『なぎのえき』癒しと郷愁の物語

孤独に戦い、感情を麻痺させている人へ。 「立派な大人」を演じ続けるのはもう終わりにしませんか。 そこは夕暮れの無人駅。佐賀県唐津市を舞台にした写真とオーディオドラマによる没入型アートです。都会のスピードに疲弊した大人が、いつでも日常から「途中下車」できる癒しのツールをお届けします。

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孤独に戦い、感情を麻痺させている人へ。 「立派な大人」を演じ続けるのはもう終わりにしませんか。 そこは夕暮れの無人駅。佐賀県唐津市を舞台にした写真とオーディオドラマによる没入型アートです。都会のスピードに疲弊した大人が、いつでも日常から「途中下車」できる癒しのツールをお届けします。

物語の回想シーンをどこにするか、それを決めるのに時間はかかりませんでした。僕たちの舞台は、あの懐かしい演劇部の部室。部屋、と呼ぶには少しばかりおこがましい空間でした。学校の立ち入り禁止の屋上へと続く、冷たい非常階段の踊り場。そこに無理やり壁と扉をくっつけただけの、建築の「隙間」のような場所。けれど僕たちは、どこからか古びた椅子や傷だらけの机を持ち寄って、さしずめ思春期の「秘密基地」を作り上げてしまったのです。文字通り、隙間だらけのその場所での思い出を掘り起こし始めると、引き出しの奥から次々と記憶の断片が溢れ出してきて、時折、感情のコントロールが追いつかなくなることがあります。下校時間を告げる無機質なチャイムが鳴り響いた後も、僕となぎのモデルになった彼女は、ずっとそこに残って他愛のないお喋りを続けていました。もちろん、彼女の無軌道なステップに、僕はいつだって不器用にしがみつくだけ。「まいったな」と僕が頭を抱えるような、そんな日のことです。 彼女は自分でも「少しやりすぎちゃったかな」と反省するのか、そんな気配を察した日は、その日のうちに決まって僕を映画に誘うのでした。映画館の暗闇に逃げ込めば、僕の機嫌が直る。彼女はそう信じていたのでしょう。……悔しいけれど誘われてすぐに、機嫌はすっかり直っているのですが(笑)。この『なぎのえき』という作品を制作しながら、そんなディテールをひとつひとつ、ブルーブラックのインクでなぞるように思い出しています。贅沢を言わせてもらえるなら、このままずっと、このノートの中で彼女を呼吸させ続け、物語を紡いでいられたらどれほどいいだろう。そう考えてしまう瞬間もあります。執筆が進むにつれて、彼女との二度目のお別れが、静かに、けれど確実に近づいているのを感じて切なさが募るのです。もう一度、彼女を完璧に手放すこと。それは正直なところ、身が引き裂かれるほどつらい作業です。けれど、「きちんと別れる」ことこそが、僕がこの作品に込めた、たったひとつの揺るぎないテーマ。今度こそ、あの日唐突に奪われてしまった時間に正確なピリオドを打ち、彼女に素直な「さよなら」を言えるように。僕は今日も、少し冷めたコーヒーを傍らに置いてキーボードをタップしています。


