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デフフットサル日本代表OURVISION W杯渡航費プロジェクト

男子・女子デフフットサル日本代表は11月のスイスで行われるW杯に出場することが決定しました。 ですが渡航費用や滞在費も選手の自費での負担で賄っている状態です 選手の負担を減らし、沢山の方に応援していただき、男女共に日本フットボール界ではまだ成しえていない【男女W杯アベック優勝 】を目指します

現在の支援総額

4,554,500

22%

目標金額は20,000,000円

支援者数

726

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2019/05/30に募集を開始し、 726人の支援により 4,554,500円の資金を集め、 2019/07/31に募集を終了しました

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デフフットサル日本代表OURVISION W杯渡航費プロジェクト

現在の支援総額

4,554,500

22%達成

終了

目標金額20,000,000

支援者数726

このプロジェクトは、2019/05/30に募集を開始し、 726人の支援により 4,554,500円の資金を集め、 2019/07/31に募集を終了しました

男子・女子デフフットサル日本代表は11月のスイスで行われるW杯に出場することが決定しました。 ですが渡航費用や滞在費も選手の自費での負担で賄っている状態です 選手の負担を減らし、沢山の方に応援していただき、男女共に日本フットボール界ではまだ成しえていない【男女W杯アベック優勝 】を目指します

