Xにて連載中の「怪童中西太フィロソフィー」第51話から第60話です。https://x.com/nakanishi_6第51話 太っさん自身も親も、早大進学を望んでおり、三原もそれを了解していた。しかし、三原は招待試合で米子に遠征した太っさんの凄まじい打撃を観て、西鉄入団へと舵を切ることになる。三原監督が見に来ると聞いた太っさんは、前日一晩中眠れなかったそうだ。第52話 10月6日に香川県の独立の父と謳われる中野武営の銅像の除幕式が行われた。この中野武営のご子息、中野武二は第一高等学校(現東京大学)の名二塁手だった。その好守は、旅順要塞「老鉄山」にたとえられた。審判員の権威確立に努め、野球殿堂入りしている。第53話 明治から大正の日本野球の黎明期に、中野武二は後輩の指導育成に傾注するとともに球界全体の発展のため活躍した。やがて早慶戦や、全国中等学校優勝大会(夏の甲子園)、全国選抜中等学校野球(春の甲子園)が始まり、水原茂、三原脩、中西太の活躍の舞台となる。第54話 不思議なものだ。香川県は愛媛県から分離独立し、日本で最も遅く県となった。この立役者が中野武営。その子、武二は日本球界の礎を築いた一人だった。野球王国香川の素地は中野親子が作ったとも言えなくもない。第55話 中野武二は、第一高等学校野球部にコーチとして残り、名投手、内村祐之(ゆうし)などを育てた。内村の著書「鑑三、野球、精神医学」という本を僕は持っている。内村はキリスト教思想家の内村鑑三を父に持ち、プロ野球コミッショナーも務めた。第56話 内村はこの本の中で、プロ野球の諸課題や将来像、スポーツマンシップの精神の重要性、スポーツ報道の在り方などに苦言を呈している。この凡そ60年後、現在の野球界を見ることができたら、内村はどう思うだろう。第57話 かつて、高等学校野球の前身である中等学校野球の振興に尽力した、東口真平の業績を讃えた東口杯全国選抜高校野球大会が彼の出身地の熊本で開催されていた。昭和26年9月、高松一はその夏の選手権準決勝で惜敗した平安に雪辱し全国制覇を果たした。第58話 東口杯の全国優勝は、あまり知られていないが、太っさんのセンターバックスクリーンへのホームランが決勝点となった。4対2、勝利への貢献は、同時に早大進学から西鉄入団へと進路の転換を決めることにもなった。 第59話 中野武営像を制作したのは高松一高出身の池川直だ。数々の著名人の銅像を制作した彫刻家。太っさんの銅像制作に並々ならぬ意欲を示している。菊池寛の父帰るの像も創った。中野武営、中野武二、内村祐之、菊池寛、水原茂、三原脩、中西太、・・人脈が広がる。第60話 1945年3月の東京大空襲に始まった日本本土への空襲は、やがて高松へも大きな災禍をもたらした。7月4日未明の2時間近くに及んだ空襲で、旧市街地の8割が消失。1359人が命を失い、約8万6400人が被災した。
Xにて連載中の「怪童中西太フィロソフィー」第41話から第50話です。https://x.com/nakanishi_6第41話 ここでもう少し三原脩に触れる。川崎市在住の高松一高野球部OB会名誉会長、上春三郎先輩からお聞きした話だ。三郎のお父さんは上春次郎。彼は、戦前から高松中学野球部の後援会の活動をしていた。その時、三原が丸亀中学校から転向をしてきた。第42話 三原は現在の満濃町の大きな農家に生まれた。三原の父は修(後に脩と改名)に勉強をさせたかったが、丸亀中学では野球に熱中していた。父は野球を止めさせるために、高松中学校へ転校させたが、修は野球を忘れることができず悶々としていた。第43話 高松中学校は、当時は高松商業と野球で競い合い三原の入部を待望していた。