『なぎのえき』癒しと郷愁の物語

孤独に戦い、感情を麻痺させている人へ。 「立派な大人」を演じ続けるのはもう終わりにしませんか。 そこは夕暮れの無人駅。佐賀県唐津市を舞台にした写真とオーディオドラマによる没入型アートです。都会のスピードに疲弊した大人が、いつでも日常から「途中下車」できる癒しのツールをお届けします。

現在の支援総額

38,000

1%

目標金額は2,500,000円

支援者数

7

募集終了まで残り

17

『なぎのえき』癒しと郷愁の物語

現在の支援総額

38,000

1%達成

あと 17

目標金額2,500,000

支援者数7

孤独に戦い、感情を麻痺させている人へ。 「立派な大人」を演じ続けるのはもう終わりにしませんか。 そこは夕暮れの無人駅。佐賀県唐津市を舞台にした写真とオーディオドラマによる没入型アートです。都会のスピードに疲弊した大人が、いつでも日常から「途中下車」できる癒しのツールをお届けします。

未来形の喪失
2026/07/14 16:55

唐津の海に夜が降りてくると、世界は深い藍色の静寂に包まれる。開け放たれた窓からは、絶え間なく波の砕ける音が聞こえてくる。それは地球の呼吸のように規則正しく、僕たちの焦燥を少しずつ削り取っていくようだ。遠く海と空の境界線は曖昧に溶け合い、漁火の小さな光だけが、そこが物理的な空間であることを辛うじて証明していた。空気はどこまでも澄み渡り、冬の星々が触れ合えば冷たい硝子の音がしそうなほどに、張り詰めている。僕たちはホテルを出て、ほど近い場所に小さな部屋を借りた。この地に定住するつもりでいた。東京に未練の無い僕たちの判断は早かった。東京の狭いアパートとは違う、間取りに少しだけ余白のある部屋。 そこで僕たちは、小さなテーブルを挟んで向き合い、ノートパソコンの淡い光を浴びながら、新しい会社の事業計画書を練っていた。この地に、僕たちは「なぎ」の物語を正しく伝え、彼女の存在を得家のものにするための会社を作ろうとしていた。なぎの記憶に背中を押されるようにして始まったこの道は、険しい。けれど、歩みを進めるたびに、物語は確かな重みを持って形になりつつあった。 僕となぎの物語を語るために。彼女を「最高のヒロイン」としてこの世に再誕させるために。出版社に持ち込んで、ありきたりな「お涙頂戴」として消費されることだけは、どうしても避けたかった。それでは、あの真っ直ぐな瞳をしたなぎは絶対に納得しないだろう。 だから僕と栞は、自分たちで出版社という船を創ることにしたのだ。あまりに無謀で、滑稽な試みかもしれない。けれど、一度は絶望の淵で息絶えかけた僕たちが、今こうして呼吸をしているのは、間違いなく彼女という存在が光を照らしてくれたからだ。「資金繰りの計算は、これでだいたい片付いたね」栞が眼鏡のブリッジを指で押し上げ、ふうっと小さく息を吐いた。決断してからの栞の行動には目を見張った。あっという間に準備をすすめ、起業に必要な手続きの段取りを済ませてきた。仕事に疲れて、暗い部屋にひとりで泣いていた彼女の面影すら思い出せないほどに、いま僕の前にいるのは強く、どこまでも強く行動的なレディだった。デスクライトに縁取られた彼女の横顔は、夜の闇に溶けそうなほど儚く、それでいて、そこに確かに存在しているという温かな実感を伴っていた。「ああ。あとは、登記の書類を揃えるだけだ。……スケジュールはどうする?」僕は彼女に尋ねた。目標が「予定」へと変わる瞬間、僕の胸には静かな、しかし確かな高揚が波紋のように広がっていた。それはきっと、彼女が僕に寄り添い、献身的に支えてくれたおかげだ。僕は心から、彼女に感謝していた。「そうね」栞は頷き、手元のカレンダーに視線を落とす。「——には、市役所に行ってくるわ」僕の手が止まる。 