誰も来ないはずの旧校舎。その立ち入り禁止の屋上へと続く、非常階段の踊り場。そこが僕と栞の隠れ家だった。 本来なら無機質なコンクリートの空間には、不釣り合いなベニヤの壁とチープなドアが後付けされており、外界から隔絶された簡易的な密室として機能していた。擦りガラス越しに差し込む初夏の陽光が、空気中を漂う微かな埃をスノードームのようにきらきらと輝かせている。光の帯が斜めに切り取った薄暗い部屋の片隅で、僕は安っぽい化粧板の机とパイプ椅子に腰を下ろしていた。 手元にあるのは、黒いハードカバーのノートと万年筆。そこに綴られているのは、事実という名の安全なレールの上を走るだけの、ひどく退屈なダイヤグラムの羅列だった。「彼が次にどう動くのか、楽しみね」隣に座る栞が、静かに微笑みながらノートのページを覗き込んでくる。 「ここでさ、主人公の心情とか入れたら、この後の展開がもっとエモーショナルになると思う」その助言は、ベテランの編集者が投げる的確で柔らかなパスのようだった。決して僕のプライドを傷つけず、ひとつの素敵な「提案」として手渡されるから、不思議と嫌な気はしない。 栞は、自分にゼロから物語を生み出す才能がないことを自覚していた。決められたルールを守ることや、与えられた枠の中を美しく整えることは得意だが、「自由に」と言われると途端に立ちすくんでしまう。雑誌編集者である両親の仕事ぶりを幼い頃から見てきた彼女にとって、それは極めて自然なスタンスだった。 だからこそ、こうして僕の世界に介入し、その輪郭を美しく校正していくことに静かな幸福を感じていた。微かなカビの匂いがするこの薄暗い密室の扉が、永遠に閉ざされてしまえばいい。そんな栞の密やかな願いを、僕はまだ知らなかった。「なにこれ。安全なレールの上を走るだけの、つまんないお話」重たい鉄扉が、突然暴力的な音を立てて開け放たれた。 眩暈がするほどの強烈な初夏の光が、淀んだ空気を一瞬で薙ぎ払いながら部屋の中へと雪崩れ込んでくる。逆光の中に立っていたのは、1年生のなぎだった。彼女は肩で息をしながら、少し得意げに笑っていた。入学早々から下心を持った上級生男子や好奇の視線に付きまとわれていた彼女は、その退屈なノイズから逃げ回るゲームの果てに、この秘密の場所に辿り着いたらしい。僕たちを見下ろすなぎに対し、栞は少しも動じなかった。制服のポケットから綺麗にアイロンのかかった清潔なハンカチを取り出すと、言葉もなくすっと差し出す。なぎは少し驚いたように瞬きをした後、ひったくるようにそれを受け取り、額に浮かんだ汗を拭った。そして、ノートを覗き込んだ彼女の口から飛び出したのが、先ほどのあっけらかんとした残酷な評価だった。 万年筆を握ったまま言葉に詰まる僕の横で、栞が静かに口を開く。「彼の物語は、これから面白くなるのよ」それは僕の凡庸さを無条件で肯定し、守り抜こうとする、ひどく現実的で温かい庇護だった。しかしなぎは、栞の言葉を聞いて悪戯っぽく口角を上げた。「私が面白く導く」彼女は僕の目をまっすぐに見据え、指先でノートの真新しいページをトントンと叩いた。「じゃあ、あたしをヒロインにしてよ。そうしたら、毎日ここへ逃げてきてあげる」それは、僕の退屈で静かな世界に、予測不能な乱気流が吹き込んだ瞬間だった。それから数日後の放課後。 空は急激に紫がかった鉛色に沈み、バケツをひっくり返したような土砂降りの通り雨がグラウンドを激しく叩きつけていた。熱を奪われたアスファルトからは、むせ返るような雨の匂いが立ち昇り、薄暗い昇降口には、水溜まりに乱反射する青白い光だけが揺れている。昇降口には僕と栞の二人だけ。僕の手には、大きなビニール傘が一本だけ握られている。相合い傘をして帰るべきか、雨が上がるのを待つべきか。僕たちの間には、言葉にしない微かな好意と、高校生特有のひりつくような緊張感が漂っていた。「せんせー!しおりん!」重たい雨のカーテンを引き裂くように、グラウンドの向こうからなぎが走ってきた。 傘もささず、全身ずぶ濡れになりながら、彼女の右手にはなぜか泥だらけの硬球が握りしめられている。激しい水しぶきを上げて昇降口に飛び込んでくると、なぎは犬のように頭を振って髪のしずくを弾き飛ばした。「風邪を引くわよ。バカね。それに上級生に『しおりん』はやめなさい」 栞は呆れたように言いながらも、自分のスポーツタオルをなぎの頭からすっぽりと被せ、泥の跳ねた頬を丁寧に拭き始めた。「いたずらなワンちゃんね」 栞の細い指先には、世話を焼くことに対する迷いのない確かな母性があった。なぎは大人しく拭かれながら、「ありがとう、お母さん」と無邪気に笑う。「お母さん言うなっ」そしてなぎは、わざと泥のついた手で、僕の真っ白なシャツの袖を強く掴んだ。「ねえ、私も傘に入れてよ」 「三人で!?」 「くっつけばイケる」「そ、そうね。皆で濡れるよりいいかもね」結局、僕が真ん中で透明なビニール傘の柄を握り、右に栞、左になぎが入ることになった。 右の肩: 栞の制服から漂う微かな柔軟剤の香りと、彼女の確かな平熱が伝わってくる。それは僕の日常を温め、優しく肯定してくれる、紛れもない「現実」だった。 左の肩: なぎの纏う冷たい雨の匂いと、生々しい土の匂いがした。冷え切った肩を僕に押し付けながら、僕の退屈な日常を容赦なく泥で汚してくる、圧倒的な「非日常」そのものだった。 激しい雨だれの音が、狭いビニールのドームを絶え間なく叩き続けている。 現在を温めようとする栞と、僕の世界を壊しにくるなぎ。僕は全く性質の異なる二つの引力に挟まれ、一歩も身動きが取れなくなっていた。けれど、不思議と居心地は悪くなかった。 僕がファインダー越しに世界を傍観し、栞がそれを優しく縁取り、なぎがそのフレームの中に泥だらけのスニーカーで踏み込んでくる。光を失った土砂降りの雨の中、二つの体温と匂いに挟まれた瞬間。僕たち三人の奇妙で残酷なトライアングルは、絶対に壊れることのない完璧なダイヤとして、確かに固定されていた。


