『なぎのえき』癒しと郷愁の物語

孤独に戦い、感情を麻痺させている人へ。 「立派な大人」を演じ続けるのはもう終わりにしませんか。 そこは夕暮れの無人駅。佐賀県唐津市を舞台にした写真とオーディオドラマによる没入型アートです。都会のスピードに疲弊した大人が、いつでも日常から「途中下車」できる癒しのツールをお届けします。

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孤独に戦い、感情を麻痺させている人へ。 「立派な大人」を演じ続けるのはもう終わりにしませんか。 そこは夕暮れの無人駅。佐賀県唐津市を舞台にした写真とオーディオドラマによる没入型アートです。都会のスピードに疲弊した大人が、いつでも日常から「途中下車」できる癒しのツールをお届けします。

唐津の風には、どこか遠い日の記憶を呼び覚ますような、特有の匂いが混じっている。なぎという少女に明確なモデルが存在するように、栞という女性にもまた、確かなモデルがいる。実際にはいくつかのかけがえのない記憶を重ね合わせた、精緻なシルエットのようなものだけれど、彼女たちが僕の中に確かに息づいているからこそ、その輪郭を言葉にしていく作業には、薄いガラスを扱うような神経のすり減りを伴う。とりわけ、なぎの姿を文章として定着させようとするとき、僕はいつも、ひどく息苦しい思いをしている。それはまるで、新しく失恋をやり直しているかのような、鮮烈でどうしようもない痛みだ。僕はそれほどまでに、彼女の存在の深みへと身を投じてしまっている。もしも、現実のこの世界で『なぎのえき』に描いたような再会が許されるとしたら。僕は靴を履き、迷うことなくその場所へ向かうだろう。もう一度だけ、彼女の目を見て、きちんと向き合いたい。その静かで、けれど決して消えることのない切実な願いこそが、僕をこの物語へと向かわせるたったひとつのエンジンなのだと思う。一つのエピソードを書き終えるたび、身体の芯から深い虚脱感が広がり、時には悲鳴をあげるような痛みを覚える。自分の魂を削り、削り出したものを言葉に乗せる。もし、この途方もない行為を「創作」と呼ぶことが許されるのなら、僕はこの作品を通して、初めて本当の意味でのクリエイターになれたのかもしれない。この小説の言葉たちは、閉ざされた机の上だけで生まれたものではない。何度も、何度もこの唐津の地を訪れた。山本駅のホームに立ち、この町を吹き抜ける風の温度や、光の角度、そして静寂の質を皮膚で感じながら、僕は物語を紡いでいる。なぎという存在に息を吹き込んでくれる桜乃遥香さんもまた、目まぐるしい日々の中で、この作品のために丁寧に時間を割き、向き合ってくれている。 初めて彼女と共に、ロケハンで山本駅のホームに降り立った日のことは、きっと生涯忘れない。色褪せない駅舎のたたずまいと、彼女がそこに立つだけで生まれる空気感。そのふたつがあまりにも僕のイメージと完璧なピントで重なり合い、僕は一瞬、声を失ってしまった。これは、奇跡としか言いようのないめぐり合わせだ。 唐津・山本駅という特別な「場所」、僕の中に眠る捨てきれない「記憶」、そして素晴らしい「表現者」。そのすべてが、これ以上ないほど美しい形で結像した。二度とは訪れない、奇跡のような作品が、いま、この静かな駅から始まろうとしている。


