二十四節季で「雨水」の19日。朝から強い雨の中を中を庄原市比和町で4年に1回開かれる『比和牛供養田植え』の取材に比和町郷土芸能振興会長の若林隆志さんを庄原市比和町地域づくりセンターに訪ねました。市町村合併以降、東城町の塩原牛供養田植えと交互に2年毎に開催されるようで、オリンピックの開催年の今年は5月26日(日)に比和町で開催されるとのこと。若林さんによるとあの岡本太郎も絶賛したという牛供養田植え!について、現状と今年の予定などを聞かせて貰いました。 こちらからは、青原監督と邑南町郷土館の森岡弘典館長の3名で2時間みっちりヒアリング!!庄原市は備後地方で、広島県でも安芸地方の花田植とは大きく違いがあり、それは鳥取県の大きな于牛市で知られた大仙神社の影響が伝わっているもので、興味深く聞かせて貰いました。 忘れられた田植えの行事・・・神仏一体で執り行われるところが備後地方の特徴! 準備段階から取材に行きます貴重な記録集 早乙女は編み笠、絣にお腰、たすき掛け・・・神様は(0^0)
昨日の中国新聞のオピニオン~歩く・聞く・考える~に「中国山地 牛と人風土記」の映画制作ことを取り上げてもらいました。ぜひ一読ください!!!この映画の取り組みを始めて3年-。コロナ禍で動けなくなり、制作資金のことを考えることもなく過ぎていましたが、その間、引き続き話しを聞こうとしていた方が相次いで亡くなり、急がなければという思いで、昨年秋からクラウドファンディングで支援をお願いしていました。年末には、中国新聞でいろいろ紹介の記事を掲載していただき、関心を持ってもらうことができました。もちろん島根県、広島県以外に在住の方からも協力をしていただき、2月11日で90%になりました。改めて井伏鱒二の紀行文や宮本常一の書物から、中国地方の各地の牛の交流があったことがわかり、これから和牛の産地や大仙供養田植えや花田植とらえる本格的な活動にはいります。
この映画制作のスタート地点になった出羽牛馬市の地元で活動したRiver Side Bluse Band~ ”どんくらい” の曲はバイパス道路で壊れた「馬喰田」や「見る影もなし牛市場」の歌詞を挿入し、2000年12月に解散しています。当時、活動したメンバーはまだ若くして亡くなったり、障がいを抱えギターを持つことができなくなった人もいます。 中国山地でつながる地域の記憶や思い出を残せる映画が制作できるようにします。本当に支援をありがとうございました。現時点で、郵便振込による支援額が1,390,000円です。目標額には300万円には足りませんので、2月末まで郵便振替による支援のお願いをしていきたいと思います!引き続きの応援をお願いします。
この写真は、民俗学者 宮本常一の著書「忘れられた日本人」の中で、文字を持つ伝承者として紹介された田中梅治翁の短歌を記した石碑です。田中梅治翁は牛市が賑やかだった頃に出羽で生まれ、隣の田所村鱒渕という集落の農家の養子となり地域に貢献した博学な篤農家でした。正岡子規が主宰したホトトギスという歌壇に参加して投稿を続け、入選した句を記念して田所村の句会「柚味噌会」の同人により昭和14年12月に建立されたものです。同じ時期、田中梅治翁を宮本常一がアセッチ・ミューゼアムを主宰する渋沢敬三(渋沢栄一の孫)を伴って翁を訪ねていて、9月に開かれる出羽の夏牛市を案内し、翁が千屋(岡山県)、比和、神石(広島県)、飯石(島根県出雲)から来た牛の特徴を説明したことが「忘れられた日本人」の中で紹介しています。下の写真は、その出羽牛市の繋留場です。ごらんの通り屋根が崩れかけていましたが、昨年夏に取り壊されました。この建物自体は戦後2~30年代に建てられたものでしょうが、牛市のシンボルとなっていました。中国山地の山陰と山陽の結節点に位置する出羽。往還が山陽と山陰の四方に向かっているところです。20年前まで広島バスセンターから広島電鉄バスが一日4便往復していました。賑やかだった家並みも少しずつさみしくなってきましたが、この映画をとおして中国山地の歴史と文化を伝えていけたらと思います。出羽牛市の繋留場跡
郵便振込で直接ご支援下さった方々の総額が、2/10現在で142万円に達し、本サイトから御支援下さった方を合わせると総額269万円です。本当にありがとうございます!本サイトからの振り込みはいよいよ明日の23:59で閉め切ります。ゆうちょ銀行に直接お振り込みでしたら2月29日まで受け付けております。よろしくお願いします。