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デフフットサル日本代表OURVISION W杯渡航費プロジェクト

男子・女子デフフットサル日本代表は11月のスイスで行われるW杯に出場することが決定しました。 ですが渡航費用や滞在費も選手の自費での負担で賄っている状態です 選手の負担を減らし、沢山の方に応援していただき、男女共に日本フットボール界ではまだ成しえていない【男女W杯アベック優勝 】を目指します

現在の支援総額

4,554,500

22%

目標金額は20,000,000円

支援者数

726

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2019/05/30に募集を開始し、 726人の支援により 4,554,500円の資金を集め、 2019/07/31に募集を終了しました

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デフフットサル日本代表OURVISION W杯渡航費プロジェクト

現在の支援総額

4,554,500

22%達成

終了

目標金額20,000,000

支援者数726

このプロジェクトは、2019/05/30に募集を開始し、 726人の支援により 4,554,500円の資金を集め、 2019/07/31に募集を終了しました

男子・女子デフフットサル日本代表は11月のスイスで行われるW杯に出場することが決定しました。 ですが渡航費用や滞在費も選手の自費での負担で賄っている状態です 選手の負担を減らし、沢山の方に応援していただき、男女共に日本フットボール界ではまだ成しえていない【男女W杯アベック優勝 】を目指します

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こんにちは。背番号5番、船越絵里子と申します。私は生まれつき耳が聞こえません。幼稚園から大学まで一般の学校で過ごしてきました。あれっ、今までの私では周囲の人達の会話についていけない…そんな不便さに気づいたのは、小学校6年生の頃です。それまでは天真爛漫な性格で、体を動かすのが好きで不憫なことを思うことなく生きていました。幼少の頃から水泳、バレーボール、バスケットボール、陸上(円盤投げ、砲丸投げ)…と様々なスポーツを経験してきましたが、なかでもサッカーが楽しく、小学生のときは近所に住むお兄ちゃん達に混じって日が暮れるまでボールを蹴っていました。(ちょうどこの頃にJリーグが発足しました)。中学生になってもサッカーをしたい。そう思っていたのですが、当時は学校に女子サッカークラブがなく、地域のクラブも僅か…という時代でした。そのため中学、高校はサッカー以外のスポーツに取り組んでいました。そして19歳の時、「つい最近、聴覚障がい者だけで構成された女子フットサルチームが立ち上げられた」という情報を思いがけず得ました。それが『LIBERDADE (リベルダージ)』というチームです。しかしながら、当時の私は手話をドラマでしか見たことがなく、私と同じ障がいを持った人達とコミュニケーションを取ることができるのだろうか…と不安に思っていました。実際に見学に行ってみたところ、自分が今まで生きてきた世界とは違う…という複雑な気持ちにかられ、チームに入ることに対して躊躇してしまいました(こういう経験をしている人は多いと思います)。幸い、口話法(口の動きの形を見て読み取りながらコミュニケーションをとる方法)もできるメンバーが多く、過去にデフフットサル女子日本代表チームのメンバーの一員として共に闘ったことがあるチャフ(高橋縁さん)に何度も声をかけていただき、チームに入ることになりました。健聴者の世界では、話されている相手の口の動きをじーっと見つめなければならず、またなんとか聴き取ることができた言葉(単語)を自分なりに繋げてこんなお話をしているのかなと憶測でしか理解できず、神経を使ってしまいます。一方、目で見える手話は気楽に会話を読み取ることができ、確実な文章として自分の目(私の耳は目です)に入ってきます。そんな手話の便利さを学びながらフットサルにも取り組み、手話を使ってのコミュニケーションが徐々に楽しくなっていきました。ところが残念なことに約3年ほどで『LIBERDADE』は解散してしまいました。それでも最後には兵庫県リーグ2部で準優勝を果たすことができ良い想い出となっています。その後、兵庫県リーグで対戦相手チームにいた友人を通じて、健聴者のチームに所属させていただくことになりました。社会人となり、兵庫県選抜選手の一員としての経験やチームの再編を経てフットサルを続けていく中、20代後半に入ると残業が増え、思うようにトレーニングや練習に参加できなくなりました。またしばらくして最後に属したチームが解散となり、それを機に女子フットサル界から離れました(その後に女子版の関西リーグ、日本リーグが設立されました)。今から約一年半前に出産を経て体質が変わり、また体調不良も重なり…思うように動けずもどかしい気持ちになる時もあります。それでも小さい時の夢だった“スポーツ選手になりたい”という想いは変わらず、デフフットサル日本代表選手としてチャンスをいただける限り挑戦し続けたいと思い、今に至ります。すでに公表されている通り、選手・スタッフは強化活動費や遠征費などの資金を自己負担で賄っています。資金を工面できず、四苦八苦している方もいます。引き続き、デフフットサル日本代表チームにお力添えいただければ幸いです。よろしくお願いいたします。