壊れかけて、ひび割れたガラス細工のようになってしまった栞を、僕の小さなアパートに迎え入れたとき。僕たちの間には、言葉にしない、水のように自然な「いくつかのルール」が生まれた。それは外界からのノイズを徹底的に遮断し、この四角い部屋を世界で一番安全な繭(まゆ)にするための儀式だった。何気なく点けるテレビ番組も、感情の起伏を強要するようなものは避けた。ドラマの愛憎劇や、誰かが誰かを陥れるようなバラエティ番組は、いまの栞の薄い皮膚には刺激が強すぎる。 僕たちが好んだのは、地方のひなびた町を歩き、まったりと定食を味わうようなグルメ紀行だった。大食いでもなく、ただ温かい湯気を立てるご飯を「美味しいね」と笑って食べる。そんな平熱の時間がちょうどよかった。 その影響は、確実に栞の身体の輪郭を柔らかくした。特にお腹周りについたほんのわずかな丸みは、彼女がこの部屋で安心し、栄養を吸収しているという何よりの証拠で、僕にはそれがとても愛おしかった。基本的に、僕たちは「何もしない」という時間をゆっくりと消化して過ごした。 根が真面目で完璧主義な優等生だった栞は、最初「何もしないこと」に強い罪悪感を抱いているようだった。だから僕は、「暖房を消してベッドで一緒に過ごすのは、地球環境に配慮した立派なエコ活動だ」という、呆れるような大義名分を掲げた。 すると栞は、ふっと肩の力を抜いて、すんなりとそれに従うようになった。冬の冷たい空気のなか、ベッドの毛布にくるまり、僕の体温で栞を温める。それが日課になった。 そのまま午睡に落ちてしまっても構わない。先に目覚めたほうが夕飯の支度をするか、献立を思いついたほうがキッチンに立つ。 料理は、冷蔵庫の残り物でジャズのように適当なアレンジを加える僕が作ることが多かった。栞はレシピという「正解の譜面」が先にあり、それに合わせて食材を完璧に揃えなければならないと考えるタイプだったからだ。あとは、お風呂。 以前はお互いにシャワーだけで済ませがちだったけれど、毎日必ず、狭い浴槽にたっぷりとお湯を張るようになった。一度だけ「一緒に入る?」と誘ってみたが、物理的な狭さゆえに断られた。 それでも、立ち上る白い湯気の中で身体を沈める時間は、溶け合ってしまいそうな「今日」と「昨日」の境界線をきっちりと引き直し、一日をリセットするための大切な句読点になった。知人も友人も極端に少ない僕の生活圏では、電話のベルが鳴ることはほとんどない。外部との繋がりは、パソコンの無機質な電子メールと、小さな液晶画面が光るポケベルだけ。 それでも、僕は音に気を遣った。 外出するときは、まるで遠足に行く子供のように、行き先と帰宅時間を正確に伝えた。出先からの公衆電話やポケベルでの連絡も欠かさなかった。 栞が会社に退職願を出したとき、彼女はその後の行き先を少しだけぼかした。もう、彼女の帰る場所はこの部屋しかないのだと、暗黙の了解がそこにはあった。ある日の深夜。 いつものようにベッドで微睡んでいると、ふと、隣にあるはずの温もりが消えていることに気がついた。 ベランダへ続く掃き出し窓が、半分だけ開いている。都市の冷たい夜風が、薄いカーテンを幽霊のように揺らしていた。ドクン。 心臓が警鐘を鳴らすように大きく跳ねた。それを合図に、僕は慌ててベッドを抜け出し、ベランダへと出た。 そこには、手すりに寄りかかり、夜の街を見下ろしている栞の背中があった。 僕は彼女を驚かせないよう、スリッパの底でわざと小さく音を立てながら近づき、その華奢な肩に触れた。「寒くない?」 「寒い……。でも、それがいい」 僕は、手に持ってきた上着をそっと彼女の肩にかけた。 僕のアパートはたかだか三階建てだが、小高い坂道の上にあるため、視界を遮るものがない。不便な坂道と引き換えに手に入れた、宝石箱をひっくり返したような夜景が広がっていた。「あんなに、人がいるんだね。こんな夜中なのに」 光の瞬きのひとつひとつに、誰かの営みがある。 「そうだね」 「なのに……この部屋は、別の宇宙みたい」 「ふたりでいる。それだけでいい」僕は夜風に溶けるような声で言った。「悪くない宇宙だ」後ろから、栞の身体をすっぽりと抱きしめる。 栞は僕の腕に自分の手を重ね、その体温の感差をしばらく楽しむように撫でた後、冷え切った僕の手を導き、自分の胸へと添わせた。 薄い布地越しに、栞の柔らかなふくらみと、かすかな硬さが手のひらに伝わってくる。「いま、いまはね、幸せ」 夜空を見上げたまま、栞がぽつりと言った。 