『なぎのえき』癒しと郷愁の物語

孤独に戦い、感情を麻痺させている人へ。 「立派な大人」を演じ続けるのはもう終わりにしませんか。 そこは夕暮れの無人駅。佐賀県唐津市を舞台にした写真とオーディオドラマによる没入型アートです。都会のスピードに疲弊した大人が、いつでも日常から「途中下車」できる癒しのツールをお届けします。

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孤独に戦い、感情を麻痺させている人へ。 「立派な大人」を演じ続けるのはもう終わりにしませんか。 そこは夕暮れの無人駅。佐賀県唐津市を舞台にした写真とオーディオドラマによる没入型アートです。都会のスピードに疲弊した大人が、いつでも日常から「途中下車」できる癒しのツールをお届けします。

「気が重い」という言葉が、これほどまでに鮮やかに——もちろんそこに色彩などないのだけれど——物理的な重さを持って自分の胸を締め付けるとは思いもしなかった。意を決して、僕は駅に向かう。今日はなぎに会うためじゃない。東京に戻るのだ。ずっと休職していた会社を、正式に退職するために。 なぎの幻影がいない、つまり誰一人としていない無人駅は、僕を励ますことも、叱責することもなく、ただ淡々とした時間をやり過ごすための背景としてそこに在った。僕は錆びた金属音を響かせる2両編成の電車に乗った。空港までどれくらいかかるのか。時間には、たっぷりと余裕を持たせてある。分刻みのスケジュールに追われ、常に焦燥感に急き立てられていた都会での生活は、僕の魂に「行動には常にバッファを持たせなければならない」という強迫観念めいた癖を植え付けていた。ガタガタと揺れる車窓から、夏の濃い緑をぼんやりと眺めながら、僕は頭の中で何度も退職届を提出するシミュレーションを繰り返した。係長という肩書きをもらってから、初めて会社に対して自分の「明確な意思」を見せる瞬間だ。胃の奥が冷たく軋む。空港に着いても、搭乗時刻まではまだかなりの時間があった。僕は出発ロビーの巨大なガラス窓の前に立ち、陽炎を揺らして滑走路を飛び立っていく銀色の機体を見つめていた。 数年前、栞と一緒にこの街へ帰ってきたときは、あんなにも胸がわくわくしていたのに。同じ場所に立っているというのに、今の僕の足取りは鉛のように重い。会社のことと同じ比重で、あるいはそれ以上に僕の頭を占めていたのは、栞のことだった。 僕たちはあの息の詰まるような大都会で、二人きりで身を寄せ合い、互いを支え合って生きてきた。栞が社会の波にすり減り、ひどく塞ぎ込んでしまったときは、僕が彼女を支えた。そうやって長い夜を共に乗り越え、栞は少しずつかつての凛とした明るさを取り戻し、見事に会社へと復帰を果たした。 それなのに、僕は今、会社を去ろうとしている。栞はすごいな、と純粋に思う。それに比べて僕は、どこで歯車を掛け違えてしまったのだろう。*東京に着き、羽田からモノレールと電車を乗り継いで、直接会社へと向かう。 駅を降りてスクランブル交差点に出ると、巨大なビジョンから降り注ぐ人工的な光と音の洪水が僕を飲み込んだ。アスファルトの強烈な照り返しの中、人々は皆一様に、活気というよりも「から元気」のようなギリギリの熱量を纏いながら、足早にすれ違っていく。その圧倒的な速度に、僕の歩調までもが無意識のうちに焦らされる。久しぶりに足を踏み入れたオフィスは、相変わらず無機質で、冷たい空調の風が吹き抜けていた。 とはいえ、誰一人として僕に声をかけてくる者はいない。無理もない。疲れ果てて「休職」に逃げ込んだ係長なんて、今の彼らにとっては触れてはいけない「腫れ物」以外の何物でもないのだから。みんな、自分の仕事(日常)を守るために必死なのだ。あっけないものだった。 