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背番号7番の川畑菜奈です。ブログを閲覧いただき、ありがとうございます!自分のことを話したいと思います。「北の国から」で有名な北海道生まれで、デフファミリー(家族みんな聴覚障害持ちのことを言います)です。生まれた時から耳が聞こえなかったので手話で育ちました。なので、もの心ついた時からずっと手話で色んなことを学んだり、コミュニケーションを取っていました。学校も高校までずっと聾学校に通い、手話が当たり前の学生生活を過ごしてきました。小さい頃から体を動かすのは大好きで、鬼ごっこや隠れんぼはもちろん、ドッジボールやバスケなどなどなんでも遊びました。中学に上がる前、サッカー部の監督からサッカー部に来ないかとお誘いがありました。(聾学校だったので、乳幼児相談室(0~3歳)から中学までずっと同じ学校でした。)その時の私がサッカー部に決めた理由が「他の女子と違うことをやってみたい!」でした。その当時、部活は陸上部、バドミントン部、サッカー部の3つしかなく、陸上部は最初から選択肢にありませんでした。となると残りはバドミントン部かサッカー部になるのですが、大抵女子はバドミントン部、男子はサッカー部に入るという流れで部活が決まることが多いのですが、私はそれじゃつまらん!!と思ったのと上記の理由からサッカー部に入ることに決めました笑きっと父の影響も少なからずあったのだと思います。実は父も昔、中学からサッカーをやっており、デフサッカー日本代表としていろんな大会に出場してきました。母は高校時代、サッカー部のマネージャーをやっていたのでこうやって見ると私がサッカーを始めるのは運命だったのかなと思います。中学と高校の6年間は男子サッカー部に混ざって練習していました。中学の時は公式戦に出ましたが、高校はルール上出ることが出来なかったため、練習や練習試合で技術を磨いてきました。大学で初めて健聴の世界に入り、最初の頃は人見知りが発動し、コミュニケーションに苦しみながらも最終的には同期に恵まれ、楽しい大学生活を送ることが出来ました。 大学1年の時、女子サッカー部に入ったのですが、人数が8人しかいないということが発覚し、試合も毎試合最初から数的不利な状況で戦わなければならないことから半年で辞めてしまいました。その後にフットサルチームに入り、そこから本格的にフットサルをやり始め、今ではSDFCアレグリーナでサッカーもフットサルもやっています。私は今の女子代表メンバーの中で1番長く代表をやっており、デフ女子サッカーもデフ女子フットサルも創立時からずっとプレーしてきました。最初の頃は、サッカーやフットサルの経験がない選手、他の競技をやっていた選手などが多く経験のある選手はかなり少数しかいない寄せ集めで集まったメンバーでした。合宿へ参加するときにかかる交通費は全て自己負担、合宿で使うボールも自分たちで持参、みんなと同じ練習着はなく色だけ揃えて各自で準備したメーカーがみんなバラバラの練習着で練習をしていました。その頃の詳しいお話は岩渕さんからも紹介がありました「アイコンタクト」という本や映画があるのでぜひ見てみてください!!現在のデフ女子フットサル日本代表メンバーのうち私も含め6名が出ています!そんな環境の中でデフリンピック(ろう者のオリンピック)やワールドカップに出場し、少しずつ実績を残していったことで、少しずつ環境が良くなり、現在ではデフサッカーもデフフットサルも選手のレベルもかなり高くなり、全員同じ練習着を着て、同じボールで練習ができる環境になりました。しかし、それでも合宿や遠征、大会に出場するためにかかる費用はいまだにほぼ自己負担です。そのため、金銭面で代表を諦めざるを得ない選手も過去にいました。そういう部分が大きく変わるためには【優勝】という結果を残すしかないと思っています。ずっとデフ代表をやってきて、今が1番【優勝】が手に届くレベルにあると確信しています。4年前のワールドカップで届かなかった【優勝】。今年のワールドカップで最高の舞台で、最高のメンバーで、世界のてっぺんを取って、最高の笑顔で終わりたいと思っています。皆さんの力が必要です。ぜひ応援をよろしくお願いいたします!#7  川畑菜奈