「この幸せって、終わりがくる?」 「いちおう、あるかもね」 「いつ?」 「願わくば、ずっと後。希望は、寿命まで」 「……寿命まで?」「それまでは、そばにいてよ」 「…………ずっと、生きてて」 「善処する」僕は、栞の胸に置いた手を、確かめるようにゆっくりと動かした。 栞の呼吸が、次第に浅く、早くなっていく。熱を帯びた吐息が、冬の冷気を切り裂いて僕の耳たぶに触れた。ひどく、あたたかい。 栞は少しだけ顔を振り向き、僕の耳たぶに柔らかな唇を寄せた。 そうして、普段の彼女からは想像もつかないような、甘く濡れた声量で、夜の底に溶かすように呟いた。「——欲しい」「ふたりだけでいい」と完結した宇宙に引きこもっていても、やはり時には外の空気を吸いたくなる。 その日、僕たちは郊外のショッピングモールへ出かけることにした。息の詰まる満員電車を避け、少し遠回りになるのんびりとした路線バスを選んだ。 ファッションや流行に興味を失っていたように見えた栞だが、やはりそこは美しい女性としての本能なのか、綺麗に身支度を整え、バスの座席に揺られながら微かに鼻歌をこぼしていた。 ふたりでよく観ていた人気アニメの主題歌。その小さなメロディが、車内に差し込む光の粒子に乗って踊っているようだった。季節外れの、狂ったような暑さの日だった。 突き抜けるような青空から、暴力的なまでの陽射しがアスファルトを焼き付けている。 乗り換えのバス停。照り返しで蜃気楼が揺れる中、僕は自動販売機で冷たい飲み物を買い、日傘の下の栞に声をかけた。「何か飲む?」 「あなたが飲むのを、少し頂戴」 「了解。はい、点滴液ね」 僕がスポーツドリンクのペットボトルを差し出すと、栞は目を細めてふわりと笑った。ああ、澄み切った笑顔だな、と思った。 ようやく、心の底から吹っ切れたのだろうか。 けれど、陽光に透ける彼女の背中に、僕はなぜか、ぞわりとした不穏な影を感じ取っていた。——あ。車の往来をぼんやりと見つめていた栞の背中に、嫌な予感が走った。 「……栞」 僕の声に、栞がゆっくりと振り返る。 その笑顔。その立ち姿。何かが決定的に歪んでいた。 強烈な逆光のなか、栞の輪郭が、まるで蜃気楼のようにぐにゃりと歪んで見えた。 彼女の足が、ふらりと、引き寄せられるように車道の方へ向かって踏み出される。そっちに行ってはダメだ。 明るすぎる陽射しのなかで、栞という存在そのものが、光に溶けて消えてしまうように見えた。「栞ッ!」 僕はペットボトルを放り出し、全力で手を伸ばした。 彼女の細い手首を掴み、歩道側へと強く引き戻す。 その瞬間、僕の足が縁石の何かに引っかかった。視界が、コマ送りのように奇妙に歪む。 驚愕に見開かれた栞の瞳。 彼女が歩道のアスファルトに倒れ込むのと、止まらない慣性の法則に従って僕の身体が車道へと放り出されるのが、まるで入れ替わりのように同時だった。スローモーションの視界。 夏の強烈な光を切り裂いて、巨大な鉄の塊と、ギラギラと反射するヘッドライトが急激な勢いで迫ってくる。 音が消えた。世界がカットアウトされる。(……しまった)ドンッ! 激しくも、奇妙なほど鈍い衝撃が頭部を貫き、視界がぐるぐると回転した。 青い空、白い雲、黒いアスファルトがマーブル状に混ざり合う。 何だ、どうなっている? 不思議と、頭の芯が痺れる以外の痛みは感じなかった。 ただ、遠くの方で、栞が絶叫している。僕の名前を叫んでいた。 普段は絶対に「ねぇ」か「あなた」としか呼ばない彼女が、喉が裂けるような声で、僕の固有名詞を呼んでいる。 (あぁ、こんな時は、そんな風に呼ぶんだ……) そんなピントの外れたことをぼんやりと考えていると、まるで古いテレビの電源を落としたときのように、視界の真ん中からぷつりと、世界は真っ暗な闇へと沈んでいった。本連載につきまして、大切なお知らせがございます。 