ページをご覧いただきありがとうございます。anoの大橋悠太と申します。福島映像企画と題し、クラウドファンディングをさせて頂いておりますが、ページはお読みいただきましたでしょうか?もしまだでしたら、これから先は少し個人的なお話をさせていただくところがありますので、一度メインのページから僕らanoの紹介、企画意図等をご覧いただければと思います。https://camp-fire.jp/projects/view/175911さて、僕は高校生のころから演劇というものを続けてきました。もちろん演劇に限らず、アートや芸術には人並みに触れてきました。今日はそんな僕にとってアートとは何なのか、なぜアートが必要だと思い、このクラウドファンディングをやろうとしているのか、悲劇(戦争や災害と言い換えてもいいかもしれません)ということをテーマに書いていこうと思っています。アートとは何か僕はアートとは〈世界を切り取ること〉だと思っています。アートは沢山の人に感動を与えたり、考えもしなかった発想や趣向で驚かせたり、涙を誘ったり、場合によっては怒りを覚えさせたり、意味不明だったりします。しかしアートがしていることとは僕が考える分には全て同じで、作者・制作者が思い描いた世界を切り取り、提示することなのだと思っています。そもそも人間が生きているこの世界では、僕たちが思いもよらないことが頻繁に起きます。どうにもならない不条理なこと、思いがけない幸運など、いつ起こるとかその先どうなるかなんてわかりません。でも人間はそんな混沌とした不安定な世界の中で、法則や意味を見出して懸命に生きています。人間のもつ言語はそうした世界で起きる事やら、何やらを〈言葉〉という音で〈切り取り〉、意味を作っています。こういったことを少し専門的に書いている人で、言語学者のソシュールという人がいるのですが、気になる方はそちらも調べてみてください。とりあえずここでは、人間は言葉で世界から意味を創り出して、自分たちが生きている世界を把握しようとしていることを確認しておきます。悲劇が起きるときしかし時には、そうした意味も人間の理解も超えてしまうような出来事が起こります。巨大な自然災害や大規模な戦争による破壊などを前に、その理由をいくら考えたところで明確な答えなど出せません。そうした〈言葉〉や〈意味〉として切り取れなかった物事は、人間の心の中でずっと行き場を失くしてしまいます。そうした物事を「トラウマ」と言い換えてもいいかもしれません。悲劇によるトラウマは時として一生続くことすらあります。例えば、震災の傷は僕では想像もつかない悲劇だっただろうし、たくさんの方がなくなった戦争で生き残った方の苦悩は計り知れません。比較できるものでもないですが、僕で言えば、強烈な劣等感から来るアイデンティティの喪失が挙げられるかもしれません。大学時代に自分が何も出来ていないと感じ、自分が存在している意味とか理由が少しも見いだせなくなったことがありました。自分が生きていい理由や、人生の意味が理解できず、ただ辛い日々が続いていました。なんのやる気も起きなかったので、やることと言えば日がな一日ずっと空を見つめてボーっとして生きていました。そんな時にふと目にした一冊の本(作者は村上春樹でした)と出会いました。僕はそこに書かれていた物語に驚きました。その物語は本当に僕自身の事が書いてあると思ってしまったからです。登場人物の苦悩や葛藤がまさに自分の心にくすぶっているモノとおんなじだと感じ、物語を通してようやく自分を客観視でき、僕は感動と同時にその物語に救われた気がしたのです。言葉にできなかった心の中が、そっくりそのまま文字として書かれているという衝撃。それをいまもずっと覚えています。言葉にすることや客観視することで救われる瞬間があるアートや芸術は〈世界を切り取ること〉だと始めに書きました。それは時として、他人の心の内をあたかも鏡のように映し出してしまう時があるのです。そうした時に人間は〈言葉〉や〈意味〉で理解することが出来なかった物事を、初めて客観視することが出来るのです。僕がアートや芸術の素晴らしいと思う点はそこにこそあります。他者が創り出した仮想の世界が自分の表現できなかった心の内とリンクした瞬間、人間は一瞬だけ他者とつながった感覚に陥ります。そして、少しだけ客観視することで楽になることが出来ると思うのです。言葉にできず、ずっと心の内にあった思いが、言葉だけでなく物語や身振り手振りとして形にされたとき、その人間は初めて自らの「トラウマ」と立ち向かい、対話をすることができる。その力にアートや芸術は役立てると思うのです。対話の必要性なぜ自分が「トラウマ」を抱え、苦しんでいるのか、その理由はたとえ言語化されたとしても、完全には解消されることはないでしょう。そもそも人間の想像力では扱いきれないものを相手にしているのですから。しかし、それでもその「トラウマ」を客観視し、なぜそうなってしまったのかを問い続ける、己と対話し続けることで、何にも理解できない時よりも、その「トラウマ」と付き合いやすくなる。アートや芸術はこの「トラウマ」との付き合い方、対話の仕方の知恵の集積とも思えるのです。これは僕の体験からくる経験則的な理論になってしまいますが、僕は村上春樹の本と出会い、その本の物語のおかげで、自分を取り戻すことが出来ました。大災害に対しても、その悲劇の何らかをアートや芸術で表現することで、他の誰かにとってそれが自らと「世界の不条理」との対話の糸口になる可能性があると思うのです。僕はその思いで今日も作品を考え、表現に工夫をこらそうと頭をひねります。誰かの心にとって瞬間的にでも救いになったり、そこから数多ある悲劇との向き合い方を引き出してもらえることを信じて。言葉にできない物事を〈切り取り〉、〈提示〉すること。僕はそれこそがアートだと思うのです。