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デフフットサル日本代表候補の千葉駿介と申します。6月11日まで370人の方々からご支援いただいております。本当にありがとうございます。今回は私の今までの生い立ちを中心に語らせていただきます。『生い立ち』3人兄弟の末っ子で「こち亀」や「寅さん」のモデルとなっている東京都葛飾区で育ってきました。私以外全員健聴で、私自身6歳までは健聴でした。6歳のある日、いつも通りテレビを見ていた私でしたが、テレビの音量を大きくしていたことを不審に思った親が病院に連れて行き、難聴であることが判明しました。そこから補聴器を付けての生活がスタートしましたが、小学校から大学まで健聴者と同じ学校に通ってました。先生の声が聞こえやすいように席を前から2番目の席にしてもらったり、友達にノートを見せてもらったり、色々と助けてもらったお陰で学生生活は難なく過ごすことができました。『学生時代でのサッカー』兄の影響で小学校1年から始め、地元のチームに所属していました。小学校時代はGKではなく、MFをやっていて、将来の夢はサッカー選手と書くほどサッカー大好き少年でした。中学生の時に日韓ワールドカップで大活躍したドイツ代表のオリバーカーンの影響でGKを始めました。高校ではサッカーの強豪校に行き、厳しい練習の日々で何度も辞めたいと思ったのですが、仲間に支えられて最後まで続けることができました。当時の顧問は現在、全国高体連サッカー専門部部長というすごい方です。『デフサッカーとの出会い』サッカー部ない大学に行きましたが、高校の先輩に誘われて社会人サッカーチームに入っていました。ある日インターネットで「デフサッカー」の存在を初めて知りました。今まで同じ障害を持った人とサッカーしたことなかったので興味を持ち、TDFC(東京デフフットボールクラブ)に参加してみました。今まで手話を使ったことなかったので、みんなの手話のスピードが早過ぎて、言葉の通じない外国にきたような孤独感を味わいました。手話に慣れない日々でしたが、なんとかコミニケーションを取れるレベルまで手話を覚え、22歳で初めてデフサッカー日本代表に選ばれました。現在に至るまで国際大会に通算20試合近く出場し、1ゴール、デフリンピックに二度出場しました。『南葛SCでの日々』キャプテン翼という漫画をご存知でしょうか。キャプテン翼の作者である高橋陽一先生を後援会長とした社会人チーム「南葛SC」に5年間所属していました。チームメイトに元Jリーガーやブラジル人、たくさんのスポンサーや恵まれた練習場、たくさんのファン、本当にプロ選手のような最高の環境でサッカーをすることができました。絶対に負けられないプレッシャーがある中、日々サッカーについて学ばせていただきました。関東大会で優勝したり、全国大会3位になったりと今までのサッカー人生の中で一番輝いていたかと思います。『フットサルを始めたきっかけ』南葛SCを退団してから、県リーグ1部のチームに所属していましたが、そのチームは半年で退団。その半年間でグロインペイン症状群になったり、思うような結果が出せず、サッカーの面白さを少しずつ失ってきました。そんなある日、上井くんから突然一通のラインがきました。「フットサルやろう!お前いたら世界一とれる」このラインがきたときは、あまり乗り気ではなかったのですが、試しにOURVISIONに参加してみました。そのときは紅白戦だったのですが、攻めるのが大好きな私にとって、パス一本でゴールに繋がるというフットサルならではの魅力に引き込まれ、フットサルを始めました。『現在』私は現在、サッカーチームS.F.C東京(東京都リーグ2部)、フットサルチームMARE PARADA(千葉県リーグ2部)の2つのチームを掛け持ちしています。なぜ掛け持ちしているのかというと、サッカーでもフットサルでも世界No.1になるために妥協はしたくないからです。私は中途半端という言葉が大嫌いです。やるなら最後までやり通す、それが私の生き方です。ここだけの話ですが、本来は今年だけ代表を辞退する予定でした。なぜなら私には妻と、もう少しで1歳になる娘がいるからです。アスリート採用ではないので、合宿費や遠征費、シューズやキーパーグローブなど、全て自己負担です。それらの費用だけでも年間70万円程かかっています。娘を育てるお金を貯めたい気持ちと日本代表として活躍したいという気持ちの葛藤があるのが事実です。また、南葛SCに所属していた時、日本代表経験のある選手から、国のために戦っているのに自己負担があるなんて、考えられないと言われました。そんな葛藤の中、代表に参加することを決めたのは、やはり世界一を取るチャンスを無駄にしたくなかったからです。辞退してしまったらこの先絶対後悔するという気持ちを捨てられず、今フットサル日本代表として世界No.1を取るためにここにいます。しかし、自己負担はかかっていることは変わりありません。どうか日本を背負ってプレーする選手の負担が少しでも軽く済むように皆様のご支援、ご協力をお願い致します。全ては世界No.1になるために。千葉駿介


