『なぎのえき』癒しと郷愁の物語

孤独に戦い、感情を麻痺させている人へ。 「立派な大人」を演じ続けるのはもう終わりにしませんか。 そこは夕暮れの無人駅。佐賀県唐津市を舞台にした写真とオーディオドラマによる没入型アートです。都会のスピードに疲弊した大人が、いつでも日常から「途中下車」できる癒しのツールをお届けします。

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今回のエピソードを書き終え、最後の句点を打ったとき。私は静かに、けれど深く、肺の底から息を吐き出しました。ああ、これなのだ、と。 私がずっと書きたかったのは、そしてどうしても書かなければならなかったのは、この場面だったのだと、指先が微かに震えるような確信がありました。物語の中で、主人公は栞という確かなあたたかさと、なぎの放つ強烈な幻影によって、一年で迷宮から救い出されます。絶望のガラスは割られ、開け放たれた窓からは圧倒的な光が差し込みました。けれど、本当のことを言えば、現実の私は違ったのです。現実の私は、たったひとりで、あの冷たく息の詰まる鏡張りの迷宮の中に、まる二年間も閉じ込められていました。 誰かが窓を開けてくれることもなく、見えない破片で血を流しながら、永遠のように続く淀んだ時間の中で、ただうずくまっているしかありませんでした。だからでしょうか。今でも毎朝、洗面台の冷たい鏡の前に立つたびに、ふと思ってしまうのです。 この分厚いガラスの向こうから、あの時のなぎのように、誰かが「バーン!」と大きな音を立てて鏡をぶち破ってくれたなら、私はどんなに救われただろうか、と。 ひどく虚ろな自分の顔を見つめながら、あの時どうしても欲しかった光と、誰かに壊してほしかった暗闇の輪郭を、なぞるように思い出してしまうのです。誰も破ってくれなかった永遠の迷宮を、私は「物語」という形を借りて、自分自身の言葉で叩き割る必要があったのかもしれません。 砕け散るガラスの向こうから差し込むファンタジー映画のようなまばゆい光を、他の誰でもない、私自身が一番切実に求めていたのでしょう。この回は、かつての暗闇の中で一人震えていた私自身へ宛てた、祈りのような手紙です。 そして同時に、この残酷で美しい世界の手触りを確認するための、大切な儀式でもありました。どうかこの物語の放つ光が、今もどこかの迷宮で、独り朝の鏡を見つめている誰かの心に、ふわりと届きますように。窓の向こうの青空を信じるための、小さな切符になれますように。森の静寂の中で、私はただ、そんなふうに願っています。


親しい人の死というものに直面するのは、これが初めてではなかった。最初は、母の自死だった。 あの時、僕も、僕を取り巻く世界も、まだ子供だった。子供特有のむき出しの純粋さは、時にひどく鋭利な刃物になる。級友たちは遠巻きにひそひそと噂話に花を咲かせ、新聞の三面記事を読んだという無邪気な少年は、僕の顔を見るなり「お前のかぁちゃん、自殺だってー?」と放った。驚くほどストレートで、痛覚を麻痺させるほどの残酷さだった。それに比べれば、今回は僕も、周りも、すっかり分別のある大人になっていた。 だが、大人という生き物は、時として子供よりずっと薄気味悪い。巧妙な距離感と、「気遣い」という名の分厚い包装紙で包まれた野次馬根性。彼らは遠回しな言葉を使い、僕の「今の気持ち」の裏側を覗き込もうとした。他人の悲劇というものは、安全な対岸から眺めるにはうってつけの、極上のエンターテインメントなのだろう。そういえば、かつて僕の習作をまとめて出版したいと言ってくれた雑誌社の編集者が、原稿を持ち込んだ席で口を滑らせたことがあった。「例の彼女の死について、少しエッセイ風の記事を書いてみませんか」と。人の死は、これほどまでに手軽に消費され、喜ばれるコンテンツになるのか。僕が実感の湧かない頭でぼんやりとそう思った瞬間、奥で話を聞いていた栞の空気が氷のように冷たくなった。 彼女は文字通り、鬼のような形相で編集者を睨みつけた。