これまで本編を全編公開してまいりましたが、前回の更新からは【一部分のみの公開(先行公開・試し読み)】へと移行させていただきます。Webでの全編公開は終了となりますこと、何卒ご了承ください。今後も、物語の不穏な空気感や、ヒロインたちの感情の揺れ動きを感じていただける「物語の断片」は引き続きお届けしてまいります。栞と僕の行き着く先、そしてなぎの真実。 物語の核心に迫るすべてのエピソード(完全な結末)につきましては、現在挑戦中のクラウドファンディング限定リターンである『なぎのえき 完全版』および『オーディオドラマ』にて完全収録してお届けいたします。私たちが目指す「唐津の風景を永遠の聖地(ARアート)にする」という挑戦。 この先の物語を最後まで見届け、共にその未来を創る「共犯者」になっていただける方は、ぜひ下記のプロジェクトページより詳細をご覧ください。引き続き、『なぎのえき』をよろしくお願いいたします。


しおりとのへや
2026/07/07 12:28

深夜の東京の空は、厚い雲に街のネオンが反射して、どこか不健康な紫色に濁っていた。窓ガラスには、初夏の湿気を帯びたぬるい雨が幾筋も流れている。僕の部屋に着いた栞をリビングのソファに座らせ、僕はキッチンへ向かった。換気扇の低い唸り声だけが、ふたりきりの空間に響いている。 お湯を沸かしながら、戸棚からココアの粉末を取り出す。以前、輸入雑貨の店でふたりで選んだ、ベルギー産のひどく甘いココアだ。ブラックコーヒーの苦味しか受け付けない僕にとっては、暴力的なまでの糖度の塊でしかなかったが、栞はそれをとても好んで飲んだ。 この甘い泥のような液体に、彼女はさらにチョコレートなどの茶請けを添える。どうしてその細い身体のどこにあのカロリーが消えていくのか。そんなことをぼんやりと考えながら、僕は無意識のうちに、ソファに沈み込む栞の身体の輪郭をなぞっていた。 華奢な肩のライン。薄いブラウスの下で静かに上下する胸の膨らみ。膝を揃えて座る、白い脚。 いかんいかん。僕は頭を振り、小さく息を吐いてマグカップに湯を注いだ。「ここに着替え、置いておくから」 僕が声をかけると、栞はビクッと肩を震わせた。 「ベッドで寝て」 「うん、ありがとう」 栞は力なく頷き、そして、ふと顔を上げた。 「……ねぇ」 「どうした?」 「……ありがとう。いいの? こんなにしてもらって」 「したくてしているんだ」 僕は彼女の瞳をまっすぐに見つめた。 「甘えてくれ」 「甘党だからね、私」 「知ってる」タクシーでの移動中は死人のように押し黙っていた栞だったが、部屋の空気に触れて少し調子が戻ってきたのか、ポツリポツリと声を発するようになった。 僕が貸した大きめのTシャツとスウェットに着替えた栞は、自分の胸元を掴み、ふと鼻を近づけた。 「あの柔軟剤、使ってくれてたんだ」 それは以前、栞が僕の部屋のために買ってきた、微かにシトラスの混じるフローラルの香りだった。 「あぁ、好みの香りなんだ。それに、他のを買いに行く必要もないしな」 栞は、何度も何度も、Tシャツの襟元に顔を埋めてその香りを嗅いだ。それはまるで、この無機質な僕の部屋に自分の存在の痕跡がしっかりと許されていることを確かめるような、痛切なまでの確認作業だった。彼女の表情が、ほんの少しだけ、泣き出しそうなほど幸せなものに歪んだ。「はい、ココア」 「ありがとう」 両手でマグカップを受け取った栞は、フッと息を吹きかけ、口をつける。 「熱っ」 「あわてないでいいよ、ゆっくり飲んで」 「熱っ」 「懲りろよ」 他愛のない、でも僕たちにとっては絶対的に必要なやり取り。 ふと、栞が上目遣いで僕を見た。 「居て、いいの?」 「そのつもりで連れてきたんだ」 「いけないときは出ていくからね」 「そんな必要はない」 「なぎが来たら、ちゃんと外で時間つぶすから」 「そんな気遣いするなよ」 「でも……」 「居てくれよ」沈黙が落ちた。