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原田明奈と申します。たくさんの応援、支援ありがとうございます。出身はサッカー王国といわれている静岡県です。私は社会人になるまで、ろう者の世界を知りませんでした。手話とはもちろん無縁の生活を送っている中で、聞こえづらさから人とのコミュニケーションの難しさを感じることはよくありました。〜デフサッカーとの出会い〜2010年3月に所属していたチームの遠征で愛知に行った時に日本代表候補の子と出会いました。自分と同じ境遇の中、日本の代表として、世界を目指す姿に大きな感銘を受けたのを鮮明に覚えています。この出会いをキッカケにろう者の世界を知り、手話も必死に覚えました。この出会いがなければ、デフサッカー日本代表の存在はもちろん、サッカーも続けていなかったかもしれません。2015年11月、タイで開催されたデフフットサルワールドカップに出場させていただき、世界との差を実感しました。絶対リベンジしたいという気持ちで四年間トレーニングしてきました。現在は、片道1時間50分かけて通勤しています。トレーニングかける時間も削られてしまいますが、休日で空いた時間は山登りやランニングで補うよう努めています。試合感と技術は、現在所属しているアスレジーナフットサル部で磨いています。日本代表に選出されたら、存分に世界と戦ってきます!四年間の思いをぶつけるために。最後に。。。四年前と比べて、若い有望な選手がたくさん育ってきています。自身の経験を伝えつつ、何よりも、彼女達が思いきり活躍できるしっかりとした基盤ができる事を望みます。それは皆さまの応援なくしては叶いません。皆さま今後とも、デフフットサル日本代表の応援を何卒、よろしくおねがいいたします。原田明奈