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続ける義務がある
2019/06/07 20:34
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#4田村友恵です。 デフフットサルを応援しよう!!とSNSで沢山発信してくださってる方々に感動し、 私も出来る限り初代メンバーとして8年前の話を伝えさせていただきます。 その前に私がフットサルを始めたきっかけ・・・ 技短に入学してまもなく同級生のヨーコが新入生にしてフットサルサークルを作り、 絶対来てね!と半ば強引に誘ってくれたのがきっかけです。 これまで中高生はバドミントン部でした。 (技短=筑波技術短期大学。聴覚障害者を対象とした日本国内唯一の国立大学) 余談ですが、#9リンも技短の同級生でやはりヨーコの勧誘により二学年の途中でバスケ部から転向してきました。 卒業後でもヨーコがデフのチームを立ち上げ、一緒に活動していました。 こうしてヨーコが周りの人を巻き込んで引っ張り続け、後に前回W杯の日本代表キャプテンとしてチームを牽引します。 本題。 今から12年前、デフフットサルの協会がまだ無かった頃、 知り合いからイタリアで非公式のデフフットサル大会があると聞き、 ヨーコと有志のメンバーを集め、5名で参加し準優勝しました。 そのメンバーにはリン・#15シューがいました。 ヨーロッパ中の人達から今年のデフフットサルW杯(ブルガリア)に出ないの?と言われ、 そこで初めてW杯の存在を知り、将来W杯に出てメダルを獲りたいね!と皆でわいわい話していました。 帰国後、早速ろう者サッカー協会にW杯あるらしいよ!と情報を提供しました。 その数年後に協会の中にデフフットサルのカテゴリーが設立され、 2011年第二回デフフットサルW杯(スウェーデン)に出場すると正式に公表され、 待ってました!!とワクワクしながら日本代表を目指しました。 しかし代表活動費は自己負担でした。 また監督がいなく、船越さん(現男子日本代表#5)に選手兼任で監督をやってくれないかと無理を承知でお願いしたら、 協会から兼任は認めないと告げられ、船越さんは断腸の思いで選手としての出場を諦め監督を選びました。 恩返しのためにも何が何でも結果を出してやると自分自身を鼓舞し、 フットサルと仕事が両立できるように土曜出勤ありの会社を辞め今の会社に転職し、挑みました。 実際始まると想像以上に大変でした。 費用を抑えるために、大阪で合宿だけどホテルは神戸と結構移動距離があり 早朝にスーツケースを持って東京から大阪に向かい、昼から夜まで練習し、そこから神戸まで電車で移動し外食して、 深夜ホテルに着いてシャワー、MTGしてやっと就寝、翌朝寝不足のまま大阪移動、練習試合、、という過酷な環境でした。 一般企業に勤めている私は特に月曜の朝がきつく這いつくばって出社、精神面もプレッシャーからか疲労していました。 そんな私を見かねた友人が日本代表なのに自己負担だよね?なんでそこまで頑張る?と呆れていました。 でもそれ以上に楽しいことも沢山あったからしんどくても頑張れたのです。 当時私はリン・後輩Yと3人暮らしをしていて、ヨーコも近所に姉たちと住んでいて、 一緒に夜の公園で基本練したり坂道ダッシュしていたのが、今となっては懐かしい思い出です。 経済的理由により辞退するメンバーもいましたが、(後輩Yもその中の一人でした) 私たちはメダル獲得に向けてひたすら走り続けていました。 試合の経験を積むためにデフチームで東京都エントランスリーグ参加を申し込みましたが、 デフだからスムーズに進行できない、万一何か起きたら対応できないという理由で断られました。(今は認められるようになりました) 途方に暮れた私達は何とかワンデー大会や健聴チームとの練習試合で補い、 試合感覚を養っていくよう努めていました。 一部の選手はレベルアップのためにデフチームを去り健聴のチームに入りました。 それはデフの世界で生きてきた私にとって外国チーム移籍と同じくらい相当勇気がいることなのです。 やはりコミュニケーションの面で苦労している話を聞き、 自分には一生関わることのない世界だなとぼんやり思っていました。 ほとんどの選手は公式試合の経験がないままスウェーデンへ発ちました。 結果は空しくも予選敗退で終わり、自分に絶望し燃え尽き症候群にかかり引退しました。 代表活動を継続していたヨーコとはちょくちょく会って、 デフチームは解散、みんな健聴のチームで頑張ってる、監督は健聴だけど手話を勉強してる、 トレーナーがいて助かる、期待の若手メンバーがいる、まだ自己負担だけど環境は前よりは良くなってる、 募金活動をしている、現状を変えるためにも結果を出さないといけない、、、など色々話を聞いていました。 そして毎回「やっぱりW杯の経験者が必要!友恵も続けるべき!!続ける義務がある!!!」と言っていました。 それでも、やらないの一点張りだった私。 3年、、経ってもヨーコはまだ言っていました。 「続ける義務がある!!!!!」なんてしつこいんでしょう。 そのせい、いえ、お陰で、やりたい気持ちが少しずつ芽生え、自分の心に迷いが生じてきた時 たまたまTVのしくじり先生を見て、DaiGoが言った言葉「自分につくウソはいずれ真実になる」が すごく私の胸にグサーッと刺さりました。 自分の気持ちに気づかないフリして自己負担キツイといって何もせずダラダラしてこのまま一生を終える それが真実になるなんてゾッとしました。 今を変えないと未来は変わらない。私でもW杯経験者としてチームの力になりたい。 ダメ元で協会を通して山本監督に連絡し、結果的に復帰しました。 選ばれるために、ブランクを埋めるべく死に物狂いでトレーニングし、 そして、とうとう無縁と思っていた健聴チームの門を叩きました。 練習初日は憂鬱でお尻が重くて、でも自分のために行かないといけなくて、 勇気を出してえいやっと飛び降りるつもりでいったら そんな私を察してくれたのかコーチに「緊張しているよね、大丈夫だから」と お声掛けくださり、安心したこと今でも鮮明に覚えています。幸いデフに理解のあるチームで コーチがコミュニケーション面でコーチ含め選手マネージャー全員がサポートするよう働きかけてくださり とても恵まれた環境で練習させていただけました。感謝しかなかったです。。W杯(タイ)は準々決勝で敗れメダル獲得ならず、皆で泣きました。 四年後こそ世界一!私には続ける義務がある!! と4年後も目指すことに決め、それから苦悩と葛藤の日々もありましたが、 皆に支えられ、今に至ります。 今でも周知の通り自己負担です。 節約のために夜行バスを利用する選手や普通電車で6~10時間かけて合宿に参加する選手もいます。 特に#3ミクは去年までは沖縄住まいなのと未成年なので保護者同行必須であり負担が2、3倍と凄まじいです。 ホテルはお金を優先して遠い所にするか、時間と体力を優先して近い所にするか、 グループLINEで相談して頭を悩ませながら決めることもあります。 皆さま、どうか、力を貸していただけませんか。 W杯に全員で行って、最高の結果を出して、みんなで喜び合いたいです。 クラウドファンディング、まだまだチャレンジ中です。 応援のほどよろしくお願いいたします!!!!!