窓を叩く雨音だけが、部屋の隙間を埋めていく。 「……ん」 栞はマグカップをテーブルに置き、俯いた。 「私は……なぎみたいに明るくもないし、可愛げもないよ? わがままなとこはちょっと共通してるけど……」 「最高かよ」 「でも、一緒にいていいって思えるように、頑張る」 「頑張らなくて……も……」言葉が、喉の奥でつかえた。 その先を紡ぐ前に、視覚が僕の思考をショートさせたのだ。 栞は俯いたまま、ダボダボのTシャツの裾から両手を潜り込ませていた。背中に回った手が、布越しの微かな動きとともに、何かを外す。 カチャリ。 小さな、しかし決定的な金属音が鳴った。栞は器用にブラジャーを外し、Tシャツの首元からそれを引き抜いて、静かにソファの脇に落とした。 重力から解放された柔らかな胸の気配が、Tシャツの生地を通して生々しく伝わってくる。部屋の温度が、急激に上昇したような気がした。「頑張ったら……ダメかな?」 栞が、濡れた瞳で僕を見上げた。 「私は、頑張ったら……ここで頑張ったら、ダメかな」 「…………」 声が出なかった。全身の血液が沸騰し、思考を奪っていく。泣きそうな顔で、自分自身の存在すべてを僕に委ねようとする彼女の脆さと、圧倒的な雌としての匂い。 僕は全力で、喉の奥から声を絞り出した。 「あとは、僕が預かる」僕は手を伸ばし、栞の唇を塞いだ。 「……はい……っ」 唇の隙間から、彼女の嬉しそうな、甘い吐息が漏れた。僕は栞を抱き上げ、ベッドへと横たえた。 僕たちの行為は、とても静かなものだった。ポルノ映画にあるような暴力的な激しさも、芝居がかった声もない。ただ、限りなく静謐な時間の中、シーツが擦れる微かな音と、耳元で熱を帯びていく栞の吐息だけがあった。 ただ、栞が愛おしかった。彼女の冷え切った魂を、僕の体温で溶かしたかった。 互いに手探りの、不器用な触れ合い。しかし、そこには圧倒的な安堵があった。僕の手が彼女の滑らかな肌を滑り、彼女の爪が僕の背中に食い込む。熱を帯びた粘膜が交わり、互いの汗が混じり合う。 それは、文字通り「一緒になる」という感覚だった。ふたりの肌が溶け合い、どこまでが僕で、どこからが栞なのか、その境界線が完全に消失していく。 これが、誰かと「一緒」になるということなのか。「大好き……ずっと、ずっと……好き」 栞は僕の背中に回した腕に力いっぱいの想いを込めながら、耳元でハッキリとそう言った。そして、照れ隠しのように激しく、貪るように唇を押し付けてきた。 静寂だった部屋は、やがて甘く湿った栞の吐息と、ふたりの肉体が重なり合う水音に完全に支配されていった。「……あっ……」 栞の身体が大きく反り返り、甘い声を上げた、その瞬間だった。コン、コン。玄関のドアをノックする硬質な音が、僕たちを現実に引きずり戻した。 栞がハッと息を呑み、自らの口を両手で強く押さえて息を殺した。僕の背筋を一瞬にして氷のような悪寒が駆け下りる。『せんせー、帰ってないの?』 なぎの声だ。 何故。何故、よりによって今日なんだ。 思考が激しく空回りする。このまま息を殺してやり過ごそう。居留守を使えば、そのうち諦めて帰るはずだ。 いや、ダメだ。 ——合鍵。なぎは、この部屋の合鍵を持っている。ガチャガチャと、ドアの向こうでなぎがバッグの中を漁る音が聞こえる。 時間が凍りついた。僕と栞は、身体を深く繋げたまま、まるで石像のように硬直していた。 息を殺していた栞が、ゆっくりと僕を見た。 その瞳に宿っていたのは、恐怖ではなかった。先ほどまでの脆く震えるような少女の光は消え失せ、そこには底知れぬ暗い炎が燃えていた。 栞は、僕の背中に回していた腕を、逃がさないようにしっかりと固定した。「……えっ!?」 僕が声を漏らすより早く、栞は僕にまたがったまま、自らの腰を再び動かし始めた。 「栞?」 「もっと……気持ちいい……っ」 「栞……いま……は……」 「お願い……」 止めようとする僕の顔を両手で挟み込み、栞の細い指が、僕の耳を塞いだ。 