大正時代の牛市には備中、備後の比婆や神石、双三郡や安芸では安芸郡、佐伯郡、山県郡から、もちろん出雲や石見西部に山口県からも博労たちが牛を連れて集まっていた。道路事情といえば往還を徒歩で運んだと思われる。 トラックなどの輸送手段は全くなかった訳だから、何日もかけて牛の売買に集まっていた。 大勢の人が集まることで、出羽の町並みにはいろいろな小売りや露天の店も遠方から来ていたことが宿帳を見ると分かり、そのエネルギーに驚くほかない。甲奴郡上下町は遠い・・・愛媛県伊予郡伊予村から来ている出羽市は西日本に買われていた~長崎県から来ていた広島県安佐郡や山県郡の博労名を見る
北広島町岩戸(岩戸村平田)に生まれた故隅井竹一先生(1923~2019年)は、学校長を退職後の昭和60年(1985年)に「絵で見る 昭和初年代の 農村のくらし」という画集を残されている。そこに『牛市』と題した1頁があり「秋に入って牛市が立つ。峠を一つ越えて島根県側の田所村の亀谷市や出羽村出羽市は大きな市だった。二、三日前後は毎日延々と牛の行列が続いた。・・・」とあり、博労たちが売買する牛たちは追い子に追わせて、それぞれのところを往復した。1人の追い子は3~4頭の牛を追っていて、牡牛は竹竿に繋がれ背中にえびす菰を飾った様子が分かる。この県境のしずく峠を越えた博労たちが宿泊した出羽市の「牛宿帳」には、広島県の安佐郡久地村、鈴張村、山県郡戸河内村、加計町、安野村、本地村、八重村、壬生村等々の博労の名前を見ることができる。 陰陽をつないだ石州街道(岩戸)を追われていた!しずく峠を越えると田所村奥亀谷になる隅井竹一先生の甥 横路さんから話しを聞く青原監督
雪のひな祭り~3月3日日曜日、安芸高田市で家畜商と和牛の繁殖と育成を手がける杉原牧場を取材しました。杉原洋さんは、2月3日(土)に北広島町千代田地域づくりセンターで開催した『豊松歳事記』上映会&トークショーに参加していただいた1人で、意見交換では若い頃から博労であることや花田植の飾り牛を出場させていることを語ってもらったことから、連絡を続けて本日の訪問取材と成りました。映画制作の中では、牛耕の様子を撮影したいという青原監督の思いがあり、牛と人が一心同体で行う作業である牛耕の手順や花田植の調教のことを聞かせてもらいました。花田植で10数頭の飾り牛が田んぼに入るポイントは、すべての牛と人が行列をなして動くことが華麗に見えるとのことでした。日暮れになり2時間の取材を終え帰り際、零下の冷え込みのなかでも夕方の牛飼い作業に戻るご夫婦の姿がありました。牛の守護神大仙神社のお札と牛靴えびす菰の説明をする杉原さん
1月に仔牛を出荷した木村さんの牛舎では、昨年5月に人工授精をした和牛の出産予定日が3月5日。安産できるように牛舎の掃除や身体の手入れの様子を取材しました。冬の間、牛舎裏の山に放牧もできないままでした。稲わらを敷いて準備をしますが、最近は籾殻でので床面を整えます。出産を待つ牛ちゃん(^0^)木村さんはどちらかといえば昔ながらの農家のスタイル・・・ウッドボイラーで暖房や給湯をまかない、昨日から米麹の仕込みを始めたところで味噌や豆腐も作ります。 農具も手作りすることもあり、山で刈った草や堆肥を背負って運ぶ笈子を作ったところでした。200㍑の給湯と室内暖房もできるウッドボイラ背負い笈子自家製の米麹で作った甘酒
盛大に牛市が開かれていた出羽には、主に4本の往還が交差していました。その一つ南側の北広島町岩戸から県境の雫(しずく)峠を越えて邑南町の亀谷の三叉路にある小さな道標です。「右ハ いずわ(出羽)みち。左はいばら(井原)みち」と記されています。車のなかった時代に据えられたもので、岩戸に住んでいた人の記録には「出羽や亀谷牛市が開かれる9月頃になると、2~3日は追い子に追われる牛の行列が延々と続いた」と書かれています。そのような博労や追い子が迷わないよう建てられた石柱道標も、道路改良により移設されています。亀谷から岩戸に向かう