あの静かな怒りの圧力は凄まじく、話は即座に白紙になった。美人が本気で怒ると、周囲の酸素が奪われるほど怖いのだと、その時初めて知った。編集者の男は、完全に震え上がっていた。それからというもの、静まり返ったアパートの部屋での栞の献身は、徹底していた。 彼女は僕を無菌室に閉じ込めるように、周囲のあらゆる悪意やノイズを遮断した。過保護なほどに僕を守り抜いた。かつて栞自身が深く傷ついていた時、僕は果たしてここまで彼女を守れていただろうかと、不安になるほどの強さだった。 だからこそ、今回の彼女の「送る会」についても、栞はひどく躊躇していた。僕がまた倒れてしまうのではないか。また、狂ったように深酒をするのではないか。「また」という言葉が何度もこびりつくほど、僕は荒れ、そして壊れていた。その度ごとに、栞は自分の身を削って僕を庇い続けた。当時の僕は、果てしなく続く鏡張りの迷宮の底にうずくまっていた。それは物理的な空間というより、僕の精神が造り出した冷たく、そして完璧に無機質な牢獄だった。上下左右、視界のすべてが歪みのない巨大な鏡で覆い尽くされている。自分の足音すら無限の彼方まで乱反射し、どこまでが現実で、どこからが狂気なのか、その境界線はとうに消失していた。どこを向いても、そこにいるのは僕だった。ただの僕ではない。虚ろに濁ったビー玉のような目玉を持ち、頬が削げ落ちた、ひどく醜く惨めな自分だ。それはまるで、透明なホルマリンの海に沈められた、出来の悪い剥製標本のようだった。何千、何万という「死んだ僕」の顔が、合わせ鏡の奥の奥、視力の限界を超えた暗闇の果てまで、冷たい幾何学模様のように連なっている。恐ろしいことに、鏡の中に並ぶ無数の僕は一つ一つ、わずかに違う絶望の形をしていた。力なく泣き崩れる僕、無表情に虚空を見つめる僕、声にならない叫びをあげる僕。それらが一斉に、瞬きひとつせずに、合わせ鏡の中心にうずくまる現実の僕を、氷のような温度でじっと見下ろしているのだ。迷宮の空気は、長いあいだ放置された水槽のように重く停滞し、呼吸をするたびに、肺の奥底が細かいガラスの破片で満たされていくような痛みが伴った。そんな絶対的な静寂と淀みの中で、丸一年という時間が、音もなくどろりと溶けていった。 外の世界では太陽が燃え、幾度も雨が降り、新しい季節がめぐっていたはずなのに、僕の迷宮には光の粒ひとつ届かない。僕はただ、無数の自分自身の死骸に囲まれたまま、時間の概念すら失い、永遠に等しい一秒一秒をやり過ごしていた。——その時だ。 突然、甲高い音を立てて、目の前の巨大なガラスが頭上から一枚、粉々に打ち破られた。 鋭い銀色の破片がスローモーションのように宙を舞う中、そのまばゆい向こう側から、見慣れた顔がひょっこりと姿を見せた。「バーン!」ああ……なぎだ。彼女は、夏の太陽をそのまま固めたような、あのあっけらかんとした笑顔で僕を見下ろしていた。 「ちょっとせんせー、何その大正時代の文豪みたいな暗さ。全然似合ってないよ」 「え……?」 「せんせー、書いてよ。私のこと。書いてよ、早く」 彼女は悪戯っぽく目を細め、胸を張った。 「私は素敵なんだって。世界で一番、最高の可愛いヒロインなんだって」 「……可愛い、か」僕は乾いた喉から声を絞り出した。「悪いけど、僕はSFはあまり得意じゃないんだ」 「か・わ・い・い。なぎは最高に可愛いヒロインって書くの。せんせーが、そうするの」はははっ、と鈴を転がすような彼女の笑い声が響き、そして、ふっと風のように消えた。 気がつくと、僕は再びひとりだった。 けれど、もう立ち上がれない「ひとり」ではなかった。重たい泥のようだった足に、不思議と力が宿っているのがわかった。突然、まぶしい光が顔を刺した。 なぎがガラスを割った光の残滓かと思ったが、違った。その方向を見ると、栞が部屋の重たい遮光カーテンを、勢いよく左右に引き開けたところだった。 一年分の埃が、窓から差し込む強烈な光の帯の中で、黄金色に乱反射してキラキラと踊っている。映画のワンシーンのように、空気の粒までが見えるような透明で圧倒的な光だった。「ああ……」僕は目を細めた。