一瞬、僕の耳が、彼女の言葉をうまく拾えなかったのかと思った。「……ごめん、いつ行くって?」「だから、——には、市役所に行ってくる」聞き間違いではない。栞の唇は間違いなく「あした」と動いたのだ。しかし、その三文字が発せられた瞬間、彼女の喉から出るはずの音が、空気が、完全にミュートされてしまった。 まるで、世界という巨大なシステムの管理者が、彼女のその音声データだけを、悪意を持って削除したかのように。僕はパソコンの画面をそっと閉じ、目の前に座る彼女の輪郭を確かめるように見据えた。「栞」 「……どうしたの?」「少しだけ、記憶のすり合わせをさせてくれ。昨日、僕たちは何を食べた?」「昨日? カレーだけど……」栞は怪訝そうに眉をひそめ、探るように僕の目を見つめた。「急にどうしたの。自分の記憶に自信がなくなった?」「なら、今は何時だ。君が認識している、現在の正確な時間は?」「夜の十一時」淀みはない。過去という確定済みの事象も、現在という観測点も、彼女の口からは極めて滑らかに、自然な音として紡がれる。彼女の意識は、過去から今この瞬間に至るまで、完璧な連続性を保って機能している。「じゃあ……」 僕の心臓が、ひどく嫌な音を立てて早鐘を打ち始めた。「この書類、いつ提出するって?」栞は少し呆れたように、ふっと笑う。そして、口を開いた。「だから、——」音が消えた。 僕の鼓膜には、窓の外から流れ込む波の音と、微かな夜風の音しか届かない。栞自身も、自分の声が途切れたことに気づいたようだった。彼女は戸惑ったように何度か瞬きをし、もう一度、慎重に口を動かす。「……——」 「……——の、来週には」 「……——、来年の春には」駄目だった。何度試しても、「明日」「来週」「未来」という、これから先の時間を指し示す言葉だけが、彼女の世界から綺麗に切り抜かれていた。彼女は自分の喉に手を当て、ひどく傷ついたような、そしてすべてを悟ったような瞳で僕を見つめた。「……そっか」栞は静かに微笑んだ。その笑顔は、かつてなぎが「私はもうすぐ死ぬんだよ」と告げた時の、あのどこか透明で、諦観に満ちた表情と、残酷なまでに重なっていた。「私、もう、この世界で未来を語る資格がないみたい」その言葉を聞いた瞬間、僕の奥底で、冷たくて固い何かが弾けた。 世界は、物理法則や時間の概念を使って、静かに栞を排除しようとしている。なぎの未来を暴力的に奪い去ったこの世界は、今度は栞の未来を、こんなにも静かに、システマチックに消去しようとしているのだ。「冗談じゃない」僕は椅子を蹴るようにして立ち上がり、テーブル越しに栞の両手を強く握りしめた。彼女の掌は氷のように冷たかったが、それでも微かな脈動が、確かにそこにあった。「あなたには、未来がないわけじゃない。世界が勝手にバグを起こして、君から言葉を奪っているだけだ。そんなふざけたルール、僕が絶対に認めない」「でも……」「君が言えないなら、僕が言う」僕は彼女の冷たい手を、祈るように自分の頬に押し当てた。窓の外では、夜の海が圧倒的な質量を持ってうねり、静かな怒りをたたえているようだった。「明日は、一緒に市役所へ行く。来週は、ギャラリーの壁を二人で塗る。来月は、あいつの墓前に報告に行く。来年も、再来年も、君はずっと僕の隣で笑ってる。君が未来を発音できないなら、僕が君の未来を全部、何度でも口にしてやる」栞の大きな瞳から、涙が一粒、音もなくこぼれ落ちた。それはデスクライトの光を反射して、この世界のどんな宝石よりも美しく、残酷に輝いていた。なぎを奪われ、暗闇の迷宮でうずくまっていただけの僕は、もういない。 世界が彼女を消去しようとするなら、僕は言葉を武器にして、この不条理な因果律と全力で戦い抜く。 これは、残酷で美しい世界に対する、僕のたったひとりの叛逆であり、栞をこの世界に繋ぎ止めるための、果てしない冒険の始まりだった。


