Check our Terms and Privacy Policy.

デフフットサル日本代表OURVISION W杯渡航費プロジェクト

男子・女子デフフットサル日本代表は11月のスイスで行われるW杯に出場することが決定しました。 ですが渡航費用や滞在費も選手の自費での負担で賄っている状態です 選手の負担を減らし、沢山の方に応援していただき、男女共に日本フットボール界ではまだ成しえていない【男女W杯アベック優勝 】を目指します

現在の支援総額

4,554,500

22%

目標金額は20,000,000円

支援者数

726

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2019/05/30に募集を開始し、 726人の支援により 4,554,500円の資金を集め、 2019/07/31に募集を終了しました

このプロジェクトを見た人はこちらもチェックしています

デフフットサル日本代表OURVISION W杯渡航費プロジェクト

現在の支援総額

4,554,500

22%達成

終了

目標金額20,000,000

支援者数726

このプロジェクトは、2019/05/30に募集を開始し、 726人の支援により 4,554,500円の資金を集め、 2019/07/31に募集を終了しました

男子・女子デフフットサル日本代表は11月のスイスで行われるW杯に出場することが決定しました。 ですが渡航費用や滞在費も選手の自費での負担で賄っている状態です 選手の負担を減らし、沢山の方に応援していただき、男女共に日本フットボール界ではまだ成しえていない【男女W杯アベック優勝 】を目指します

