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「北九州平和資料館」閉館…「戦争」を知り、「平和」を感じ、考える場所を残したい

北九州市若松区にある「北九州平和資料館」は、戦時遺品などの展示物を手に取って見られる私設資料館。戦争の加害者にも被害者にもならないようにと、両面からの展示をしている。そんな資料館の閉館決定後、ウクライナで戦争が始まった。同時に軍備増強に向かう国の動き…。戦争の真実を知り、考える場所を残さなければ!

現在の支援総額

3,037,500

75%

目標金額は4,000,000円

支援者数

204

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2022/09/01に募集を開始し、 204人の支援により 3,037,500円の資金を集め、 2022/10/31に募集を終了しました

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現在の支援総額

3,037,500

75%達成

終了

目標金額4,000,000

支援者数204

このプロジェクトは、2022/09/01に募集を開始し、 204人の支援により 3,037,500円の資金を集め、 2022/10/31に募集を終了しました

北九州市若松区にある「北九州平和資料館」は、戦時遺品などの展示物を手に取って見られる私設資料館。戦争の加害者にも被害者にもならないようにと、両面からの展示をしている。そんな資料館の閉館決定後、ウクライナで戦争が始まった。同時に軍備増強に向かう国の動き…。戦争の真実を知り、考える場所を残さなければ!

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北九州平和資料室 TICO PLACE を開設して、多くの方々と出会い、今年に入ってからは、実際に行って感じながら学ぶ機会をいただきました。そして、ずっと、自分にできる事、自分がすべきこと、自分がしたいことを考えてきました。時間がかかりましたが、ようやくはっきりしました。クラウドファンディングを行うためにお伝えした『やりたいこと』は、変わりません。特に意識し、重点的に行いたいことが具体的に見えてきたというわけです。戦争や平和について関心のない人に知ってもらう子ども達はじめ戦争のことを知らない方に、少しでも知ってもらい、平和について考えて、未来に生かしてほしい ※『昔のことと捉える』のではなく、『今と重ねるて考える』さて。具体的な方法については、少しずつお伝えするとして、取り急ぎ、「ビデオ会」のお誘いです。応援してくださっている方から、貴重なDVDを寄贈して頂きました。「図書コーナー」を使って、ミニシアター風にして上映したいと考えています。どうぞ、ふるってご参加ください。定員10人参加ご希望の方は、予約を(090-4514-2365 小松まで)詳しくは→https://kitakyushu-heiwa.com/(カレンダー)     https://kitakyushu-heiwa.com/information/(おしらせ)


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沖縄5日目。当初の予定を変更して、伊江島に行くことにしました。 TICO PLACEを開いて間もなくして来られたかたから、「伊江島の平和資料館を思い出すわぁ。」と言われたことがありました。 「どんな所なんだろう?」 と、気になっていたものの、沖縄本島から飛行機でしか行けないと思い込んでいた私。 お金もないし、今回は無理だなぁ。と、思ってました。 ところが、ガイドをしてくださった中山さんが「フェリーで30分だよ!」と、教えてくださいました! 朝イチのフェリーに乗り、渡りました。 ↓フェリーから見える伊江島 下船後すぐにレンタサイクルを借り、目指すは、反戦平和資料館「ヌチドゥタカラの家」。 途中、あまりにも美しい海に、寄り道。↓珊瑚が砕かれてできた白い砂浜 ↓ガマを作る岩場 伊江港から10分も自転車をこげば、「ヌチドゥタカラの家」に。 目に飛び込む言葉が、私の胸に突刺さります。 ↓一部の犠牲を払っての「発展」… ↓非暴力 誠実さ伊江島では、戦争で、島民の1/3の1500人もの住民が亡くなったそうです。 空襲から逃げ惑い、その後は、米兵から逃げ惑います。 そして、身を潜めたガマの中では… 「赤ちゃんの鳴き声が敵に居場所を教える!」 と、母親が抱く赤ちゃんを日本兵が、銃剣で刺し殺しました。ーーー ↓戦後見つかったいくつもの遺骨集団自決も起きました。 伊江島の人々の苦しみは、戦後も続きます。 島の一部を米軍が接収。軍事基地にしたのです。 ↓農作物を育てる土地を奪われた伊江島の人々。 伊江島の人々が、苦しみ、闘っている時に、日本本土は朝鮮戦争による経済成長に沸いていたのです。 知らなかった…。 知れてよかった。 これから、忘れずに生きていきます。 ↓城山(伊江島タッチュー)から