最初にお話をいただいたとき、私の心の片隅には、ほんの小さな棘のような感情が芽生えていました。「そっか、私は主役じゃないんだ」それは役者としての、ひどくちっぽけで個人的なエゴだったのだと思います。眩しい光の真ん中に立つ『なぎ』の傍らで、そっと影を落とすような立ち位置。そこにどんな顔をして立てばいいのか、最初はどこか戸惑いを感じていたのが正直なところです。けれど、そんな浅はかな棘は、台本という名の扉を開けた瞬間に、あっけなく波にさらわれていきました。唐津の海の匂い。琥珀色に染まる夕暮れ。静かに、けれど確実に輪郭を失っていく不条理な日常。その美しさと残酷さに触れたとき、胸の奥から「ああ、これは他の誰でもない、私がやらなければいけない役なんだ」という静かな確信が込み上げてきたのです。紡がれる物語の言葉を追うたび、ふいに涙がこぼれそうになる夜があります。 ただ活字をなぞっているだけなのに、どうしてこんなにも心が解けていくのでしょう。見えない鎧を着込んで張り詰めていた糸が緩み、忘れかけていた深い呼吸を取り戻していく。そんな穏やかな救いを物語から受け取るたび、今度は得体の知れない怖さに襲われます。「こんなにも完成された静寂の世界を、私の声で壊してしまわないだろうか」読者の頭の中で鳴っている美しい波音を、私の不器用な声が邪魔してしまうのではないか。そんな不安に足がすくみそうになる私をいつも繋ぎ止めてくれるのは、この物語の生みの親である篠原の存在です。おそらく世界中の誰よりも、この作品に対して途方もなく「想いが重い」人。その彼が、他の誰でもない私を栞として選んでくれた。その事実だけが、プレッシャーで震えそうになる私の背筋を、何度でもピンと伸ばしてくれるのです。実際の収録現場は、途方もない愛と、少しの狂気が入り混じるような場所です。 声の温度、わずかな息の抜き方。ひとつの音のズレすら許されない、徹底的に妥協のないテイクの繰り返し。時折逃げ出したくなるほど身を削られる瞬間もあります。が、その息を呑むような熱量の渦中にいるからこそ、私は「栞」という女性の生々しい体温を、確かに掴み取ることができているのだと感じています。この美しくて痛切な物語の、ひとつの小さなピースになれたことを、今は心から誇りに思います。 いつか、息の詰まるような日常で戦う誰かにとって、この声が静かな「避難所」になれますように。そんなささやかな祈りを込めながら、私は今日もマイクの前に立っています。栞 役 / 莉子


クラウドファンディングの期間中、「設定や裏話として、なぎの物語を少し書いてみませんか?」という温かいお声がけをいただいたのが、すべての始まりでした。ほんの軽い気持ちだったはずなのに、いざ筆を執ると、誰の予想も――そして何より私自身の予想すら超えて、心の奥底に眠っていた「物語」がとめどなく溢れ出して止まらなくなってしまいました。そうして今は、小説版『なぎのえき』として日々言葉を紡ぎ、更新を続ける毎日を送っています。画面に向かって文字を打ち込むたび、背中の痛みや胃の軋みといった生々しい身体の悲鳴を感じます。けれど不思議なことに、その痛みと引き換えに得られるのは、置き去りにしてきた過去の自分をそっと抱きしめ、暗闇からすくい上げるような、静かで神聖な感覚なのです。 経営者として、終わりのない重圧と脳の疲労ですっかりすり減っていた私にとって、この『なぎのえき』を執筆するという行為は、思いがけず極上の癒やしとなり、乾ききった心に再び瑞々しい水を満たしてくれています。この物語を別の形で立ち上がらせる「オーディオシアター」もまた、私にとって希望の結晶です。 選び抜かれた俳優の方々が吹き込んでくださる、決してAIには模倣しきれない微細な息遣いや、魂の震え。そこに、現地で丁寧に録り集めたありのままの自然の音が優しく重なり合います。 それは単なる音声作品ではありません。まるで心に染み入るヒーリングミュージックを作曲するように、セリフの一言、会話の絶妙な「間」や噛み合わせを、一音一音確かめながら編み上げています。途方もない手間と時間をかけたこの作品は、極上のリラックスアイテムとして、私自身が誰よりも完成を心待ちにしている最高のリターンです。ただ、クリエイターとしての私のこうした非効率的なまでの執着は、経営者としての私にとっては、最大の頭痛の種でもあります。 徹底的に「声」と「サウンド」にこだわり抜き、まるで映像作品において、大自然の中に何日も潜んでたった「一瞬の奇跡」を待つようなことを、息をするようにやってしまうからです。当然、会社としてはいつもコストの壁にぶつかり、そのたびに深くため息をつくことになります。それでも、この『なぎのえき』だけは、どうしても妥協できません。 以前のノートにも綴った通り、私にとってこの作品は、あまりにも激しく、切実な思い入れがあるからです。「よくある、お手軽に泣けるコンテンツには絶対にしない」そう心に誓い、すべてを投げ打つような覚悟でこの物語と向き合っています。 世間の波に乗って、もっと分かりやすく「泣ける」とか「エモい」ものに仕立てた方が、きっと賢くて器用なのでしょう。でも、そんな浅はかな誤魔化しをすれば、きっと本物の「なぎ」に呆れられ、ひどく叱られてしまう。彼女のあのまっすぐな瞳を裏切ることなど、私には到底できないのです。


