令和4年1月23日(日)の南日本新聞に、この度の南方神社の参道修復工事に係るクラウドファンディングの話題が掲載されました。広く皆様からのご支援をいただきながら、目標達成までもう少しというタイミングで新聞社からの取材を頂きましたことを幸いに思います。ひょっとすると、目にみえないところで大国主命がこのプロジェクトを暖かく見守って、そっと後押しをしてくださっているのではないかと、不思議なご縁を感じております。たくさんのご支援をくださいまして、誠に有難うございます。
本日(令和4年1月20日(木))、午後5時30分より南日本新聞さつま支局の記者(右田雄二様)より、この度のクラウドファンディングについて取材していただきました。この神社の概要、コロナ禍以前の習わしであった9月の例大祭(秋津舞や兵子(へこ)踊り、相撲や剣道の試合披露など賑わいのあったお祭り)から現在に至るまでの経過、参道の修復工事の必然性、これからの神社の展望などについて取材を行っていただいた次第です。記事として採用されるかどうかはともかく、今回のクラウドファンディングのことがきっかけとなり、永野の南方神社にとどまることなく、広い地域で神社やお寺が存在することの意義を改めて考え直していただき、地域の歴史や文化に興味を寄せて頂いて、そのことで古く先人たちから受け継いできた地域の伝承ごとなどを、今に生きる方々がもう一度見直してくださって、これからのお若い方々に伝承していくことに繋がれば(つながれば)幸いに思います。
薩摩町郷土誌(平成10年5月31日発行)を改めて紐解きますと、南方神社(旧諏訪神社)の祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)の次に、事代主命(ことしろのみこと)が併記されています。(記載の順序は、建御名方命(大国主命の子(事代主命 の弟)) 、事代主命(大国主命の子(建御名方命の兄 )です。 )事代主命は恵比寿(えびす)様、大国主命は大黒(だいこく)様としても庶民から慕われていますが、建御名方命 について、このように慣れ親しまれた呼び方を聞いたことは寡聞にしてありません。また、さつま町永野の南方神社では、祭神の記載順序がなぜ兄、弟の順序ではないのかを不思議に思いました。以下は恐れ多くも筆者(この神社の総代のひとり、書記会計係の高橋健二)の勝手な想像と申しますか、妄想に近い想像による解釈を記載させていただきます。大国主命は国づくりの大業を遂げられた神様ですが、農耕・漁業・殖産から医薬の道まで、私たちが生きてゆく上で必要な様々な知恵を授けられ、多くの救いを与えて下さったことに、この慈愛ある御心への感謝のこころから大黒(だいこく)様と慕われるようになったものと思われます。大国主命は本来、慈愛に満ちた国造りを行いたかったのに、乱暴な大国主命の兄の八十神(やそがみ)たちから仕掛けられた戦いに身を投じ、それによってこの国を広げたこともあり、天照大御神(あまてらすのおおみかみ)から、「これからは慈愛に満ちた国づくりを行うから国をお譲りなさい。」と諭されて、願ってもないことと思われたのではないのでしょうか。そして、天照大御神から、「これから後、この世の目に見える世界の政治は私の子孫があたることとし、あなたは目に見えない世界を司り(つかさどり)、そこにはたらく「むすび」の御霊力によって人々の幸福を導いて下さい。」とのお言葉の通り、今に生きる私たちの目に見えないところで遠い昔から見守ってくださっているのではないでしょうか。(参考:出雲大社ホームページより(https://izumooyashiro.or.jp/about/ookami)) 兄の事代主命は、父の大国主命から国譲りについて判断を委ねられた際に、もうその瞬間に大国主命の意を全て理解して、あっさりと承諾したのかも知れません。一方で、弟の建御名方命はいったんは天照大御神の使者からの申し出(命令)に対して、武力で抵抗を試みています。最後には打ち負かされて国譲りに承諾をしていますが、兄の事代主命とは対照的な対応であると思われます。大国主命は或いはこの兄弟のそれぞれの性格だけではなく、どのような判断を下すのかまでを全てご承知のうえで、自らの判断を下されることなく、子たちに国譲りの判断を委ねられたのではないでしょうか。さつま町永野の南方神社で祭神の記載の順序が建御名方命 (弟)、事代主命(兄)となっていることについて、あくまでも想像ですが記載させていただきます。もともと、薩摩の国では野武士(普段は百姓の身分でありながら、戦(いくさ)が起こると武士として身を投じる)の文化と申しますか、古くからの伝統でそのように考えるのが当たり前のこととする慣習がございます。