再び投稿します、鳥海玲奈です。現在、クラウドファンディング経過中ですが多大な人達が、私たちの為に沢山の応援を頂いていること、感謝を申し上げます。前回の記事は、サッカーからフットサルに転向した理由をお話しました。今回は初めて加入した健聴フットサルチームについての流れ。お話したいと思います。前回の記事にもあったようにデフフットサルを始めて2年、その前からデフサッカーをやっていました。(高卒した後なので4年前)フットサルを学び始めて2年間、何もフットサルチームに入っていませんでした。週に1、2回程度、近場の公園でボールトレ、ジムで鍛える等の自主トレしかせず、高校卒業して以来、体力もキック力も全く落ちて変わりました。自分でも体力が全く変わった、というのも分かっていました。色んな人に、「チーム入らないの」「チーム入りなよ」「今のレナじゃもったいない」「チーム入ればフットサルが楽しくなるよ」こんな事をめちゃくちゃ、言われました。言われる理由は自分でも、よーーくわかってました。でも、小学から高校まで健聴の世界でサッカーをしてきた私にとって様々な苦労がありました。会話の輪に入れない、コミュニケーションが取りにくい、、などです。高校卒業した後、デフの世界に初めて入って、色んな人との会話が楽しい!コミュニケーションとれる!今までの中で人生が変わったように思いました。その健聴とろう者の違いに気付き、話が通じる嬉しさ、楽しい気持ちがあったから、健聴フットサルチームに加入する気持ちはありませんでした。だから、色んな人にあれこれ言われても、チーム探しに真剣になろうとしませんでした。 今年2月に行われたタイにてW杯の切符獲得するために、アジア大会出場し、優勝しました。しかし、私自身、何かが足りない。すっきりしない。このままスイスで闘うつもりなのか?自分の体力、シュート力、決定力、フットサルの知識、戦術。大会が終わった後、頭の中で考えていました。出した結論は、どれも足りない、まだまだ未熟な部分に当てはまりました。やはり残り数ヵ月しかないけれど、デフフットサル代表に初めて選考されたい。W杯という大きな舞台に立ちたい。健聴フットサルチームに入って自分自身が変わりたい。いいコンディションで臨みたい。その気持ちがでて、チーム探しに真剣になりました。フットサル知識が浅いので、慣らすために都2部から始めて、試合に出る機会を増やして経験積んでいきたいと、自分では考えていました。そのことを監督と、よく相談していました。監督からは「今のレナのレベルで都2部、都1部でやるのは正直もったいない。レナより上手い人たちがいるチームに厳しい環境の中で入った方が、学べる事は多いと思うし、レナの隠れた才能がでてくるかもしれない。ひとつの経験として都リーグより関東リーグの方に行ってみたらどうだ。」そう言われました。関東リーグ、という名を全く知らずデフの仲間たちに相談し話を聞いて貰ったりと都リーグより上の上手い関東リーグだよ、試合に出れないかもしれないよ、厳しい環境なのは確かだけどひとつの経験としてはいいかもしれないね。そうアドバイスをもらいました。それだったら、自分は試合に出たいのに出番がないままになるのは嫌だ。と思ってました。でもやってみなきゃわからない。何も始まらない。後に、#4 タムさん所属のチーム(県リーグ1部)で体験練習しました。練習時間が思いの外遅くて、場所も少し遠方であり、練習の途中に抜けて帰ってしまいました。最初から最後までやり切りたかったけど、時間上厳しいため断念してしまいました。タムさん所属のチーム雰囲気は好印象でした。でも、まだなにか物足りない。そう思って、1つのチャレンジとして関東リーグである、#1 イクさんが所属するチームに体験しました。他のいくつか関東リーグの候補もありましたが、悩んで考えた結果、そのチームに行きました。初めて体験練習しに行って、そのチームの皆に挨拶しようとしたところ、ある方がまず手話で挨拶、自己紹介をしてくれたことが私にとって、凄く嬉しかったです。