「いい天気なんだな」 「うん……」栞は振り返り、僕を見た。その目は泣き腫らしたように赤かったが、どこまでも柔らかく、深い優しさに満ちていた。ずっとこの暗闇に閉じこもっていた僕を、ただの一度も責めることなく守り抜いた瞳だった。 彼女はゆっくりと歩み寄り、立ち上がった僕の身体を、ぎゅっと強く抱きしめた。「今……ね」栞は僕の胸に顔を埋めたまま、ぽつりと言った。「すごく変な話なんだけど、私、なぎと喧嘩したの。大喧嘩」 「なぎと?」 「うん。言いたいこと怒鳴って、責めて、責められて。持っているボキャブラリーを総動員して悪口を言い合って、責任転嫁して。ほんと、女の喧嘩の最低な手を全部盛りにしたようなやり方で」栞は、ふふっ、と小さな声で笑った。「……でね、すっきりしたの。私、なんだかずっと、なぎに負い目があったから。あの子から、あなたを奪った卑怯者だって思っていたから。あなたが壊れていくのもバツなんだって。これでなぎは永遠のものになって、私からあなたを完全に奪ってしまう。ずっとそう思って怯えてた」窓から吹き込む初秋の風が、栞の髪を柔らかく揺らした。「そうしたら、頭の中で声が聞こえてきたのね。なぎの声で『しおりんの根暗ブス』って」 「……ブス」 「そう。もうカチーンってきたわ。メッチャ腹が立って。だから言い返してやったの、『この、わがまま小娘』って。『私は彼に抱かれたのよ』って」 「えっ」 「そうしたらあの子、『身体で誑し込んだ淫乱眼鏡!』って」栞は顔を上げ、少しだけむくれたような、でもどこか晴れやかな顔で僕を見た。「『淫乱眼鏡』って言葉には流石に腹が立ったけど、でも、図星だって気もして。それからもう、大バトルよ。ずっと痛いところから目を逸らしていたから。でも、言いたいことを全部ぶつけ合ったら、本当にすっきりしたの」栞の言葉とともに、僕の中に残っていた最後の重苦しい空気が、開け放たれた窓から青空へと吸い込まれていくのがわかった。 「根暗ブス」と「淫乱眼鏡」の罵倒合戦。なぎなら、間違いなくそうやって栞の堅苦しい殻をハンマーでぶっ叩いて壊すだろう。僕はたまらなくなって、声を出して笑った。栞も一緒になって笑った。「命日、現地に行ってみようと思う」 栞は真っ直ぐに僕の目を見て言った。「私も行くわ。『淫乱眼鏡』は事実だからしかたないとして、『根暗ブス』だけはまだ許せてないの。ちゃんとお花を手向けて、しっかり文句言ってやらなきゃ」見上げた窓の向こうには、どこまでも高く、澄み切った青空が広がっていた。 迷宮のガラスはもう存在しない。僕たちはようやく、同じ風の吹く場所で、新しい季節の光を吸い込んでいた。


僕は海にいた。旅行代理店のパンフレットに載っているような、人工的なまでに青く透き通った海じゃない。潮の匂いが少しばかり強くて、波打ち際にはいつも細かい海藻が打ち上げられているような、見飽きるほどに見慣れた海だ。 でも、そのときの僕が心から求めていたのは、まさにそういう海だった。いつも、この海沿いの道を歩いていた。登校のときも、下校のときも、ちょっとした用事で出かけるときも。 ある時期から、僕と海の間にひとりの女の子が入り込むようになった。なぎだ。彼女はいつも僕の右側を歩き、太陽の光を反射してキラキラと揺れる海への視界を、鮮やかに遮ってきた。 そう、ちょうどこんなふうに。僕たちはいつものように並んで歩いていた。真夏の太陽が、容赦なくアスファルトを焼き付けていた。そういう圧倒的な午後の熱気の中を歩くには、アイスキャンディーというアイテムがどうしても必要になる。真ん中で二つに割ってシェアする、あの安いソーダ味のアイスキャンディーだ。 僕が自分の分を食べようとした瞬間、彼女はひょいと顔を出して、僕のアイスにガブリと噛みついた。「さっき、半分あげたじゃないか」と僕は言った。 ソーダ味なのかどうかも怪しいブルーの氷をガリガリと噛み砕きながら、なぎはいたずらっぽく笑った。「半分食べて、残ったその半分の半分をもらうのが『仲良し』のルールなの」 「なんだよ、仲良しって」 「私たちみたいな関係のこと」となぎは言った。