外部の音を物理的に遮断する、強烈な独占。【次回以降の連載に関するお知らせ】いつも『なぎのえき』をご愛読いただき、心より感謝申し上げます。 皆様からの温かいご感想や熱い反響が、執筆の何よりの原動力となっております。本連載につきまして、大切なお知らせがございます。 これまで本編を全編公開してまいりましたが、次回以降の更新からは【一部分のみの公開(先行公開・試し読み)】へと移行させていただきます。Webでの全編公開は終了となりますこと、何卒ご了承ください。次回以降も、物語の不穏な空気感や、ヒロインたちの感情の揺れ動きを感じていただける「物語の断片」は引き続きお届けしてまいります。栞と僕の行き着く先、そしてなぎの真実。 物語の核心に迫るすべてのエピソード(完全な結末)につきましては、現在挑戦中のクラウドファンディング限定リターンである『なぎのえき 完全版』および『オーディオドラマ』にて完全収録してお届けいたします。私たちが目指す「唐津の風景を永遠の聖地(ARアート)にする」という挑戦。 この先の物語を最後まで見届け、共にその未来を創る「共犯者」になっていただける方は、ぜひ下記のプロジェクトページより詳細をご覧ください。引き続き、『なぎのえき』をよろしくお願いいたします。


唐津市、山本駅。 初夏の風が吹き抜け、冬には冷たい潮騒の匂いが届くような、静かで美しい場所。この『なぎのえき』という物語の舞台として、この場所を選ばせていただいた時、地域にお住まいの皆様の中には、こう感じる方もいらっしゃるかもしれません。「静かな日常を乱されたくない」「見知らぬ人がウロウロするのは、正直面倒くさい」その懸念は、痛いほどわかります。 小説の舞台になり、AR(拡張現実)のスポットができることで、確かにこの駅には「外からの人」が訪れるようになります。それは、皆様が守ってきた平穏な日常に、小さな波風を立てる行為(デメリット)に他なりません。それでも。 どうしても、この場所でなければならなかった理由と、皆様にお伝えしたい「このプロジェクトが地域にもたらす、未来への確かな価値」があります。忘却という一番の悲劇から、この風景を守るために地方の駅舎や美しい風景は今、静かに、しかし確実に失われつつあります。 「何もない静かな日常」は、時として「誰も来ない、忘れ去られる場所」へと姿を変え、やがて風景そのものが維持できなくなる時代です。このプロジェクトは、単なる観光客誘致のお祭り騒ぎではありません。今ここにある山本駅の美しい姿と空気を、テクノロジー(AI×AR)と「文学」という真空パックに閉じ込め、永遠に色褪せないデジタルアーカイブとして後世に残すための挑戦です。この作品を通して、地域には以下のような新しい価値が生まれます。 「静寂」を愛する、敬意を持った訪問者の創出この物語に惹かれて訪れる読者は、決して大声で騒ぐような観光客ではありません。純文学の痛みに寄り添い、主人公と同じように駅のベンチで静かに風を感じ、皆様の土地に深いリスペクトを払う「質の高い訪問者(関係人口)」です。彼らは、地域の静けさを壊すのではなく、静けさを味わいに来ます。 見慣れた日常が「誇り」に変わる瞬間皆様にとっての「いつもの駅」が、全国の読者にとっては「一生に一度は訪れたい、憧れの場所」になります。遠方からわざわざ足を運ぶ若者たちの姿を見ることで、この土地の風景がいかにかけがえのない財産であるかという「地域の誇り(シビックプライド)」を、世代を超えて共有することができます。 「物語の舞台」としての新しい経済循環無秩序な開発ではなく、文化的なアートスポットとして認知されることで、周辺の交通機関や飲食店へ、無理のない、優しく持続可能な経済の還元が生まれます。 共に、物語の「守り手」になっていただけませんか私たちは、山本駅周辺の日常を「消費」したいわけではありません。 皆様が大切に紡いできたこの土地の空気を借りて、絶対に忘れ去られない「物語の城」を築きたいのです。「面倒くさい」を乗り越えた先には、この駅が単なる交通機関から、誰かの心を救う「永遠の聖地」へと生まれ変わる未来が待っています。どうか、この美しくも狂おしい物語と、最新技術が交差する挑戦を、温かく見守り、共にこの風景を守り抜く「共犯者」になっていただけないでしょうか。 皆様の土地の力が、この物語には必要不可欠なのです。