このプロジェクトを見た人はこちらもチェックしています

thumbnail

デフフットサル女子代表GL(GK) 芹澤です。デフフットサルを応援してくださってる方々、いつもありがとうございますm(_ _)mクラウドファンディングへの支援、拡散していただき、本当にありがとうございます!自己紹介から☆名前:せりざわいくよ生年月日:10月生まれ聴覚:両耳100dB超家族構成: 両親、兄1人、双子の5人家族。猫2匹幼稚部:週3日、聾話学校(口話教育) 週2日、普通幼稚園小学〜大学:健聴者と同じ普通校スポーツ歴:・水泳3才〜12才(全種目クリア)・ピアノ小1〜小6・サッカー小2〜現在進行形・陸上部 中1〜3年(月~金のみ)・フットサル 22才〜エンジョイ、競技は今年5年目。家族のなかでは、私のみ生まれつき聴覚障害です。母は特別扱いせず、他の兄弟と同じように育ててくれました。家よりも学校の方が楽しいくらいとても厳しく、マナーはもちろん、発音もしっかり話さないといけなく、適当にやるとよく怒られていました。雨やプール、就寝以外は、常に補聴器を付けていないと見つかるまで許してくれません。声なしの読話術はどちらかというと苦手。声も発してもらう方が聞き取りやすい。父はとても優しく、仕事で泊まりが多く、たまに海外も行っていたため、帰ってくるたびに色んなお話しを聞かせてくれました。家族と話しをする時、聞き取りにくい時は何度もその言葉を繰り返してくれるので、おうむ返しすることが多く、聞く力も徐々についてきていました。習い事は、兄弟みんな一緒に同じものを。サッカーも兄の影響で始め、小3~6まで男子にも混じり、日曜は女子、平日は男子練習とほぼ毎日サッカー漬け。水泳は、技術を磨きテストに合格すると進級出来るという目標がありますが、サッカーは、チームでひとつのボールを追いかけ相手ゴールの数を多く取るチームスポーツ。一人で頑張るより皆で頑張るスポーツの方が好きでした。ポジションは、 小学~中学までFW。時々ハーフ(MF)の真ん中、DF、GKも。高校〜大学3年までMF、DFの両サイド。大学4年〜GKに転向。 コミュニケーションは、首を振ってボディランゲージで表す。戦術は、1対1で面と向き合って話しながら、ボードや土の上で駒を書いて動かしながら、どのタイミングでどこに動けばいいのかなど確認したり。小、中学時代は、スライディングが得意でボールが飛んできたら滑り込んで頭または足でゴールへ押し込むのが好きでした。高校、大学時代は、コミュニケーションの面で試合中の細かい指示が聞き取りにくくなり、視野を広く取れる両サイドを希望し、当時は足に自信があり、攻守両方とも走り回っていました。 GKに転向した理由は、小学4年、中学2.3年の時はGKをやる人が周りにいなく、率先して見よう見まねでやっていました。大学サッカー部で基本を先輩から後輩へ指導しているのをフィールドをやりながら横目にずっと見ていて、やっぱGKカッコいいな。基礎から学んでみたいなっていう気持ちがどんどん大きくなっていました。GKをやりたい理由とGK1本でいくことの覚悟があることをA4レポート用紙に書き出し、監督、GKコーチに伝えた結果、大学4年から本格的にGKとしてスタートしました。卒業後の夏、デフサッカー日本代表候補合宿に初めて参加したときレベルの低さにショックを受けただけでなく、コミュニケーションも全く取れずカルチャーショックを受けたのを覚えています。コミュニケーションツールを増やすべく、デフのメンバーから毎週土曜に都内体育館でフットサル練習をしているからおいで!と誘われたのがきっかけで、ろうの世界とデフフットサルに出会いました。デフサッカー&フットサルを始めた頃は、補聴器を外すことにすごく違和感があり、音も聞こえず手話も出来ず、何もない真っ白な世界にポツーンと立っているような孤独感でした。お互いのコミュニケーションがないと呼吸が合わなく、スムーズに出来ないため、相手にどうやったら伝わるんだろう。と伝えたいことがなかなか伝えられないもどかしさをいつも感じていました。デフのみんなとサッカー、フットサルやりたい。ていう思いから手話を覚える事から始めました。