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こんにちは!デフフットサル男子日本代表No12 ゴレイロ「小さな巨人」(チームメイトからは顔面マン何とか呼ばれていますが(笑))こと折橋正紀と申します。この度は、閲覧いただきありがとうございます。本当にたくさんの方々に拡散され、SNS、フットサル界のパワーにびっくりしています。そして、ご支援いただいた方、本当にありがとうございます!まだまだ皆さんのお力が必要なので、ご協力よろしくお願いいたします。ここ最近、ありがたいことに様々なところから取材の機会を頂いているのですが、「折原」と間違われて呼ばれることが増えました。折原ではなく、折橋です。覚えてください。もう一度言います、折橋です。・・・すみません、前置きが長くなりました(笑)さて、タイトルについて長くなりますが身の上話を載せていきたいと思います。拙い文章ですが、最後までお読みいただけるとありがたいです。[東海林キャプテンとの出会い]彼とは、もう10年の付き合いになります。男子代表の選手たちとは、付き合いが長い選手が多いですが、一番濃い付き合いをしてきたのは東海林だと思っています。東海林は、4つ下なのですが僕と同じ北海道札幌市出身ということで札幌でのエンジョイフットサルで出会いました。約10年前、筑波技術大学に通っていた僕は帰省するたびに高校時代の友人に誘われてエンジョイフットサルに参加していたのですが、その友人から「ドリブルがめちゃくちゃ上手いデフがいる!」とのことでその場に連れてきてくれました。当時、高校生に入ったばかりだった彼の印象は、体格がひょろひょろしていて目つきもすごく悪いやつだなというくらいでした。そしてドリブルもニョロニョロしてる、イメージでいうと蛇ですね(笑)そんな彼でしたが、深い付き合いが始まったのは出会って1年後に行われた全日本ろう者サッカー選手権の時です。※全日本ろう者サッカー選手権北海道、東日本、西日本、九州、4つのブロックに分かれた選抜チームでトーナメント戦を行う年に1度の大会開催地は、各ブロック持ち回り当時、サッカーをやっていた僕と東海林は北海道選抜として出場し、ホテルも相部屋でした。翌日試合があるにも関わらず夜遅くまで話に花が咲いたことで一気に関係が縮まりました。(コンディショニングの観点から見ればNGですね)そんなキッカケから、帰省のたびにご飯行ったり、東海林が就活で関東にきた時は1週間くらい泊めたり、引越しの手伝いもしたり、練習のアッシーに使い合うなどといった付き合いが続いています。そんな彼ですが、今や頼れる代表キャプテン。キャプテンになってから変わっていく姿を見て自分も学ばなければいけない部分も多いですし、もっと変わっていきたいと思っています。[ゴレイロとしての歩み]今、ゴレイロを務めていますが、元々サッカーではキーパーをやっていませんでした。サッカーのキーパーは全くできません。そんな僕がなぜ、ゴレイロになったのか。それは、2011年に出場したW杯がキッカケです。当時、日本が初出場ということもあり、メンバーも遠征費が払えれば参加できるといったメンバーでした。出場メンバーにゴレイロが一人しかいなく、フィールドプレーヤーの中からサブのゴレイロを兼任してもらおうということになりました。そこで、一人一人テストをした結果、僕が掛け持ちすることになりました。(僕のどこに適性を見出したのかわかりませんが(笑))そんな流れで、W杯も試合の半分はゴレイロとして出場しました。翌年に行われた、アジア太平洋ろう者大会でもゴレイロが僕しかいなかったということもありゴレイロを務めてきたのですが、「試合の勝敗の7割はゴレイロが占める」ということも知らなかった素人レベルでしたのでプレー、結果は散々でした。そんな流れでゴレイロを始めたのですが、今に至るまでにかなり紆余曲折しています。2013年頃だったと思いますが、ご縁があり、関東リーグに所属しているブラックショーツというチームのゴレイロ冨沢さんから声をかけていただきブラックショーツサテライトに入れていただける事になりました。これだけでもすごくありがたい事なのですが、当時の自分にはレベルが高すぎて1年ほどでバルドラール浦安デフィオに移籍するタイミングで1度ゴレイロを辞めてしまいました。今なら、学ぶのに最高の場なのになんてもったいない事をしたんだろうと思うのですが、当時はついていけない、自分ができないという現状から逃げ出したかったんだと思います。今では、時々、冨沢さんのゴレイロ練習会に参加させてもらったりありがたいことに何かと気にかけていただいています。