『なぎのえき』癒しと郷愁の物語

孤独に戦い、感情を麻痺させている人へ。 「立派な大人」を演じ続けるのはもう終わりにしませんか。 そこは夕暮れの無人駅。佐賀県唐津市を舞台にした写真とオーディオドラマによる没入型アートです。都会のスピードに疲弊した大人が、いつでも日常から「途中下車」できる癒しのツールをお届けします。

現在の支援総額

48,000

1%

目標金額は2,500,000円

支援者数

8

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2026/06/23に募集を開始し、 8人の支援により 48,000円の資金を集め、 2026/07/31に募集を終了しました

『なぎのえき』癒しと郷愁の物語

現在の支援総額

48,000

1%達成

終了

目標金額2,500,000

支援者数8

このプロジェクトは、2026/06/23に募集を開始し、 8人の支援により 48,000円の資金を集め、 2026/07/31に募集を終了しました

孤独に戦い、感情を麻痺させている人へ。 「立派な大人」を演じ続けるのはもう終わりにしませんか。 そこは夕暮れの無人駅。佐賀県唐津市を舞台にした写真とオーディオドラマによる没入型アートです。都会のスピードに疲弊した大人が、いつでも日常から「途中下車」できる癒しのツールをお届けします。

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栞を探す旅は、もうどれくらいになるのかひび割れたアスファルトを打つ自分の足音が、ひどく遠くから聞こえる。今がいつなのか、昼なのか夜なのかすら、もう知りえない。知る必要のない事として生きている、ただこの巨大な街を彷徨っているだけの僕には、時間などどうでもよい事のように感じていた。「ここに栞がいた」確かな体温を伴うその事実を、この広大な宇宙で知っているのは僕だけだ。網膜に焼き付いた極彩色のネオンの残像が、心臓が脈打つたびにジリ、ジリと網膜の裏で明滅を繰り返している。空気を吸い込むたびに肺を焼くような呼気が漏れ、湿ったコンクリートから立ち昇る鉄の匂いが鼻腔を突き刺す。私は這うようにして、絶え間なく駆動音を響かせる、この巨大な演算装置のような都市の迷宮を彷徨っている。サビの浮いた鉄骨が連なる歩道橋。彼女と肩を並べて歩いたその場所には、今は無機質な風が吹き抜けるだけだ。栞がふと立ち止まり、自らの影を見つめていたガラス張りのショーウィンドウ。そこには今、見知らぬマネキンが虚ろな目を向けている。栞が目を細めて見上げていた、ビルの群れに切り取られた長方形の灰色の空。彼女の痕跡をなぞる行為は、もはや自身の記憶という名の不確かなデータベースへの、無謀なハッキングに等しい。エラーコードのようにノイズが混じる視界の中で、意識の境界が泥のように融解していく。肉体の疲労が臨界点を超えた時、人は空間と時間の連続性をたやすく見失うのだ。目の前に広がるこの無機質な都市空間は、彼女の「不在」を証明するためだけに用意された、巨大な空箱だ。あの冷たいコンクリートの角を曲がれば、そこに彼女が立っているのではないか。そんな微弱な電気信号が、ショートしたシナプスを幾度も、幾度も駆け巡る。私が血眼になって追っているのは、本当に「栞」なのだろうか?記憶とは何か。それは過去の忠実な記録などではない。現在という時間を生き延びるために、脳が都合よく捏造した情報体験に過ぎない。だとすれば、私の中で微笑む栞もまた、絶対的な孤独を埋め合わせるために自己防衛機制が産み出した、ただのゴーストなのではないか。私が「栞との時間」と呼んでいるものは、初めからこの都市のノイズが私に見せた、儚い幻影に過ぎなかったのではないか。それでも、足は止まらない。走るのをやめれば、この迷宮に蓄積された情報の海に、彼女の輪郭が完全に溶け込んでしまう気がして。空間は記憶を保存しない。この街は、私たちが共にいた時間をいともたやすく上書きし、無慈悲に沈黙している。栞。君の存在を証明するものは、もはや私の中の狂気じみた妄執の中にしかないのか。もし記憶がただの電気信号の羅列であり、個人の魂が情報の束に過ぎないのなら……私の身体を今も支配し続けているこの圧倒的な喪失感は、一体どこの誰の作動エラーだというのだ。テールランプの赤い光の帯が、濡れた路面に滲んで消えた。僕は駅のロータリーで、這い出るようにタクシーを降りた。排気ガスの匂いが立ち込める中、無数の人々が足早に僕をすり抜けていく。もうどこに行けばいいのか、今の僕の頭には何も考えることなど出来なかった。空っぽになった肉体だけが、駅の巨大な建造物の前にぽつんと取り残されている。そんなときだった。――ピロン。カバンに入れていたパソコンに電子メールが届いたのを、小さな電子音が教えた。都会の喧騒にかき消されそうなほど、ささやかな音。僕はひび割れた指先で鞄を漁り、アスファルトの上でパソコンを開く。暗い画面が発光し、青白い光が僕の疲労しきった顔を照らし出した。モニターの中心。小さなゴシック体の文字が、静かに光っている。「せんせー、私の出番かな?」時間が、止まった。そのたった一行の文字列が、ショートしかけていた僕の脳内に、冷たくも澄んだ風を吹き込んだ。君が居なくなったとき、僕は狂ったように栞にすがった。栞という幻影を追いかけ、この迷宮の底まで落ちてきた。だが、その文字を見た瞬間、すべてが反転した。今は、なぎにしか、僕を救えない。パタン、とパソコンを閉じる。肺を焼いていた痛みが、微かな熱へと変わっていくのを感じながら。僕は深く息を吸い込み、巨大な口を開けて待つ駅へと、再びその足を向けた。