耳が聞こえないことを理解してくれる、身振りを使い、口の動きを大きく使って話してくれる、気配りをして頂けたことが嬉しく思いました。そのチームなら自分が入ってもやれる気がする。関東リーグというレベルの高いチームでやってみよう。試合に出れなくても練習で積み重ねていけばやれる。その気持ちで、#1 イクさんと同じチームに加入することに決めました。残り数ヵ月後に、スイスで行われる、4年に1度のW杯。加入してまだ1ヶ月ですが、チームで練習するキックイン、コーナー、ゴレイロからのクリアランス等のハンドサインを決める時に、耳の聞こえない私とイクさんの為に、分かりやすく決めてくれたりしてくれています。自分も、周りが私に伝えたい身振りや口話で通じなかった時や、重要な時に使えるようブギーボードを自分で用意して使っています。まだまだ、試行錯誤中ですが、私は必死に仲間と上手く行けるように、試合や練習試合でどうしたらいいか、話したり聞いたりと心掛けています。これから沢山、挫折を味わうこともあると思っています。それを乗り越えたら、上手くいくはずです。「出来なくて当たり前、それぐらいの気持ちでやればいい。出来る事を一つ一つ増やしていけばいいねん。頑張れ。」監督の言った言葉は自分のモチベになりました。デフの仲間も、応援する!頑張れ! と支えになって応援してくれる人がいる事に嬉しく思いました。まとまり感がないですが、これで終わりたいと思います。次回も何かのテーマでまた、皆さまに見て頂けるようにしたいと思います。引き続き、クラウドファンディングの拡散、発信を、どうぞよろしくお願いいたします。読んで下さり、ありがとうございました。鳥海 玲奈
こんにちは。#9中島 梨栄です。 2児ママプレーヤーです。皆さま、あたたかなご支援、ご協力をいただきまして心より感謝いたします。 私が本気でフットサルをやりたいと思ったきっかけをお話しします。 その前に初めてフットサルに出会ったのは、、、短大で知り合った同級生の#4田村や他の友達に女子フットサル部に入らない?と勧誘されましたが、男子が沢山いるバスケ部に入部しました。(青春時代でしたから) でも、時々フットサル部に遊びに行っていました。ほとんどキーパーとして。 だんだんフットサルの楽しさを知り、1年半後になるとバスケ部からフットサル部に転向しました。 そこからデフチームで、エンジョイ感覚でプレーしていました。 その感覚でサッカーも始め、2009年台北デフリンピック(聴覚障がい者だけのオリンピック)にデフサッカー女子日本代表として初出場しました。 世界王者だったロシアと対戦し、当然ながら、ボコボコにされました。 悔しすぎて情けなすぎてスポーツを舐めていた自分にキレていました。これがきっかけで、2011年第2回デフフットサルワールドカップに出場することになったこともありロシアに大敗したあの日から、どうしたらいいのか。2011年のW杯まで残り2年、今のままじゃマズイ。本気で強くなりたい!と思い始めました。 ネットで健聴者のチームを探していると フットサル日本代表・主将経験もある藤田安澄さんが監督兼選手として新しく立ち上げる、 "Aventura 川口"(アヴェントゥーラ)のセレクション会があることを知り、、、、、、、 しかしデフの世界しか知らない私にとって健聴の世界に入るのは、かなりのかなりの勇気が。意を決して、セレクションに挑戦し、受かり、アヴェントゥーラ川口に入りました。 当時のアヴェントゥーラ初代メンバーは日本代表経験者が多く、本多さかえさんもその1人でした。 (さかえさん実は元チームメイトでした。後にデフフットサル日本代表として一緒に戦うことになるなんて夢にも思いませんでした) 入る前までは感覚的にプレーしてきたので、フットサルの戦術はチンプンカンプンで練習では厳しく怒られながらも必死についていっていました。 コミュニケーション面でも苦労して悔しくて何度も泣いたことか。 今思えば、贅沢な環境だったし幸運だったと思います。とても良い経験になりました。 (当時、自宅は大田区・職場は横浜・練習場は川口だったので、平日の練習日は電車ライフ5時間ほどでした…!)