以前の川元監督のブログにデフのことについて書かれていましたが、まさにその通りで自分もその一人でした。僕はずっと聾学校で育ってきたのですが、1学年5〜10人程度(高校は道内で1つなので1学年20〜30人)の環境で競争もそんなになくコミュニケーションなど不便に感じることがあまりありませんでした。ですので自分にとって、本当の意味での競争や挫折といったものを知らなく、井の中の蛙といった感じでした。聾学校で育つのが良い悪いではなく、育ちの背景がそうだったというだけで自分がそういった厳しい経験をする機会が少なかっただけのことです。そんなわけから、何か辛いことや厳しいことに直面すると、何かのせいにしたりうまく理由を作って逃げるような自分だったと思います。なんやかんやでゴレイロ、代表から離れていた僕でしたが、2015年W杯の試合をライブ中継で見たときに心のどこかでモヤモヤを感じている自分がいました。そして今年11月のW杯に向けた新チームが発足するタイミングで東海林から「もう一度一緒に代表やらないか」とお誘いを受けたこともありもう一度ゴレイロとして目指すことに決めました。アワービジョンの発足もあり、基準が明確になり選手のフィジカルベースが上がっていく中で、自分はどうだったかというと、、ひどいものでした。当時、プレーの波が激しく、失点すると凹むひ弱なメンタルだっただけでなくいじられるのも好まない自分でした。たくさん監督を含めみんなを悩ませたと思います(笑)他にまともなゴレイロはいないのか?こんなシュートも止めれないのか、と思ったことでしょう(笑)代表に誘うんじゃなかったと東海林も思ったことあるんじゃないかな。分かりませんが(笑)世界一を達成するには、選手としてのフィジカル、スキルはもちろんですが「人」としても成長していかないと達成できません。また、今まで専門的にゴレイロの指導を受ける機会が少なく、試行錯誤でやってきた自分にとってターニングポイントが2つあります。1つ目が前代表ゴレイロコーチの濱さん、メンタルコーチのジーニョさんとの出会い。ゴレイロスキルの指導はもちろん、WhyとPDCAの考え方を植え付けてくれました。失点や上手くいかなかった部分に対して、何故そうなったのか原因を明確にし、どうすれば良かったのかを考え、試していくといった事を繰り返していく事を学びました。メンタル面についても、心構えだったり失点後のメンタルの保ち方などを指導してくださいました。代表合宿などでは成果はあまり出せませんでしたが、それを習慣づけていくことで少しずつ成長できたのではと思います。2つ目が昨年12月に行ったスペイン遠征。これが自分にとって本当に大きかったです。当初、この計画が出たとき、金銭面からすぐ辞退が頭によぎりました。また、困難なことに対して逃げる選択をしかけたのですが、チームメイトの鞭撻もあり何とか工面して参加しました。本当に行って良かったと思います。スペインでは、本場のフットサル、ゴレイロの指導、そして日本代表としての行動、試合や普段の行動に対するメンタル・心構えというものを学びました。この経験をさせてもらえたことで、一回り二回り成長できたと思っています。そして、迎えた2月のアジア予選。アジア予選では、自分の持てる力を全て出せたと感じています。余談ですが、毎試合顔面ブロックが出る、顔にアザ作る、元々顔が大きいことから「顔面マン」としていじられキャラが定着してしまいました(笑)今では「その顔で世界を取るから見とけ」と開き直るまでになっています(笑)このシーンを振り返って、誰だったか忘れましたが「タイからあのゴレイロ頭おかしいって思われてるぞ」なんてこと言われました(笑)僕にとっては褒め言葉です(笑)結果はアジア準優勝でしたが、イランは2回やってどちらも0−4で敗戦。世界一になるためにはその4点の差を埋めなければなりません。自分がその4点を0に抑えることができれば、世界一の可能性がグッと高まります。その為にも、新しく就任された、世界を知る定永ゴレイロコーチの元でたくさん学んでその差を埋めていきたいと思っています。体全てを使って、顔が潰れてどんな顔になろうがピンチを確実に止め、世界一に近づけるよう努力していきたいと思います。今までの出会い、関わってくれた方々、支えてくださった全ての方への感謝を胸に外見ではなく本当の「小さな巨人」になれるように。その為にも、皆さんのお力を貸してください!一緒に世界一の景色を見たいと思っていますので、引き続き拡散、ご支援のほどよろしくお願いいたします!長々となってしまいましたが、最後まで読んでいただきありがとうございます。最後の最後に、みなさん僕がなぜ世界一を目指すか?わかりますか?顔がデカイからや!お後がよろしいようで!笑折橋正紀


