このページを覗きにきてくださったみなさま間が空いてしまい申し訳ありません。いつも温かい応援や支援、ありがとうございます。これまで各々が自分のことをブログ形式で綴ってきたかと思いますが、今回は女子メンバーで他己紹介リレーをやってみたいと思います!みんなわたしの大好きなメンバーで、これからのW杯を共にたたかう大切な仲間です。それでは#1から紹介していきたいと思います!#1 いくさん!チームの守護神。デフ日本代表の正キーパーです!デフ女子日本のゴレイロ・ゴールキーパーといえばいくさん、というぐらい存在感がすごいです。サッカー歴が20年以上と長く、デフ日本代表歴も長いお方。人一倍まじめで、何事も一生懸命やるアツいお方です。アツすぎて会場までの移動だけで汗をかくことも。笑パーソナルトレーニング(トレーナーとマンツーマンのトレーニング)をしたり、「FOREST ANNEX」という関東リーグ参戦チームに移籍したりと、フットサルが生活の一部になっている人です。いくさんのことで驚いたのは、デフサッカー・フットサル界ではほとんどの人が知っている存在というのはもちろんですが、健聴のフットサル界でも顔が広いこと。社交的で初対面の人とも話ができ、わたしは「相手の言っていることがわからなかったらどうしよう」と身構えてしまうのですが、いくさんはそんな様子を微塵も出さずに自分からぐいぐい行けるところが本当にすごいと思っています。そんないくさん、W杯ではチームの絶対的守護神になってくれると信じています。集中してしまうと視野が少し狭くなってしまうところがありますが、そこはわたしたち周りの選手がサポートしてお互いにチームのためにプラスになる動きができるといいなと思います。W杯アジア予選でも、ベストGK賞みたいなのをもらいました。チームのピンチを救ってくれるのは、いつもいくさん!!!頼りにしています!!!W杯でも鉄壁のガードでチームを救ってくれるでしょう!みなさま是非応援よろしくお願いいたします!!#10 岩渕亜依
日頃よりデフフットサル日本代表を応援してくださりありがとうございます。#15一色麻衣です。前回、私自身の生い立ちやフットサルをやるきっかけをお話しましたが今回は6月末にデフフットサル女子日本代表にとっても私にとっても貴重な経験をさせて頂いて色々な事を思った事をお伝えしたく、再び投稿させて頂きます。どうか一読してくださると嬉しいです。6月29〜30日の2日間は日本トップクラスの福井丸岡RUCKさんが、私達デフフットサル女子日本代表の為に強化試合、日本女子フットサルリーグのハーフタイムでのPR、募金活動の場を設けさせて頂くなど豪華な内容で企画をしてくださいました。日本トップクラスのチームとの試合をする機会は正直言って滅多にない事ですが今年2度も対戦する機会に恵まれてとても光栄です。この経験を無駄にせず課題を見つけて修正していきたいと思います。そして告知タイムで福井丸岡RUCKの選手たちから手話付きオリジナル応援歌を披露してくれるサプライズがあり大変驚きました。週5日の練習に加え勉学の他に自分の時間を削ってまでして相当手話の練習したんだろうなと思うと目頭が熱くなりました。トップの試合が終わった後、未来の福井丸岡RUCKキッズ達がトップ選手にサインを求めたりブースに設置されていた七夕の短冊に「トップ選手のように上手くなりたい!」という願い事が書かれたりする光景を目の当たりにしてこうやって小さい時から夢や希望を与えてくれる憧れの存在があってそれを目指して頑張って成長してこんな風に引き継がれるんだなと思い、微笑ましく幸せな気分になりました。ただ上手い、強いだけではなく人間力もあって魅力的なクラブだからこそ1000人を超えるサポーターに支持されてるんだろうなと改めて福井丸岡RUCKさんの凄さを実感しました。私の子ども達も福井県に移住してまでしてそんなクラブに入部させたいぐらいです笑もう少し大きかったら連れてきて見せたかったぐらいです、残念です。またサテライトや未来のキッズ達に私達にもサインを求められてビックリしましたがデフフットサル日本代表として見られてるんだと思い、更に身が引き締まる思いでした。交流会の時教えた「ありがとう」も覚えて使ってくれたりしてとても嬉しかったです。デフフットサル日本代表としてもっともっと頑張って夢や希望を与えられる存在になれるようにしないと未来は繋がらないと痛感しました。翌日自分チームの試合が控えているにも関わらず、強化試合、宿まで送迎、募金活動など本当に何から何まで多大なサポートをして頂いて本当に感謝しかありません。また沢山の方々から暖かいエールを頂いて本当に力になりました。