デフ日本代表としての自分について、、他のデフ代表選手も同じ思いをしているかもしれないけど、 下手なプレーをみせると「あれで代表なの?」って言われるし、自分の中で葛藤、精神的に辛いこともありましたが、 今は逆に良い意味で、強くなってやる!という気持ちが湧いてきます。 2007年から現在まで2人の出産タイムを除いて、代表活動をして莫大なお金が掛かっているけど、それでも活動し続ける価値があると思っています。 現在いる選手たちで、クラファン・募金活動を通してデフフットサルPRなど出来ることをして、 もちろん大会で結果を出して、デフフットサルの知名度を上げ、将来若い人たちの負担を無くし、強くなってほしいと心から願っています。 そのためにも今私たちが頑張らないといけないと思っています。皆様、応援のほど、どうぞよろしくお願いいたします!
Ola a todos!!デフフットサル日本代表5番 船越です。いつも我々デフフットサル日本代表への支援・応援・周知ありがとうございます。それが我々にとって大きな「力」となり「モチベーション」にもなっております。ありがとうございます!!自分は1977年生まれで今年42歳になります。日本代表の中では最年長であり、1998年に日本ろう者サッカー協会が設立された当初から日本代表(デフサッカー)としてプレーさせて頂いており、日本代表の変わりゆく歴史や環境を一番よく知っている古参者でもあります。まず、自分の生い立ちをお話します。1977年に大阪市平野区平野本町に生を受ける。この年代はおたふく風邪がはやってて失聴する子が多く、その中の一人が自分でした。僕は一人っ子です。なぜ兄弟を作らなかったのかを聞いたら、社会人になっても耳が聞こえないハンデをものとせずに不自由なく生活できるように育てることでいっぱいいっぱいだったからだったと。幼少期は親父は仕事(自営業)で出っぱなし、オカンとほぼ毎日発音練習に明け暮れる毎日で外で遊んだ記憶はあまりない。土日どこかに連れていってくれたとしても社会見学・勉強ばっかり。全然楽しくなくてうんざりしたけど、こうやって普通に喋れるようになったのはこのおかげだったという事です。色々な事でオカンには感謝しても感謝しきれません。でも空気読まないストレートな発言とお御節介さにはイラつきますけど・・・(笑)幼稚園は堺ろう学校に通うため、堺市に引っ越ししましたが・・・1ヶ月も経たぬうちに生野ろう学校に転校し、生野区勝山北に引っ越ししました。数年後になんで堺ろう学校じゃないのかを聞いたら、父も母も手話なんて覚えれないし、手話メインの教育方針では社会に出たとき苦労をするから、少しでも口読術でコミュニケーションとる学校に入れたかったからだということでした。小学校は阿倍野区にある金塚小学校で、そこには難聴学級のクラスがあり「国語」、「算数」、「社会」は難聴学級のクラスで勉強し、それ以外の科目は普通のクラスで勉強していました。小学校に入学したと同時に東住吉区に引っ越ししたため、金塚小学校の友達と遊ぶ機会はなく地元の子たちと遊ぶ時間が長く、自分の意思から、小学校5年生から地元の田辺小学校に転校しました。同時に同級生に誘われてサッカー部に入りました。そのサッカー部には現在デフフットサル日本代表監督である川元君も2つ下の年代チームとしてプレーしておりました。といっても本格的にやってたわけではなく、ただただ友達と遊ぶことが好きだっただけで始めたサッカーでした。中学校は地元の中学校で一応サッカーも続けましたが、この時もまだ友達とスポーツするのが好きだっただけで本格的にはやっておりませんでした。高校は中学校のサッカー部顧問の推薦で中学校の先輩が進学した大阪初芝高校に入学しました。この時は1993年でJリーグが開幕したという事もあり、本格的にサッカーを始めることになりましたが、走り込みやインターバルサーキットの毎日でサッカーが自衛隊のトレーニングみたいでイヤイヤだったのを今でも良く覚えています。高校2年の時にアメリカワールドカップがあり、ブラジル代表が4度目の優勝を成し遂げたのを機に、サッカー王国のブラジルに強い興味を抱き、夏休みを利用してブラジルに留学に行きました。