こうした中、野球部後援会の世話をしていた上春次郎が満濃の家を訪ね、三原の父親を説得したそうだ。だから、三原と上春次郎は終生仲が良かったと、息子の上春三郎から聞いた。第44話 三原が高松中に入る前は、高松商業の全盛期だった。三原とは宿命のライバルの水原茂が高松商業に入学した頃は、春の第1回選抜での優勝を皮切りに、第2回選抜準優勝、その年の夏の第11回選手権大会では全国優勝を果たしている。第45話 三原率いる高松中学は夏の第14回選手権で準決勝まで進むが、雨天コールド負けを喫した。この時のマネージャは、三原より2歳年上の成田知己。後の日本社会党委員長だ。「泣くな三原、甲子園の花」と報道された。水原と三原の戦いは早慶戦で熱を帯びる。第46話 このように上春次郎は、三原に野球を続けさせることに成功した。三原がこの時、野球を止めていたら、日本球界の歴史は変わっていただろう。この上春次郎の野球への情熱は尋常ではない。家業は大規模な傘の製造所だった。番傘、蛇の目傘、日傘を作っていた。第47話 上春次郎は息子の三郎が早稲田の野球部で活躍していた時、早慶戦での応援に小さな日傘を特別に作っていた。昭和25年頃から始まり、次郎は「これで応援団は随分儲けている。」と言っていた。昭和48年頃のフクちゃんの描かれた日傘が、今も僕の家にある。第47話 父親が上春次郎、その息子で三男が三郎。兄弟なら分かるが親子で次郎と三郎。ややこしい。でも、この二人が三原と太っさんを結び付けていった。太っさんが昭和21年高松一中に入学した時の3年生が上春三郎だ。上春次郎は、物資難の時代、野球部を支えた。第48話 その頃、三郎の友だちは、野球部にボールがないことを知っていたので、戦前の古いボールを持ってきてくれた。三郎は父次郎から小遣いを貰いそれを買っていた。次郎は喜んで三郎に小遣いを渡していた。次郎は私財を投じて野球部の強化を図っていた。第49話 昭和26年夏、怪童と呼ばれ全国にその名を轟かせた太っさん。その進路を巡ってプロの攻勢があった。喧噪を逃れるため、早稲田大学在学中の三郎は、東京で太っさんを預かることになった。早大野球部の友人に頼み、家を借り、三郎と太っさんは1週間過ごした。第50話 当時の早大野球部は、広岡達郎、小森光生、荒川博などスター選手が揃い、一流のプロ野球選手を多数輩出していた。三郎と太っさんは夜、素振りをした。六大学の選手のスイングは、太さんと比べると、まるで子供だったと三郎は回顧している。
Xにて連載中の「怪童中西太フィロソフィー」第31話から第40話です。https://x.com/nakanishi_6第31話 もう一人、野球界で菊池寛賞を受賞したのが、栗山英樹。侍ジャパン監督として、2023年ワールドベースボールクラッシックで選手たちの力を結集し見事世界一に導き、人々に感動を与え、野球の魅力を再認識させたことが受賞の理由だ。第32話 太っさんのお別れ会のために高松を訪れた栗山英樹は高松市中央公園に菊池寛の銅像があるのを見て驚いた。太っさんとの繋がりを通し、「三原ノート」を指南書としていた栗山英樹。この年数々の賞を受賞したが、この菊池寛賞を最も喜んでいたのではないだろうか。第33話 1961年、三原大洋が日本一になった時のシリーズMVPは、高松一高から早稲田大学を経て大洋に新入団した近藤昭仁だ。横浜、ロッテの監督。ヤクルト、西武、巨人のコーチなど、引退後も球界で活躍した母校高松一高のヒーローだ。第34話 近藤昭仁は築地小学校、太っさんは松島小学校。とは言え、家はすぐ近所だった。4歳年下の近藤を太っさんは、弟のようにかわいがった。この二人は、1989年の日本シリーズで対峙することになる。第35話 近鉄は仰木彬監督、太っさんはもちろんヘッドコーチ。