拍子抜けするほどに、退職の手続きはスムーズに終わってしまった。人事部の小さな会議室で、いくつかの書類にサインをし、事務的な説明を受けただけ。一時期は本気で退職代行サービスの利用を調べ、あんなにも僕の生活を黒く侵食していた巨大な悩みは、ものの十五分で紙切れと共に終了した。ビルを出て、見上げるほど高いガラス張りの壁面を振り返る。「……僕って、その程度の存在だったんだな」 引き継ぎの心配すらされなかった。社会という巨大な機構の中で、僕という歯車一つが欠けても、世界は何の滞りもなく完璧に回り続ける。再びスクランブル交差点に戻ってきたときには、日はすでに傾き、ビル群の谷間に強烈なオレンジ色の西日が差し込んでいた。 信号が青に変わり、膨大な数の人々がそれぞれの「目的地」へと一斉に歩き出す。僕はそのうねりの真ん中で、まるで足元から根を張られたように立ち尽くしていた。「何者でもない僕」になって、呆然と。 次から次へと、サラリーマンや学生たちが僕の肩の横をすり抜けていく。そのうち、誰の肩も僕にぶつからなくなったことに気がついた。群衆が、まるで水流が岩を避けるように僕を透過していく。 西日が僕の身体を通り抜けて、アスファルトに影を落とさないような感覚。僕という「生きた人間」の輪郭がひどく薄れ、世界から切り離されていく。 ……ああ、そうか。僕は今、あの無人駅にいるなぎと全く同じ「幽霊」になってしまったんだ。猛烈な恐怖と孤独が襲ってきた。誰かに触れてほしかった。僕がここにいるという証明がほしかった。僕は無意識のうちに、逃げるように走り出していた。栞の待つ、あのマンションへ。僕の最後の救い(サンクチュアリ)へと。*玄関のドアを開けると、仕事で遅いはずの栞の靴が綺麗に並べられていた。 廊下には、彼女の纏う甘く清潔な柔軟剤の香りと、温かい料理の匂いが満ちている。「おかえりなさい」リビングの扉を開けると、エプロン姿の栞が、夕陽に染まる部屋の中で完璧な微笑みを浮かべて立っていた。「栞、仕事は……」 「今日は早退させてもらったの。大切な日だから」彼女はそう言うと、ふわりと近づき、僕の首に腕を回して深く抱きしめた。彼女の確かな体温と鼓動が、幽霊になりかけていた僕の身体に、再び生きた血液を注ぎ込んでいく。「お疲れ様」栞は僕の耳元で、甘く、そしてどこか陶酔したような声で囁いた。「……これでやっと、私だけのものだね」その言葉の響きに一瞬だけ奇妙な違和感を覚えたが、僕は彼女の背中に腕を回し返した「……うん。でも、拍子抜けだったよ。引き継ぎもなく、あっさりと終わってしまった。僕なんて、いてもいなくても同じだったんだ」僕が自嘲気味にこぼすと、栞は全く驚く様子もなく、むしろ心底嬉しそうに目を細めた。 「当然よ。あんな会社、あなたの本当の価値なんてわかってないんだから。さあ、手を洗ってきて。退職のお祝い、作って待ってたの」食卓を見て、僕は息を呑んだ。 そこにあったのは、丁寧に形作られたオムライスと、トマトのサラダ、それにポタージュスープ。 それは、高校の文化祭の打ち上げの夜——僕となぎと栞の、あの完璧だったトライアングルが壊れる直前に、三人で食べたファミレスのメニューと、寸分違わぬ構成だった。「味も、あの時の思い出の通りに再現してみたの。どうかな?」僕を見つめる栞の瞳には、一切の淀みがない。 あの破滅に向かう直前の、一番美しかった過去の記憶を、彼女は今、この東京の密室で完璧に固定(パッケージ)しようとしているのだ。「これからは、私がずっと面倒を見てあげるからね。あなたは何処にも行かなくていい。私が、全部守ってあげる」僕の頬に手を添える栞の優しさは、圧倒的で、暴力的で、まるで真綿でゆっくりと首を絞められるような息苦しさを伴っていた。