元々、口話でさえ人に伝えるのが下手くそなのに、ぎこちない手話で相手に伝えたい!と必死に身振り手振りでやっていました。また、メールの便利さもありますが、誤解が生まれることも多く、会って話す方が伝わりやすいので、大事なことは時間を作って会うことを大切にしています。プレー中、GKというポジションは健聴者のチームでは声を出せば前を向いたままでも反応してくれるけど、デフの場合は、一番後ろにいるGKからみたら全員前を向いていて、後ろからいくら声を出しても手を振っても振り向かないし、振り向くときは、ほとんど攻められてるときが多い気がします。GKから指示を出すとしたら、目があった瞬間に、クリアしてほしいときは!手で払いのける感じで行け!とか、GKがいくときはキーパー!と声と一緒に手を上げたり、相手に背中を向けてボールを持っているときは、フリーの味方がいる位置を手で方向を示したり、GKが触る時は手を上げたり。セットプレーの守備の位置も手で指示または、その人のところまで走って身体の向きを動かしたり。攻められていて、GKが触れる時、前に出ようとしてることに味方がGKに気付かないときは早めに止まって基本ポジションを取るか、相手との間合いが広すぎて失点リスクが高い時は、そのまま寄せてシュートブロック。人とぶつかってしまってもすぐ起き上がり、ボールを止めないとこぼれ球を決められてしまうので、耐える力が必要。とても難しいのは、2対1など数的不利な状況の時。前向いてるから指示できない分、味方の判断で、いつ、どこで、寄せるタイミングか?これを理解してないと、もし、パスが出た時にGKがもう1人の相手に寄せ切れずダイレクトで打たれるか、折り返されて2対0(GK)になってしまうこともあります。フリーキックやコーナーの守備で壁や位置を指示するときも早く気づいて欲しい時、体育館では足ドンドンは響きますが、フットサル専用のタラフレックス(ゴム製)、プラスチック製のタイルやコンクリートみたいなところで振動が全く響かないところもあります。この時は両手を降るが、ボールに近い人がGKに気付かないか相手のリスタートが速いときは、すぐ諦めてベストなポジションを取り、シュート対応します。 少しでも壁の位置がズレていると声で修正できないので、GKが臨機応変に対応したり。GKは、ハーフタイム以外ベンチに下がることがあまりなく、フットサルは攻守の切り替えが早いため、お互いプレー時に話す余裕はありません。修正して欲しいことや意識して欲しいことを伝えたいときは、味方コーナーキック時に、ベンチにいる人に声出したり、手を振って気付いたら、〇〇に伝えて!と伝言を残し、その人がベンチに下がった時に伝えてもらうことが多いです。逆に、監督やGKコーチの指示時もこちらがすぐ気付かないと、ベンチのみんながいくーーー!!!と必死に大きく手を振り、足ドンドンしたり、話してる内容もサポートしてくれます。このように様々な場面で、相手にいつ、どうやって伝えるか?チームで守るためにはどうするのがベストか?前大会、安定した守備が出来ず、味方の足を引っ張ることが多く、シーソーゲームばかりでチームの士気を下げてしまうこともあり、何も出来なかった自分に悔しい思いをしました。自分の足りない部分を磨くにはどうしたらいいか?GKの基本を磨きつつ、速いシュートにも反応できるようにしたい、怪我をしない身体を作りたい!と、都一部リーグから関東リーグへチャレンジすることを決め、またパーソナルトレーナーも依頼し、正しいフォームで身体をコントロール出来るように指導していただき、ケガをしない身体に少しでも近付けられるよう磨いています。代表合宿でもGK練習時は、GKコーチから直接指導を受けており、専門用語や細かい部分についてしっかり聞き取るために特別に補聴器を付けさせてもらっていますが、FPとGK全員でやる練習は、音をオフにするなど切り替えたりしています。3度目のワールドカップ、今大会に懸ける思いはとても強く、もっと上手くなりたい、みんなと一緒に世界を掴みたい、そんな思いです。今年で35になりますが、高いモチベーションを維持できるのは常に目標があり、同じベクトルで戦える仲間がいるからだと思っています。長くなりましたが、引き続き応援よろしくお願いします。