対する巨人は藤田元司監督、そて近藤昭仁ヘッドコーチ。このシリーズは高松一高出身の二人の参謀対決とも言えた。結果は近鉄が3連勝したが、その後巨人が4連勝しシリーズを制した。 第36話 近鉄3連勝後のある選手の発言が、巨人の闘争心に火をつけたと言われている。この年の年末、香川県庁前のホテルで巨人軍ヘッドコーチ近藤昭仁の日本一を祝うパーティーに出席した。兄弟のような二人の対決、勝負とはなんと厳しく非情なものかと思う。第37話 三原脩の監督歴。先ず巨人、そして西鉄、大洋、近鉄、ヤクルトと続く。その後、日本ハムの創設にも関わり、球団社長となる。この間、二人の「二刀流」の選手起用が有名だ。近鉄監督時代の永淵洋三と、ヤクルト監督時代の外山義明だ。第38話 永淵洋三は、水島新司の野球漫画「あぶさん」の主人公、景浦安武のモデルだ。打者として、投手としてフル回転していた。そして外山義明。1971年、三原監督は彼を「1番・投手」で先発出場させた。神宮球場がどよめいたに違いない。第39話 それから45年後の2016年、日本ハム大谷翔平が「1番・投手」として先頭打者ホームランを放ち、劇画の世界が現実になったような衝撃が日本中を走った。日本ハム監督はもちろん栗山英樹。三原脩の選手起用を更にスケールアップして再現したのだ。第40話 太っさんも、大谷の二刀流を推奨していた。「ピッチャーの投げる動作が、バッティングにも生かせるんだ。」高松での懇親会でそう話していた。大リーグでの大谷翔平の活躍、バッター大谷は、ピッチャーを経験しているからこそ、世界の大打者になったと思う。
Xにて連載中の「怪童中西太フィロソフィー」第21話から第30話です。https://x.com/nakanishi_6第21話 野球に「もし・・」はないが、もし日本ハムや太っさんが存在しなかったら、ダルビッシュ有、大谷翔平は誕生しただろうか。僕が学生の頃観た大リーグのオリオールズ対全日本の試合。日本は全く歯が立たなかった。第22話 オリックスバッファローズ、中嶋聡監督の電撃退任が報じられた。最下位に沈んでいたチームを就任1年目からリーグ3連覇に導き、采配は「中嶋マジック」とも言われていた。大リーガーの山本由伸、吉田正尚、などの名選手が育つ揺り籠のようなチームを作った。第23話 かつての「仰木マジック」を中嶋聡は、つぶさに見てきた。その仰木彬は、鈴木一朗を「イチロー」で選手登録をした。「がんばろうKOBE」を掲げ勝ちとった優勝は、震災からの復旧、復興にどれほど貢献したことか。この時のヘッドコーチが太っさんだ。第24話 仰木彬は太っさんの2歳年下、西鉄時代は大打者中西太の足元にも及ばなかった。太っさんは、やがて選手兼任監督として、仰木彬を指導する立場となる。彼にとって、太っさんは大先輩であり、上司であった。第25話 仰木彬が近鉄バファローズの監督に就任するとヘッドコーチに太っさんを迎えた。かつての上司を部下として招く仰木彬の心の深さ、そしてかつての後輩に仕える太っさんの心の広さ、大人物とはこうしたものかと思う。第26話 仰木彬は、近鉄の後、前述したオリックスの監督として一時代を築く。もちろん太っさんを離さない。「仰木マジック」は太っさんとともにあり、「中嶋マジック」につながっていく。そしてこの仰木彬の前に偉大なマジシャンがいた。三原脩その人だ。第27話 先日、ユニクロ、柳井社長のインタビューを観る。その中で手書きのノートが紹介されていた。紙上で考えをまとめているような書き振りだった。社員にも「書くこと」を推奨しているとのことだ。書くことは難しいが、最も思考力や創造力を養う言語活動だと思う。第28話 三原脩は、何かを閃くと、パッとノートにメモしたと伝え聞いている。