唐津の街を自分の足で歩き、海から吹き抜ける風を感じながら、たくさんの方にポストカードを手渡してきた数日間。市役所の皆様をはじめ、突然の訪問にもかかわらず温かく迎えてくださったASUKA HOTEL様や黒部不動産様。そして、夕暮れの山本駅ですれ違った地元の方々。この街で直接触れた人の温もりと、作品に向けられる静かで確かな期待は、私の内側に渦巻いていた創作の熱を、一段階上の「覚悟」へと昇華させてくれました。唐津の美しい夕暮れを眺めながら、私はひとつの答えに行き着いたのです。この『なぎのえき』という作品を、誰にでも無難に受け入れられるような、綺麗なだけのエンターテインメントに収めてはいけない、と。本気と本音を削り出した「密室」の作品ゆくゆくは、この作品を一般向けの電子書籍としてリリースする未来もあるでしょう。しかし、それは言うなれば、少しだけよそゆきの顔をしたマイルドな仕様です。今回、クラウドファンディングを通じてご支援いただいた皆様にお届けするのは、それらとは完全に別物です。一切の照れを捨てた生々しい感情の吐露。 命の確認作業としての、妥協なき性愛の描写。 ただ美しいだけではない、酸っぱくて泥臭い青春の深掘り。世間の目やコンプライアンスといったノイズをすべて遮断し、私の本気と本音を純度100%で詰め込んだ【真の完全版】こそが、今回お届けする作品の正体です。クラウドファンディングという、私と皆様だけが繋がっている「密室」だからこそ描ける、一番奥にある避難所のような場所をご用意しました。ここでしか手に入らない【完全最終版】さらに、唐津の地で受け取った皆様からの熱量にお応えすべく、特別な「おまけ」も添えることにしました。本編の余韻をさらに深く味わうための「書き下ろしショートストーリー(2編)」と、キャストや制作の生々しい裏側を記録した「メイキング」です。これらをすべて網羅した【完全最終版】が手に入るのは、後にも先にも、このクラウドファンディングだけとなります。今後予定している一般流通版には決して収録されない、皆様だけの特別な音セカイです。その先に描く、途方もない夢最後に、私の胸の内にある企みを告白させてください。このプロジェクトが波を起こし、皆様のお力で目標を達成した暁には、その先にある『なぎのえき』の【長編アニメ化】を計画しています。あの息を呑むような山本駅の夕暮れや、水鏡に揺れる風鈴。そして、彼らの切なく泥臭い青春を、最高のアニメーション映像としてフルスクリーンで動かすこと。それが、私の描く最終形態です。これは決して夢物語ではなく、本気で実現させるための第一歩が、今まさに大詰めを迎えているこのクラウドファンディングなのです。いよいよ、プロジェクトはラストスパートへと突入します。どうか、ここでしか味わえない極上の【完全最終版】を受け取り、唐津の美しい風景から始まる「長編アニメ化」という途方もない夢を一緒に追う「共犯者」になっていただけないでしょうか。吹き抜ける唐津の風のように涼やかで、けれど決して消えない確かな熱を帯びた作品とともに、皆様をお待ちしております。