(近代においては、西南の役(せいなんのえき)で西郷吉之助(さいごうさぁ(本名は西郷吉之助、西郷隆盛は父の名前)が、自らの意思では無いにでも関わらず、明治維新の前の時代の元の武士たち(野武士を含む)が生活に困窮していたことを不憫(ふびん)に思われて、「したくもない戦ですが、最後は寄り添って参ぜましょう。」という慈しみの心から参戦したものではないかと、そのように解釈をしております。)地域的な背景によるものと思われますが、そのような慣習がございまして、この南方神社においても或いは、武力に長けた神様を最初に祭神として崇め奉る(あがめたてまつる)ことになったのかも知れません。最後にもうひとつ、この投稿の冒頭で「建御名方命について、慣れ親しまれた呼び方を聞いたことは寡聞にしてありません。 」と記載しました。これも勝手な解釈となりますが、この日本国においては、古代より争いごとを好まない生き方を習わしとしてきたのではないでしょうか。大国主命(慈しみの溢れる神、そっと寄り添って目に見えないところから見守って下さる神)の子として兄弟でありながら、建御名方命は恐らくは武に長じた神様であられたことと想像いたしますが、国民の習わしには必ずしも馴染まないため、親しまれた呼び方をされないのではないかと、このように想像をいたしました。長文で申し訳ございません。イラストの写真は、Art Mochida Daisuke(八百万の神の絵師 持田大輔)様のホームページ(https://peraichi.com/landing_pages/view/mochidadaisuke)より引用させていただきました。
建御名方神(たけみなかたのかみ) について、ネットや文献で得られる情報を調べてみました。日本大百科事典によりますと、「諏訪上社(すわかみしゃ)の祭神(大祝(おおはふり)は神(みわ)氏)。名義は水潟(みなかた)、また宗像(むなかた)というが未詳。『古事記』の神話(国譲り条)で、父の大国主命(おおくにぬしのみこと)の武力を代表する神として武甕槌神(たけみかづちのかみ)に手掴(てつか)み競(くら)べを挑むが、敗れて信濃(しなの)の諏訪湖に逃げ、そこで父や兄の事代主神(ことしろぬしのかみ)の命に背かぬこと、また国外に出ないことを誓う。 」日本国語辞典によりますと、「「古事記」に見える神。大国主命の子。天照大神の使いの建御雷神の命に服さず力くらべをしたが負け、信濃国(長野県)諏訪湖まで逃れ、同地に鎮まったという。諏訪神社の祭神。 」また、世界大百科事典では、「日本神話にみえる神の名。諏訪大社の祭神。ミナカタは〈水潟〉の意味で諏訪湖の水の神。《日本書紀》には691年(持統5)に使者を送って〈須波(すわ)神〉を祭ったと記す。《古事記》の国譲り神話によると、〈千引(ちびき)の岩〉を軽々と手玉に取りながら、高天原(たかまがはら)から遣わされた建御雷神(武甕槌(たけみかづち)神)と力競べを行うが、〈若葦〉を取るようにへし折られて投げられてしまい、信濃の〈州羽(すわ)の海〉まで逃げて国譲りを誓ったという。 」いずれにしても、父である大国主命が天照大神の使者として高天原から遣わされた建御雷神から国譲りを迫られた状況において、兄の事代主神があっさり国譲りに同意したにも関わらず、自身はいったん抵抗の姿勢を取り、しかしながら建御雷神には力もかなわず屈してしまい、自分はこの諏訪の地に留まり、以後はいっさい父の大国主命や兄の事代主神には逆らいませぬと申し出たこと。武力では敵わない自ずの力の限界を悟って建御雷神に従った建御名方尊は、現代に生きる私たちにはとって或いは身近で頼れる神様なのかも知れません。
活動報告とは言えませんが、「長野城と島津義久と豊臣秀吉との歴史上の繋がりについて」について、郷土誌を資料として調べてみました。永野城は現在のさつま町永野、古くは長野村と称された戦国時代(16世紀)に現在の新岩元集落の近辺に構築された山城(現在は跡形もありません)であったものと思われています。当時の長野城は現在の伊佐市(旧大口)、菱刈、祁答院(薩摩川内市)、蒲生(姶良市)と密接なつながりがありましたが、島津義久、歳久などの大将により永禄12年(1569年)5月25日に決戦を迎え、その後に和睦が成立して城が明け渡されたとされています。そのころの南方神社(当時は諏訪神社)は現在より西方の位置に建立されており、長野城の近くに立地されていたようです。その後、九州討伐の準備を整えた豊臣秀吉は天正15年(1587年)3月に小倉城から軍を二手に分けて鹿児島の地を攻めた後に島津氏と和合(むしろ征伐あるいは抑制)し、現在のさつま町鶴田から伊佐市の曽木へと帰路を進めています。このときの島津歳久の態度を気にいらなかった秀吉に許しを乞うこともなく、歳久は自害の運命を見舞うことになります。長野城を攻めた島津家、守り耐えられなかった渋谷氏、攻め立てた秀吉とのつながりはどのようなものであったのか、歴史をめぐっては諸説ございますが、まだまだ調べる余地のある出来事であろうかと、そのように思いました。