「きょうだい児」って、あまり知られていないことを、前回お伝えしました。便宜上、「きょうだい児」という言葉を「」で括って、そう呼んでいます。でも、それは決して、「特別な子どもたち」という意味ではないと、わたしは思っています。「どうして?」「なんで、うちだけ?」受け止めきれない気持ちがわいてくるのは、当然のこと。そんななかで子どもたちは、純粋に、必死に、自分たちの置かれている環境を受け止め、その環境に順応しようとします。ー長女の再発で、県外の病院への付き添い入院が決まったのは、次女が小学校に上がって初めての夏休みを迎える、直前のことでした。夏休みに入ったら、友だちの家族と一緒にプールに行く約束をしていて、それを次女は、とても楽しみにしていました。「一緒に行くって約束したやん!!」「なんでなん?!」そうして泣いて、喚く次女の声を、わたしは病棟の片隅で、スマホ越しに聞いていました。一刻も早く治療を始めなければならない状況にあり、「一緒に行けなくなった」ことを納得してもらう余裕もないまま、わたしは家を離れました。こういうことが、容赦なく何度も訪れました。お互いにどうにもできないこと。誰のせいにもできないこと。それを繰り返していくうちに、子どもが「聞き分けのいい子」になったように見えることがあります。でも、それは本当に、「わかってくれた」のでしょうか。もしかしたら、「わかってあげなきゃ」と、子どもなりに必死に自分の気持ちをしまっているだけなのかもしれません。家庭の事情を話せないような場所。話したくないと感じる場所。そんなところでは、この「聞き分けのいい子」で過ごしていることが、往々にしてあるんじゃないかと思います。こんなとき、どんな言葉をかけてもらったら。どんな場所があったら。どんなふうに接してもらえたら。「あ。わたしのこと、わかってくれてる!」そう思えるんでしょうか。いまだにわたしは、模索しています。