thumbnail

こんにちは!チームの年長組から4番目にいるデフフットサル日本代表14番の吉岡成哲と申します。クラウドファンディングを開始してから15日に経ち、現在の支援総額は2,176,500円を突破しました。日頃から応援や支援していただき誠にありがとうございます。 Deaf Futsal World Cup2019へ行くためには一人40万円~50万円の負担がかかるのですが、全員自己負担0円になるためには、2000万円が必要です。2000万円という大きな金額ですが、シェアでも小さな支援でも拡散でも、皆さまのお力が必要なので、何卒ご協力の程、どうぞよろしく申し上げます。【最近にて起きたこと】4か月前に開催されたアジア予選では準優勝し、Deaf Futsal World Cup2019の出場権を取り、帰国後、地元の東武読売新聞と東武毎日新聞と越谷市広報新聞からオファーを受け、生い立ちから環境まで色々お話させていただきました。【エピソード】小学校から大学まで普通の学校に通い、デフサッカーとデフフットサルの出会い。【小学生時代】小1のとき、クラスメイトから「一緒にサッカーチームに入らない?」と誘われたキッカケで小6までサッカーを続けました。僕は生まれつき聴覚障がいがあったため、監督とコーチとチームメイトのコミュニケーションが取れず・・・サッカーのルールや戦術を全く覚えられず・・・、ただただボールを追いかけたり、ゴールに向かって蹴ってるだけの少年だった記憶がありました。【中学生時代】ずっと一緒だったチームメイトとサッカーが強い地元の中学校に進学する予定だったが、小5~小6のとき、補聴器が「ポケット型補聴器」を使用していたため、当時は1990年代にブームだった【ポケットラジオ】と似てるので、「何ラジオなんか聞いてるんだよ!」「俺たちも貸せよ」などを言われ、だんだんいじめがエスカレートしていき、1年間不登校になってしまいました。(今話題になっている【聾の形】の映画と似た環境なので是非ご覧頂けると嬉しいです。)小学校卒業する前に同じ聴覚障がいを持った同級生(学校は別だが、きこえとことばの教室で一緒に訓練を受けた幼馴染)も僕と似たような環境に育ってきたので、残酷な環境から逃げるために東京にある【難聴者と健常者】が一緒に勉強が出来る中学校に進学しました。(※現役しているデフサッカー日本代表の中島選手と2015年のときデフフットサル日本代表だった曽根さんが卒業した学校でしたので先輩になります。)サッカーが出来ないくらい校庭が狭いため、サッカー部はなく・・・中2の夏まで帰宅部でした。一緒に進学した同級生(幼馴染)が小学生からバスケットが大好きで、バスケ部で中1からレギュラーを取り、すごい活躍をしていたので、「僕も入部して活躍したい!!」という気持ちが出て、中2の秋からスタートしました。中学卒業するまで後1年しかないのに、未経験の140センチだった僕は170~185センチの10人同級生からレギュラーを取るのは不可能でしたが、何も考えず、ディフェンス中心に走り回っていました。3年の時、最後の試合は地区リーグで関東大会に出る強豪チームに「3Pなど角度からのシュートを得意なシューティングガードの選手を抑えないと優勝できない」というキッカケで、監督からは「すっぽんのようなしつこいディフェンスで、その選手だけはずっとマンツーマンして打たせるな」と僕に任せられ、レギュラーとして出場し、区大会優勝したので、都大会に進出することが出来ました。しかし、一回戦は運が悪く、全国大会に出場する程の強豪チームと当たってしまい、180センチ以上もある選手が20人もいて、簡単に勝てず、中学時代のバスケ部はここで卒業しました。今思えば、バスケット部に入ったキッカケで【マンツーマンですっぽんのようなしつこいディフェンス】を手に入れたんだなと思いました。(笑)【高校・大学・社会人時代】高校と大学はバスケットを一途だったので、サッカーはもう完全忘れてしまった頃に埼玉県に住んでいる同じ聴覚障がいを持った友人が「サッカーやらない?」と声かけられ、埼玉県聴覚障害サッカー協会に加入しましたが、デフサッカー界で天才と呼ばれている風間選手と出会い、サッカー技術ではなく、フットサル技術で高いテクニックから生み出す独創的なプレーに衝撃を受け、同じコート・交代方法・試合時間などバスケットと同じ似たルールだったので、小学校時代はサッカー(下半身で使うスポーツ)と中高大はバスケット(上半身で使うスポーツ)を融合したスポーツでフットサルにハマりました。【デフフットサル日本代表での活動】2014年はデフフットサル日本代表候補の合宿に初めて参加し、Deaf Futsal World Cup2015のアジア予選は1年経たないうちに選出されましたが、当時は社会人2年目のため、『有給休暇+遠征費が自己負担』のため、泣く泣く辞退しました。2015年の10月はデフリンピック予選において、フットサルはデフリンピックがありません。親善試合のようなアジア大会に参加しましたが、絶対王者といわれるイランと2回対戦し、圧倒的にボロ負けで世界の壁を痛感しました。そして、1ヶ月後はDeaf Futsal World Cup2015のアジア予選は2014年のときに準優勝することによって、世界大会挑戦権を獲得してくれたチームメイトが頑張ってくれたので、ヨーロッパ予選、アフリカ予選、アジア予選、南米予選で勝ち上がった強豪チームと戦い、負けたのは世界ランキング1位のロシアと世界王者のイランのみ。連戦で戦えるフィジカルがなかったので、2019までにはフィジカル革命として東海林選手と上井選手が先陣に立ち、二人の影響で自分もやり始めました。しかし、2017年は試合中にアクシデントがあった。【左足関節外果・左足関節三角靭帯損傷・左関節脱臼骨折・足関節外側副靭帯損傷】で緊急手術へ。2018年はリハビリ中にネットで「怪我を治せるサプリメント」を検索し、【ステアス様】に出会いました。早速、ステアス様の原田さんに「SPOCOLLA SPEED 3Xは骨折と靭帯を回復することできますか?」を問合せしたキッカケでサポートしていただくことになり、1年半経ちましたが、あれから大きな怪我がなく、疲労回復や靭帯と骨を修復するほどの効果が現れてると実感があります。そして、全身の筋力を低下してしまった筋肉を取り戻すために【箱根駅伝を4連覇させた青山学院大学のフィジカルトレーナー協会】に出会い、自分の身体と筋肉質を丁寧にチェックしていただき、デフフットサルワールドカップを世界一を取るフィジカルプランを立て、スケジュール通りに進んでいます。これまでサポートをして下さってありがとうございます。引き続き宜しくお願い致します。2019年はDeaf Futsal World Cup2019のアジア大会で2015年の世界王者のイランと準優勝したタイがいますが、準優勝したタイを倒したことは大きな一歩。イランは相変わらず個性揃いで強いです。あと、5カ月ですが、歴史的最強メンバーが揃っているので、世界一を取るためにしっかりトレーニングしていきます。応援をよろしくお願いいたします。【活動費】2015年~2019年 国内活動(ケア・移動費・宿泊費等)海外活動(台湾・タイ・イタリア(自己活動)・スペイン・タイ)自費200万円以上デフフットサルの未来のために、どうか皆さまのご協力、ご支援のほどよろしくお願いいたします。