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毎日デフフットサル日本代表の応援ありがとうございます。 デフフットサル日本代表14番の中井香那と申します。今日も暑い日でした。梅雨入りは、いつからでしょうか?皆さんも水分しっかり摂って下さいね。私は、大阪府堺市出身で現在は愛知県で聴覚障害とろう重複の子ども達に関わる仕事をしています。私を知っていただくために今日はまず、仕事について書きます。ろう学校に通っている子供たち(幼稚部から高等部)を預かる仕事をしており、平日は、ろう学校にお迎えに行き、施設に帰ったらおやつを食べたり、宿題をしたり遊んだりしています。特にケイドロは子供たちの中では人気で毎日走り回ってます。そして、子供達を家に送り、保護者さんから「ありがとう。」と言われると嬉しい気分になります。こんな感じのお仕事です。土曜日と長期休みは楽しいお出かけができるように企画を考えたりしています。長期休みは一番大変です。朝から子供たちと遊び、体力がもたない。。。トレーニングもしなきゃと思うとしんどいですけど、頑張ります…子供たちはやっぱ可愛いし、癒されます。子供達に、私がデフのチームで頑張っている姿を見せ、勇気を与えるのが、私の夢です。次に私のトレーニングについてです。OURVISIONの人たちに色んなトレーニング方法を教えてもらい、毎月トレーニング表を立てています。週2日はジムで上半身と下半身のウェイトをしています。(だんだんゴツクなってきて、喜んでいいのかわかりません…(笑))週1か2日、1時間半かけて「ソンリッサ」のチームの練習に参加し、帰りは、夜中の1時過ぎることもあります。高速代がもったいなくて、下道を通って帰るからです。また、埼玉にある「アレグリーナ」のチームに代表選手が何人かいて一緒に練習をしています。仕事を手早く片付け定時の18時半に帰り、栄養面や、食費も考え、惣菜は買わず、自炊です。安いものを見つけて買うのは、得意です。料理はあまり得意ではありませんが、まーそこそこ美味しいものは作れます。食事が終わって近くの公園のライトが点いているところを探し、アジリティ等トレーニングしています。また、交代浴をしています。(交代浴とは、簡単に言うと温かいお湯と冷たい水を交互に浴びる入浴法のことです。交代浴では、入浴が促す自律神経への刺激と血管の伸縮作用による血行促進を利用します。)水風呂が気持ちよく疲れもとれます。(笑)ぜひ、みなさんもお試しくださいね。そんな感じで1日が終わります。世間で流行ってるドラマなんかは、全く見るヒマがない。1人暮らしは、やっぱりたいへんです。家賃は高いし電気のついていない部屋に帰るのは寂しい。でも、自分で選んだ道、充実感があります。ってところで、次回は、子供の頃の様子から、私の一番輝いていた時代について、書きます。よかったら、また読んでくださいね。いつも応援ありがとうございます。No.14.中井香那今日も明日も頑張ります。 