けれど同時に、何者でもなくなった僕を肯定してくれる、世界で唯一の絶対的な聖域(サンクチュアリ)でもあった。 僕は胃の奥に冷たい氷を飲み込んだような感覚を覚えながらも、「ありがとう、栞」と笑い返した。僕にはもう、彼女のこの美しく狂気めいた愛に溺れるしか、生きる道は残されていないのだ。栞がスープを温め直すためにキッチンへ向かった隙に、僕は脱ぎ捨てたジャケットをハンガーに掛けようとした。 その時、ポケットの中に、指先をザラリと擦る異物感があった。手を入れて、引き出す。 それは、あるはずのないものだった。 あの冬の夜、なぎが不格好に編んで僕の首に巻いてくれた、あの毛糸のマフラーの切れ端。エアコンの冷たい風に揺れるその赤い毛糸から、むせ返るような冬の海の匂いが立ち上り、僕の幽霊のような輪郭を、静かに、そして確実に侵食し始めていた。


雲ひとつない初夏の空が、ゆっくりと淡い茜色に溶け始めていた。昼間の熱気をたっぷりと吸い込んだアスファルトを、夕暮れを知らせる涼しい風が、撫でるように静かに冷ましていく。街の輪郭がわずかに優しさを帯び始めた都会の路地裏で、僕はふと足を止めた。剥げかけた掲示板の隅。季節外れの古いポスターが力なくへばりついている。『クリスマス・イルミネーション点灯式』。雨風に晒され、赤と緑のインクはすっかり退色し、ひどく間の抜けた過去の遺物のような顔をしてそこにへばりついていた。その色褪せた文字を見た瞬間、耳鳴りのような都会のノイズがふっと途切れ、代わりに「カン、カン……」という遠い踏切の音が鼓膜を打った。 心地よい、初夏の海風を切り裂いて、あの凍てつくような冬の匂いが、僕の胸の奥を強烈に締め付ける。*時間だけが、ただ残酷に過ぎていく。携帯電話などない時代。待ち合わせの時間は、とうの昔に過ぎていた。 底冷えする夜のプラットホームには、待合室に取り付けられた錆びた暖房の室外機が、ブーンという低く重たいモーター音を単調に響かせている。温風の恩恵は届かず、排気口から吐き出される無機質な唸り声だけが、僕の焦燥感を一定のリズムで煽り続けていた。足元を吹き抜ける冬の風は、見えない氷の刃となって、僕の体温と希望を容赦なく削ぎ落としていく。怒りよりも、得体の知れない不安が、黒い染みのように胸の奥に広がっていった。 何か、事故に巻き込まれたのではないか。 このまま二度と僕の前に姿を現さず、ふっと世界から消え去ってしまうのではないか——。室外機の唸り声と、金属が軋むような風の音だけが支配する孤独なプラットホームで、僕は彼女を「永遠に失ってしまうかもしれない」という恐怖に震えていた。 (それがのちに、取り返しのつかない現実として僕を打ちのめす、最も残酷な伏線であるとも知らずに。)その頃、栞は約束があるわけでもないのに、暖房の効きすぎた自室のベッドでひとり膝を抱えていたという。 窓ガラスにはびっしりと結露が光り、外の冷たい世界を遮断している。 「きっと今頃、二人は……」 彼が誰に会うために出かけていったのか、聞かなくてもわかっていた。行かないでと引き留められなかった自分がひどく恨めしい。嫉妬と焦燥で胸の奥がチリチリと焼け焦げ、誰もいない部屋でポツリと呟いた自分の声は、ひどく醜く響いたそうだ。「……いやな女」と。そんな彼女の孤独な夜を知る由もなく、僕はひたすらに白い息を夜空へ吐き出しながら待っていた。絶望で心が完全に凍りつきそうになった、その時だった。「せんせー、おまたせ」不意に、背後から星の瞬きのような無邪気な声が降ってきた。 振り返ると、頬と鼻の頭を真っ赤にしたなぎが立っていた。遅れたことを悪びれる様子は微塵もない。それでも、彼女の姿を視認した瞬間、僕の内にあった死ぬほどの不安は圧倒的な安堵へと一気に溶け落ち、怒りなど宇宙の彼方へ消え去ってしまった。