thumbnail

デフフットサル日本代表 9番 塩田知弘(31)です。 クラウドファンディングのご支援、そして拡散運動により日々1万人近くの人が見ていただいています。本当に言葉でのお礼では物足りないほどの想いです、この場をお借りして皆様に心より御礼申し上げます。 まず、多くの方から持たれる疑問、核心について答えさせてください。 【日本ろうあサッカー協会があるのに、なんでOurvisionを作ってクラウドファンディングを実施するの?そもそも別でやる必要があるの?】 ここで皆様に誤解しないで欲しいのですが、日本ろうあサッカー協会もスポンサー探し、国へ助成金申請など我々の見えないところで色々動いてくださっています。一方で、1つの問題点を抽出させていただくと、協会の中には男女共にサッカー、フットサル代表があり、これは他競技と比較しても選手の数、スタッフの数が圧倒的に多いです。その為、協会が汗を流し頑張って集めたお金はあるものの、例え国から他競技全て平等に助成金を配しても、そこから分散比率が非常に多いため結果的に資金不足になります。よって、満足のいく合宿も出来ません、毎回合宿が自己負担になります。シンプルな解決方法として知名度を圧倒的に上げる、世界一という結果を出す事(スポンサー獲得、助成金の引き上げ)です。 見ていただいている皆様、選手の方々には特に知って頂きたいことは、そんな現状を変えよう、協会だけに任せるのではなく、我々選手も動こうと自発的に立ち上げたのがOurvisionというプロジェクトです。もちろん、各選手個人で認知度アップに向けて講演を行ったり、イベントに参加したりして活動を頑張っている選手もたくさんいます。ただ、その志を持った選手中心に団体を立ち上げて取り組むのは初めての試みであり、協会だけじゃ出来ないことを、Ourvisionがやる、Ourvisionが出来ないことを協会がやる、お互いがベストプラクティスを提供し合い、最高の環境を整えスタッフ、監督、コーチも含め選手が競技に集中できる環境を作っていく。その先は、認知度も高く誰もが知っている世界、自己負担0、子供達にとって夢の場、目標の場でいられるように創っていくことです。本来Ourvisionの究極のゴールを考えると、Ourvisionという組織自体が不要になることです。  前置きが長くなりましたが、私について書かせていただきます。自分を見つめた上での観点になりますが、人としての弱さ、ありのままの自分を出しています。中には不愉快な発言があるかもしれませんが、最後まで読んでいただけると幸いです。 ①デフの世界に入ったときは嫌われ者だった!?あるキッカケで23歳の時にKDFC(神奈川デフサッカー)に入ることになり、そのまま代表に呼ばせていただき、デフフットサルは2018年30歳で始め、日の丸を背負って8年になります。今となっては顔に火が出るほどの思い出ですが、今もまだまだですが、当時の自分は大した結果を残せていないのに、プライドが非常に高く、デフの世界を見下していました。代表なのに自己負担、試合中どんなに声で叫んでも反応してくれないもどかしさ、そしてこのレベルで日本代表なの?と現状をなかなか受け入れず悩んだ時期もあります。 そんな人間だったのか、生い立ちを振り返ってみると、相手に舐められまくった経験が圧倒的に多いからだろうなと思いました。背景に、いじめ、見下される、馬鹿にされる、そしてサッカーにおいて非常に競争意識が高い環境の中で揉まれたからだろうなと私の中では解釈しています。 ②生い立ち1)静岡県藤枝市で育つ。 静岡といえば「お茶」実家の裏山にも「茶畑」だらけ、食卓に出れば必ず「お茶」給食にも「お茶」、「お茶」とはトラウマレベルの付き合いでした。藤枝といえば、サッカーボールをモチーフにした街灯や、常に藤枝東高校サッカー部のポスターがありゴン、名波選手、長谷部選手といった、多くのJリーガーが生まれた街になります。  2)両感音性難聴と診断されたのは3歳 私含め4人(父、母、弟)家族で、みんな健常者です。聞こえ方は人それぞれですが、私は両耳とも105デジベル(自動車のクラクションが2m内でやっと聞こえる感じ)初めて、難聴だと診断されたのが、3歳の頃でそれまで耳が聞こえていたかは親もわからないそうです。 3)普通学級に通わせてくれた両親 幼稚部の時だけ聾学校で、それ以外は普通学級でした。なぜ、普通学級にしたのか親に聞いたことがあり、「大人になったとき、情報保障がない中でも厳しい社会の中でも自立できるよう」と親なりに色々考え悩んだ結果、その選択をしてくれました。実際、社会に出るまで情報保障という言葉を聞いたことがなく、ノートテイカーといった対応も受けたことがなく、自分で考えて乗り越えていく事ができたので、感謝でたくさんです。それでも、学生時代は非常に生きづらい環境でもありました、友達作りも大変で、いじめも当然経験します。親からは、勉強も遅れてたらみんなより先に勉強する、これから習う勉強を今勉強する、中でも「みんなが自分に合わせてもらうなんて都合のいい社会なんてない」この言葉が強く残っています。世の中の社会は現実的に見ても、感覚的ですが健常者が7-8割、障がい者が2-3割です。必然的に、障がい者の人たちが生活しづらい仕組みが多くて当たり前です。だからこそ我々が声を上げて環境を変えようとしない限り、「共生」は実現しない、その為に周囲へ健常者へ伝えたいことがあるなら抵抗なくコミュニケーションが取れる方法は発音でした。毎日発音の練習をし、上手く発音できなかったらビンタというスパルタの中で身につけていきました。この時から、「論理的に物事が上手くいかないときは必ず原因があり出来る工夫がある、人との出会いで学ぶ、成長できる」と強く意識するようになったのだと思います。  4)良くも悪くもプライドの高い塩田が出来上がる、サッカーとの出会い ■何よりも友達が欲しかった当たり前のように周囲は皆、サッカーをやっていたこと、自然とサッカーと触れ合っていきます。