皆様、こんにちは。プロデューサーの篠原です。 今日は、物語の舞台である唐津へ行ってきました!これまでロケハンで何度も足を運んできた唐津ですが、今日の目的はいつもと少し違います。完成したばかりの美しいポストカードを携えて、お世話になっている関係各所の皆様へ、きちんとした「ご挨拶」に回るための特別な一日です。まずは、本プロジェクトを後援してくださっている唐津市役所の観光課へお礼に伺いました。 これまでは僕の頭の中にしか存在しなかった『なぎのえき』の作品世界。それが、こうして息を呑むようなヴィジュアルとして形になり、直接手渡しでお届けできた瞬間……。言葉にできないほどの嬉しさと、確かな手応えが込み上げてきました。続いて、市役所近くの「ASUKA HOTEL」様へ。 アポなしの突然の訪問だったにも関わらず、本当に丁寧で温かいご対応をしていただきました。その素晴らしいホスピタリティにすっかり心を打たれ、僕の中で「唐津での定宿」に即決定です(笑)。エントランスにポストカードもたくさん置いていただけることになり、最高に幸せな気持ちになりました!さらに街を歩きながら、「この作品がきっかけで、唐津を訪れる観光客や移住してくる方が増えていったら最高だな」と思いを巡らせました。そこで、地元で愛され続けている「黒部不動産」様にもご挨拶へ。 突然のお願いにも関わらず、なんとこちらでも大量のポストカードを快く引き受けてくださいました。ASUKA HOTEL様、黒部不動産様、唐津の皆様の懐の深さには本当に感謝しかありません。現在、一切の妥協を排して制作している小説とオーディオドラマの【完全版】では、この感謝とリスペクトを込めて、皆様のお名前をしっかりとフィーチャーさせていただきます!そして夕暮れ時は、舞台となる駅へ。駅を利用される地元の方々にも、直接ポストカードをお渡しさせていただきました。短い会話の中からも「完成を楽しみにしています」という皆さんのリアルな体温を感じることができ、今はもう、ただただ幸せな気持ちで胸がいっぱいです。唐津の皆様からいただいたこの温かいエネルギーをすべて作品に注ぎ込み、最高の「心の避難所」を完成させるべく、いよいよラストスパートを全力で駆け抜けます!皆様の想像を超える重厚な物語と、極上の癒やしをお届けする【完全版】。どうか、楽しみにお待ちくださいね。