なぎは一歩近づくと、不格好な毛糸のマフラーを取り出し、僕の首へとぐるぐると巻きつけてきた。 「ほら、あったかい」 なぎは悪戯っぽく笑い、「最後のとこが、うまく編めなくてさ」と少し照れたように付け加えた。 チクチクとした毛糸の奥から、彼女の微かな体温と、甘いようなウールの匂いが僕を包み込む。僕は悟った、僕は、この破格の女の子を失うのが、どうしようもなく怖いのだと。こうして無事に僕の前に現れてくれたこと、それだけで何よりも嬉しい。*……あの日の色褪せたイルミネーションの記憶を、初夏の青葉の匂いが混じる風が連れ去っていく。遠くで鳴るひぐらしの声に回想から引き戻された僕の視線の先には、都会の路地裏ではなく、見慣れた故郷の無人駅のホームがあった。現実の境界線は、すでに曖昧にひしゃげている。 隣のベンチ。僕からは決して侵さない、1.5メートルの距離。そこには、あの冬の日のまま歳をとらない彼女が、燃えるような夏の夕陽を透かして座っていた。「もっと、こっちに来ないの?」 なぎが、少し小首を傾げて尋ねる。「これでいいんだ」と僕は静かに答える。「こうして、君がここにいてくれる。それだけでいいんだ」 僕の答えに、なぎは少しだけ不満そうに唇を尖らせた。その時だった。 茜色に染まるコンクリートのホームに長く伸びた僕たち二人の影が、物理法則を無視して、スルリと動き出した。 肉体は1.5メートルの距離を保ったまま、微動だにしない。なのに、足元の影だけがその絶対的なルールを破り、ゆっくりと距離を縮めていく。僕の影が右手を差し出し、なぎの影がその細い手をとる。 夕陽が照らし出す無音のホームで、二つの黒いシルエットは優雅に、そしてひどく親密に、ホールドを組んで社交ダンスのステップを踏み始めた。 影が交差し、溶け合うたびに、触れていないはずの僕の指先に、彼女の冷たさと確かな存在感が伝わってくる。「楽しい」踊る影の向こうで、なぎはあのクリスマスの夜とまったく同じように、無邪気に笑った。コンクリートの床を滑る影たちのワルツを見つめながら、僕はゆっくりと目を閉じた。 指先に残る微かな痺れと、とうの昔に失われたはずの冷たい体温。胸を締め付けるほどの痛切な喪失感の中で、どうしようもなく愛おしい感情が込み上げてくる。ああ。あのときは、本当に楽しかったな。僕は誰に言うでもなく、茜色の空に向かって、静かにそう呟いていた。


弱っているせいか、ベッドに横たわる栞は普段よりずっと幼く見えた。まるで世界から少しだけ切り離された、小さな女の子のように。「文化祭、ずいぶん大変だったみたいだね」僕が言うと、栞の胸の奥を鋭い痛みが貫いたような気がした。彼女は何も言わず、シーツの中に顔の半分を隠してしまう。 ひょっとして、文化祭のステージ袖でなぎとキスをしたのを、彼女は見てしまったのだろうか? 僕はふとそう推測した。(だとしたら、栞は僕に対して恋愛感情を抱いている?)いや、いくらなんでもそれはないだろう。僕は小さく頭を振って、その考えを意識の隅へと追いやった。「気分は悪くない?」 「お水、飲みたい」 シーツの隙間から、くぐもった声が聞こえた。僕はベッドサイドの小さなテーブルにあった、ミネラルウォーターのペットボトルを手にとった。「はい、これでいい?」 「飲ませて」僕は少しだけギョッとした。キスの感触がまだ唇の端に生々しく残っていたせいかもしれない。無意識のうちに、口が勝手に動いていた。 「口移しで?」次の瞬間、柔らかい枕が僕の顔面に向かって飛んできた。(初めてのキスは、もっとちゃんとした、ロマンティックなものであるべきだ。医療行為の延長線みたいなのは絶対に嫌だ) 栞はシーツの下で頬を熱くしながら、最近読んだラブコメディのライトノベルみたいな展開が現実に起きていることに、ほんの少しだけ胸を躍らせていた。