スマートフォンの画面を眺めていると、時折、「どなたかが亡くなりました」という言葉を目にすることがありますよね。それが本当のお別れであるなら、ただ静かに手を合わせたい気持ちになるのですが、人の目を引くための嘘であったり、数字を集めるためだけに使われていたりすると、どうしても心が痛んでしまいます。たとえ本当のことであっても、誰かの逝去を消費するような見せ方には、少しばかり寂しさを感じてしまうのです。私が書かせていただいている『なぎのえき』という作品も、事故で亡くなってしまった恋人の幻と再会するという物語です。もしかすると、これも一種の「悲しいお話」として消費されてしまうのではないかと思われるかもしれません。でも、私が本当にお伝えしたいのは、「亡くなってしまうこと」そのものではなく、その先に続く「残された者たちの物語」なのです。実を申しますと、私自身、深すぎる悲しみの中で、何年もの間、とても荒れた生活を送ってしまった時期がございました。現実を直視するのが怖くて、仕事や他の何かにすがりつくように依存してしまったのです。前に進む気力も失い、ただ自分を傷つけるように過ごした日々のツケは、今、糖尿病や肝臓の疾患といった形で、自分の身体で払うことになってしまいました。そうした自分自身の不器用な経験があるからこそ、どうか皆様には、深い悲しみを抱えた人たちがどのように生きていき、そしてその遥か先に、どんなふうに「癒やし」が待っているのかを描きたいと願って、このお話を構想いたしました。ただの暇つぶしとして消費されて、すぐに忘れ去られてしまうような作品には、絶対にしたくありませんでした。それは、かつて私のかけがえのない人であった彼女に対する、心からの愛情ゆえなのです。それが、この『なぎのえき』という物語のすべてだと思っています。物語はこの先、とても壮絶な場面へと入ってまいります。私自身、言葉をひとつ紡ぐたびに全身が引き裂かれるような痛みを感じており、執筆の手を止めたくなるほど辛い時もございます。それでも、この痛みをきちんと形にして皆様へお届けする日まで、どうか少しだけ、彼らの歩む道を静かに見守っていただけましたら幸いです。