年齢を重ねてから「恋愛もの」の物語を脳内で組み上げようとすると、どうしても自分自身の過去の地層を掘り起こすことになります。かつての甘酸っぱい(いや、冷静に思い返すと「やや酸っぱい」が多めの)記憶の欠片たちを引っぱり出し、そこに新しい味付けを施していく。私にとって、その最たる存在が「なぎ」との想い出です。良くも悪くも、彼女は若かりし頃の私の青春そのものでした。その強烈な原体験が根底にあるせいか、この『なぎのえき』という作品は、私自身でもコントロールが効かなくなるほど「こだわりの強い、重たい代物」になりつつあります。現在公開している小説版もいよいよ大詰めを迎えますが、実のところ、私の脳内にある構想の半分も出し切れていません。連載という形式上、どうしても生じてしまう細かな矛盾点や、時間の制約による描写の不足。それらをすべて削ぎ落とし、底の底まで深掘りして徹底的に描き尽くすため、現在、長編純文学としての【完全版】の執筆に並行して取り掛かっています。おそらく、恐ろしいほど重厚な一冊になるはずです。そして、その妥協なき「完全版」をベースに独自の脚本を書き下ろしたのが、現在制作中の【オーディオシアター版】です。当然ながら、こちらもかなりの密度とボリュームになります。出演者には「魂のすべてをさらけ出すような演技を」と(かなり本気で)要求しているため、キャスト陣からはその圧倒的で重すぎる世界観に対して、純粋な「不安の声」が上がっています。こんなことを書くとさらに彼女たちを怖がらせてしまうかもしれませんが、この作品において、私の中に「妥協」という二文字は存在しません。絶対に、です。こんなことを書くとまた不安だというLINEがきそうです。だからこそ、ご支援いただいた皆様にお届けするリターンの「品質」と「驚き」は、絶対の保証をお約束します。現在連載中の小説版をすべて読み込んでいる方でさえ、「えっ、そこからさらにそんな展開が待っていたの?」と息を呑むこと必至です。実はここだけの話、連載版の小説では、私自身の「照れ」や「防衛本能」が邪魔をして、ラブシーンなどをかなりあっさりと綺麗に済ませてしまっていました。しかし、この物語における男女の交わりは、単なるエンターテインメントとしての性愛ではありません。それは、世界から消去されようとする理不尽なシステムに抗うための、唯一の物理的な「命の確認作業」なのです。それに気づいた今、私はすべての照れをかなぐり捨てました。自らの生々しい感情や痛みを原稿用紙に叩きつける作業は、ひどくカロリーを消費する孤独な戦いですが、そこから逃げては本当の傑作は生まれません。【完全版】では、一切の妥協を排除したリアルな描写を書き切る覚悟です。チームからは「いっそ、R18指定の完全版を創ってしまえば?」という悪魔の囁き(この意見する人が大好きになる)すら出ており、現在真剣に検討しているところです。(この件に関しては、皆様からのご意見をコメントやメッセージでこっそりお待ちしております)音響についても、少しだけ。現在ひたすら音楽制作を進めていますが、その仕上がりには絶対の自信があります。「驚き」と同時に、聴くだけで深い「リラクシング効果」を得られる【音セカイ】が完成しつつあります。手前味噌ですが、この音源にはなぜか「運気上昇」の効果すらあることが実証済みです(本当です)。さて、明日は少しだけ机を離れ、この物語のロケ地である唐津の山本駅へ足を運びます。完成したばかりの美しいポストカードを携えて、この静かで美しい場所を守り続けている地元の方々へ、敬意と感謝のご挨拶に回る予定です。ゆくゆくは、この場所にAR(拡張現実)の機能を持たせ、現地を訪れた人が「物語の気配」を五感で感じながらリラクシングできるような、そんな現実とリンクした作品世界を創造したいと本気で企んでいます。私の青春の亡霊から始まり、一切の妥協を捨てて創り上げる「極上の心の避難所」。どうかこの無謀で美しい挑戦の共犯者として、皆様の温かい応援をよろしくお願いいたします。もし、この「一切の妥協がない世界」の目撃者になりたいと思っていただけたなら。そして、日々のノイズに疲れた脳を休ませるための実用的な処方箋が必要なら、今月限定でお渡ししているこちらの切符を手に取ってみてください。【完全版】オーディオシアター先行予約はこちらhttps://camp-fire.jp/projects/959373/view