「あれ、食べたいな」栞は、僕がお見舞いに買ってきたフルーツの缶詰を指差した。 「わかった。お皿に盛ってくるよ」 「うんっ」彼女は自分でも驚くくらい、甘ったるくて無防備な声を出した。少し調子に乗りすぎているかもしれない、と彼女は小さく反省した。台所で缶を開け、ガラスの器に移し替えて部屋に戻ると、窓の隙間から傾きかけた秋の夕陽が差し込んでいた。斜めの光線が、シロップにたっぷりと浸かった黄金色の桃やパイナップルを、まるで特別な宝石か何かのようにキラキラと輝かせていた。「ほら、全部食べていいからね」 「……ん」栞は少しモジモジしてから、意を決したように小さく口を開いた。 「あーん」僕は驚いた。いつもは「孤高の優等生」の分厚い殻を被っている彼女が、こんな風にストレートに甘えてくるなんて初めてのことだったからだ。普段の栞なら「早くフォークをちょうだい」と冷たく言い放つはずなのに。「あーーーん」 彼女は急かすように言った。きっと彼女なりに必死に頑張っているのだろう。耳の先まで真っ赤に染まっている。「はい、あーん」 僕はフォークに刺したシロップ漬けの桃を、彼女の小さな唇へとそっと差し出した。栞は小さな鳥のように、パクっとそれを咥え込んだ。甘い果汁が彼女の唇を艶やかに潤す。 可愛いな。素直にそう思った。よし、もう一口。「あーん」 パクっ。なんだか、だんだん楽しくなってきた。 「はいはい、そうやっているとすごく可愛いよ」その言葉に動揺したのか、栞は小さくむせて咳き込んだ。 「大丈夫?」 「……ん。もいっこ」 「慌てなくていいよ。はい」「ありがとう。なんだか、こういうの慣れてるみたいね」栞は桃を飲み込んでから言った。(なぎさんにも、こんなふうにするの?)その言葉が喉元まで出かかったけれど、彼女はそれを冷たいシロップと一緒に飲み込んだ。「ご家族とかにも、してあげるの?」「しないよ」僕は静かに首を振った。「僕には家族はいないから」 「え……」 「ああ、そういえばそういう話、ちゃんとしてなかったかもしれないね」僕は、夕暮れの静かな部屋の中で、自分の母親について話した。彼女が自ら命を絶ったこと。その後、親戚の家をたらい回しにされ、高校に入ってから一人暮らしを始めたこと。母親はいわゆる「夜の仕事」をしていて、客には経営者などが多かったため、そこからの経済的な援助でなんとか生き延びていること。 それらの事実を、僕はまるで遠い別の惑星で起きた出来事であるかのように、淡々と語った。栞はシーツを胸元まで引き上げたまま、じっと僕の顔を見つめていた。 「そうだったんだ……」 「人生を何周もしているわけじゃないからね。他の生き方を経験していない分、これが特別つらいとか、悲しいとか、そういう風には感じなかったな」「家族って、どんな感じ?」 「どんな感じって?」的を射ない質問だった。 「ずっと一人で暮らしていて……もし家に誰かがいたら、どんな感じなのかなって」「それは……たぶん、楽しいんじゃないかな」 「なぎ、とか?」 「なぎ? どうして急に彼女が出てくるの?」 「なんとなく。彼女がいたら、楽しそうかなって」 「楽しいというか、圧倒的に騒がしいだろうね」「そうね」 栞は寂しそうに、少しだけ笑った。 彼女の喉の奥には、(私は?)というひどく切実な言葉が隠されていたけれど、彼女はそれを秋の夕暮れの空気の中に、音もなく弾き飛ばした。