何かを完全にゼロから創り出せるほど、人間の想像力は都合よくできてはいない。万年筆にブルーブラックのインクを吸入し、真新しいノートの1ページ目に向き合うとき、そこに書きつけられる物語の輪郭を決定するのは、いつだって僕自身が過去に通過してきた、ごく私的な記憶の断片だ。新しい物語のヒロインの造形に、かつて愛した人の影を無意識に落としてしまうことは、物書きにとって決して珍しいエラーではない。彼女の少し乱暴な歩き方や、真冬でも冷たい飲み物を好むところ、あるいは、核心を突かれたときに視線を逸らすわずかな間の取り方。そういった事実のディテールをひとつずつ拾い集め、インクの染みに変えていく。事実、現在書いているこの作品の底には、間違いなくひとりの女性の存在が静かに横たわっている。彼女はもう、この世界のどこにもいない。 突然の欠落だった。僕の日常という完璧だったはずのダイヤグラムは、ある日を境に唐突に途切れ、その先には圧倒的な空白だけが残された。悲しみや喪失感といった、手垢のついた感傷的な言葉でその空白を埋める気にはなれなかった。僕はただ、乾ききった日常を正確に反復するしかなかった。朝には濃いめのブラックコーヒーを淹れ、決まった時間にデスクに向かい、ノートを開く。そうして文字を連ねていくうちに、ある明確な目的に気がついた。 僕は、彼女との間に残されたままの「中途半端な空白」に、自分自身の手で正確なピリオドを打とうとしているのだ。物語のヒロインに彼女の欠片を投影し、ひとつの独立した世界の中で息をさせ、そして、物語の結末とともに完璧な形で手放すこと。それは単なるフィクションの構築ではなく、あの日、突然立ち消えになってしまった彼女との時間を「正しく終わらせる」ための、ひどく個人的で、静かな儀式のようなものだった。冷めきったコーヒーを一口飲み、僕は万年筆のペン先をふたたび紙面に落とす。インクが乾く頃には、少しだけ風向きが変わっているはずだ。そう信じて、僕は今日もノートのなかの彼女に向かって美しく、そして残酷な別れの言葉を書き続けている。


何かを完全にゼロから創り出せるほど、人間の想像力は都合よくできてはいない。万年筆にブルーブラックのインクを吸入し、真新しいノートの1ページ目に向き合うとき、そこに書きつけられる物語の輪郭を決定するのは、いつだって僕自身が過去に通過してきた、ごく私的な記憶の断片だ。新しい物語のヒロインの造形に、かつて愛した人の影を無意識に落としてしまうことは、物書きにとって決して珍しいエラーではない。彼女の少し乱暴な歩き方や、真冬でも冷たい飲み物を好むところ、あるいは、核心を突かれたときに視線を逸らすわずかな間の取り方。そういった事実のディテールをひとつずつ拾い集め、インクの染みに変えていく。事実、現在書いているこの作品の底には、間違いなくひとりの女性の存在が静かに横たわっている。彼女はもう、この世界のどこにもいない。 突然の欠落だった。僕の日常という完璧だったはずのダイヤグラムは、ある日を境に唐突に途切れ、その先には圧倒的な空白だけが残された。悲しみや喪失感といった、手垢のついた感傷的な言葉でその空白を埋める気にはなれなかった。僕はただ、乾ききった日常を正確に反復するしかなかった。朝には濃いめのブラックコーヒーを淹れ、決まった時間にデスクに向かい、ノートを開く。そうして文字を連ねていくうちに、ある明確な目的に気がついた。 僕は、彼女との間に残されたままの「中途半端な空白」に、自分自身の手で正確なピリオドを打とうとしているのだ。物語のヒロインに彼女の欠片を投影し、ひとつの独立した世界の中で息をさせ、そして、物語の結末とともに完璧な形で手放すこと。それは単なるフィクションの構築ではなく、あの日、突然立ち消えになってしまった彼女との時間を「正しく終わらせる」ための、ひどく個人的で、静かな儀式のようなものだった。冷めきったコーヒーを一口飲み、僕は万年筆のペン先をふたたび紙面に落とす。インクが乾く頃には、少しだけ風向きが変わっているはずだ。そう信じて、僕は今日もノートのなかの彼女に向かって、美しく、そして残酷な別れの言葉を書き続けている。


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