今までデフフットサル日本代表の認知度は低く、知らない方々から応援される事はあまりありませんでした。でも今回は本当に応援されているのを実感して胸が熱くなった同時、世界一を取って恩返しをしたいと強く思いました。実はこの福井合宿の計画のお話を聞いた時はGW中で急だったことと既に今月で二度とも合宿が続き、小さな子ども達がいるのに家を空けすぎて申し訳ない気持ちいっぱいで私にとって参加は後ろ向きでしたが予想以上に得るものが沢山あって忘れられない2日間になり参加して良かったと本当に心から思います。2日間、田中監督及び福井丸岡RUCKの選手、スタッフの皆さま、未来の福井丸岡RUCKのキッズ達、日本女子フットサルリーグの関係者の皆さまには感謝申し上げます。また、暖かくエールして頂いた日本女子フットサルリーグのサポーターの皆さまにも御礼申し上げます。ご恩を忘れずに日々精進してまいります。まだまだデフフットサル日本代表OURVISION W杯渡航費プロジェクトクラウドファンディング(7月31日まで)に挑戦中です。引き続き、拡散とご支援よろしくお願いいたします。#15 一色麻衣
初めてデフフットサル日本代表候補合宿に参加したのは2010年の春。17歳でした。幼稚園のころから普通校に通っていたため、手話との触れ合いがほとんどないまま、候補合宿に参加。当時参加していた選手のコミュニケーションにあまりついて行けず、居心地の悪さを覚えています。兵庫県相生市にある民間体育館。当時は北海道在住のため、新千歳空港から伊丹空港まで飛行機移動し、電車で相生駅まで。さらにそこからタクシーに乗り継ぎ、合宿に参加したことを覚えています。移動費だけで往復軽く、5万円ぐらい。さらに参加費が2万5千円。記念の合宿初参加は約7万5千円の全て自己負担でした。全て親に出してもらっています。そこから6年間。北海道から合宿に参加しています。この6年間。北海道での合宿開催は一度もありませんでした。6年間。金銭面を理由に不参加したことは一度もありません。不参加は2度だけ。「学校行事と重なったため」「北海道猛吹雪のため飛行機が飛ばなかったため」。6年間。合宿参加費が1万円以下になったのは1度だけ。毎回の合宿は2~3万円。ときには3万5千円のときも。そして交通費は毎回5万円前後になります。年に6~8回の合宿。単純計算で総額280~380万円。合宿にかかる費用だけでこれだけの金額を費やしてきました。ほぼ親のお金で。さらにいうと、これと別に国際大会に出場するにもお金がかかります。6年間で4回の国際大会に出場。1回20~30万円の参加費。100万円前後でしょうか。学生時代、6年間で380~480万円も親に負担してもらいました。(車を買えちゃう額…)お金の感覚をよく理解できていなかった私が社会人になりとんでもない金額を親に負担していたことを痛感します。また、家庭が裕福だったことに改めて感謝します。僕が就職先を関東に決めた理由は「移動費が負担になりたくないから」。日本代表に入ってなければ、北海道を離れることはなかったでしょう。社会人になり、安定した収入を得るようにようやく自分の稼ぎで代表合宿に参加できるようになりました。それから3年間。9年目を迎えた今年。あまり多くは公に出来ませんが、日本ろう者サッカー協会に色々と翻弄され、昨年と今年の合宿参加費がまた上がりました。一時期は助成金の対象外にもされています。毎回の合宿参加費にはスポンサー様からのお金が活用されていません。僕が日本代表になりたてから、選手の負担はほとんど代わりません。もしかしたら増えているかもしれません。それでもなぜ、日本代表を続けるのか…。つづく。#SHUNTA PLUS/しゅん太鍼灸整骨院#おかざき鍼灸整骨院#つながるサポート株式会社#Hogrel#FRUTAFRUTA#LINETRAININGLAB#Creavita#ASHITAcommunicationdesign#Pazduro#Incographica#日本ウエルアップサポート協会#株式会社ステアス#株式会社おさるの森#株式会社リアルスタイル#株式会社丸五#株式会社BANDEL#株式会社キタイ#株式会社飯田産業#株式会社大潟村カントリーエレベーター公社#江戸川区臨海球技場#江戸川区臨海球技場指定管理者株式会社オーエンス