見てはいけないものを、見てしまった。文化祭の喧騒が嘘のように遠のいた、薄暗いステージの袖。埃がスポットライトの光を乱反射して、まるで小さな星屑のように舞う中で。 シンデレラの衣装を纏ったなぎが、彼にキスをしているのを。(見間違いであってほしい) 強く願った。けれど、そんな都合の良い願いにすがる自分が、ひどく醜く、汚く感じられた。 あの雨の日、ひとつの傘の下で肩を寄せ合ったこと。くだらない話で笑い合った放課後。ただ一緒にいるだけで、胸の奥が温かくなるような気がしていた。満たされていたはずのその美しいトライアングルが、音を立てて崩れていく。 いや、違う。本当は、私は彼を独占したかったのだ。ぐるぐると、出口のない思考を繰り返しているうちに、時計の針は深夜を回っていた。開けっ放しの窓から滑り込んでくる秋風はひどく冷たいのに、過熱した私の脳を少しも冷ましてはくれない。 ああ、とても身体がだるい。もう、何も考えたくない。 頭の中を全部取り出して、冷たい水道水で洗い流してしまいたい。そうして、こびりついた記憶ごと消し去ってしまえたら。……なに、この感情。 どろどろとした、黒くて重たいもの。 ……嫉妬してる? ってことは、私は彼が好きなの?ずっと友情だと言い聞かせてきた。気の合う、趣味の近い大切な友人。だからこそ、今の心地よい関係を壊さないように、慎重に境界線を保っていたのに。 ……何故? そうしないと、私が彼を独り占めしたくなるからだ。「なぎよりも、私だけを視て」と、泣き叫んでしまいそうだったから。怖い。こんな自分が怖い。嫌な女だ。 とにかく身体が鉛のように重い。今日はもう、横になろう。 熱い瞼を閉じて、明日になれば。 明日になれば、一体なんだというのだろう……。「……休み?」抜けるような秋の青空の下、なぎはキョトンとした顔で聞き返してきた。 放課後の部室。少し冷たくなった秋の風が、彼女の細い髪をふわりと揺らす。今日は栞が学校を休んだことを、僕はなぎに伝えた。「無遅刻無欠席、健康優良のお手本優等生のしおりんが学校を休むとはねぇ」 なぎは飄々とした口調で言いながら、どこか見透かすような、悪戯っぽい瞳で僕を見た。 「文化祭の疲れが出たんだな。……放課後、ちょっと様子を見てくるよ」 「ふーん。いってらー」 なぎの軽い声が、高く澄んだ秋の空に吸い込まれて消えた。放課後。夕日が街を強烈な茜色に染め上げる頃、僕は初めて栞の家を訪れた。チャイムを鳴らすと、少しして栞の母親が申し訳なさそうにドアを開けてくれた。案内された彼女の部屋の扉をそっと開けると、カーテンが閉め切られた薄暗い空間に、いつもの彼女の——あの甘く清潔な柔軟剤の香りが、じっとりとした熱を帯びて充満していた。「……栞?」ベッドに横たわる彼女は、「孤高」と称される普段の凛とした姿からは想像もつかないほど、ひどく無防備で、幼い顔をしていた。熱のせいか頬は赤く染まり、苦しそうに浅い呼吸を繰り返している。 僕はプリントとノートを机に置き、彼女の眠りを妨げないよう、静かに部屋を出ようと背を向けた。その時だった。弱弱しい力で、しかし確かな服のすそを掴む栞。「・・・・帰らないで」かすれた、消え入りそうな声。 振り返ると、布団から這い出た栞の白い指先が、僕の制服の袖を弱々しく、けれど絶対に離さないという強い意志を持って掴んでいた。熱に潤んだ瞳が、僕を見上げている。 そこには、これまで誰にも見せたことのない圧倒的な「弱さ」と、隠しきれない切実な感情が溢れていた。「栞……」袖を掴む彼女の指先から、火傷しそうなほどの熱が伝わってくる。 なぎの持つ、世界を暴力的に書き換えるような猛毒の引力とは違う。この震える指先は、僕の良心と責任感を根底から揺さぶり、甘く温かい泥沼へと静かに引きずり込む力を持っていた。西日がわずかに開いたカーテンの隙間から差し込み、埃を黄金色に光らせながら、僕たち二人だけの影を床に長く伸ばす。 僕は自分の内側にある残酷さを自覚しながらも、抗うことなどできず、彼女の熱い指に自分の手を重ねた。そして、ベッドの傍らに崩れ落ちるように座り込む。こうして僕たちは、もう二度と元の美しいトライアングルには戻れないのだと、微かに気づきながら。小説『なぎのえき』こちらnoteでも更新しています。この世界観を活字でもお楽しみください。https://note.com/yuurishinohara/m/m928032f188db