栞のいる密室
2026/07/06 12:39

「ねぇ」 「ん?」 栞は、まっすぐに僕の瞳の奥を見据えて言った。 「好き、大好き」言葉の端々に、まるで遺書に捺すような重く確かな決意が滲んでいた。 栞はいつだってそうだ。輪郭の曖昧なこの都会で、彼女だけが、言葉という刃物で自分の輪郭を正確に切り出そうとしていた。初めて僕にその言葉を告げたあの夜も、彼女の周りには、息が詰まるような不穏な空気がまとわりついていた。上京してからの僕たちは、それぞれの時間を生き、それぞれの孤独を模索していた。けれど、模索した先に行き着くのは、いつも同じ場所だった。 僕には他者と比較して愛や友情を測る基準なんてなかった。友人は少なく、大学の講義が終われば、ただ無機質なワンルームに帰るだけの生活。だから、栞と多くの時間を過ごすようになったのは、重力に引かれるような必然だった。一方で、唐津に残るなぎとの距離は、物理的な距離に比例するように少しずつ遠のいていった。それでも、彼女からの電話は毎日のように僕の夜を揺らした。 「男の一人暮らしだもんね、絶対散らかってるでしょ? 今度遊びに行くときまでに、エッチなのはちゃんと隠しときなね」 無邪気な声が、スピーカー越しにコロコロと笑う。けれど実際の僕の部屋は、散らかることなどほとんどなかった。 栞が訪ねてくるたびに、僕の部屋には新しい収納グッズが増えていった。僕は娯楽を必要としない人間で、散らかるほどの物すら持っていなかったのに、彼女は少しでも僕の生活の余白を見つけると、そこを丁寧に、きっちりと埋めていった。ある夏の日のことだ。なぎが突然、夏休みを利用して東京へやって来た。 僕の部屋のドアを開けた瞬間(いつの間に合い鍵を作ったのか、それがなぎだ)彼女の顔に浮かんだのは、明らかな落胆だった。自分が世話を焼く隙間なんて微塵もないほど、完璧に整理整頓された部屋。 その時、偶然訪ねてきた栞が見せた表情を、僕は今でも忘れられない。いつもは「優しいお姉さん」の顔をしてなぎに接する栞が、あの瞬間だけは、勝者のような、酷薄なほど美しい微笑みを浮かべていた。あれは間違いなく「女」の顔だった。*東京での生活が一年を過ぎる頃、栞が僕の部屋を訪れる回数は目に見えて減っていった。 社会の波に呑み込まれ、彼女の時間は少しずつ削り取られていた。送られてくる電子メールの文面は日を追うごとに崩れ、時には思考が途切れたように、不自然な場所で打ち切られたメッセージが届くこともあった。 なぎとは違い、栞は決して電話をかけてこなかった。 『社会人だから、電話をするとあなたの時間を奪っちゃうでしょ?』 それが彼女の理屈だった。けれど本当は、彼女自身がギリギリの淵に立っていたのだと思う。自分の輪郭が崩れ落ちそうになるのを必死に堪えながら、それでも僕へのメールだけは欠かさなかった。そして、一週間。 栞からの連絡が、ぷっつりと途絶えた。 体調を崩していないといいが。そんな漠然とした不安を抱えていた夜、突然、僕の携帯電話が鳴った。画面には、栞の名前が光っていた。「……あ、ごめんなさい、電話しちゃって。なんとなくね、連絡できなかったから」 「ちゃんと食べてる?」 僕が言うべき台詞を、彼女が先回りして言う。他愛のない話題をいくつか紡いだ後、彼女の声がふと、深淵を覗き込むように震えた。 「ん……あのね、えっと……」 ひどく歯切れが悪い。 