脳の髄までどろりと溶けてしまいそうな、暴力的なまでの暑さだった。それがその日の、世界に対する僕の唯一の感想だった。逃げ込むように入ったコンビニエンスストアの、ひやりとした人工的な冷気に、僕たちはささやかな、しかし確かな幸福を感じていた。アイスクリームの並ぶ冷凍庫の前に立つ。ガラスのショーケースの表面には、外気との温度差が生み出した無数の水滴が、まるで精緻な抽象画のような美しい結露の模様を描いていた。「私、これ」と栞は言った。「もう、これしかない」 彼女の手に握られていたのは、王道のバニラアイスだった。思えば、栞の好みはいつだって一貫している。揺るぎない。僕はといえば、少しでも体温を下げたくて、涼しげなシャーベットを手に取った。そういえば、なぎがいつも選ぶのは決まって鮮やかなブルーのソーダ味だったな、とふと思い出した。店を出て、再び白茶けた猛暑の中へと突進する。買ったばかりのアイスは暴力的な太陽の光を浴びて、急いで食べないと指を伝ってべたべたと垂れてくる。 「ああっ、溶けるー」と栞は笑いながら、慌ててバニラアイスを口に運んだ。 「べたべただな」僕も呆れたように笑う。タクシーに乗って、例の事故現場へと向かった。窓の外を流れる夏のまばゆい景色とは裏腹に、僕の心臓の鼓動は次第に速度を増し、耳の奥でうるさいくらいに鳴り響き始めていた。 指定された場所で降り立ち、辺りを見回す。強烈な夏の光と、アスファルトの熱気、そして濃すぎる緑の匂い。どこにでもあるような、僕には何の縁もゆかりもないただの風景だ。だから、特別な感慨のようなものは湧いてこなかった。栞は道路の脇にひざまずき、静かに花を手向けて手を合わせた。僕は少し離れた場所から、そんな栞の華奢な背中をただ見つめていた。『こんな時に、他の女の人のこと見ないでよ』 不意に、なぎの声がした。 振り返らなくてもわかる。彼女はひどくふくれっ面をしているはずだ。 「なぎ、いるね」と、目を閉じたまま栞がぽつりと言った。「さっきから、ずっと私のこと叩いてくる」死んで達観するとか、高次な存在になるとか、そういうのはなぎには一切関係ないらしい。生きていた頃と寸分違わず、彼女はやきもちを焼き、拗ねている。というか、こっちが悪者なのか?『だって、だってー』なぎの怒りの矛先は、どうやら僕に向いたらしい。 『ねぇねぇ』 「ん?」僕は心の中で返事をする。 『私が死んで、悲しい?』 「もちろん」 『他の男の人とデートして、やきもち焼いた?』 「やきもちなんてもんじゃないよ。狂いそうだった」 『じゃあさ、そんな顔してみてよ』 「どんな顔だよ」 『「俺のなぎに手を出すなっ!」みたいな、すっごく必死なやつ』 「……できないよ」 『なんでー!』だって、もう君は、この世界にはいないじゃないか。 どれほど強く手を伸ばしても、その指先は夏の空気を掴むだけなのだから。『……しおりんと、付き合うの?』その問いに僕が答えるより早く、なぎの気配はふっと消え去った。 あとにはただ、強い海風に煽られてざわめく樹々の音と、アスファルトに落ちる木漏れ日の眩しさだけが残されていた。随分と長く手を合わせていた栞が、ゆっくりと立ち上がり、僕の方へ歩いてきた。 「長かったね」 「うん。ちゃんと拝んでおかないと、あの子、絶対に祟ってきそうだから」 「そうだね。間違いない」 僕は歩き出そうとする栞に、ごく自然に手を差し伸べた。栞もまた、ごく自然にその手を取った。汗ばんだ掌を通して伝わる熱。そんな些細なしぐさの中に、僕たちが共にくぐり抜けてきた年月と、確かな重力のようなものを感じていた。 これでいいんだ。こうして僕は、栞と共にこの世界を生きていくんだ。 