「世間の人たちはさ、すぐに彼氏とか彼女とか、そういう型に嵌めたがるじゃない? でも、私とセンセーはもっと違うところにあるような気がするんだよね」 「違うところ?」 「もっとこう……なんていうか、心と心が直接触れ合ってるみたいな」そこまで言ってから、彼女は耳の裏まで真っ赤になった。「言わせないでよ、もう」 もしそこに医者がいたら、重度の熱中症と診断して迷わず救急車を呼んでいただろう。それくらい彼女は赤面していた。「とにかく、私たちは仲良しなの」 「まあ、そうかもしれないな」と僕は適当に相槌を打った。 「あっさりしすぎ。もっと気の利いたリアクションしてよ、思春期男子」 「気の利いたリアクションって、たとえば?」 「もしかして、もう経験済みだったりするわけ? しおりんと」 「何を言ってるんだよ」なぎは素早く腕を伸ばし、僕の首に巻きついた。夏の熱気をはらんだ彼女の柔らかい唇が、僕の唇にやや乱暴に押し当てられた。 ソーダアイスのひんやりとした甘さと、彼女の体温。「……もーらい」と彼女は言った。暑い。輪郭が白く飛んでしまうような暑さだ。 意識が遠のき、ふと気がつくと、僕は黒い喪服を着ていた。手にはひんやりとした数珠が握られている。葬式? いったい誰の?祭壇を見上げると、そこにはなぎの写真が飾られていた。見事なまでに作り物めいた笑顔だった。いや、彼女はもっとくしゃくしゃにして笑うはずだ。こんな風にお行儀よくは笑わない。これはいったい誰なんだ? 強烈な違和感があった。足元がひどくフワフワしている。さっきの暑さで熱中症になって、どこかに倒れ込んだ僕が見ている質の悪い夢だ。そうに決まっている。 なぎの葬式に出るなんて、僕の潜在意識もずいぶんと悪趣味なものを引っぱり出してきたものだ。目が覚めたら、ちゃんとした医者に診てもらおう。そう考えた途端、目の前に白衣を着たなぎが現れた。「さーっそく、手術ねっ」と彼女はウインクをした。 「危ないな、それメスじゃないか」 「大丈夫、前にマンガで読んだことがあるから」 「いやいや、そういう問題じゃないだろ」 「スパーって切って、ちょいちょいって悪いところを取って、縫いぬいしたら終わり。楽勝でしょ?」彼女の論理の中で、安心できる要素はひとつも見当たらなかった。「とりあえず、麻酔するねっ」 寝ている間に何をされるか分かったものじゃない。そう抗議しようとした僕の口を塞ぐように、なぎが口づけてきた。 「麻酔?」彼女はまるで熟練した手品師のような鮮やかな手つきで、僕の服を脱がせていった。いつの間にか彼女自身も一糸まとわぬ姿になり、僕の上にまたがっていた。「……これで、おあいこ」なぎは細い腕で、僕の身体を強く、とても強く抱きしめた。 僕は何も言わず、目を閉じた。次に目を開けたとき、僕の視界を埋めていたのは、ひび割れたアパートの天井と、泣きじゃくる栞の顔だった。 栞は何かを大声で言いながら、しゃくりあげていた。まるで言葉の破片をまき散らしているみたいで、僕にはその意味をうまくつなぎ合わせることができなかった。ゆっくりと身体を起こす。自分が今どんな状況に置かれているのか、うまく理解できない。 少しずつ、栞の言葉の端々が意味を持ち始め、それが僕を「いま」という現実に引き戻していった。 僕はずっと気を失っていたらしい。 そして。なぎは死んだ。それが、どれほど否定しようとも動かしがたい、僕の現実だった。


深く焙煎された豆が放つ、香ばしくも重たい苦味が鼻腔をくすぐる。 黒く透き通った熱い液体をマグカップに注ぎ、ゆっくりと一口だけ喉に流し込む。適度な酸味と静かな熱が、輪郭のぼやけた記憶の焦点を、少しだけシャープにしてくれる。この物語の、ある決定的なページを書き進めることは、自分自身の古い傷口をもう一度、素手で開くような作業だった。ひどい痛みを伴う。けれど、そこを通過しなければ、僕はこの物語を語ることができない。それは前に進むための、どうしても必要な儀式だった。「彼女が、亡くなった」 その言葉を、僕はたったひとりで聞いた。