毎日デフフットサル日本代表の応援ありがとうございます。ますます応援メンバーが増え嬉しく思います。女子代表#14 フィジカルモンスター、中井 香那です。今回は私が小さい頃、周りが健常者の中でどのように過ごしてきたかを、お話しさせて頂きますね。みんながそれぞれ、書き、読む人は、またかって思うかもしれませんが(笑)一人一人、育ってきた環境は違い、頑張ってきたことが伝わるといいです。そして、このような機会をいただき、自分の人生を振り返り、また新たな頑張る力になっていること、周りの人に支えられ生きてきたと、さらに感謝できました。ありがとうございます。私は生まれつき先天性の難聴です。両親は健聴です。私は、テレビに合わせて体操したり、音が鳴ると振り向いていたり、人の動きにも反応あり、聴こえていないとは、周囲も気づかず、一歳半になっても、言葉が出ないことで、検査をすることになったそうです。聴こえないことがわかり、母は、聴こえないことのショックより、一刻も早く、この子をどうやって育てたらいいのか、何をしたらいいのか、迷う間もなく、病院から、すぐその足でろう学校に行ったそうです。自宅から一駅先に、ろう学校があったのです。母と通いました。2つ下の弟も聴覚障害があることがわかり、三人で通いました。弟は、赤ちゃんの時でした。私は、同じ聴覚障害の友達と遊ぶのは楽しく、ろう学校に行くのを楽しみにしていましたが、机に向かい集中する、発音練習が大嫌いでいつも暴れていました(笑)音を聞いて、声を出すのではなく、舌の動き、息の出し方で、声を出します。発音練習はミルクせんべいをちぎって舌の上に置いたり、風車をふぅ~と吹いたり、先生の喉を押さえ振動で覚えたり、発音だけではなく、聞き取りトレーニングもしました。最後はお菓子がもらえご機嫌〜♪(笑)サ行は苦手で、聞き分けができません。何度もやり直しさせられたことを覚えています。手話も身振りでした。指文字は覚えていなかったような~とりあえず、なんでも相手に伝えることに一緒懸命でした。絵日記を使い、物には名前や、意味があり絵を見て覚えました。毎日お母さんと向き合い「今日は何をしたの?」「どうだったの?」等物と名前を覚えての繰り返しの毎日でした。絵のへたなお母さんは、なかなか大変だったようです。私が背を向けてもそれでも母は、しっかり前を向いてくれていました。厳しかったな~(笑)初めて話した言葉は、、、「あんぱーい(乾杯)」だったそうです。父も母も泣いたんですって。本当に私にとっては、地獄のような発音練習でしたが、聴力は100dBで、サ行は苦手ですが、今はこうやって「上手に話せてる。」「本当にろう?」「どうやって聞き取りしているの?」と言われる時があります。今では、役に立ち両親やろう学校の先生にはほんとうに感謝をしています。ありがとうございます。あまり、直接言うことがないから、ほんと、いい機会をいただきました(笑)また両親泣くんちゃう(笑)地域の幼稚園にも週一回通いました。言葉は通じなくても、体を使って遊ぶことで、しっかり楽しんでいました。(小学校)ろう学校は行かず地域の小学校に通っていました。幼稚園に通っていた時のお友達がいたからです。難聴学級もなく普通のクラスで勉強をしていました。弟が一年生になった時、私の1年2年の担任の先生が担当となり、難聴学級ができました。小学3年から苦手な教科だけ難聴学級で1対1で授業を受けました。席はもちろん1番か2番目の方に座っていました。またFM補聴器を購入し、授業の時に先生にマイクをつけてもらい、直接音が入るようにしましたが、マイクを付けるだけで友達の目線をすごく感じ、マイクを忘れたふりをしたり、充電もしないで持ってきたことで先生や母に怒られたことを思い出しました。先生が少しずつ手話や指文字を勉強をしてくれ、私も一緒に覚えました。ほぼ、指文字でコミュニケーションを取っていました。お友達も興味を持ってくれ、覚えてくれるようになりました。小さい時からスポーツが好きでよく身体を動かしていました。勉強面では、音読っていうのかな?私の地域では本読みと言いましたが、、、特に本読みが大嫌いでよく母と喧嘩していました。1人で読んだり、読んだふりで、読んだときはサインが必要で自分でサイン押してごまかしたりしていました。教科書を破った事もあったな~(笑)それでも母は発音を大事にして違う発音になったら「ちがう。」「もう一回」ってなかなか終わらない。父も聞いてくれました。小学校では、幼稚園の友達だけじゃなく、全く聴覚障害のことを知らない子達もいて「発音おかしい。」「へたくそ。」「耳になんか付けてる。」(その時の補聴器は今と違ってダサかった。今は色つきでイヤモールド、おしゃれで進化してる。)と言われたこともあります。先生にいつ当てられるか不安になり、次に私の番が来ると、「ここだ。」と言って練習をしてたの覚えています。また音と訓の情報がなく、間違いが多く、隣のお友達に確認をして書いていました。