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こんにちはデフフットサル日本代表10番 松本 弘です。福岡県出身で、東京育ちの33歳です。チームでは船越、風間に次ぐいわゆる年長組です。まず、本日までに210名の方に支援して頂き本当にありがとうございます。また先日の岩渕主将の記事にもありましたように10万人の方に拡散され、ただただ驚いております。「なぜ驚くのか?」「先日ろう学校で講演したときに感じたこと」この2点をしてフィーチャーして私の生い立ちと共にご紹介していきますので、最後までお付き合い頂きたいと思います。「生い立ち」福岡時代は小学校3年生まで、普通の小学校に通っていました。「普通の学校」この普通の学校という言葉には健常者からしたら、違和感があるのだろう。しかし、ろう者にとっては普通の学校又はろう学校の選択がある。その為、ここでは普通の学校と使わせていただきます。私は、両親共に耳が聞こえず、先天性の障害を持って生まれた。幸いにも補聴器をつければ、なんとか音を拾える、周囲の言葉が理解できるレベルなので幼稚園の頃から発声の練習に費やし、また両親の声、耳となり通訳もしてきたことで発生が上達した。両親から常日頃言われたのは「自分の言葉で伝える大切さ」よりも「自分の声で伝えることのできないつらさ」を聞かされました。なんでこんなつらい発声練習しなくちゃいけないのかと嘆くこともありましたが、このつらい時期が数十年後になって感謝する日がくるとは当時は思いもしませんでした。話は飛びましたが、小学校2年のある日、同級生のイジメから助けてくれた近所のお兄さんの誘いもあってサッカーをやることになりました。これが僕のフットボールの出会いです。ちょうどJリーグ開幕と重なっていた時期なのでそれはもう毎日のようにサッカーをしていました。が、4年生になると父親の転勤を機に東京に。これまで勉強よりも発声練習に時間を費やしたために普通の学校に転校しても遅れてしまうという理由でろう学校に通うことになりました。「ろう学校での過ごし方」ろう学校では普通の学校とは違い、教室のドアを開けると馬蹄形に机が並んでいます。これはお互いの口と手話が見えるため。当時のクラスには6人しかいなく、同学年は14人。とてもじゃないほど寂しい。それでも手話が飛び交う教室は静寂の中に賑やかな光景を記憶している自分がいます。当然のように大好きなサッカーを学校ではすることはできず、家の近所のクラブチームへクラブチームだけあって立派な環境にレベルも高く小学生ながら武者震いするほどでした。が、両親が耳が聞こえなく緊急の連絡ができないという理由で入部を断られました。今では時代の変化で携帯電話があるのでこのようなことはないと思います。こうして大好きなサッカーは、学校の昼休みで数人の仲間と蹴る程度。体育教員もちょうどサッカーが好きだったのでちょっとしたブームになった時期も。中学も高校も、ろう学校に進学。サッカー部ができるような人数には程遠いので、やむ得なく野球部へポジションは捕手で4番。捕手というポジションから常に相手を観察し味方にもアドバイスする癖がここで根付いてきたのかな。※ちなみに当時の野球部監督は、パラリンピック競技”ゴールボール”男子日本代表の現ヘッドコーチ!!「デフサッカーとの出会い」20歳のころにデフサッカーに出会い、ちょうど選考会が行われた頃だったので応募しました。選考会では50人の選手が体力テストから始まり実戦形式が行われました。どうにか監督の目に止めてもらおうと、あえてアクロバティックな技も取り入れこの作戦は成功。次回の合宿にも呼ばれましたが、合宿を重ねるごとに、当然サッカー経験が著しい私は、次第に周りとの連携に苦しみました。なぜ自分のような選手がいきなり選出されるのかと思うこともありました。が、当時チームの中心選手だった船越選手の「監督が選んだ選手の一人なんだから、失敗なんか恐れずに自分のプレーをしたらいいんじゃないか。」という一言に励まされました。それ以降は日の丸を胸に13年もの間代表に選出され、数々の国際大会に挑んむことができました。「川元監督と出逢ってしまった」ここで皆さんに質問です。サッカーとフットサルは別物でしょうか。私は川元監督と出逢うまではサッカーとフットサルは別物だと感じてました。ルール上はもちろん、ボールも違います。でも監督に言われたんです。「フットボール」って!!それってろう者と健常者と区別しているようなものかもしれない。監督の言葉を借りるなら「ヒューマン!!」って!こうして川元監督の言霊(言魂)に励まされ、フットボール選手として、フットサルにも挑戦することになりました。監督の言葉、選手と真剣に向き合ってくれるトレーナで挑んだ2015年のタイのでフットサルW杯。日本は強豪国イラン、ロシアと僅差の試合を落としてしまい予選敗退。順位決定戦まであったこの大会は、最終日まで滞在することになっていた。世界のトップレベルの試合を観ようと決勝戦のスタジアムへ決勝戦カードは、地元開催のタイと連覇のかかるイラン。スタジアムは満員のタイのサポーターで埋め尽くされていた。地元の応援団も横断幕を用意(タイの指文字)やチャントでタイチームを鼓舞。試合は序盤から攻守の切り替えが早く、激しいデュエルで繰り広げていた。それでも巧みに試合を進めたのは王者イラン。最終的に3-8のスコアでイランが連覇を成し遂げた。なぜイランは強いのか?優勝すると国からの待遇がかなり手厚い(家を支給されるなど)。ハングリー精神とは言われるが果たしてそれだけなのだろうか。一人ひとりの能力、フットボールに向き合う中での日々のトレーニングも果たして彼らに勝っていると言えるのだろうか。「東海林と上井」OURVISIONというプロジェクトを語るうえで東海林、上井は外せない。