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デフフットサル日本代表15番の仲井(26歳)です。まず、6月10日までに360人もの方にご支援いただきました。この場をお借りして皆様に心より御礼申し上げます。僕からは「スポーツの持つ価値」と現在についてアップさせていただきます。...〜スポーツの持つ価値〜僕は元々フットサルではなく、サッカーをしていました。サッカーは7歳から始めて約19年になりますが、多くの紆余曲折があり、その中で「スポーツの持つ価値」というのを自分なりに見出すようになりました。今回はそんなお話をみなさんに共有させていただけたらと思います。■生い立ち大阪を象徴するビリケンに瓜二つの僕は、大阪の泉南地区で生まれ育ちました。僕の地元には約300年の歴史を誇るだんじり祭りがあり、秋になると地域が祭り一色でやかましくなります。そんなやかましい地域とは裏腹に、いや、やかましい地域だからこそか、世界で活躍する人がたくさん生まれています。例えばファッションデザイナーのコシノ3姉妹、サッカー日本代表の南野選手や室屋選手がいます。そして僕、仲井もいます(他にも結構いるみたいだ)。僕は先天性聴覚障害で生まれました。耳が聞こえないことで発音が上手くなかったり、色んな面で苦労するだろうと心配した母は、僕が小さい頃から色々と厳しく付き合ってくれました。例えば、毎日幼稚園に行く前と晩御飯を食べる前に舌から血が出るくらい発音の練習をさせられたり、小学校の音楽の授業についていけるように音程を聞き分けられないにも関わらずピアノを習わされたりと当時の僕にとっては厳しいものばかりでした。しかし、今となっては大変感謝しています。■サッカーを始めたきっかけ小2に上がる時に小1から1年間にわたる父の猛プッシュがきっかけでサッカーを始めました。その時はただ球蹴りという認識でボールを蹴っていたのですが、気づいたらボールを蹴ることが楽しみになっていました。そして、小5〜6年で他のチームとの交流やトレセンなどを通して、多くの人と友達になったりすることも1つの大きな楽しみになってきました。■中学時代中学時代は、久米田FCというクラブチームに所属し、約10年経った今でもクラファンやFacebookを通していつも応援してくださっている恩師と出会いました。中学時代と言うと思春期の時期。いじめや人間関係で悩む人が増え始める時期でもあります。かく言う僕もその一人でした。中学時代になると小学時代に比べて複数人で話す機会が多くなります。通常学校に通っていた聴覚障害の僕は、周りの話がわからず、何かを話しかけるとそのほとんどがKY発言で、友達との距離が微妙になることが多々ありました(というか、今でもKYと言われるので元々KYみたいです←)。自分にも原因がありますが、そのことは中学校でもチームでも人間関係において少しずつ苦しみ始めました。ただ、なぜか面白いことにサッカーのピッチ内では人間関係に苦しむことはあまり無かったのです。しかし、チームではピッチ外での人間関係が苦しかったので、高校からはサッカーはもういいかなと思ったりしました。■高校時代高校入学直前に偶然のご縁があり、デフサッカーを知りました。初めてサッカーをしている聞こえない人と出会った僕は、彼らとの出会いを機に日本代表を目指そうと、サッカーを続けることにしました(この時デフフットサル最年長の船越選手と出会い、それは僕がサッカーを頑張る1つのモチベになっていました)。高校は、中学と違って知人がおらず、多少ナーバスになりながらもサッカー部に入部しました。知らない人に聴覚障害のことを理解してくれるか不安でビクビクしていた僕ですが、ボール1つを通してみんなとサッカーをすると、それは杞憂に終わりました。むしろ、一緒にサッカーをすることで、聴覚障害について少しずつ理解してもらえるきっかけとなりました。■大学時代高校時代のチームメイトに誘われて、一浪しながらも筑波大学に入学し、蹴球部に入部しました(誘ってくれたチームメイトは別の大学に行きよりました…オイ!)。筑波大学蹴球部は、毎年Jリーガーを輩出している名門です。全国から猛者が集まり競争率が激しいところで、聴覚障害のことを理解してくれるのか心配で仮入部直前はストレスでお腹が痛かったことを今でも覚えています。仮入部前のオリエンテーションでは、全員鬼の形相をしている現役部員のスタッフしかおらず、雰囲気的に彼らにお願いはしにくかったのですが、勇気を振り絞って要約筆記などのサポートをお願いしました。スタッフから「わかった。やるから席に座っといて。」