小学校時代は、子供自身も、自分のことで精一杯で人のこと障害についてあまり、関心もなく、理解も乏しく、辛いこともありましたが、得意な体育、スポーツは誰にも負けませんでした。また、テレビ字幕が前はなかったけど、今は字幕は当たり前に付いてくれるようになった。それと子供会のポートボール(ミニバスケのような)のキャプテンもやりましたよ。(中学校)地域の中学校に通いたかったのですが、隣の校区の上野芝中学校に難聴学級があり、その当時は越境も認められており、そちらに通うことになりました。また1からお友達を作らないといけない。という環境に不安になり、入学式の日が迫ってくると大暴れ。(なんでそんなに暴れるんだろう?)お母さんにたくさんひどいことも言ったりした。「なんで別の中学校に入らないといけないの?」「私が聴こえないから?」と。入学式は幼馴染のお友達もいた。ろう学校の先輩もいた。地域離れた中学校は電車と最寄り駅から20分程…。中学は、全く知らない環境で友達は少しずつ増えていきました。どうやってお友達作れたのか覚えていません。自然とできたでしょうか(笑)部活はバスケに入りたかったのですが、中学はなく、その時はオリンピックが盛り上がり谷ちゃんが金メダルを取り柔道がブームだったこと柔道に入ろうか迷っていましたが、担任の先生と相談し、ハンドボールに入りました。中学は勉強も難しくなり、特に音楽の授業が嫌だったことすごく覚えています。笛のテストもあり、上手に吹けなく、周りから笑われたこともあり、そこからずっと笛を忘れたふりをしていました。音楽の先生が気付いたのか呼び出しされ、理由を話をしました。放課後に1対1で教えてもらいながらテストを受けました。音楽発表会の時は歌は口パク…(笑)英語はリスニングが全く分からないので、テストは別室で受けていました。勉強は嫌いでしたが、私はここで、私の運命を変えるハンドボールと出会うのです。それは、また次回。今思えば、辛いこともいっぱいあったけれど、体を動かすことで、元気が出ていつも、誰かがそばにいて、楽しい時間だったかな〜。ほんと、長文になりましたが、最後まで読んで頂きありがとうございます。いつも応援ありがとうございます。#14 中井香那今日も明日も頑張ります。皆さんにとっても明日がいい日になりますように。
デフフットサル日本代表の応援をしてくださっている皆さま、初めまして、デフフットサル女子日本代表監督の山本と申します。まず、ここまでクラウドファンディングでのデフフットサル日本代表への多くのご支援、ご声援、本当にありがとうございます。現在、支援頂いている方々は460人を超え、支援額ももうすぐで250万というところ、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。さて、クラウドファンディングがスタートしてから男女代表選手達がリレー形式のブログでそれぞれの想いを綴っていますが、選手達が大体一回りしたところで私も今思うことを少し綴らせて頂きたいと思います。少し長めですが、ぜひ目を通して頂けたらと思います。自分がデフフットサル代表に関わって早7年近く経とうとしています。監督としてスタートした当初、当然手話もできるわけなく(今も大してできませんが・・・)すべてが手探りでのスタートでした。その中で一番にまず感じたこと。それは選手はもちろん、この場所に関わる人達がどれだけこの場所に誇りをもち、責任を感じ、この場所にいるのか。日本人として日の丸を背負える場所は憧れだと思うし、大きな誇り、そして責任がある場所だと思います。しかし当初ここに集まってくる選手達からはそういったことを感じることができませんでした。自分が監督になる前からもちろんデフフットサルという歴史があり多くの方々のご尽力があって今があります。それでも自分が当初感じたことは、合宿参加費を払えて、参加したい気持ちがあれば参加できる場所。そこがただデフフットサル日本代表という名のつく場所なだけ。中身は・・・まさに名だけの日本代表だったと思います。そういった状況の中、競技スポーツとして技術的なレベルアップを求めることは当然のこと、それ以上に、この場所にいる意味を自分なりに選手達に伝え続けてきました。意識が変わり、取り組み方が変われば、大きな変化が生まれる。少しづつ選手、そしてチームは成長していき、むかえた前回W杯。女子代表は予選リーグでスペインに歴史的勝利をあげ、初の決勝Tへ。準々決勝でイタリアにPKで敗れたもののその後の順位決定戦でもそれまで積み上げてきた日本のフットサルを大いにピッチで体現してくれました。この大会でもチームは成長し、選手それぞれが大きな経験をし、メダル獲得という最大の目標は果たせませんでしたが次に繋がる大きな成果と日本の可能性を感じた大会でした。