ところが、実際は下手くそだと、ボールに触らせてもらえません。周りには上手い選手が圧倒的に多く、声が聞こえないなら出て行け、足引っ張るからパス出さないなど仲間外れにされたこともあります。居残り練習、実家の庭でリフティング、夜遅くまで練習していた甲斐があり、みんなについていく事ができ、中学時代は飛び級で試合に出たり、チーム内でも一番ゴールを決めていました。いつの間にか、周囲に認められるようになり、いじめもなくなり、トレセン候補、選抜などで友達も増え環境が大きく変わります。  ■誇りと自信この選択が、サッカー経験における自信という意味で一番大きなウエストを締めています。母校である東海大翔洋サッカー部に進み、タイガー軍団として慕われ、OBに澤登選手(エスパルス)、鈴木啓太選手(浦和レッズ)と言った多くのプロ選手が生まれた県内屈指の強豪高として部員が200-300名程いたかと思います。特に我々の代では、県大会準優勝という実績もあり、その上で、幾多の全国の名門高、県内の名門高とのゲームマッチ、僕らの年代には先輩方には国見高校の平山相太、鵬翔の興梠慎三、星陵の本田圭佑、静学の狩野健太、藤枝東の赤星貴文、同年代では清水東の内田隼人といった、口でどう説明すればよいのか、常識が通用しない怪物達のプレーを目の前で、肌で感じ、恐怖を覚えるほど見てきました。とにかく高校時代はがむしゃらに、怪物揃いの中で差がつけられないよう必死についていった思い出しかありません。社会人サッカーでも、激戦区である神奈川県一部のフットワーククラブ、県リーグにしては珍しい、ザスパ草津、ジュビロ磐田、ウェルディ東京、J3など元プロ選手が多く在籍しているクラブテアトロでプレーできたこと。県リーグ、天皇杯、クラブ選手権に出場したり、ピッチで後輩や先輩といった懐かしい選手と再会したり、知らなかった凄い選手やいろんな選手との出会いがあり常にハイレベルな環境でサッカーが出来ました。 ■心の弱さ、自分の弱さがたくさん出てきたこの経験があり、デフの世界に入り、いろんな選手を見ても上手い、怖いと思える人が1人もいない、一方でプライドが高くなりすぎてしまい、周囲に対して見下すような態度をとってしまいます。練習も真面目にやらなくなります、それなりの技術があればいいでしょ?と本気で追い込まなくなります、それでも代表に呼んでくださっていたので、当然腐っていき天狗になります。ガツガツ勝負を仕掛けまくっていた選手から、いかに楽なプレーを選ぶ、サボる選手になってしまい、自分も結果出せてないのに上目線になります。 はい、こんな人とはチームメイトなりたくないですよね(笑) 5)仲間たちが自分を変え、成長させてくれた、最初の頃は揉めまくり、ぶつかりまくりでした、中でも松本弘選手と揉めた記憶が多いですね…自分の方が経験も上なのに、なんでそっちの意見聞かなきゃなんだって感じでした(笑)この時、松本弘選手も経験不足をカバーできるように誰よりもビデオ見たり、勉強して元々身体能力は高いので頼りになる存在でしたが、サッカーからのチームメイトである吉野選手も仲井選手も設楽選手もどんどん成長している事に気づかないくらい周りが見えていなかったと気づいた時でもあります。少しずつ、手話を勉強しコミュニケーションも取れるようになり、デフサッカー界における問題や環境も見えるようになり、自分より本気で変えようと動いている選手がたくさんいたことが見えるようになってきます。そして天狗になっていた自分を本気で叱ってくれた当時のデフサッカー日本代表監督だった中山監督(現:日本ろうあサッカー協会理事長)の存在。人それぞれ経験や知識はバラバラ、だからこそ1人1人がプレーでチームへ還元しないと、チームプレーは出来ない、世界に勝てない、チームのために犠牲になる、チームのために走るといった、多くのことを教えてくれました。  6)フットサルの世界へ「お前がいれば世界一になれる」定番の上井選手の誘いです。とはいえ、フットサルは遊びでしかやっていなかった、一方でフットサル代表も船越選手を中心とした先人や過去の積み重ねがあり、サッカースタイルから本気のフットサル戦術を取り込んでいき正真正銘のフットサルという組織に変わり始めています。それを知らないまま飛び込んだ世界は当然甘くはなく、戦力すらもなりません。正直なところ戦術理解も足りず、フットサルって面白くないなという気持ちでずっと引きずっていましたが、ここでまた、自分の弱さに向き合うことができます。それでも、逃げずに本気でやろうと思えたのは、世界を目指している上井の行動、現キャプテンの東海林の二人がOurvisionを立ち上げた当初から変わらぬ覚悟で行動を起こしてるから。そして、中山監督とはまた違い、選手に新しい事を与えてくれる川元監督、今の現状問題を本気で変えようとしている金尾コーチ、橋本トレーナーの出会いは斬新そのもので、このチームで結果を残し、環境を変える一つの力になりたいと思うようになりました。その為に、これまでの先人が築いてきたフットサル代表に、貢献していくにはフットサルを理解することから始めなくては始まらない、自分の良さが出せないと思い、基礎を一から学ぶという意味で、アバンソールソルド(デフのみのチーム)の入部も決めました。ソルドでは、箱島さんという監督が、細かい戦術、サッカーでは意識していなかった体の使い方、奥が深いことを気づかせてくれて、正直時間は足りませんが、もっと早くフットサルやってればと思うこともあるくらい、本気でハマっていきました。  ここまで長文になりましたが、最後まで読んでいただいてありがとうございます。1人1人の生い立ちには、いろんなストーリーがある中、最後に見ていただいている人、パトロンの皆様も一緒に世界の頂点取ったという歴史を、そして環境を変えたニュースを僕らで作りませんか?最高の環境、最高の体制で世界に挑ませてください。お願いいたします。