と言われましたが、オリエンテーション中は何もなく僕は「理解してくれるのは難しいんだな」と途方に暮れたところ、終了後に議事録として細かい情報が記された紙をいただきビックリしたことを覚えています。狐につままれるというのはこういうことなのかと←また活動開始の初日に、同期を含めた全員の前で聴覚障害について説明する機会を設けてもらいました。僕がお話しした後のスタッフの説明で練習が始まりましたが、説明内容が全くわからなかった僕はスタッフに内容を確認しに行こうとしたら、怖そうな顔をした同期が説明内容をわかりやすく教えてくれました(後にJリーガーとなったこいつがいなかったら蹴球部を続けられなかったかもしれない…)。その他に大学4年間を通じて多くの同期・先輩・後輩に多くの面で助けてくれました。その時は「なぜこんなにも助けてくれるのか」疑問でしかなかった僕ですが、今その理由がわかります。この理由の1つに僕が思う「スポーツの持つ価値」があると思います。■スポーツの持つ価値とはそれは、スポーツを通して「目の前の人を一人の人として向き合う」瞬間・時間をもたらしてくれるということです。スポーツを通して、勝利などの目標に向かう中で周りの人と話したりプレーしたりと関わる瞬間・時間があります。その時、目の前にいる人が相手に対して向き合っているスタンスは、世間におけるレッテルなどに関係なく「一人の人として真摯に向き合う」スタンスであり、そしてそれはその瞬間・時間をもたらすと思います。そのスタンス、そしてその瞬間・時間によってもたらされるものは、何か。それは、その人が持っているポテンシャルを最大限に引き出せるようなベストな状態にもっていくこと、または、ベストな環境にすることです。誰かができないのであれば、別の誰かがサポートする。お互いに褒め合う、高め合う、協力し合う。そこには障害の有無も関係ありません。障害があってできないことがあれば、みんなで別の方法で工夫してその人のポテンシャルを最大限引き出せるようにする。中学時代にピッチ外で苦しんだ人間関係がピッチ内ではあまり感じなかったこと、高校時代にサッカーを通じて周りが聴覚障害について少しずつ理解してくれるようになったこと、大学時代に周りからたくさん助けてくれたこと。これらは全て「スポーツの持つ価値」がもたらしてくれた瞬間であり時間なのだと心底思っています。特に筑波大学蹴球部では、サッカーだけでなく人間的にも素晴らしい方ばかりでしたが、それもまた「スポーツの持つ価値」がもたらしたものなんだろうなと思うばかりです。...〜現在〜これまでサッカーしかしていなかった僕がフットサルを始めたきっかけは約1年半前に東海林選手から誘われたからです。それまでフットサルは遊び程度と捉えていた僕ですが、OURVISIONで初めてフットサルの試合に参加してみると、目まぐるしく入れ替わる攻守の切り替え、たくさんボールを触れるなど新鮮な発見ばかりで、試合を重ねれば重ねるほどフットサルの魅力にとりつかれてしまいました。また、デフフットサル日本代表には本気で世界一をとるために切磋琢磨できる環境、そして世界一を狙える選手やスタッフがおり、そんな仲間と一緒に世界と戦いたくフットサルに集中することにしました。フットサルに集中してからは、監督やトレーナーによる戦術の共有や数値的な目標設定、他の選手からのアドバイスなどを受けて、自分自身でも成長していくのを感じました。そして、2月に迎えたアジア大会では、前大会W杯準優勝のタイに勝つことができました。その一方で前大会W杯優勝のイランには2回戦い、2回とも勝つことができませんでした。しかし、このアジア大会では、世界一と自分たちの距離を測ることができました。世界一のイランと日本には差がありますが、この差は残りの期間の取り組み次第で追いつき、そして超えられると考えています。限られた時間で世界一のイランを越えるためには、1日1日を大事にして過ごしていかなければなりません。世界一に向けて取り組む過程で得られるものや犠牲にするものはたくさんあると思います。たかがデフフットサルのワールドカップと思う方もいるかもしれません。しかし、私たちが世界一になれば、その時に得られるであろう「スポーツの持つ価値」が何かあるはずです。私はデフサッカーデフフットサルだけでなく、「スポーツの持つ価値」をより多くの方に広めていきたいと考えています。最後になりますが、世界一になるためには、世界一になるための仲間が必要です。それは選手、スタッフだけでなく、本クラウドファンディングでご支援ご協力いただいている方々も大切な仲間です。デフフットサル代表選手が抱えている課題を少しでも小さくし、皆様と一緒に世界一に近づくためにも皆様のご支援と拡散のご協力をしていただけると幸いです。仲井健人