本日、クラウドファンディングの最終日を迎え、無事、目標額を達成できました!!応援してくださった皆様には心より感謝申し上げます。思えば、今回初めてクラウドファンディングに挑戦するため、慎重に準備を進めてまいりました。思い立った時から、五島市観光協会、五島市教育委員会、新上五島町観光物産振興協会、新上五島町教育委員会をはじめとして、支持や協力いただいた方々もいる中、本業や日々のやることに追われ思うように準備を進めることができず、ヤキモキしたこともありました。クラウドファンディングがスタートしたときは自分の宣伝は足りていたか?誰からも見られないのでは?と不安でいっぱいでした。しかし、始まってすぐに支援をいただいたときはとてもうれしくなりました。支援以外にもいろんなアイデアをくれる方もおり、非常に参考にさせていただきました。また、新聞メディアや、現地ラジオに出演するときも快く受け入れていただき、暖かい気持ちになりました。”私には頼れる仲間がいる”。その事実に私はとても救われ、とても心強く感じました。その後、おかげさまで順調に伸びた支援のおかげで無事に達成することができました。ある時、ある方とお話ししていた時”この夢はもうガータロ(私のHN)のものだけじゃないね”と言われて、私の夢はもう、私のものだけでなくみなさまと歩むみんなの夢だと気づきました。これから、本書の製本と返礼品のご用意を進めていき、みなさまが応援してくれた私の夢、みなさまの夢を実現したいと思います。最後まで私のなすべきことを見届けていただけると幸いです。プロジェクト終了まで少し早いですが、ご挨拶とさせていただきます。今後ともよろしくお願いいたします。
本日、無事クラウドファンディングの目標を達成いたしました!これもひとえに応援してくださった皆様のおかげです。達成後もまだまだ支援が続いており、余剰資金として今後の活動にとても心強い支えとなっております。本日も祖父にゆかりがある岐宿(きしゅく)に伝わる伝説を紹介したいと思います。岐宿城岳(しろたけ)には今から約600年前、五島の殿様が城を築いたので「城岳」という呼び名がついたそうです。この城岳の周囲にはシカやイノシシ、うさぎ、キジ、山鳥などが多く、歴代の殿様が良く狩に来たという記録も残されています。この城岳の八合目あたりに平地がありますが、昔はここを武者だまりと言って、武士たちの集合場所に使っていました。その頃は殿様も含めて戦がない時はふもとにいて農業を行い、いざ戦いとなったとき、武装して武者だまりに集まったとされております。そのならばしが明治、大正まで続き、年に一回、金福寺の大釣鐘を合図に村中から城岳の武者だまりまで駆け上る「山駆け」が行われました。この山駆けは、道でも山中でも自分の好きなところを自由に走っていいようになっており、この協議で一番になることが最も栄誉あることだったと伝えられております。いつごろからかその風習もなくなり、一時期は運動場としてほかの運動競技も行われていましたが町に小学校の運動場ができてからは使われなくなり、現在は登山、観光客のための駐車場となっています。
5月25日に始めたこのプロジェクトもあと2日!皆様のおかげで96%まで来ており、本の復刻という夢が見えてきました。本日は祖父のゆかりの地である岐宿に伝わるお話を紹介しようと思います。岐宿(きしゅく)鰐川(わにがわ)にS字の形をした石造りの古い橋がありますが、通称を方言で「ワンゴンハシ」といいます。(これは現在、橋の一部が残されているのみとなっています)この橋は高峰十之進の懸け橋と伝えられ、十之進は元禄七年、五島藩祐筆見習いとして史本に登場以来、享保十九年に至る四十年間にわたって藩政に貢献した記録があり、旧鰐川橋はこの間にかけられたものと思われます。鰐川は長崎県最大級の長さと水量を誇る川で上流に福江島の噴火口であったといわれる山内盆地があり、大雨が降るとすぐに氾濫し、何度橋をかけても流されてしまうので村民は藩主に架橋を願い出ました。藩主に架橋を命令された高峰十之進は、大雨の後の増水気に村民を現場に集め、一本の縄を持たせて川の両岸に立たせました。その縄を伸ばしたり縮めたりしながら引っ張る力の最も弱い位置を選ばせ、その縄の通りに岳を立てて橋を架けたと伝えられています。それから昭和三十三年に新しい橋ができるまで使われました。高峰十之進は五島藩の命により各地で公共工事に努めましたが、五島藩の築城問題で罪を得て宇久島の西の寺島に流されました。ただ、その功績は五島近古年代記に述べられていたりして現在に残されています。
こんにちは。昨日はお話を投稿できなかったため、本日、2話投稿します。最初の一話は岩瀬浦(いわせうら)に今も流れる「蘆山の瀧」(ろざんのたき)という滝の由来についてのお話です。 蘆山の瀧。近くに瀧の名の語源が見当たらない珍しい名称の瀧。(通常は地名など近くに由来がある)聞いてみましたら、昔、岩瀬浦に流れ着いた唐の人がこの滝の神秘雄大さに感銘し、故国の蘆山をしのび「蘆山の瀧」と名付けたとのことでした。その後、岩瀬浦に小さな庵ができた時も蘆山庵と名づけられています。後年、福江大円寺第十四世唯浄周道師が蘆山庵を蘆山寺に改装するときも寺号を「瀑布山蘆山寺」と奉称しており、岩瀬浦における「蘆山の瀧」の存在の大きさが立証されています。五島方角の一節に次もあります。内は湊の岩瀬浦岩瀬の瀧は四百尋上より落つる女男瀑布の落合う例の水音に消えてぞ遠き三笑の昔語りて蘆山寺の― 略 ― 江戸時代、参観上下の人たちは、志自岐羽黒神社への海陸安全祈願参拝に合わせ、蘆山の瀧の前に立てば「心が洗い清められる」と言って、必ずここを訪れたといわれています。蘆山の瀧(新上五島町観光物産協会)https://shinkamigoto.nagasaki-tabinet.com/spot/10012
本日は福江(ふくえ)に伝わる伝説を紹介します。観光スポットにもなっている場所に関するお話です。 福江市唐人町(とうじんまち)にある明人堂(みんじんどう)は通称メージンドウまたはメージンサンと呼ばれ、多くの人たちに信仰されてきました。明人堂は天文9年、明(今の中国)の貿易商人、汪直(おうちょく)が福江に来航し、五島藩17代盛定公に通称を願い出て許され、基地や住まいにする屋敷まで殿様からいただき、一族を住まわせたうえで守護神として祀ったのがこの明人堂と伝えられています。汪直は大船団を組織し、東シナ海を舞台に海賊となり明の貿易船、甲陽線なども矯正通商の相手としたため明国政府ににらまれていました。汪直は五島がよっぽど気に入っていたらしく、「五峯大舶主」と呼ばれるのを一番喜んだと伝えられています。その後、汪直は明に騙されて連れていかれ処刑されてしまいました。敵を討つため明に攻め入った王游たちも帰らぬ人となってしまいました。明人堂がある唐人町は汪直などが住んでいたことから呼ばれるようになったといわれています。