鹿児島県薩摩郡さつま町は永野の南方神社(古くは諏訪神社)参道の修復工事について、この度はご支援をくださいまして誠に有難うございました。おかげさまで、目標を達成することができました。今週、神社の責任役員により地元の建設会社へ参道の修復工事の業務委託契約を締結し、年度内に修復工事を実施する運びとなりましたのでご報告申し上げます。神社に限りませんが、古くからの遺産などを将来を担う方々に引き継いでいくことが出来ましたら本望です。有難うございます。
全国の皆様からたくさんのご支援をいただきました。誠に有難うございます!日曜日(1/23)の南日本新聞に記事が掲載されたこともあり、県内外のご縁のある方からも直接あるいは間接的なご寄付を頂戴いたしました。このクラウドファンディングでご支援くださった皆様のおかげでして、改めまして感謝申し上げます。中には、宛名もお名前の記載もなく、ただ「すこしですが。」のメッセージだけをお手紙に綴って封書でご寄付を送付くださった方もいらっしゃいました。どのように申し上げて良いのかわかりません。涙腺の緩んだ年寄りの筆者などは、ただもう目頭が熱くなり感動しております。皆さまにお伝えしたく思います。有難うございます!
さつま町永野の南方神社の創建時期について調べています。先日、南日本新聞社の記者からのインタビューでこの神社の創建時期を尋ねられましたが、いまだ確固たる文献や記録を示す資料が探し出されていません。図書館にある史料(郷土史など)を紐解いて、現時点で想定されることをご報告させていただきます。宝治2年(1248年)関東の渋谷氏(桓武天皇の末流とされます。(書籍「関東の渋谷氏」より))が現在の鹿児島県は川薩地方に下向され、承久の乱(承久3年(1221年))の戦功により恩賞として薩摩国の高城、東郷、入来院、祁答院、鶴田の諸郷を受けられました。この永野(当時の長野)には、下向した鶴田重行(渋谷5人幕のひとり)が甥の谷口(やぐち)実重を同行し、のちに鶴田城に移ったとされています。甥の谷口実重は父の為重が相模国高座郡谷口を領して谷口と号していたことから、下向して長野城に移った後も谷口と称したものと思われます。(実重の末裔は現在の姶良市蒲生町居住の谷口氏。)その後、およそ350年ほどのちに島津氏による永野城の決戦(永禄12年(1569年)5月25日)の後、島津氏は長野城を完全には陥せなかったものの、その後の「谷口氏系図」に記録されているように和睦を成立させ、島津氏に反抗した人々の処遇も円満に行われたものと捉えられています。古老(故老)からの言い伝えによりますと、当時の社殿は長野城と現在の社殿との中間あたりに存在していたようです。長野城合戦(永禄12年(1569年))の後、長野城を支配することとなった島津氏が、(長野城合戦における戦の中で)島津氏の守護神である狐(きつね)が矢にあたって死んだのは縁起が良くないとして、現在の場所に移転されたのではないかと推測されています。(薩摩町郷土誌より。)このように確かな記録はありませんが、およそ1200年代の前半(13世紀)から1500年代の後半(16世紀)の間に、さつま町永野の南方神社(当時の諏訪神社)は建立されたものと思われます。アバウト(適当)な推測で誠に申し訳ありません。また、長文となりましたことをお詫びいたします。有難うございます。
大国主命(おおくにぬしのみこと)について、恐れ多くもこのサイトで記載するようなことはこのプロジェクトの範疇ではございませんが、その子である建御名方尊、事代主尊とこの南方神社の関係におきまして、触れさせていただきたく思います。(写真はDiscoverJapan(大地に国をつくった出雲大社のご祭神「大国主神」日本人なら知っておきたいニッポンの神様名鑑 | Discover Japan | ディスカバー・ジャパン (discoverjapan-web.com)より引用させていただいています。 )ここからはもう歴史や神社に係る勝手な 解釈による記載となりますことをご容赦願います。因幡の白兎(いなばのしろうさぎ)を助けた心優しき神様として知られる大国主命(大黒様)ですが、その系譜は須佐之男命(すさのおのみこと)の子あるいは子孫にあたり、須佐之男命 が与えた数々の試練を見事に切り抜け、葦原中国の支配者になりながら、各地で恋愛伝説も残しており、多くのご縁に恵まれたことから良縁祈願の神様としても信仰されているようです。出雲大社(いずものおおやしろ)が有名なゆかりの神社ですが、その子孫である建御名方命や事代主尊がこのさつま町永野のような田舎町に祀られることなど、大国主命からしますと思いの一端にもなかったのではないのでしょうか。冒頭に申し上げましたが、本当に恐れ多いことでございます。あまねく全国各地におわします神々と各地方の神社との関わりについては、いくら歴史を遡って調べてもおぼつかないことであろうかと思われます。しかしながら、古くからの習わしとして伝統行事を続けてこられた先人たちにその思いを馳せながら、神々への願いとその関わりとを想像して参りますと、神道あるいは宗教という枠組みを離れまして、庶民の過ごしてきた悠久の 時を経て、これからもなお神々の守ってくださっているこの土地で、何かしらひとができることを少しでも成し遂げれば良いのではないかと。御守ることにも意義があるのではないかと、そのように感じた次第です。有難うございます。
先般(1月8日(土))の鬼火焚きの写真を改めて掲載させていただきます。そもそも鬼火焚きとは何のために行われるようになったのか、個人的に興味を持った次第です。いつから始まったのか定かではありませんが、「お正月飾りについてきた鬼(悪霊)を火を焚いて追い払い、今年一年の健康、無病息災を祈るための儀式」として鹿児島県の各地で催されているものです。このさつま町永野では毎年1月7日前後に小学生とその保護者、集落の人々が参加して執り行われています。ここからは筆者の勝手な解釈となりますが、神様と鬼との関わり合いについて考えてみました。神様は恐れ多くも私たち人間が幸せに暮らしていけるように国づくりをしてくださり、その後もみえないところからずっと見守っていたくださる有難い存在ではないかと思います。一方で、鬼(悪霊)は人間の弱いところにつけこんで、人々をそそのかしたり脅かしながら、迷いを生じさせる存在なのではないかと想像しています。神と悪霊(鬼)は対峙するものであると考えますが、弱い人間はともすると神にすがったり、鬼に近づいたりしながら迷いの多い人生を歩いているのではないでしょうか。であるとするならば、私たちははじめから神にすがりながら、天に恥じない生き方を選択して清く正しく毎日を過ごしていくのが賢明なのかもしれません。もちろん、そのように理想的な生き方が出来ないのが今のこの世に生きる人びとの大いなる悩みであるのでしょうけれども。