1日中練習当たり前、走り込み当たり前、水飲むな、ミスしたら罰せられる、怒鳴られる、監督の言うことが絶対といった日本のサッカー文化が染み付いた自分が1時間〜2時間で練習終わり、走り込みしない、練習メニュー豊富で質が高い、プレーは自分のアイディアに任せるといった自由なサッカー・・・と、激しい衝撃の連続でした。カルチャーショック受けた自分はブラジルでサッカーをしたい!ブラジルでサッカー選手として飯食っていきたい!と強く思うようになり、当時受け入れてもらったチームの監督からもスタミナを買われて、こっちでやらないかというオファーに舞い上がってしまい、帰国後自分勝手に高校中退し、親の反対押し切ってブラジルに行く事になります。「社会人になっても不自由なく生活できるよう小さい時から一生懸命育ててきたつもりだし、ちゃんと大学に出て、いい会社に勤めて欲しいのが親の願いなのに・・・この親不幸者が!!」というオカンの言葉は自分の耳には入らなかったし、胸にも刺さりませんでした。それだけブラジルへの強い想いが勝ってしまっていたのです。でも親父は違いました。「自分の人生は自分で決めるものだから、チャレンジしてきたらいい。まだまだ若いからいくらでもやり直しできるから」と背中を押してくれました。「高校でレギュラーでもないし選抜にも選ばれてないやつがブラジルいくって頭おかしいんじゃないの?」と散々馬鹿にされた周りを見返すためにも絶対プロになってやるという気持ちがでかすぎて、プロになるまでは絶対帰らないし、親の死に目に逢えなくても仕方ないという覚悟ができてました。それから3年間はブラジルでサッカーに明け暮れる毎日でした。ブラジルの生活は更に話が長くなってしまうので割愛させて頂きますけど、とにかく苦労の連続でした。ハングリー精神はここで培われたといっても過言ではないと思います。1997年にサンパウロ州2部のプロのA.D.GUARULHOSというチームでジュニオールカテゴリーでサンパウロ州リーグ公式戦出場し、トップチームに引き抜かれ、トップチーム練習参加しながらジュニオールでプレーして虎視眈々とチャンスを伺い、晴れてトップチームとプロ契約というところまでこぎつけましたが、労働ビザなど書類をまとめる代理人をつけてなかったため破談となりました。ここでブラジルでのサッカー生活に一旦区切りをつける事になります。20歳までにプロになれなかったらケジメつけて日本でしっかり地に足をつけた生活ができるようにするという事がブラジルに行かせてもらう条件でした。朝から昼まで定時制の学校行って、昼から夜中までバイトの毎日でした。その時に生野ろう学校の時の同級生にデフサッカーチームがあるのを教えてくれて、一緒に参加したのですが・・・あまりのレベルの低さと手話でのコミュニケーションに激しい違和感を覚えて入団する気すら全くありませんでした。この時は「障がい者」であることを認めたくなかったし、「障がい者」と一緒になりたくない自分がいてました。でもデフサッカーの人達が、今年だけでいいからろう者サッカーの全国大会に出て欲しい!!としつこく嘆願してきて、それに折れて1年間限定で入団させて頂く事に。それが現在所属している大阪デフサッカークラブ「アジアンタールFC」です。その全国大会が1998年で、冒頭で説明しました日本ろう者サッカー協会が設立された年であり、その全国大会で大阪初の3位になり、そこで初めてデフサッカー日本代表に選出され、アジア予選やデフリンピックなど様々な大会に出場させて頂き、現在に至ります。生い立ち長過ぎて申し訳ございません。続きや中身をもっと赤裸々に知りたい方は、このクラウドファンディングリターン商品で講演というものがありますので購入して頂いて、僕を指名して頂ければ喜んで船越弘幸の42年間の人生をすべてお話いたします(笑)もしくは直接僕に聞きにきてくださっても良いですので、お待ちしております。