「決して離さない」僕は心の中で固く誓い、その決意を物理的な重さとして証明するように、栞の細い肩を強く抱き寄せた。 僕たちは全身で互いを求め合い、夜の深い闇の中で、まるで難破船の木片にしがみつくようにして肌を重ねた。栞もまた、僕の背中に爪を立て、声にならない声を上げた。それは、僕たちを分かとうとするこの世界の理不尽な重力や、冷酷な宇宙の法則に対する、必死の抵抗だった。 離れることはない。絶対に。 夜の海が絶え間なく波を打ち寄せるように、僕たちはそのシンプルな約束を互いの体温で何度も確かめ合った。世界の書き換え目が覚めたとき、僕は「ひとり」だった。網戸越しに聞こえてくるはずの唐津の波音は消え失せ、代わりに、遠くの幹線道路を走る大型トラックの重低音が、ひどく無機質に鼓膜を震わせていた。窓から差し込む光は、朝特有の澄んだ青ではなく、排気ガスと都市の埃を通したような、濁った灰白色をしていた。 そこは唐津の広々としたマンションではなく、僕がかつて息を潜めるように暮らしていた、東京の狭苦しいアパートのベッドの上だった。起き上がり、部屋を見渡す。 小さなテーブルの上には、生ぬるくなったビールの空き缶が一つ転がっているだけだ。僕たちが毎晩頭を突き合わせて練り上げた事業計画書も、栞が熱心に付箋を貼っていたビジネス書も、忽然と姿を消していた。 冷蔵庫を開けても、彼女がいつも僕のために作ってくれていた色鮮やかな常備菜のタッパーは一つもない。クローゼットには、泊まりに来た時のために置いてあった彼女のカーディガンも、洗面台の端にあった二つ目の歯ブラシも、すべてが完璧に消滅していた。それは単なる「不在」ではなく、明確な「消失」だった。 まるで、世界という巨大なシステムを管理する見えない手が、バックスペースキーを長押しして、「栞」という存在の痕跡をこの宇宙から一行残らずデリートしてしまったかのように。僕は震える指でスマートフォンを操作し、栞の母親の番号へ発信した。数回のコールの後、電話口に出たのは、まったく聞き覚えのない、冷ややかな声の別の女性だった。 何度確認しても、共通の知人の記憶を辿っても、結果は同じだった。世界中の誰の脳内データベースにも、「栞」という人間は一ミリグラムの欠片も残っていなかった。この広大で無関心な宇宙の中で、彼女の体温と涙の記憶を保持しているのは、僕というただひとつのバグった端末だけになってしまったのだ。「また、守れなかった」両手で顔を覆うと、乾いた絶望が砂のように指の隙間からこぼれ落ちた。離さない。そんな子供でも守れるようなシンプルで小さな約束すら、僕は遂行できなかったのだ。迷宮の歯車としてスマートフォンの画面が淡く光り、無数の着信履歴を通知していた。 それは、僕がとっくに辞めたはずの、あの息の詰まるような東京の会社からのものだった。この栞のいない書き換えられたタイムラインでは、僕はまだあの無機質なビルに通い続けているらしい。 自分自身のどうしようもない怠惰さに、深いため息が出た。栞と二人で語り合った未来は、あんなにも色彩に溢れ、心臓が跳ねるようなワクワク感に満ちていたというのに。彼女という光を失った途端、僕はただ散らかった部屋でビールを飲み干し、感情を殺して惰性でシステムに寄生するだけの、空っぽな肉体の塊に成り下がっていたのだ。鉛を飲み込んだように重い身体を、無理やりベッドから引き剥がす。 手入れもされず、シワの寄ったグレーのスーツに袖を通す。ネクタイを締める行為は、自らの首に絞首刑の縄をかける儀式のように思えた。