦入学が決まり、手持ち無沙汰になっていた18歳の冬でした。 隣に座っていたクラスメートが、「ボランティアやるんだけど、一緒にどう?」と。手に持ったチラシには、「外国の文化的背景を持った子どもたちの学習サポート」と書かれていました。よく分からなかったけど、暇だったし、誘ってくれた友達のこと大好きだったし、子どもはそんなに好きじゃないけど、やってみようか、と。 それは、大学生たちが立ちあげたNPOで、日本へ働きに来られた外国人家庭の子どもたち、国際結婚などで生まれた子どもたちに、学校や進学の勉強サポートをする活動。まだ高校生でしたが、大学生に交じって参加してみることに。 東京郊外にある公民館の一室。そこには、アジア、中南米、ヨーロッパ、アフリカのバックグラウンドを持つ子どもたちがいました。ひらがな、カタカナさえ書けずに来日し、言葉の壁だったり、見た目や、名前が違うからと、学校に居場所がない子どもたち。 みんな「自分はできないから」と言います。でも、一緒に過ごすうちに、走るのが早い子、絵が上手な子、寡黙だけど小さな子にやさしくできる子・・・あたりまえだけど、それぞれ素敵なところや強みを持ってるんです。 子どもたちの隣に座って一緒に勉強するとき、ふと、中学生のときに母がかけてくれた言葉が自然に出てきました。 「あなたなら、きっとできるよ」 最初はできなくてもいい、3歩進んで2歩下がってもいい、ときには休んでもいい。きっとできるようになるから。 その中に、Jくんという来日したばかりの中学生がいました。よく教室で暴れていました。話を聞くと、学校にも家庭にも居場所がない、と。そして、ひとりで過ごす家で、よく料理をするということも。そんな話を聞いて、ひとつのアイディアが浮かびました。Jくんが、母国の料理を教えながら、教室のみんなと一緒に作る、というささやかなイベントを開きました。料理イベントは大成功。 みんなに「おいしかったよ」「すごいね」と声をかけられ、得意そうなJくん。 それから、少しずつ、彼は、机の前に座っていられる時間が増えていきました。2年後、高校の入学試験で、「将来は、プロの料理人になって、自分の国と、日本をつなぐ架け橋になりたい」と夢を語り、合格を手にいれました。 ・・・高校生のころに始めたこのボランティアは、大学を卒業するまで続け、Jくんのような子どもたちの変化に何度も出会った私は、ひとつのことを確信するようになりました。 「どんな状況であっても、人は自分の力で未来を切り開いていく可能性をもっている」 いまも、プラスの現場で私が信じていることです。 そして、「子どもたちが生まれ育ったバックグラウンドや国をもっと知りたい」と、大学では国際関係学科に進むことになります。 そこでの「ある出会い」が、私の人生を大きく変えることになりました。ここまで読んでいただき、ありがとうございます。この次は、大学生になって、ウガンダと、そしてプラスと出会うお話をお伝えします。