さて、ここからが本題です(笑)1998年〜2009年、2014年〜2015年 デフサッカー日本代表2010年〜現在 デフフットサル日本代表実質21年間日本代表としてプレーさせて頂いておりますが、当初から何にしても全額自己負担でした。合宿は自分たちでグランドを探してきて、自分たちでピッチを作って、自分たちで洗濯して・・・という感じでした。ほとんど選手や協会の人間のコネクションを利用しての合宿でした。日本代表なのに合宿も遠征もウェア類も何の鴨全額自己負担ってあり得ない!!!と思うのが普通ですよね?でも自分はそう思ったことがないんです。感覚がおかしいと思われるかもしれませんが・・・。日本代表になったばかりの時は違和感はもちろんありました。でも、日本代表というものはサッカーだけに限らずに上を目指してスポーツをしている選手にとって憧れのものであり、はじめて日本代表として選出して頂いたときはものすごくうれしくて仕方なかったんです。ブラジルでプロを目指してサッカーに明け暮れて、夢破れて第二の人生を歩み始めた自分にとって「日本代表」というものはかけがえのない存在だったのです。だから自己負担なんてどうでも良かったんです要は「日本代表」をとるか、「生活」をとるかだったんだと思います。これまでずっと競技志向でサッカー、フットサルをしながら日本代表としてプレーさせて頂いてますが、仕事で得た収入の8割はサッカー、フットサル、日本代表(自己投資含む)に費やしてきています。お恥ずかしいことに全く貯金ありません。老後の生活なんて考えた事ありません。なんくるないさ精神です。それだけ「日本代表」という存在が自分の生活のほとんどを占めています。ここだけの話、日本代表の事で自律神経失調症になるくらいですから・・・。アホすぎて笑えるでしょ?「いまだにこの年齢でなんで追い込めるんですか?」「なんでそこまでお金かけてまでアホみたいに頑張れるんですか?」とよく聞かれます。なぜかって??単に負けす嫌いだからです。単に悔しい想いをしたくないからです。悔しい想いが感じられなくなった時こそ競技志向フットサルの潮時だと自分でもわかってます。その感じが未だにないからです。結論から言うと、ただただ純粋にフットサルが好きだからです。そんな自分がクラウドファンディングで2000万円集めるために支援お願いします!!!と言うのは怒られるというか、違和感あると思いますが・・・やっぱり今の世代の子達はしっかりしているし、日本代表としての誇りというか、プライドをもってやっているわけであって、日本代表活動に全力で取り組むためにはやっぱり「自己負担」という課題をクリアしないと難しいものがあります。これまで、実力ある選手が「生活」を優先して日本代表を辞退してるのを幾度もみてきてるし、史上最強メンバーの編成ができないまま国際大会に臨んできている背景もあります。それと、この「2000万」というチャレンジをすることによって、自分を含め、選手たちも支援して頂くにあたっての「自覚」と「責任」と「覚悟」というものを今以上に持つようになるし、この大きな取り組みがいろんな人に認知されることでデフフットサルの活動や現状が広く知れ渡ることになるなど、いろんなメリットがあります。年齢的に自分は今回のワールドカップが日本代表として最後のプレーになると思います。1998年に日本代表と選出して頂いた嬉しさというものは今でも忘れてないし、日本代表人生21年間の中で色んな人と出会い、船越弘幸というどうしようもない人間をここまで成長させてくれました。今のデフフットサル日本代表は過去最高のメンバーでありスタッフ陣容であり、環境であり、最高の雰囲気でもあるので、周囲への感謝の気持ちというものを決して忘れずに、謙虚になり、これまで苦労を分かち合ってきた先人や仲間たちの為にも、残された5ヶ月間を大切にかつ必死に過ごしたいと思っております。皆さんに世界一という最高の景色を見せるのと、デフフットサルの輝かしい未来を切り開くために。皆さん、一緒にがんばりましょう!!日本代表メンバーの中で大変うざいくらいながーい、ながーいまとまりのない文章となりましたが最後まで読んでくださってほんとにありがとうございました