しかしながら、、そのW杯で見た決勝の舞台。障がいあるなし関係なく国と国が大きなものを背負って戦う姿、そしてそれを応援する多くの人。その光景を見て、まだまだ自分の感覚すら甘かったと実感しました。自分自身、どこか障がい者スポーツという枠組みの中でしか様々なことを考えていれなかったのではないかと強く思いました。どんなカテゴリーであっても国を背負うアスリートとして、そこに障がいあるとかないとか関係ないんです。日の丸を背負い、世界の舞台で戦うために本気で取り組む。その先に子供達にとっての憧れの場所、多くの方々から応援してもらえるチーム、そして自分達が誇れる場所に繋がっていくんだと。そして次のW杯に向けて新たにスタートしたチームの目標を「世界一」に設定しここまで積み重ねてきました。環境を、障がいを言い訳にするのではなく、ただただ世界一を獲る!その目標に本気で向かう。その為に必要なスタッフを加え、合宿の頻度も増やし、そしてそれぞれの選手達には厳しい環境に身を置くように言い続けてきました。今では日本リーグ、関東リーグ、各都道府県リーグの健常者のフットサルの世界に多くの選手が身を置いています。チャレンジしろ!口で言うのは簡単なことです。正直、選手達にとってはこれまでいろんな苦しく辛い経験、そして健常者の輪の中に飛び込む怖さ、それはきっと自分なんかにはわからない不安なことがあるんだと思います。それでもそれを乗り越えた先に自分達の大きな目標に近づくことに繋がると思います。もう一つ大きなこと。スポーツを通して障がいがあるとかないとか関係なく、その枠を超える。先日、選手達が所属するチームの試合を一日かけてみる日がありました。観戦していた人達から、、「あの選手もデフの選手だよね?」「代表の選手だよね?やっぱ上手いよね!早いよね!」そんな声が多く自分の耳に入ってきました。それはすごく誇らしかったし、嬉しかった。デフ代表キャプテンの岩渕は今季所属チームでもキャプテンを任されています。GKのイクもチームで副キャプテンをつとめています。健常チームの中で周りの仲間とのコミュニケーションが難しいデフの選手達が、チームをまとめる為にコミュニケーションを取ることがすごく重要な役割を任せられている。それを任せるチームもいち選手としてその選手を必要とし認めているからこそできることだと。障がいあるなし関係なく、お互いを認め合い尊重しあえる、スポーツを通して共生社会を目指す、そこに間違いなく繋がっていってるのではないかと思います。選手達には様々な葛藤があるかもしれない・・・そんな時は思い出してほしい。アジア大会で獲ったメダルをキラキラした目で見ていた顔、交流した沢山の子ども達の笑顔を、みんなはデフキッズにとって、憧れの存在。デフキッズだけでなくすべての子ども達にとって日の丸を背負うみんなは憧れの存在になれるってことを。家族や周りの仲間にとってみんながどんな存在なのか。家族にとって本気で世界一を目指すみんなは誇りだと思う。きっとみんなの周りの人達はみんなの頑張りに刺激をもらって、パワーをもらってる。競技スポーツは勝敗がある世界なので結果を求めることが必要不可欠です。ましてや代表チームは結果がすべてかもしれません。それでもみんながチャレンジしていることはその結果以上に大きな意味のあることだと自分は思っています。だからこそ、今いる場所でチャレンジしていること、目標に向かって積み重ねていることに誇りを持って、胸を張ってほしい。そして同じだけ責任と重みを感じてほしい。選手の意識が変わったことはもちろんのこと、沢山のスタッフや多くの方々のサポートのおかげでデフフットサル代表という場所も変わってきました。しかしながら金銭的な選手の負担の部分はあまり変わっていません。目標を高く設定し、その為に活動してきてることで選手達の負担はさらに大きくなってきています。数年前までは選手達にとっては金銭的な負担さえ我慢すれば代表という場所に入れるぐらいの感覚だったと思います。しかし今は多くの競争があり、金銭的な負担を覚悟してでもこの場所にいる選手として選ばれ世界一を目指したい、その為に多くの覚悟を持って選手達は取り組んでいます。その選手達を一人でも多くの方に応援して頂けたら幸いです。自分は今頑張っている選手達を誇りに思っています。そしてデフフットサル日本代表という場所に誇りを持っています。今いる選手達は必ずみなさんの想いも背負って、W杯という舞台で日の丸を背負って戦います。どうか皆さま、引き続き宜しくお願い致します!デフフットサル女子日本代表 監督 山本 典城