彼は学生時代に早慶戦でホームスチールを敢行するなど、セオリーにとらわれない大胆な戦術を用いた。彼が残した「三原ノート」は野球とは何か、人間とは何かを問うものだろう、思う。第29話 「三原ノート」は、太っさんから栗山英樹に引き継がれる。栗山英樹は太っさんの門下生であり、よく相談を受けていたそうだ。選手への信頼、個性を生かし適材適所の選手起用は、まさに「栗山マジック」だ。WBCでの采配は日本中を感動させた。第30話 菊池寛賞といえば、文学賞と思われがちだが、対象分野を広げていた。野球界からは1961年に三原脩が受賞。授賞理由は采配の妙を得て、最下位球団を日本一に導いたことだ。三原脩が西鉄ライオンズから大洋ホエールズの監督となった1年目の快挙だ。
Xにて連載中の「怪童中西太フィロソフィー」第11話から第20話です。https://x.com/nakanishi_6第11話 太っさんは、近年よく宮本慎也に連れ出されていたそうだ。時代遅れの僕だが、ふとユーチューブを見ると、太っさんと宮本慎也の姿が。プロ野球OBクラブのチャンネルや「解体慎書」というチャンネルで、すごいレベルのバッティング談義や解説をしていた。第12話 7年ほど前の高松一高野球部OB会。「短所を見つけることは簡単だ。長所を見つけることは難しい。」と太っさん。確かに、日常生活でも、僕は他人の欠点ばかりが目に付く。どうやったら太っさんのように長所を見抜く人になれるのか、永遠の課題だ。第13話 長所なのか、短所なのか。長所であり短所なのか。たぶんどちらにもとれるものだろう。太っさんは、固定観念や先入観というものに左右されず、すうっと物事や人物を見つめる慧眼の持ち主だ。そうした眼が、選手の短所をも長所に昇華させ数多くの名選手を育てた。第14話 本日、10月11日の四国新聞。「プロ野球観客数V字回復 史上最多・・・」の活字が躍っていた。しかし、かつては球団経営が危ぶまれる球団があった。三原脩と太っさんは、讃岐男の度量を示すかのように、その危機に立ち向かった。第15話 ヤクルトアトムズが、成績の低迷していた時期、三原脩監督の下、太っさんはヘッドコーチに就任。前述したようにこの頃に指導した選手が成長したこともあり、その後スワローズは6度の日本一に輝くなど、実力、人気ともに素晴らしい球団になった。第16話 三原脩と太っさんのコンビと言えば、何と言っても日本ハムファイターズ。初代オーナーの大社義規は、高松中学の先輩である三原脩の勧めにより、日拓ホームズを買収し、日本ハムファイターズ創設した。もちろん監督には太っさんを招聘した。第17話 大社義規はこよなく日本ハムファイターズ を愛した。リーグ初優勝の時、背番号100のユニフォームを着て、大喜びをしていたのをテレビで観た。日本ハムファイターズはやがて日本一に。現在の本拠地エスコンフィールドは、観光名所にもなるほど魅力的だ。第18話 三原脩・中西太親子が大きな足跡を残したヤクルトと日本ハム。そこは、前侍ジャパン監督の栗山英樹が選手、また指導者として人生を賭けた球団だ。昨年のお別れ会での弔辞で、彼は太っさんのことを「おやっさん」と呼び掛けていた。それほど深い絆があるんだ。第19話 栗山英樹は、ドラフト外でのヤクルト入団。東京学芸大卒業で、教員免許も持っている。入団当時から、僕はなぜこの人は、プロ野球の道を進むのか、不思議でならなかった。大学教授も務める異色の野球人だ。第20話 「おやっさんは、誰にも分け隔てなく指導をしてくれた。」やがて彼が野球を止めようとした時、太っさんは「誰が野球を止めていいと言った」と叱ってくれた。それから彼は指導者の道を歩むことになったそうだ。