皆さん、こんにちは。6番の阿部 菜摘です。日々の応援、支援をありがとうございます。そのおかげで、220万、410人突破しました。では、私の生い立ちと、フットサルに対して本気になれたきっかけをお話ししたいと思います。まずは、私の生い立ちです。1999年12月21日、東京都で産まれました。感音性難聴でした。親は、高校までろう学校に通わせてくれて、コミュニケーションは手話であり、会話に問題はありませんでした。小さい頃から父親とともに土手で走り回るぐらい、身体を動かすのが、大好きでした。キャッチボールしたり、ボールを蹴ったり、たまに父のフットサルに行って、一緒に蹴ったりしていました。凄く楽しかったのを覚えています。そして、小学3年生の頃、幼なじみ(ろう者)の兄が入っていた少年サッカーチームから、「一緒にサッカーやらないか」と誘われ、幼なじみとともに、体験しに行きました。楽しかったので、入ることを決意しました。少年のチームでやりつつ、地元の少女サッカーチームにも誘われ、どっちもやってきました。少女サッカーでは、月に1回しか集まらないため、人見知りが激しかった私は、いつも泣いていました。。笑小学5年生辺りから、やっと慣れてきたというぐらいの。。笑今、思えば、そのチームは障がいを持っていても受け入れてくれ、恵まれていました。小学卒業とともに、卒団してからは一時的にサッカーから離れていました。ろう学校の中学部には、野球部とバレー部しかなく、男子は野球部で、女子はバレー部という決まり?でした。入学して、5月には部活に入れる時期だったのですが、私は何にしようか悩んでいたものの、バレー部の先輩からもお誘いもあり7月から入ることにしました。正直にいえば、野球の方が好きだったので、もし、そういう決まりがなければ、野球部に入っていたかもしれませんね笑10月に大会が終わり、やっぱりサッカーがしたいという気持ちが芽生え、顧問の先生に相談した結果、少女サッカーのチームメイトだった先輩が入っている女子のチームに入りました。サッカーを優先させてくれた顧問の先生には感謝しかないです。チームに入った時は、ろう者が私だけということもあり、コミュニケーションなども凄く不安だったのを覚えています。小学生の頃は、親が手話通訳もしてくれていたので、あまり困らなかったです。チームメイトやコーチが支えてくれたおかげで、楽しくサッカーをすることが出来ました。高校生になっても、そのチームでプレーを続けることにしました。高校1年生になって、半年経った時、もっと強いチームでプレーしたい。という想いから、高校2年生の時に日本体育大学の下部組織であるU-18に移籍しました。しかし、U-18は私が入った年から創立したため、人数も少なかったです。大学生とU-15の一部の混合チームでリーグ戦などに出場しました。現在は日本体育大学に通学し、サッカー部で頑張ってきたのですが、事情もあり代表の方を優先させてもらってるため、お休みさせてもらっています。主にジムに通いながら、週2回ボールを蹴っています。では、フットサルに本気になれたきっかけについてお話しします。ずっとサッカー一本でやってきた私が、フットサルもやりたいと思えるようになったのは4年前の出来事がきっかけです。まず、小学3年生の頃に、#10 ぶちと#7 なながブログでお話していた「アイコンタクト」をみて、こういうサッカーがあるんだと知りました。初めてデフサッカー代表合宿に出たのが5年前、中学3年生のときでした。そこにいた先輩に、デフフットサルをやらないか?と誘われ、デフフットサルW杯(タイ・バンコク)イヤーに入る頃に、初めて合宿に参加しました。フットサルのルールも戦術もまったく分からず、先輩達にいつも怒られてばかりでした。その時は高校1年生で、ポジティブだったおかげか、怒られてもやり続けていました。笑多分、フットサルが思ったよりも楽しかったからこそ続けられたんじゃないかと思います。W杯の代表メンバーに選出された時は、初めての代表であり、世界のレベルも知らない私は、みんなに迷惑かけてしまうんじゃないかと色々な不安がありました。