この2人が2015年感じたことを、帰国後トレーナーと相談しながら、このプロジェクトを設立した。プロジェクトは今も進行中で、多くの企業やサポートもあり、日本代表は見違えるほど強く、大きくなった。2015年にいなかった選手はきっと東海林や上井の言葉、ひたむきに向き合う姿勢に一緒に戦いたいと思う選手が出てきたのではなかろうか。昨年冬には有志を募りスペイン遠征も計画してくれた。スペインで経験したこと、教わったことも多くの財産となった。そして、2019W杯出場権をかけたアジア大会。当初は別の国で開催される予定だったが、運営国の準備不足により大会が延期。それに伴いタイでの開催に変更された。4年ぶりに踏むこの地で並々ならぬ決意と覚悟を持って挑んだ。予選を2位で通過すると、準決勝の相手は別ブロック首位の前回W杯準優勝タイ。前半終盤に1点を失い、ハーフタイムのロッカー。「いける!いけるって!」この言葉には4年前とは違った感情があった。ここに来るまでの過程。アジリティに勝るタイと互角に渡り合えている。後半が始まるとセットプレーから立て続けに得点し3-1、試合終盤にタイの猛攻で1点差に迫るも、ここで試合終了のフラッグ!!チーム全員が戦っていた。日本からの応援エールも届いた。数十年前、電話でしか連絡手段がない時代からメール、チャットと文字で言葉を送れる時代になり、「伝えられないつらさ」を時代が変えてくれた。決勝戦のイラン。試合前、言葉の少ない両親からのLINEに「思いっきりやってきなさい。応援してる」ふり絞った言葉を頂戴し、挑んだ。この大会ではフットボール経験のある手話通訳兼メンタルコーチも帯同。ピッチに立って聞く「君が代」は、手話通訳の手によって選手に伝わり、国歌を斉唱する。それぞれの想いを乗せた声は、肩を組むその手から振動が伝わる。きっとこれはデフ特有の感覚かもしれない。決勝は4-0のスコアで敗戦。上井、東海林が作ったこのプロジェクトは間違いなく世界一を取る可能性を残している。「ろう学校の生徒」先日ろう学校の中学生の前で生い立ちから現在に至るまでを講演してきました。終盤の質問コーナーの時間になり、「みんなに夢や目標はありますか?」と問いだしたらなんと回答がゼロ。恥ずかしいとかそういうのを抜きにして回答がないのは寂しく感じました。そこで目標に関してて、話してみることにしました。すると前列にいた男の子に「サッカーが好きで日本代表を目指したいどうすれば日本代表になれますか?」と質問があった。この質問は、勇気を振り絞ってみんなの前で宣言したその勇気がとてもうれしかった半面質問の中身にちょっと正直どう答えていいのか迷った。「君が考えている以上に日本代表選手として犠牲にしなくてはならないことも起こるだろう。それでも今年行われるW杯で優勝して君が日本代表になった頃にはもっといい環境でやれるよう僕たちも結果を残していくから応援してね。」と答えた。犠牲というのは、先日の野寺選手の投稿記事にもありましたように日本代表といえども自己負担を始めとした様々な困難。その中でもやはり金銭面での工面は大きな問題となる。過去には大会の参加費が支払えなくなって親に頭を下げることもありました。失ったものは多くはないけれども、工面するために大事な仲間の誘いも蹴ることもありました。犠牲にしてまでも、日本代表として世界一!子供たちが将来何不自由なく日の丸を胸に世界と戦えることが出来る環境を作り上げていくためにも現日本代表で大きな成果を成し遂げたい!金銭面の不安を取り除いて世界へ盤石な体制で挑みたいのが本心です。そして日本のデフの子供たちが誇れる日本代表を皆様と共につくりあげていきたい。その一方で、去年4月からフリマあぷり「mercari]に転職。メルカリが掲げる3つのバリュー「Go Bold」「All for One」「Be Professional」に共感し、メルカリアスリートとして大きな挑戦を手助けして頂いています。また、月に1回開催される手話教室では、皆さんに触れ、私たちのような障害と接する方法も伝授しています。デフは外見では判別しにくく、デフの中でも自身がどのように支援してどこまでできるかをうまく伝えきれていない人が多く見受けられます。それはやはり耳で聞く情報を目で得るしかなく、目で得る情報もうまく解釈できないという背景があるからだと思っています。そういった差を埋めるべく、手話教室を通じて皆さんとよりよい環境を作ることも大切だと思い始めました。こちらはデフサッカー日本代表の現在ドイツで奮闘中よ林選手と一緒に始めた手話レッスン!https://mercan.mercari.com/articles/2019-01-25-193000/もちろん、競技に関しては金銭面以外では、専念する環境も作ってくれました。とても感謝しています。このクラファンが成功して、来る11月のW杯で世界一を取ったあかつきには、両親の教えにあった「伝えられないつらさ」を自身のために発声練習したその声で「ありがとう」と。チームメイト、監督、コーチ、日本代表を支えるスタッフ、そしてみなさまの支援の声。聞こえない僕らを少なく…いや、とても大きく背中を押してくれています。10万人以上の皆様とともに世界一へ!!10年前のサッカー日本代表のときでは考えられない数。陰で応援してくれたとしても10万人の方に目に触れることはなかったはずです。SNSを通して、できること。SNSを通して「伝えられることがあること」デフの選手は、パラリンピック大会には出場できないということをどれだけの人が知っていますか?もっと拡散して、僕たちのこと、現状を知ってもらいたい。どうぞ最後までよろしくお願いいたします。そしてみなさんに私から伝えたいこと「肩を組み円陣(縁陣)になりデフフットサル日本代表と共に挑戦しませんか。」