多面的に知る
2024/02/09 13:20
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2月8日(木)。休館の日ですが、子どもの村中学校の生徒さん達が、軍服を返しに来てくれました。『ラーゲリより愛をこめて』の劇を観て以来です。(この間、劇公演を姉妹校でも行ったそうです!)初めに、あの時、ちゃんと伝えられなかった気持ちを伝えました。(しどろもどろでしたが)その後、自由に資料室の展示を見る時間を設けました。写真からも伝わるかと思いますが、一人一人が自分の興味に沿って、じっくりと展示を見てくれていました。『手に取る』だけではなく、『証言』(など書かれていること)をじっくりと読んでいる姿に、これまで学んできた足跡を見たようでした。その後、近所の大学の食堂でお昼を済ませて、水巻図書館へ。正確には、亡くなった連合軍捕虜の慰霊塔「十字架の塔」へ。太平洋戦争を始めた日本は、東南アジアへと進出していきます。当時の東南アジアは、欧米諸国の植民地になっていたため、欧米の軍隊が駐在していました。そこに日本が攻め込んだので、欧米の軍隊(連合国軍)との戦いになったという訳です。初めは優勢だった日本。占領した場所で、欧米の兵士を捕まえて、捕虜として日本に連れてきました。捕虜となった欧米の兵士は、兵士として次々と出征する日本の男性の代わりに、労働力として、炭砿や工場などで働かされました。オランダ人捕虜の描いた水巻町の炭鉱この日行った水巻町にも大きな炭鉱があり、そこに1000人を超える捕虜が働かされていたそうです。(ちなみに、TICO PLACE のそばにあった炭鉱の竪坑も同じ会社のものでした。)そして、辛い労働のため、また、病気や事故のため、140人もの捕虜の人たちが亡くなりました。さて。この事実を知った時、あなたは何を考えますか?ーーー『ラーゲリより愛をこめて』は、日本人が抑留されて『働かされた』事実を伝えるもの。ーーー『十字架の戸』は、日本人が、他国の人々を捕虜として『働かせた』事実を伝える場所。「された」ことを知ることは、まずは大事なこと。戦争の愚かしさや人間の恐ろしさなど考えることができるかもしれません。でも、「された」ことだけでなく、「した」ことを知ると、また考え方が変わるのではないのでしょうか?どうしてそうなったのか、疑問を持ち、調べて知る。そうやって知った「した」ことと向き合う。「人間」って何だろう?とか、いろいろ考える・・・そして、どうしたら、過去の失敗を繰り返さないか。と考える。戦争をしない方法を 本気で考える。こういうことを一人一人がすることが、未来の平和につながっていくのだと思います。だから、「多面的」に事実を知り、考えることが大切だと私は思うのです。「いい勉強の仕方をしているなぁ~!」と、改めて感心させられました。子ども達からのプレゼントの色紙より真摯に『事実』に向き合う子どもたちの姿に未来への希望を感じ、思わず心の中で「これからも共にがんばって行きましょう!」と声をかけていました。平和と感謝の証として、収穫したはっさくを差し上げました。


落ち着く場所
2024/01/15 12:39
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新年明けて本格始動の日に来ていただいた大学の先生からのメール。「相変わらず、居心地のよいスペースでした!」とても嬉しいことばでした。言われてみれば、来室した学生さん達が、「あ~!おばあちゃんの家みたい~!!」と、口々に言っていました(笑)「戦争」という悲惨なことを学ぶ場であり、「平和」の心地よさを感じる場所になれば…という願いをもって作ってきた私にとっては、サイコーのほめ言葉です!!次の日(1月14日)は、またまた嬉しいことが!!TICO PLACEをリフォームする時に作った『小窓』(下の写真は、リフォーム中のもの)が、役に立ったんです!!それも、私が思い描いていた「握手をする(心をつなぐ)」役割を。その日は、終戦当時小学校の低学年だったお父さん(現在85歳)をTICO PLACEに連れてきた下さった娘さんとそのお孫さん、3名の来館者がありました。5歳のお孫さんを見て、場所が場所だけに、「怖がったらいけないなぁ~。」と、考えた私。「よく来たね。ハイ!これに何か書いてね。」と、TICOの付箋をプレゼントしました。すぐに明るい顔になったので、「こっちで書いていいよ~。」と、図書コーナーへ。絵を描いたり、折り紙を折ったり、ブロックで何か作ったり、本を見たり、・・・最後は紙芝居を出してきました!!(安心できる場所になったことが、行動で分かりました!)楽しそうに遊んでいる間、おばあちゃんと私は楽しくおしゃべりを。戦争の話からイノシシの話まで(笑)、いろんなお話をしました。(鹿児島の知覧特攻祈念館の近くに住んでいるらしく、「私は、自分と重ねるというより、我が子と重ねて考えてしまって、胸が詰まって全部見れなくなるんです。ーーー息子を戦争に行かせるなんて、絶対にイヤです!!」と、強い口調でおっしゃっていたのが、印象的でした。)途中で、飲み物を出したのですが、かわいい来館者には、ここからジュースを選んでもらいました。嬉しそうにジュースを受け取るその表情が、たまりませんでした~!!幸せ(*^-^*)今年は、小さなお子さん連れで、来られる方が増えるといいなぁ。広報をがんばりま~す!!