再挑戦
2019/06/15 12:06
thumbnail

# 15一色麻衣です。チーム最年長であり二児ママプレーヤーです。いつも沢山の方々の応援やご支援、誠にありがとうございます。また現在所属してるチーム「FUSION」でも10〜15歳以上も離れてる平成生まれの若いメンバー達がこんなおばさんの為に公式戦でゴールしたら皆で募金するという『しゅー募金』をして頂いているので嬉しい限りです。さて、私の生い立ちと合わせてフットサルをやるきっかけになったことをお話したいと思います。岩手県出身で生まれつき耳が聞こえなかったので幼稚部から高校までろう学校(聴覚障害者の為の学校)に通っていました。しかも今では考えられない事ですが家から学校まで遠かったので3歳頃から中学になるまで親元を離れて寄宿舎で生活していました。小学生の頃、いつも親しく遊んでもらった高校生のお姉さん達の影響でカズ選手や武田選手などに憧れて友達と毎日のように夕暮れになるまでボールを追いかけました。Jリーグ開幕による影響もあって学校全体がブームで校庭に誰かがボールを蹴ってるとあっという間に皆が集まってわいわいと蹴っていました。あの頃が純粋にもう楽しくて永遠に続いて欲しいと思ったものです。しかし中高生になると生徒数の少ない学校だったので部活は選べず陸上部とバドミントン部に入らざるを得なくて一緒に蹴ってた女友達もサッカーに興味なくなってしまっていつの日か大好きだったサッカーは遊ばなくなりました。こうして日が流れ、日韓サッカーW杯のきっかけに再びサッカーをやりたくて社会人になったらサッカーチームに入ろうと決めました。ところが今までデフの世界にいた私にとって健常者チームに入るという選択肢はなくてろう者の女子サッカーチームを探しても残念ながらありませんでした。そんな時に友達の男友達がフットサルをやってるから来てみないかと誘われて行ってみました。サッカーと違ってボールタッチが多く、攻守の切り替えも速くスピーディーな展開で繰り広げるフットサルの魅力にハマりました。そこから他の女子も誘って「太猿美」というチーム(フットサルに美を付けただけで今思えばセンスのないネーミング笑)を立ち上げました。基礎練を重ね、そろそろ試合も出たいと思ってあるワンデーカップに出ました。しかしエンジョイ向けではなくパラレッズ、ベンガボーイズ、ガロといった強豪チーム(解散したり名称変更などで現在はありません)と当たってしまい、十数点以上ものの差をつけられ完敗でした。ショックというよりもこんなに上手くて強いチームあったんだ!と私にとって衝撃的な出来事でした。そして当時まだ日本や関東リーグもなかった頃、いつか東京都女子フットサルリーグでプレーしたいと思うようになり練習に励みました。フットサルを始めて2、3年位して台北デフリンピックに向けてデフサッカー女子日本代表が立ち上げるのを聞いて、サッカー経験が乏しいと危機感から意を決して今まで避けてきた健常者サッカーチームに入部することにしました。不安が多かったが優しいメンバーに恵まれて何とかうまくやっていけました。台北デフリンピックが終わって事情あって自分達が立ち上げた「太猿美」を解散して新たなに競技志向で結成されたデフチーム「sord」と健常者サッカーチームを掛け持ちしながら活動しました。次第にデフフットサルW杯に向けてサッカーチームを辞めてフットサルだけ集中することになります。その時一緒にプレーしていた#9中島選手が日本代表経験者で実力の持ち主で女子フットサル界でレジェンドとも言われてる選手が中心となって新たに立ち上げるチームのセレクションに受かって移籍することになり、心中穏やかではありませんでした。幸いなことに自身も都一部の「うー魚」(のちにTapaZidaに名称変更)というチームと縁あって何度か練習に参加させてもらい、もっと上手くなりたい、W杯に戦える為だと思って移籍を決意しました。元日本代表や都選抜常連のメンバーもいたりしてとても刺激的でした。念願の都一部でプレーする事ができてとても嬉しかったと覚えています。でもレベル高くてなかなか試合に出れなかったりコミュニケーションの面で苦労しました。そして結婚・出産によりチームを退部、フットサルは遠ざかってしまいましたがママになった現在、再びフットサルをやれていること、日本代表に戻れたこと、大好きなフットサルに関われて本当にこれ以上嬉しい事はありません。ただただ感謝しかありません。これまでデフリンピック2回、デフフットサルW杯1回日本代表として選出させていただきましたがずっと違和感を抱いていました。私にとって日本代表は日の丸を背負い、誇りを持って夢や希望を与えられる憧れであって手の届かないような特別な存在です。しかし、私はまだまだ下手くそで所属チームで大した活躍もしてないのに胸張って日本代表ですとは言い難いです。立ち上げ当時はまだお金さえあれば日本代表になったようなもんでした。その反面、数年ぶり日本代表に戻った今、代表メンバーの殆どが日本、関東、東京都、神奈川県などのリーグに所属してるチームでそれぞれ頑張っていてレベルも上がって数年前とは比べられない位、本当に意識も高くなり若手メンバーが頼もしく成長を嬉しく思っております。デフという枠にとらわれる事なく健常者の世界でも活躍できる可能性が秘められてるのは障害スポーツの中ではデフじゃないかと思っています。だからもっとやれるはずです。デフサッカー、デフフットサルを取り巻く環境も立ち上げ当時より色々変わって少しずつ良くなって来ましたがそれでも自己負担で活動する部分は全然変わっていません。お金の事でどうこう言うよりも気を遣わず子どもを預けれてトレーニングの時間が欲しいのが正直な気持ちです。子育て真っ只中でなかなか時間取れない中、満足にトレーニング出来なくてこんなんで日本代表になる資格はないのではと。逆に合宿やトレーニングする為に子どもを預けるとママとしての資格ないんじゃないのと言われる始末。本当にもどかしい。悔しいです。いつも寂しい思いさせてしまっているけれど本当に子どもたちは可愛くて大事な宝物です。不思議なもので私の発音は下手で健常者に話しても通じないのに子どもたちは何故か私の言ってる事は理解してくれるんです。些細な事だけれど本当に嬉しいです。本当に大事なのは子どもたちの笑顔です。自分もいつも笑顔でいたいです。だからこそ、ずっと抱いていた違和感をなくすべくママは再び世界一に挑戦します!子どもたちが大きくなった時に耳が聞こえないママの事で不安だったり悩んだりすると思います。でも大好きなフットサルで世界一を目指して挑戦したことを胸張って生きてることを身をもって教えたいです。クラウドファンディングについて賛否両論はあると思いますがやらなければ未来はいつまでも変わらないと思います。だからこそ今やる意味があると思います。皆さんどうかお力をお貸しください。引き続き、応援、ご支援のほどよろしくお願いいたします。まとまりのない拙い文章になってしまいましたが最後まで読んでいただきありがとうございます。#15 一色麻衣