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私の名前は鳥海 玲奈 (とりうみ れな)です!私のサッカー始めたきっかけをお話ししたいと思うので、少しでも見て頂けると嬉しいです。兄弟は4人いて、上の兄と姉2人は健聴で、私と両親がろう者です。保育園から高校まで一般の人と一緒に過ごしてきました。4人兄弟の末っ子に生まれ、よく兄と姉のサッカー応援について行っていました。6歳から小2まで水泳を、小3の数ヶ月だけ硬式テニスをしていましたが、どれも自分のやりたいスポーツではないなと思い、長く続きませんでした。小4の夏の時にサッカーを始めました。きっかけは、3番目の姉が入っていた世田谷区にある強豪とも言われていたBUDDY女子フットボールクラブに在籍していて、そこの監督が難聴でした。監督さんに、耳が聞こえなくてもいいからサッカーやってみないかとお誘いがあり、サッカーを始めました。当時、とても泣き虫だったので失敗したらすぐ泣いたり、監督の話が分からなくて自分から聞きに行かなかったり、サッカーの動き方が分からなくて泣いてばかりでした。たくさん叱られたことで、自分自身の成長が今につながっていると思うし、監督からお誘いがなかったら、今だにサッカーもしていなかったと思うと、とても感謝しきれないぐらいです。全国大会優勝、関東大会7連覇するほど、強豪の中で仲間とサッカーが出来たことはとても、嬉しかったです。中学生になってもサッカーをは続けたくてチーム探しをしていました。そこでSFIDA世田谷のチームがあったのでセレクション受けて合格し入団したものの、中2の時に人間関係で好きだったサッカーを辞めてしまい、暴食したりと太ってしまった時期がありました。中3の冬、高校受験するにあたってもう一度サッカーをしたい未練があったので、部活に女子サッカー部があるところを探して体験しました。そこで見つけたのが文京区にある、文京学院大学女子高等学校に3年間サッカーをすることができました。もちろん、一般の学校だったのでうまく行かなかったことも多かったし、勉強も少し遅れをとってしまい、でも両親は私を私立学校に入れてくれ、サッカーを好きなようにやらせてくれたり応援に来てくれたのでしっかりと単位を取って卒業したいという気持ちもあり、自ら先生に勉強を教えてもらいにいったりと、なんとか無事に卒業出来たことを、両親へのありがたさを感じました。私は、生まれつき耳が聞こえませんが、デフサッカーという名を18年間知りませんでした。高校の部活が忙しくある時に、母親からデフサッカーの「アイコンタクト」という本を読み、デフサッカーというのがあるよ、と話を聞きましたが私は興味すら持つことはなく、興味を示したのは高校卒業した後で、デフサッカーの日本代表というものがあるなら体験したいという気持ちで、知り合いがいるわけでもなく初めて参加して予想してた事と違って衝撃面もありました。現在やっているのはフットサルです。サッカーは一時お休みをしています(掛け持ちすると参加費、交通費の費用がかかる為です。)今まで、私にとってフットサルは難しいのではないかと私の勝手な想像がありました。何度も言ってますが、、ほんとに本気でフットサル代表目指す気持ちなんてありませんでした。でも、フットサルをやってきて早2年目。ここに居るのは自分自身もびっくりしています。フットサルに出会ったのは2年前の1月にフットサル合宿があり、その時はタイW杯が終わった後だったのか集まった人数が少なかった記憶があります。楽しむ程度のフットサルはしていましたが、初めて合宿に参加し、本気のフットサルをやって戦術も全てが訳わからないほど自分はフットサルの日本代表になることすら到底無理だと自信を無くし、目指すつもりなんてありませんでした。参加した次の合宿から『もう二度とフットサルをやりたくない。』そう強く本気で思いました。後に、四月に行われた中国遠征に交流試合で海外の選手と戦う事が初めてだった私は、相手が強いからってびびってしまい、思うようなプレーができていなかった事が後悔、もっとフットサルを知りたい、強くなりたい。その気持ちが湧きました。今後行われるスイスW杯で自分がフットサル代表として選ばれたら、どんな相手でも堂々と闘えるようになりたい、そう思えたのがフットサル代表を目指してみたい。W杯で出て前大会よりいい成績を残したい。その強い気持ちから始まりました。今、沢山の良い仲間に恵まれ、フットサルをやる気すらなかった私を引っ張ってくれたから。フットサルにも楽しさがあるということを教えてくれました。だからこそ、今の仲間で世界一を目指したい!その景色を見たい!その為に自分の今を更にスキルアップにしたく、そして世界一を獲るために、今季から関東リーグ所属のForest annexというチームに加入しました!初めてのフットサル加入なので、チームの皆さんには足を引っ張ってしまう事もありますが必死についてチームの為に貢献したいです。長くなりましたが目を通していただき、ありがとうございました!応援を沢山頂ければ、私たちにも力を変えることができます!よろしくお願いします!鳥海 玲奈