本日は奈留島(なるしま)に伝わる伝説を紹介します。奈留島は世界遺産である「江上天主堂」がある島です。ただ、キリスト教が来る前から神道、仏教など土着の信仰は存在しており、今回紹介する伝説はその一つとなります。奈留の矢神小島に「小島さま」と呼ばれる、恵比寿さまを祀った祠があります。これは昔から漁の神様として矢神部落にあったのが、位が高くてここには住めないということで矢神小島に移りました。その映った道が白い砂地となって今に残っております。以前は大敷網があって旧暦8月15日に祀っていましたが、網がなくなってからは地引網組が祀り、あとではそれもなくなって現在では八神神社の祭礼と同時に旧暦6月15日が祭り日となっています。
本日、ついに支援総額が100万円を超えました!これもひとえに皆様のおかげです。あと6日ですが、最後までよろしくお願いします。さて、本日は玉之浦(たまのうら)に伝わる、空海にまつわる伝説を紹介します。大宝寺(だいほうじ)は延歴24年(808年)弘法大師(空海)が唐から帰国の際、この寺にこもって真言密教の秘法を悟り、それまで三輪宗だったのを改め、全国に先立って真言宗を広めたという由緒を持ち、西の高野山としてあがめられる有名なお寺です。また、空海と大宝寺のかかわりについては次のような伝説もあります。唐から帰国の途についた空海の船は日本に向かっているうち大時化に会い、暗黒の海上を風波に翻弄されて方角がわからなくなってしまいました。すると空海の持った読経礼拝用の鐘に、大宝寺の鐘の音が呼応して響き、その音を頼りに船を進めてきたら大宝寺にたどり着いたという話です。空海が日本に着いてから高野山に入るまで二年間の空白期間があり、その間は九州のどこかにいたものとされています。大宝寺在住期間もこの二年に含まれていると考えられます。そんな由緒深い大宝寺に応安八年(1375年)播磨国名賀軍西林寺の増信という坊さんが梵鐘を寄進しております。その鐘が現在もつるされているのですが、これは戦時中でも国宝級の値打ちがあるとされ供出を免除されました。空海の話に出てくる梵鐘とは別の鐘だとは思いますが、工芸品としての価値が高いと認められ、国の重要文化財に指定されております。
クラウドランディングも残り1週間となり、ラストスパートに入ってきました。最後まで達成に向けて頑張っていきたいと思います。さて、本日は「甚五郎ごって」(じんごろうごって)という話を紹介します。今から1,200年ばかり前、上善寺の先祖に藤将軍近江公という方がおられました。その頃は小値賀の西に高麗島(こうらいじま、以前紹介した島と同じ島ですが色々と異なる伝説があるようです)という大きな島があって、この島には土公悪鬼という悪魔の大将がおり、たくさんの手下を使って牡鹿島の人々を苦しめておりました。これを聞いた藤将軍は土公悪鬼どもを退治して人民の難儀を救ってやろうと家来の中から強者を選んで成敗に向かうことになりました。するとその時、どこからともなく一人の白髪の老人が瀬には苔が生え、又先になった角を持つ大きなこって牛を連れて現れ、「私は早助と申す翁、この牛は背丈八尺五寸(約2.5m)の二又角をもつ大力無想『甚五郎ごって』と申す牛であります。何卒、高麗島征伐のお供に加えていただきたい」と申し出ました。将軍が老体とみて断ると、早助翁はそばにあった大岩を軽々と持ち上げてみせたことでただ者ではないと感じ、将軍は力を貸してもらえるようお願いしました。仲間になった早助翁は立派な船を用意し、一同はそれに乗船して島に向かいました。島に近づくにつれて雲行きが怪しくなり、いざ上陸というときには一天俄かに掻き曇り思わず耳をふさぎたくなるほどの雷鳴とともに豪雨となり、一同生きた心地もしませんでした。この時、今まで選定にうずくまっていた甚五郎が突如起き上がって目を怒らせ角を振り立てて島に飛び上がり空の一方とにらんで一声ウオーッと天地に響き島も崩れんばかりに吠えたてました。すると今までものすごかった雷雨はぴたりと止み、妖雲も髪をはぐように元の青空に立ち直り一同は気を取り戻して上陸しました。