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女性たちが「なりたい私」を叶える場所に。80年続いた呉服店をリノベーション!

廃業し空き家となっていた「くらた呉服店」は祖父母と両親が着物を通して女性たちの生活や社会進出を支えた場所でした。ここをシェアオフィスとして生まれ変わらせ、次の時代につなぎます。転職や復職、キャリアアップ、起業…挑戦を決めた女性たちが情報と仲間を手に入れて自信を持って前進できる場を誕生させます!

現在の支援総額

1,050,000

105%

目標金額は1,000,000円

支援者数

71

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2024/09/12に募集を開始し、 71人の支援により 1,050,000円の資金を集め、 2024/10/31に募集を終了しました

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女性たちが「なりたい私」を叶える場所に。80年続いた呉服店をリノベーション!

現在の支援総額

1,050,000

105%達成

終了

目標金額1,000,000

支援者数71

このプロジェクトは、2024/09/12に募集を開始し、 71人の支援により 1,050,000円の資金を集め、 2024/10/31に募集を終了しました

廃業し空き家となっていた「くらた呉服店」は祖父母と両親が着物を通して女性たちの生活や社会進出を支えた場所でした。ここをシェアオフィスとして生まれ変わらせ、次の時代につなぎます。転職や復職、キャリアアップ、起業…挑戦を決めた女性たちが情報と仲間を手に入れて自信を持って前進できる場を誕生させます!

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来音を共に創っているメンバーに質問してみました。「あなたにとって来音はどんな場所ですか?」山口さん私が初めて田村かすみさんにお会いしたのは、昨年秋の円陣(東広島市の社会問題解決のためのプロジェクト)の全体会でした。その時のかすみさんは元気がなく、消え入りそうでした(裏かすみ)。ところが、ニ度目にお会いした時はパワー全開!元気ハツラツのかすみさん!!目を疑いました(汗)裏も表も全てひっくるめて、愛すべきかすみさんです。その人間的幅の広さが、かすみさんの魅力と懐の深さだと思います。お寺でふらっと語る会先日「お寺でふらっと語る会」に参加し「来音」が大切にしていることである、人との出会い、ご縁、そして語ることの重要性を再認識してきました。また参加者の皆さんも「来音」の話を真剣に聞いてくださり、心温まる会でした。お寺でふらっと語る会の様子私にとって「来音」はワクワクする、楽しくて面白い場所です。中秋の名月


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東広島市社会課題解決共創型起業プログラム「円陣」の第二期が始まろうとしています。一年前たった一人で遠隔起業をしようとした私は、ここで仲間を得て、ぼんやりしていたビジネスプランを伴走者とセカンドペンギンのみんなに叩き上げていただきました。おかげさまで今こうやってシェアオフィス来音が始まろうとしています。今日は第二期の会合があったのです。兵庫県から駆けつけました。僭越ながら、みんなわかっとる?助け合ってやるんよというメッセージを送りました。みんなでやろうや、うちらはみんな広島じゃけん!クラファンのご支援、引き続けよろしくお願い申し上げます。


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来音を共に創っているメンバーに質問してみました。「あなたにとって来音はどんな場所ですか?」小田さん私が、こちらの事業に加えていただいてから、半年ほどが経つ。女性活躍を応援するメンバーを待っているという広報誌の紙面に心躍り、代表のかすみさんに連絡をして、温かく迎え入れてもらった。私の周りには、パートナーの転勤、子育てなど家族の事情でキャリアを中断した女性が多く、そこから現状打破するのになかなかエネルギーと時間を要するという点に課題を感じていた。そんな私にとって、来音は、なぜだか本音が言える場所である。かすみさんをはじめ、メンバーの方々のお人柄や開かれた姿勢が私の気持ちを解放してくれる。出会って間もないかすみさんに、子育てや仕事、夢などについて聞いていただき、泣いてしまった私。この心理的な安全性の高さこそが、来音の魅力の一つであるように思う。


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父は大学卒業後、トヨタで働いていました。田舎には帰りたくなかったのでしょう。母和子は神戸の地主の娘で、ねえやに育てらたわがまま娘でしたが、遊び半分で東京で働いていたところ父と出会い、二人は家庭を持ちました。好景気に支えられ、二人の生活はそれなりに楽しかったと聞きます。しかし、二人は1960年ごろ父繁登に呼び戻されます。繁登の開いた蔵田呉服店が忙しくなったのかもしれません。お嬢様育ちだったため、母は料理も家事もできません。髪も自分で洗えない。定期的に鍋島美容院に通っていました。しかし、ここで母は商売人として目覚めるのです。放漫経営だった呉服店の売掛金の回収に奔走し、ぐんぐんと売り上げを伸ばしていきます。義理の妹や弟がいた家庭で、おんば日傘で育った母はどんな思いで過ごしたのでしょう。かすみがその頃生まれるのですが、母はやっぱり料理は作れません。気がつくとお手伝いさんが家に入り、母はいつも自宅兼お店でお客様対応していました。だから、私のおふくろの味はお手伝いさんと酒飲みの父の酒の肴でした。


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初代の藏田繁登と妻のはるみについて京染店を始めた二人は、昼夜を分たず働きました。お店は現在のJR西条駅のすぐそば。お店は繁盛して、東広島市志和地区にも支店を持っていたようです。この写真は1950年頃でしょうか。お客様の笑顔を見てください。農作業の合間に集う女性たちのおしゃべりが聞こえるようです。ここにいる間だけは、お茶を飲みながらおしゃれの喜びを味わっていたのでしょうか。お客様に喜びや苦労に寄り添うこと。藏田呉服店のこだわりでした。藏田はるみについて書きます。女性相手のお商売ですから、繁登には色々あったようです。はるみだけが働き詰めでした。お客さんの対応、家事と育児を一気に引き受けていました。嫁としての務めにも苦労したようです。しかし、はるみには夢がありました。それは子どもたちに良い教育を受けさせること。より良い人生を選ぶ可能性を子に渡すこと。資産もなく、楽しみも持てない毎日ですが、はるみは中高から子どもたちを市外に出し、最高の教育を受けさせます。近所や親戚から何しようるんか…という声もあったでしょう。教育は最も回収率の高い先行投資。二代目父へ。そして三代目私へ。私が今この仕事を始めるのも、はるみの先見性あってのことです。