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「劇の練習中に自分たちも感動して泣いてしまうくらい思いを込めたので、ぜひ、お客さんには『平和』というものが果たして何なのか。山本幡男はなぜ、希望を持ち続けたのか。考えながらこの作品を見てほしい。」~生徒の言葉より~12月16日(土)。平尾台にある子どもの村小・中学校に、子ども達が創ったという劇を観に行った。実は、今からちょうど一か月前の11月16日(木)。子どもの村から子ども達(劇作りに参加している中学1~3年生)が戦争のことを学びに来た。 シベリヤ抑留のことを劇にすると聞いていたが、自主的に学ぶ子ども達である。私が知っているシベリヤ抑留の知識を話したところで、何の役にも立たない気がして、少々困っていた。せっかく劇をするのなら、その一点だけを見るのではなく、「広く」「長く」見てほしいと思った。「どうして『シベリヤ抑留』のような悲しく辛い出来事が起きることになったのか」を考えてほしいと思ったのである。そこで、大雑把だが、明治からの歴史と日本が他国にしたことを話した。その後、自由に展示を見る時間を設定。個別に話をしていると、ふと、私の脳裏を過った。「劇で、軍服を使ってもらえないだろうか―――。」思えば9月。夏の疲れもあり、資料室を休館し、館内の整理をしていた時のこと。門司在住の方から、たくさんの軍服を寄贈して頂いた。3日間ほど干して、製造場所や年式、大きさを記録して、 収納場所が無いので、衣料用の圧縮袋に入れて、屋外に・・・ その時に、「飾っていても仕方がない。学校などで使ってもらえるようにしよう!」そう、思ったのだった。まさか、こんなに早く願いが叶うとは!その衣装を試しにほかの子が着た時、言葉ではうまく表せないが、ただ服を着ている感じではなく、何となくオーラのようなものを感じた。不思議な気分だった。当時の人から「頑張ってね。」 と言われているような。考えすぎ なだけだろうか。~生徒の言葉より~劇が始まった。 軍服を着た子ども達を見た瞬間、私の中で何かが起きた。体が熱く、目の奥の方がツーンと痛くなり、話の内容とは異なるものが次々と頭の中を巡る。戦争当時、この軍服を着ていた人。シベリヤだけでなく、従軍したすべての場所で、この軍服を着て何を経験し、何を感じ、何を考えていたのか。今を生きる私たちに対して、何を言いたいのか。戦後80年近くもこの軍服を捨てきらずにとっていた人の思い。平和のために、こうして活用してもらえていることをきっと喜んでくれていると思う。でも、一方で、今も無くならない戦争、当然のように軍拡を推し進める日本の権力者たち、報道の自由を奪われているのか?国の一大事を進んで報道しないメディア、無関心にさせられた国民、自ら調べ、考えようとしない、噂や偏見、同調圧力に弱い国民・・・でも、一方で、目の前で演じる子ども達は、全く異なる。自ら調べ、自ら考えている。自分たちで話し合って、どんな劇をするか、だれがどの役をするかを決めた。自分の思うようにいかないこともある。でも、他者の意見を聴き、自分の意見を伝え、その上で考える。時には我慢する。自分を見つめ直すこともある。生徒が作った本~劇を創る過程が見えます~そんな、『時間のかかる』経験が、人間として、大切な『力』を育てるのだと思う。それは、目には見えない。数字でも形でも表すことができない。『自分を信じる力』だと思う。そしてその『力』が育っていれば、自分を大切にして生きることができる。『自分を大切にする』とは、自分を甘やかすことではない。『自分が生きたい、自分が目指す姿』を大事に、生きるということだ。だから、どんな場所で生きることになっても、どんな状況で生きることになっても、自分を大事に生きることができる。周りに流されることなどない。置かれた場所で咲くことができるのである。そして、自分を大切に生きる人は、他人も大切に生きることができる。『教育』が変われば、世界から戦争がなくなる。私はそう考えている。劇後半。子ども達の心のこもった白熱の演技に、私はもう、涙をこらえることができなかった。子ども達の姿に、『希望』をもらった一日となった。「今の日本を、今の世界を、なんとかしたい!なんとかしたい!!」この気持ちから逃げたくない。諦めないこと!希望を持つこと!自分と向き合う一日となった。生徒が作った本~劇を創る過程が見えます~