物語の中に登場するような、黙ってそばにいてくれる存在はいなかった。アパートの小さな部屋で、電話越しのその響きを受け止めた瞬間、僕の身体からすべての力が抜け落ちた。自分がただの重たい「物体」になってしまったような感覚。そのまま床に倒れ込み、指先ひとつ動かすことができなかった。完全な虚無だった。ようやく少しだけ身体の感覚を取り戻し、立ち上がったとき、窓の外には皮肉なほど見事な景色が広がっていた。夏が過ぎ、秋の気配が混じり始めたその日は、空が高く、やたらと天気が良かったのを覚えている。僕はただ、彼女がこの世界からいなくなったという事実だけを抱え、ただ時間をやり過ごしていた。「卒業式には迎えに来て。それが再会だから」 彼女と交わしたその約束を、僕は守ることができなかった。 今でも夢を見る。何度も。卒業式の日に僕が校門へ赴き、彼女がこちらへ向かって駆け寄ってくる光景だ。もちろん、ただの夢だ。目を覚ましたときの、あのシーツにべったりと張り付くような絶望感は、ひどく重たい。 ちなみに、作中に描いた白昼夢のような住宅街のシーンは、当時なにかを創り出したくて模索していた僕が、頭の中で組み立てた情景だ。それが、彼女の記憶と奇妙に混ざり合って定着している。やがて故郷へ戻った僕を待っていたのは、無遠慮な知人たちがもたらす凡庸な結末だった。 「お前が都会へ行っている間、彼女はあいつと付き合っていたよ」 そんな乾いた噂話の数々。嫉妬は、もちろんあった。自分が都会の片隅ですり減っていた時間に、彼女の隣に誰かがいたという事実。やがて、それが複数の男たちであったこと、そして最後に、高校時代の先輩だった男の名前が出た。 彼とのドライブの途中、峠道で起きた事故。男は助かり、彼女は亡くなったのだという。よく「彼には会いに行ったのか」と聞かれるが、会わなかった。いまだに会っていない。もう、すべては過去の出来事だ。 ただ、僕の日常はそれを境に完全に崩壊した。 何も考えたくなかった。ひとたび思考を動かせば、自分が生み出す嫉妬心や、彼女が事故の瞬間に感じたであろう痛みを、脳が勝手に鮮明に再現してしまう。それを強制終了させるためだけに、僕は無尽蔵に食べ物を口に詰め込み、アルコールで胃の腑を焼いた。身体が拒絶しても、ただ思考の電源を抜くために飲み続けた。 仕事は失い、部屋は悪臭を放つゴミ捨て場と化し、やがてそのアパートも追い出された。暗闇の底だった。自分の輪郭を少しずつ取り戻せたのは、それからしばらく経ってからのことだ。 本当に偶然の産物だった。実家の前で、たまたま映画の撮影が行われていたのだ。窓からぼんやりと眺めていた僕に声がかかり、エキストラとしてその場に立つことになった。その時、現場の張り詰めた空気に触れた僕の中で、何かが微かに動いた。 僕は表現の道を学び始めた。それが、暗闇から抜け出す唯一のロープになった。随分と長い時間が過ぎた。 自分で会社を経営するようになり、慌ただしい日常を回していく中で、ふと立ち寄った古い駅舎があった。木造の、ひなびたその空間に足を踏み入れた瞬間、初老と呼ばれる年齢に差し掛かっていた僕の時間は、一気に「あの頃」へと逆流した。もう一度、彼女と再会しなければならない。 その静かで切実な衝動が、『なぎのえき』というひとつのプロジェクトへと結実していった。そこからは一気だったというのが、僕自身の偽らざる所見だ。マグカップの中で少しだけ温度の落ちた、黒い液体を飲み干す。 カップの底に残ったわずかな粉の沈殿が、過ぎ去った時間のようにも見えた。