その様子を見て仰天したのは悪魔の大将と家来たちでした。自分たちの妖術が破られ、かくなる上は腕力でこいと一同どっと打って出てきました。敵味方入り乱れた白兵戦となりましたが、甚五郎ごって、早助翁の働きぶりはものすごく敵を二又の角で引っ掛けては投げ上げ突き飛ばし、大きな足で踏みつぶしとうとう残らず打ち取ってしまいました。戦いが終わって一息ついたころ、早翁の助言もあり一同は船に乗り島を離れました。少しして振り返ってみると島は最初からなかったかのように消え去っていました。これが現在の高麗瀬です。一同無事に小値賀に凱旋したとき、将軍は早助翁にお礼を言い、ぜひ住居までお供したいと申しますと「実は自分は神島大明神である。あなたは人民を大切になさる人なので、人間の姿をしてお助けした次第です。私の住居は野崎の神島山の絶頂にある柴の庵がそれです。」と言って煙のように消え失せました。甚五郎ごっても船から降りて東のほうへ砂の中を歩いていましたが、やがて一声高くいななくとともに海中に沈んで瀬となりました。将軍はこの瀬を「特牛瀬」(こってせ)と名づけられました。その後、将軍は翌年お正月に野崎島の神島山の絶頂にある柴の庵をお訪ねになりました。頂上には丸い石を積み重ねたお墓がありましたので、これが早助翁のお墓だろうと一同ともに節拝み厚くお礼を申されました。将軍は都にとどまることを思いとどまり、永く小値賀に住むことになりましたが延歴15年中村に上善寺を建立、開基となり、その子国千代丸を開山第一世とされました。おわり
本日は五島のいたるところに言い伝えがあるガータロのお話を紹介します。カッパのことを五島では「ガータロ」と呼んでおり、字で書くと「河太郎」となります。ただし、島内でも地域によって少しずつ呼び名が異なり、「ガアタロ」「ガアッパ」「ガッパ」「キャタロ」「ケタロ」「ガアッパドン」「ガッパドン」などと呼ばれています。姿かたちは本土のカッパと同じで大きいものでも背丈が1メートルくらいで頭には皿があり、その中に水がなくなると力が弱くなるばかりでなく、神通力が失われるといわれています。子のガータロは島のいたるところに棲んでおり、一寸した小さな流れ、平常は干上がっているような小川にも棲んでいるといわれ、島内にはほとんど無尽蔵といってよいほど話のタネを作っています。所によっては水神様の家来になって村々のためになったり、いたずらや悪さを繰り返したりもしており悪というよりいたずら好きの妖怪というイメージです。五島のガータロの特徴は、本土のそれと同じように人の尻子玉を抜いたり、角力が好きだという以外に狐のように人に憑いたり、腕が抜けやすい特徴を持っています。(元来、野生のキツネやタヌキがいないことからその代わりになったと思われます。)福江大日山の堂宇の裏手にある石造りの「ガータロ」は狛犬の代わりに奉納されたものもあります。
本日は惣津(そうづ)というところに伝わる鯨の話です。昔は五島近海に鯨がたくさんいて、岐宿浦や河原浦にもしょっちゅう外海から入ってきたようです。くじ粗が来たときは村中の人が海岸に集まり、森内、船頭などそれぞれたくさんの役割に分かれて仕事をしました。鯨は捨てるところがなく、骨まで利用できるので、五島の人々は「クジラ一頭で七尾七浦うるおう」とまで言っていました。だから鯨が浦に入ってくることは海の神様が恵みを与えてくれたと考えられていました。川原の人々は鯨が入ったら漁に出かけたり、訓練を積んでいたことで捕獲も上手でしたが、三年周りに入ってくる大鯨だけはどうしても捕獲できないのでした。大鯨は強く、森を打ち込んでも平気で泳ぎまわるので、村人は今度は浅瀬に追い込むことにしました。大鯨は翌年の春、川原浦に入ってきました。人々は手はず通り配置について浅瀬に追い込み、十数隻の船で追い込んでいきました。ところが、大鯨は急に西へ向きを変え、勢いよく泳いで陸地に近づくと、ぱっと飛び上って楽々と西外海に逃げて行きました。その後も大鯨は同じ方法で逃げ続けたといいます。それから人々は同地の最も狭くて低いところを「登尾ノ首」(とやんくつ)高いところをくいらごえと呼ぶようになったと伝えられています。