それは揺るぎない、確定された未来のはずだった。だが——。夕暮れの海辺。 僕たちは波打ち際の砂浜をゆっくりと散歩していた。日が陰り、日中のあの刺すような暑さが嘘のように、あたりは群青とオレンジ色が混ざり合う、息を呑むほど美しいグラデーションに包まれていた。 寄せては返す波の音を聞きながら、ふたりで歩く砂浜。振り返れば、そこには当然のようにふたり分の足跡が続いているはずだった。ふと、何気なく僕たちの歩いてきた軌跡に目を落とす。 そこには、「一人分」の足跡しか存在していなかった。 栞の足跡だけが、どこにもない。波に消されたわけでも、風に攫われたわけでもない。最初から彼女の質量などこの世界に存在していなかったかのように、ぽっかりと欠落していた。僕はハッとして立ち止まり、弾かれたように栞を振り返った。 「どうかしたの?」 栞は目を丸くして、不思議そうに僕を見つめている。夕日に照らされた彼女の横顔は、完璧なまでに美しく、そして生気を帯びていた。 「い、いや……」 僕は無言のまま、栞の手を強く、痛いほどに握りしめた。決してこの世界から離さないと念じるように。僕の感じている名状しがたい恐怖とは裏腹に、栞は少し照れたように頬を染め、嬉しそうに僕の手を握り返してきた。日が落ちて過ごしやすくなったとはいえ、真夏の街を歩き回ったのだ。ホテルに戻ったときには、僕たちはすっかり汗だくになっていた。 どちらが先にシャワーを浴びるかという、他愛のない短い議論の末、僕が先にバスルームを使うことになった。 熱いシャワーを浴び、髪を洗い始めたちょうどその時だった。——バーン! 勢いよくドアが開く音がして、弾かれたように栞が入ってきた。 「バーン……? そんなキャラだったか?」 僕は目を白黒させた。栞はそんな擬音を口にするようなタイプの女性ではないはずだ。 「シャンプー、どこ?」 栞は有無を言わせず僕の背中に回り込み、濡れた肌をまさぐるように手を這わせた。「あったー」と彼女は言い、そのまま濡れた僕の背中越しに、深く、貪るようなキスをしてきた。 一体、どうしたというんだ? 栞はそのまま、熱を帯びた身体を僕に強く押し付けてくる。耳元で、彼女の荒い息遣いと、熱い吐息を感じた。 「このまま、して……」 栞は甘えたような、それでいてどこか切羽詰まったような声で囁いた。激しく身体を重ね合ったあと、すっかりのぼせ上がった僕たちは、転がるようにしてベッドルームへと戻り、そのままシーツの上で行為を続けた。それは、今までの栞との静かで確かめ合うような繋がりとは決定的に違う、もっと本能的で、焦燥感に駆られたような交わりだった。「熱いー……」 ひとしきり行為を終え、僕たちはそのまま乱れたベッドに倒れ込んだ。エアコンの乾いた風が、火照った身体を撫でていく。 栞は砂漠でオアシスを見つけた遭難者のようにふらふらと立ち上がり、部屋の冷蔵庫へと向かった。 「アイス、買ってたよね」 カチャリと扉を開ける音。そして、彼女が僕の元へ持ってきたものを見て、僕は息を呑んだ。 それは、鮮やかなブルーの色をした、ソーダ味のアイスキャンディーだった。 栞はそれを両手で持ち、真ん中からパキリと半分に折った。そして、その片方を無邪気な笑顔で僕に差し出した。「はい、これが仲良し」その瞬間、部屋の空気が凍りついたように感じた。 それはかつて、なぎがいつも口にしていた言葉。なぎの絶対的なルール。 バニラしか選ばないはずの栞が、なぜソーダ味を? どうして、なぎの言葉を?僕は差し出された冷たいアイスを受け取りながら、目の前にいる「彼女」の顔を、穴の開くほど見つめた。「……栞?」部屋の奥で、低いモーター音が静かに鳴り続けていた。