病院特有の、あの薄められた消毒液の匂いとぬるま湯のような時間から解放されたとき、季節はすでに決定的な夏へと舵を切っていた。退院した僕の小さなアパートで待っていたのは、クールな優等生というこれまでの輪郭を鮮やかに裏切り、意外なほど甲斐甲斐しく世話を焼く栞の姿だった。彼女は、僕の日常のディテールを整えるという行為に自らの重心を置くことで、危うかった精神の均衡を取り戻しつつあるようだった。 よく晴れた朝、ベランダで洗いたての白いTシャツを干す栞の後ろ姿を眺めていると、ごく自然に「ふたりの暮らし」という言葉がリアリティを持ち始める。家庭。それは決して悪くない響きだった。このまま彼女と生きていく未来は、きっと穏やかで幸福なものになるのだろう。声に出せばそのまま現実になってしまいそうなほどの愛おしさが、胸の奥で静かに満ちていくのを感じていた。そんな凪いだ水面のような日々に、ただひとつだけ落ちる濃い影がある。 なぎだ。 ドア越しに僕と栞が息を殺したあの夜から、彼女からの連絡は完全に途絶えていた。僕たちが密室で何をしていたか、なぎは知る由もないはずだ。だとしても、何度ダイヤルを回しても無機質なコール音が続くばかりで、彼女の声が受話器から聞こえてくることはなかった。体力を戻さなければならない。アパートに至るあの急な坂道を息を切らさずに登れるようにならなければ、僕の社会復帰はおぼつかない。 栞は、あの白昼の事故を完全に自分のせいだと思い込んでいる。僕が足を滑らせただけだと何度説明しても、彼女の心には届かないようだった。栞のその強迫的な自責の念を解きほぐすためにも、僕は早く元の自分に戻る必要があった。通院のたびに繰り返される検査。激しく頭を打ったのだから仕方がないことだが、そのたびに栞はひどく怯えた、泣きそうな瞳で僕を見る。彼女を安心させるためにも、僕は「軽い散歩だよ」と言い残し、真夏の住宅街へと歩みを出した。本当は少し走ってみたい気もしたが、無理は禁物だ。太陽は暴力的なまでの光をアスファルトに叩きつけている。視界の端で揺れる蜃気楼。住宅街の静寂を塗りつぶすように、蝉たちが命を削るような声で鳴きしきっていた。その圧倒的な音のシャワーを全身に浴びながら、ゆっくりと歩を進める。ふと、前方の路地へ曲がっていくひとつのシルエットが目に留まった。白いシャツ、高校の制服。そして、見覚えのある後ろ髪の揺れ。 なぎだ。 まさか、こんな場所にいるはずがない。しかし、僕の足は無意識のうちに、彼女が消えた細い路地へと吸い込まれていた。追えば追うほど、住宅街は複雑な迷路へと姿を変えていく。 木漏れ日が、舗装された道をまだらに染めている。庭先の木々の緑が、目を射るように鮮やかだ。蝉の鳴き声が、耳の奥で際限なく増幅していく。その隙間を縫うように、どこかの軒先でチリン、と風鈴が鳴った。みーん、みーん。チリン。その不揃いな合奏は、僕の意識を現実から少しずつ剥がしていく。 遠くなり、近くなり、しかし決して手の届かない後ろ姿。 距離が離れると蝉のノイズが世界を支配し、近づいたと錯覚した瞬間、風鈴の透明な音が響く。 迷宮だ。僕は巨大な迷宮に迷い込んでいる。 強烈な日差しと熱気が、僕の平衡感覚を狂わせていく。背中を伝う汗が、シャツを肌にべったりと張り付かせる。世界がゆっくりと、僕を中心にして回転し始めた。 めまい。ふわりと浮き上がるような足元。 風鈴の音だけが響く中、もう誰の姿も見えなかった。「もう、帽子をかぶってって言っているでしょ!」 玄関のドアを開けた瞬間、冷えた空気と共に栞の鋭い叱責が飛んできた。 その声を聞いて、僕は深く安息した。汗だくで立っている僕の額を、栞がタオルで乱暴に拭う。 あぁ、帰ってきた。ここが僕の現実だ。あの迷宮のような夏の午後は、熱気と焦燥が見せた幻だったのだ。栞の小言がまだ続きそうだったその時、部屋の隅で電話がけたたましく鳴った。 僕の東京での知人たちは、今では皆、僕が栞と一緒に暮らしていることを知っている。だから栞も、僕の部屋の電話に出ることに何の抵抗もなくなっていた。受話器の向こうから聞こえてくるのは、今の彼女にとって無害な日常の連絡ばかりだったからだ。受話器を取る栞の後ろ姿を、僕は冷たい水を飲みながらぼんやりと見つめていた。「え……」栞の背中が、不自然に硬直した。 異変を感じて彼女の顔を覗き込む。振り返った栞の表情からは、一切の血の気が失せていた。「……なぎが、亡くなったって」窓の外で、蝉の声が一瞬、ピタリと止んだような気がした。


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