thumbnail

皆さま、こんにちは。デフフットサル日本代表3番  設楽武秀です。 「設楽」と言えば、お笑い芸能人やマラソンで活躍している「設楽」という有名人がいますが、デフフットサル日本代表にもいます!(笑)  日々、私たち「デフ(聴覚障がい者)フットサル日本代表」への応援やご支援いただきありがとうございます。 私からは、「デフフットボール(※1)を通して、共生社会の実現につなげる」をテーマにして、皆さまへお伝えさせていただきます。※1:デフフットボールとは、デフサッカーとデフフットサルを総称したものです。 私はグンマー帝国こと「群馬県高崎市」で誕生しました。生まれつき聴覚障がいを持っていたため、幼少期から補聴器を着用しています。 現在に至るまでの私について、簡単にまとめると以下の通りです。①聾学校幼稚部と健常者が通う保育園の両方 ↓②小学2年まで聾学校、小学3年から高校まで健常者が通う地元の学校    ↓③長野大学    ↓④社会人 大きく分けると、4つ。どんな時も支えてくれる人がいました。 ①では、平日毎日1時間発音トレーニングを通して、私と向き合ってくれた聾学校の先生。 ②では、聾学校から地元の学校へ転校するために動いてくれた両親、校長先生や担任の先生。そしてサッカーを通して、たくさんつながりができた顧問、友達、先輩や後輩。③では、サッカー部とフットサル部両方の部長を兼任したことから、色々なつながりができた仲間。④では、社会人になってから所属している社会人フットサルのチームメイト。 普通のサッカーは小学4年から始めました。始めた理由は地元の小学校へ転校したあと、毎日昼休みや放課後男女関係なく皆でサッカーして遊んでいました。 「ボール1個だけで、友達がたくさん作ることができて仲良くなれるし楽しい!!」それだけでサッカーの魅力に惹かれました。そして少年サッカークラブで活動している同級生から誘いがあり、本格的に始めました。  デフサッカー・デフフットサルは大学2年から始めました。始めるきっかけは、大学にいた聴覚障がいを持つ先輩が教えてくれたことでした。 2014年からデフサッカー・デフフットサル日本代表両方選出し、出場しています。ただし、2016年デフサッカーはバックアップメンバー、2017年デフリンピックは落選しています。 デフフットサルでは2015年デフフットサルワールドカップに出場しました。当時は社会人1年目で、仕事と両立する大変さを感じました。特に当時世界ランキング1位のロシア戦、ピッチ内に立っていた自分が守備時、マークのミスを犯してしまい、残り1秒で勝ち越しゴールを許してしまい、敗退しました。川元監督は「責任は俺にある。」と言っていたが、選手である「俺にも責任がある」と心の中でまだどこかで想っていました。2018年9月から中外製薬へ障がい者アスリート社員として、入社し週3勤務となり、競技へ専念できる環境に変えました。 更に現在所属5年目になる健常者の社会人フットサルチーム「スプリズ」で2016年埼玉県3部優勝2017年埼玉県2部優勝2018年埼玉県1部3位と自己の成長だけではなく、チーム全員と一緒に成長することができています。  スプリズで活動してきた経験値が今年2月に開催されたデフフットサルアジア予選で活きました。準決勝で2015年W杯準優勝のタイ戦で3点目を決め、3-2で勝利に貢献することができました。  しかし11月のデフフットサルワールドカップに向けて、所属チームが違う他の選手と、残された時間の中で練習や合宿で一緒にやっていかなければなりません。 しかし、私がいままでボール1個で仲良くなれたフットボールの力を信じて、聴覚障がい者の欠点とも言える【音】が聴こえなくても、【メッセージ(=想い)】を伝え合い、世界一を目指すことができるのではないかと考えています。  今まで健常者に支えられてきてサッカーやフットサルをしてきた自分がデフサッカー・デフフットサルをしてみると、ほかの聴覚障がい者を支えながら、プレーをしています。 支え合いの大切さをより実感しています。聴覚障がい者の皆が経験した支え合いが明るい未来を育む可能性が秘められていると考えています。 日本の皆さまに伝えたいことは【デフフットボールを通して、共生社会の実現につなげる】ことです。 聴覚障がい者だけではなく、健常者の監督やコーチ、トレーナー、手話通訳も含めて、お互い支え合いながら、戦う姿を見届けてほしいです! 最後に生まれてきてから、社会人になるまで支えてくれた両親や先生、仲良くしてくれた友達や先輩、後輩フットボールを通して、関わってくれたすべての方々へメダルを見せて、世界一の感動や感謝を伝えたいです!  皆で一つの生命体(=仲間)となり、一緒に戦いましょう。応援よろしくお願いします。 設楽 武秀