小学生の時、母を亡くしました。 僕には父親の記憶がなく、戸籍の欄も空欄でしたから、母は僕にとって「世界のすべて」でした。それは、僕にとっては何でもない、ただ少し退屈な冬休み最後の日でした。 「ちょっと出かけてくるね」 そう声をかけて玄関に向かう母に対し、僕はいつものことだからと、顔を向けることすらなく生返事をしました。それが、母との最後の会話になるとも知らずに。夕方になり、あまりの不在の長さに心細くなっていた頃、ドアのベルが鳴りました。荷物でも届いたのかと扉を開けると、そこに立っていたのは二人の警察官でした。威圧的な制服の姿に完全に萎縮してしまった僕に、警官は言葉を選ぶように、夜の仕事をしていた母の交友関係について尋ねてきました。(当時、母のお客さんが僕の機嫌を取ろうとキャッチボールなどに誘ってくれることがありましたが、読書好きだった僕には少し窮屈で気を遣う時間でした)。 多くを語ることのない母でした(僕も尋ねるような子供ではなかった)から、僕が答えられることはほとんどありません。見事な沈黙の後、僕は促されるままパトカーに乗せられました。近所の人々が何事かと遠巻きに見つめ、同年代の子供から「犯人だ」と心ない言葉を投げかけられる中、僕の心はすでに現実から遊離し始めていました。警察署の片隅で待たされている間、大人たちの口から「血が」とか「現場では」という不穏な単語が断片的に聞こえてきました。やがて、姉のように慕っていた従姉が迎えに来てくれ、「明日は学校を休むから」とだけ告げて、少し高めのレストランへ連れて行ってくれました。もちろん、喉を通るはずもありません。そのまま親戚の家へ連れられ、ひそひそとした噂話と視線を潜り抜けた先で、僕は変わり果てた母と対面しました。「急な病気なのよ」と伯母は言いました。 初めて直面する、一番近しい人の死。どう悲しめばいいのかわからず、感情の回路が完全にショートしてしまった僕は、壊れたロボットのように、ただひたすらにケタケタと笑い続けていました。母の死の本当の理由を、大人たちは僕から隠そうとしましたが、やがて新聞記事を読んだクラスメイトが無邪気な残酷さでそれを教えてくれました。この経験は、僕の命や死に対する考え方の根底に、深く横たわっています。『なぎのえき』のなぎのモデルとなった「彼女」もまた、母親を亡くすという近い境遇を持っていました。だからこそ、その喪失を抱えながら生きる僕に寄り添い、勇気をもらうように傍にいてくれたのだと思います。そうやって「ふたりぼっち」で生きてきた彼女を、僕は突然失いました。それでも続いていく人生と、どう向き合っていくか。 どうしようもない喪失感を抱えながらも、再び歩き出すための「言葉」を届けること。それが僕の使命なのだと感じて、このプロジェクトを立ち上げました。『なぎのえき』は、「人の死」を消費するための安易なエンターテインメントではありません。傷つき、疲れ果てた大人が、ゆっくりと息を吹き返し、再生していくための物語です。そして同時に、この物語は「去り行く人々」へ、きちんと「さよなら」を言うための儀式でもあります。「ちょっと出かけてくる」と言った母の背中を振り返らなかった、あの日の後悔。 大切な時に、彼女と正面から向き合えなかった後悔。それらすべてを精算し、ここから先の未来を新しく創り出すために。 僕は今日も、この物語を紡いでいます。


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