12月の出羽牛市の話しを聞いたとき、サーカスや演劇、相撲の興行が開かれたという話題で盛り上がりました。久井や白市の牛馬市もサーカスが来ていたとのことで訪ねました。牛馬市だけでなく競馬場もありサーカースで賑わっていたとうことでした。矢野動物園の石柱白市の町は、平賀氏の城下町として開け、関ヶ原以後は、木原家などの豪商が塩田業や鋳物、酒造業などで町をつくりました。瓦職人を石州(山陰)から呼び寄せ、瓦窯を築いて製造販売をしたようです。赤瓦の町並み
邑南町郷土館には、神石牛が描かれた一枚の額があります。町内高原地区で和牛を飼育していた農家に残されていたもので、主が亡くなり三十年以上経ってご子息が郷土館に持ってこられたものです。父親が出羽牛市で博労さんの仲介でもとめた神石牛を大切に飼っていたようで、その神石牛が死んだため絵に描き残してもらい仏間に掲げてあったといいます。12月26日に出羽牛市の思い出を語ってもらった時に、夏市が開かれる1週間前から神石牛が来て馬喰郎田に繋がれ、きれいに手入れをされていたという話しがあり、遠く備後の神石郡から出羽牛市に来ていたことの証明でもあります・・・ 「馬喰郎田」 といわれた圃場も河川改修やバイパス道路でなくなった 出羽川の改修で変わってしまった!収録中の青原監督
牛供養田植えの里~庄原市比和自然科学博物館を尋ねた帰路に、以前から気になっていた高野町中門田の国重要文化財の堀江家住宅に立ち寄りました。なぜ気になっていたかというと、およそ十年前に県境を越えた島根県雲南市吉田町民谷に堀江家住宅があり立ち寄ったことがあり、その折、農作業をされていた夫婦がわざわざ帰って来て下さり見学をさせてもらったことがあったからです。この時季の高野町は雪で覆われているはずが、今年は暖冬で日陰に残るだけ。看板を頼りに立ち寄ってみると茅葺き屋根の葺き替えが終わったばかりの古民家で、中から26代目当主の堀江さんが出られてお話をさせてもらいました。17世後半に建てられた合掌造りで田の字型の形式に牛が飼われていた「まや」もあり、堀江さんが子どもの頃には牛がいたそうです。教員をされていた父上が敷地内に赤瓦吹きの住宅を新築され住まわれていわようで、昭和45年に重文指定を受けて維持されていると云うこと。土間の中央部には竈(くど)を設置されていて、土の乾燥を待っているところだと。比婆牛の源流である広島県の北部は出雲、岡山県、鳥取県との交流もあり、農山村でありながら魅力的なところで映画制作には欠かせない民俗的な地域です。また、ドキュメンタリー映画『芸州かやぶき紀行』の制作を手がけた青原さとし監督にとっても興味深いところです。 まやが残る
牛と人のつながりを石碑に見てみようと比婆牛で知られる庄原市を訪ねました。
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