人間が人間を演じる。 それは本来、互いの魂の輪郭を手探りでなぞり、重ね合わせるような、ひどく恐ろしくて美しい奇跡のはずです。けれど、誰かに自分の書いた言葉を託すとき、しばしば「技術」の話ばかりが先行してしまうことに、私はいつも静かな絶望と寂しさを感じてきました。「このセリフの語尾は、少し息を抜くように吐きましょうか」 「ここではこういう感情を作って、間を取りましょう」たしかに、それは正しい「表現の技術」なのかもしれません。けれど、私が本当に望んでいるのは、そんな表面的な上手さではないのです。私が求めているのは、言葉のずっと奥底にある、冷たくて重たい「哲学」に触れてもらうこと。なぜそのセリフが、血を流すような痛みを伴ってこの世界に生まれ落ちなければならなかったのかという、作品の根源的な意義を共有することです。でも、私がそんな目に見えない精神や哲学の話ばかりをしていると、必ず壁にぶつかります。 「難しすぎて理解できません」 「もっと具体的に、どう読めばいいか指示をしてください」 時には隠しきれない苛立ちとともに、そんな声が返ってくることもあります。効率よく「正解」を出したい現代において、私の要求はひどく面倒で、理解しがたいものなのでしょう。それでも、私は決してそこを譲りたくはないのです。私は、ただ綺麗に整えられた、淀みのない朗読や演技なんて求めていません。「上手い」と言われるだけの表現なら、今の時代、AIにだってできるのですから。 私が演じる人に求めているのは、ただ一つです。私と同じように作品の深い世界観の中へ潜り込み、安全な「演者」という場所を捨てて、こちら側――つまり、「創造者」の側に立ってほしいということ。言葉の裏側にある哀しみを理解し、登場人物たちと共に迷宮を彷徨い、本当に心が動いた瞬間にだけ、声帯を震わせてほしい。たとえそれが不器用でも、声がひっくり返っても、呼吸が乱れてしまっても構わないのです。 技術という鎧を脱ぎ捨てて、生身の魂で言葉とぶつかり合ってほしい。「理解できない」と拒絶される孤独を抱えながらも、私はずっと、そんなふうに祈るような気持ちで作品を創り続けています。 この祈りが、いつか誰かの心の最も深い場所に届き、共に暗闇の中で光を創り出す共犯者に出会えることを信じて。そう願って、この作品のオーディオドラマの制作を勧めています。原作者・演出家である私も、出演者も、感覚を研ぎ澄ませてこの『なぎのえき』に取り組んでいます。きっと「よくある作品じゃない」と感じていただけると思っています。消費されるバズるコンテンツではない、ずっと心の中に残る、自分がつらい時に、一筋の光に感じられるような作品を生み出すために、皆で必死になっています。


新しいアイデアや挑戦を、アプリで見つけるcampfireにアプリが登場しました!
App Storeからダウンロード Google Playで手に入れよう
スマートフォンでQRコードを読み取って、アプリをダウンロード!