「うん、ちゃんと言うね。……あなたが好き、大好き」 そして、一拍の沈黙。 「……です」電話は、一方的に切れた。 ツーツー、という無機質なビジートーンが、耳の奥でけたたましい非常ベルに変わった。 何かがおかしい。栞に告白されたという甘い感情よりも先に、その言葉の裏に隠された致命的な「SOS」が、僕の皮膚を粟立たせた。 頭の中で警告音が鳴り響く。僕はスニーカーの踵を踏み潰すようにして部屋を飛び出した。 アスファルトに反射する都会のネオンが、やけに目に突き刺さる。表通りに飛び出し、通りかかったタクシーの前に身を投げ出すようにして乗り込んだ。 「急いでください。この住所まで」 深夜の東京。渋滞のない道でさえ、風景が流れる速度がひどく遅く感じられた。 (頼む……) 僕は窓枠を強く握りしめ、すべての赤信号を心の中で激しく呪った。心臓が痛いほどに脈打ち、五感のすべてが栞の安否だけに集中していた。タクシーが停まるや否や、僕は栞のマンションへと駆け込んだ。階段を三段飛ばしで駆け上がり、彼女の部屋の前に立つ。 息を呑んだ。 ドアの真ん中に、手書きの張り紙があった。 『立ち入り禁止』 心拍数が限界まで跳ね上がる。僕は狂ったようにドアベルを連打し、ドアノブを乱暴に回した。 「栞っ!」 肺の底から叫んだ。 すると、僕の声が最後の呪文であったかのように、ガチャリと、重い金属音を立ててドアが内側から開いた。薄暗い玄関の隙間から、生気を失った栞が顔を覗かせる。 僕は考えるよりも先に、彼女の身体を強く抱きしめていた。 肩越しの視界。彼女の部屋の奥、リビングのテーブルには、硫化水素を発生させるための道具が無機質に並べられていた。床には『立ち入り禁止、毒ガス発生中』と書きなぐられた、何枚もの試し書きが散乱している。 間に合った……。 安堵で膝から崩れ落ちそうになったのは、僕の方だった。 栞はそのまま、僕の腕の中で糸が切れたようにへたり込んだ。 「ベッドまで、歩けるか?」 力なく首を振る栞。僕は彼女の冷え切った身体を抱き上げ、寝室へと運んだ。 (違う。間に合ったんじゃない。今が、彼女が壊れるかどうかのギリギリの境界線なんだ) 僕は栞をゆっくりと、壊れ物を扱うようにベッドへ寝かせた。部屋の惨状に、胸が締め付けられた。あんなにも完璧だった彼女の部屋が、未処理の仕事の書類や脱ぎ散らかされた服で、足の踏み場もないほどに乱雑になっていた。 「……な……んで」 栞が、掠れた声で呟く。 「告白の答えは、早いほうがいいだろ」 僕が無理に笑ってみせると、部屋の隅で、彼女の仕事用の携帯電話がけたたましく鳴り始めた。 ビクッと肩を震わせ、反射神経だけで電話に手を伸ばそうとする栞。僕はその震える手を、そっと、しかし力強く押さえ込んだ。 「いいから。この部屋の時間は、僕が預かる」 「……いいの?」 「いいんだ」 僕が頷くと、栞は両手で自分の顔を覆い隠した。 「見ないで。……お化粧、してないの」 「高校の時は、ずっとすっぴんだったじゃないか」 「前とは違うよ……。もう、あの頃みたいに綺麗じゃない」 僕は彼女の手を優しく退け、涙で濡れた頬に触れた。 「化粧している栞は綺麗だよ。でも、僕が好きなのは、今の栞だ」 その瞬間、栞が僕の首に腕を回し、すがりつくように抱きついてきた。 僕は、彼女の背中に腕を回す。強く抱きしめれば折れてしまいそうなほど、今の彼女は脆く、そしてひどく冷たかった。 社会の冷たい波音を打ち消すように、僕はただ、彼女の体温を自分の中に刻み込むように抱きしめ続けた。その間も、部屋の片隅では着信音が何度も鳴り、そして途切れることを繰り返していた。 僕は、彼女の耳元で囁く。「……ウチに行こう」それは、彼女を世界から隔離するための、最初の、そして最も甘い呪いだった。


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