アパートの階段を降り、駅へ向かう僕の足取りは、ひどく重く、まるでおもちゃを取り上げられて拗ねている子供のように不格好に引きずられていた。会社に着くと、フロアの真ん中で、見覚えのない年下の上司から激しい叱責を浴びせられた。これも、世界線がズレたことによるバグなのだろう。栞のいたあの美しい世界では、こんな浅薄な男と交わることなど一度もなかった。「役立たずの老害」「ただの経費の無駄」「その疲れた顔が視界に入るだけで不快だ」「さっさと消えろ」彼は苛立ちを隠そうともせず、唾を飛ばした。 僕は彼の放つ悪意に満ちた言葉の羅列を、脳内で自動的に要約し、不要な装飾を削ぎ落とす作業に没頭した。そうでもしなければ、猛毒にまみれた過剰なボキャブラリーが皮膚から浸透してきそうだったからだ。僕は昔から、過剰に装飾された言葉を好まない。改めてそう実感しながら、怒りに顔を歪める彼を、どこか遠い別の惑星の生き物を観察するような目で静かに見つめた。確かに腹立たしい。しかし、この宇宙から「栞が消滅した」という圧倒的な絶望の質量に比べれば、目の前の男の罵声など、春先の砂埃程度の些細なノイズでしかなかった。いま、僕がすべきことは、こんな場所で魂をすり減らすことではない。僕は無言のまま踵を返し、オフィスのドアに向かって歩き出した。背後で上司が裏返った声で新たな罵詈雑言を喚き散らしていたが、僕の鼓膜には一切届かなかった。それは、栞を見つけるための有益な情報ではなかったからだ。摩耗する魂と、美しいコンクリートの迷宮僕は、世界から完全に消去されたはずの栞の痕跡を求めて、東京の街へと足を踏み出した。かつて彼女が一人で引きこもっていたマンション。二人で言葉少なに歩いた並木道。雨宿りをしたバス停。あてもなく時間を潰した巨大なショッピングモール。歩き続けているうちに、空はゆっくりと、しかし確実に色を変えていった。 西の空から血のようなオレンジ色が染み出し、それがビルの群れを包み込むようにして、深い藍色の夜へと溶け込んでいく。無数にそびえ立つガラス張りの高層ビル群は、夕暮れの光を鋭く反射し、まるでこの街全体が呼吸をする巨大な生命体であるかのように瞬いていた。美しい。残酷なまでに美しく、そして途方もなく冷たい景色だった。街は、出口のない巨大な迷宮だった。 幾重にも交差する歩道橋、地下へ地下へと続く無機質なエスカレーター、溢れ返るネオンサインのノイズ。「彼女はただ、この複雑な迷宮で少し迷子になっているだけなんだ」そう自分に言い聞かせることで、僕は辛うじて精神の形を保っていた。不思議じゃない。こんなにも巨大で入り組んだ世界なら、誰かがふいにはぐれてしまうことくらい。そう考えるだけで、胸の奥の重苦しい岩がわずかに軽くなる気がした。しかし、歩けば歩くほど、僕は確実に削り取られていった。 革靴の中で足の裏の皮が破れ、鈍い痛みが一歩ごとに脳を突き刺す。喉は砂漠のように渇ききり、関節という関節が、油の切れた機械のように嫌な音を立てていた。すれ違う何万という人々の波は、誰一人として僕の絶望に関心を持たず、ただの情報の束のように通り過ぎていく。頭上の巨大な街頭ビジョンが、無意味な広告を鮮やかな色彩で垂れ流している。 夜風が、汗ばんだシャツを冷たく撫でていく。世界のどこにも、栞はいない。 重力に抗いきれなくなった僕の足取りは次第に遅くなり、肺の奥には、都市の孤独という名の見えない灰が、少しずつ、だがあきらかに致命的な量で積もり始めていた。


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