予選グループでは、世界一のロシア、ランキング4位のスペインとの3カ国のグループだったため、周りからは「死のグループだ」と予選通過できないと思われていました。まだ戦ってもいないのに。私の家族も、応援に来てくれたのですが予選のみしか来なかったのです。初戦ロシアには、体格差もあり0-3で負けてしまいました。スペインはロシアから2点も取ってるため、私たちが予選を突破するためには、スペイン戦で勝ち以上じゃないと決勝トーナメントに進むことができないという状況でした。スペイン戦は最初は負けている状態でしたが、前半の終わりに#7 ななが決め、流れが変わりました。後半の残り30秒で私が決勝ゴールを決め、逆転勝利を果たし、史上初の予選突破を果たしました。決勝トーナメント1回戦は、イタリアと。引き分けでPK戦に突入しましたが、負けてしまいました。13ヶ国中6位という結果になったことで、もっとリベンジしたい。今度こそは世界一を取れる。私たちなら出来る!と確信しました。ほど遠い夢だった【世界一】が、今となっては目標に変えられたのです。しかし合宿や遠征などは、ほぼ自己負担で活動しています。高校1年生から今も、海外に行かせてくれたり、応援してくれている両親をはじめ、所属していたチームにも本当に感謝しかないです。メダルを取って、応援してくださる方、支援してくださる方に恩返ししたいです。どうか、私たちに力をお貸しください。
チャオ!!観客とプレーヤー全員が見てて楽しめるフットサルがやりたい風間隆由でございます!!まず、日々からデフフットサルを応援してくださってる方々、クラウドファンディングへの支援などしていただきまして、本当にありがとうございます。僕はサッカーとフットサルにとって趣味ではなく、特技となります。親が将来健常者の世界に入ることになると思ったのがきっかけで、兄貴が入っていた少年サッカーに入ることになりました。小学の時、近くの公園で数名が集まってミニゲームやったりしました。六年生になると、放課後に練習している小学校にいけば、自然に何故か同学年のチームメイトほぼ集まってミニゲームやったりしました。※サッカー馬鹿である仲間サッカーの中で二番に嫌いだったのは夏合宿、走り込みでしたー。(笑)一番なのは、、、親父との特訓でした。高校一年の秋までは消極的でおとなしかったのですが、1つ上の二人の先輩のお陰で、プレーが上達することが出来ました。親父、二人の先輩のお陰で、強くなれたと思いました。高校卒業後エンジョイフットサルと両立してましたが、今はフットサル一本としてしています。フットサルに必要な技術を補うためたまにサッカーをしています。その時もフットサルシューズでやってます(笑)でも、フットサルを始めて色々な仲間のお陰で、頭脳面と楽しみ方とか色々な面で急成長中です。それまでは、心・技・体のうち、心・技の二つだけになりますが、アワービジョンのきっかけで、少しずつ体作りに興味を持ちました。今までフィクソやってましたが、今年移籍したチームはフィクソがいるので、走り回る体力が必要になり、走る力をさらにつけないと~と思いながら練習しています。これが達成すれば、一応、心・技・体の3つが出来ることになるかなぁ?あっでも、これだけでは健常者の中では通用しません。なぜならば、耳が聞こえない分周りを見る力がないと!!首を振って360度の視野が必要ですが、相手にばれることもあり得るので、目玉だけで180度が見える様にすれば、色や身長とかの判断が出来、楽しみながらプレーができますよね??最後になりますが、僕は簡単な自己紹介にも挙げました通り、「ギャラリーフットボール」「セクシーフットボール」二点は意識してやっておりますが、一つのモットーを持ってやっております。それは、、「仕掛けられる前に仕掛けろ!」で、相手に恐怖心を覚えさせる。スーパースターの選手たちも同じようなことをしてるように見えますが、どうでしょうか??ということで、引続きデフフットサルの応援および支援など宜しくお願い致します♪では、また会える日を!アディオス!!