福島第一原子力発電所「ここから爆発したのを当時見たんだよ。双眼鏡で見たんだけど、しっかり見えた。」と吉沢さんは、蒸し暑い納屋の窓から外を指差しました。指をさした方向のはるか先に小さく原発の建物がちょこんと見えました。その建物の小ささをみると、本当にあんなところから放射線物質がここまで飛んで来たのかと、疑いたくなるくらい遠い距離でした。しかし、紛れも無くここは帰還困難区域になった「放射線物質に汚染された土地」で、そのど真ん中に僕らはいました。窓から見る牛や牧場の草、森の木々、空を飛ぶ鳥たちまで、見た目ではなんらへんてつの無い牧場の風景であり、美しい大自然でした。しかし、その景色すべてか放射線物質で汚染され、目に見えなくてもどこか重々しい空気を含んでいた気がしました。吉沢さんは原発を見ながら「あの原発に全て持って行かれた。東京の電力は全てと言っていいほど福島の原発や火力発電なんかでまかなっていたんだよ。福島は東京の電力の奴隷だよ。でも、それが事故を起こすと放射能差別で、国は福島や地元のこいつら(牛たち)は切り捨てだよ。復興オリンピックなんて盛り上がっているけど、現状から目をそらしたいだけなんじゃ無いかな。」と仰っていました。失われた絆。残された希望。震災後復興に向けて福島で叫ばれ続けて来たキーワードが2つあるそうです。それは「希望」と「絆」という言葉だそうです。東京に住んでいる僕らでもテレビで何度か聞いた言葉です。でも、ここ浪江町は帰還困難区域になり人々がいなくなった場所になった。人がいなくなったからここには絆の力も保てなくなったと吉沢さんは説明してくださいました。絆が切り離され、残されたのは希望なんだと仰っていました。その希望について日本全土で考えて行かなければならないものであるという想いで「希望の牧場」という名前にしたそうです。なので吉沢さんは「日本中の人たちに、ここに来て考えて欲しい。そのためにここを残していく必要がある」と仰っていました。僕らの問題福島第一原発の事故がおき、当時こそ日本中が重たい空気に包まれていたが、今はどうだろうかと考えました。どこか福島を少し危険な地域、震災トラウマのように隔離したイメージ、遠いものとして捉えてはいないだろうか? と思うのです。しかし、福島の原発事故を中心とした問題は、現在進行形でまだ解決されていない問題なのです。現在進行形で被爆し続ける動物(牛)達がいます。帰れない場所があります。除染ができなく、手つかずのまま放置されている森があります。それなのに、国は9基もの原発を再稼働しています。この事実は希望と言えるのでしょうか? もしまた大きな災害がおきこのような事故が起きたら僕らは東日本大震災の痛みから、何かを学べたと言えるのでしょうか? 災害などは予想できる範囲に限りがあります。日本全土で災害がおきる可能性は0ではありません。つまり、今回のこの福島第一原発の事故は単なる福島や東電の事故では無いと思うのです。もちろん原発ができたことで、その土地に増える雇用があります。その土地に入る財源があります。原発によって豊かになるものもあると思います。しかし、そう言ったメリット、デメリットも全て日本全国の事故として他人事ではなく自分のこととして、みんなで考えなければいけないと思います。吉沢さんもそんな覚悟があり、希望の牧場を守り続けているような気がします。また吉沢さんは『シン・ゴジラ』のように次は東京で震災があるという警鐘もならしつづけています。希望の牧場に行ってお話を聞くことで、福島におきた事故を自分ごととして捉えることの大切さを感じました。僕らも原発については何も知識がなくほぼ素人です。しかし、被災地を訪れ、いろんな人の話を聞いたり資料館に行ったりして、少しずつ知識や当時の事故の時系列や福島第一原発というものの置かれていた状況をつかめるようになってきました。まだまだ、勉強不足な面もありますが、「難しいし分からない」と投げ出すのではなく書籍などをあたり勉強していかなければいけないと思っています。最近ではお笑い芸人の中田敦彦さんもyoutubeなどで、わかりやすく動画をアップされています。知識は少し自分が行動すれば手に入る時代になっていると思います。知る努力、話し合う努力を諦めてはいけないのです。中田敦彦のYouTube大学https://www.youtube.com/watch?v=GRPM1vshttps://www.youtube.com/watch?v=GFcDZSoKW8U東京電力廃炉資料館所在地 福島県双葉郡富岡町大字小浜字中央378連絡先 0120-502-957開館時間 9時30分〜16時30分休館日 毎月第3日曜日 および年末年始入館料 無料(駐車場無料)
イメージとは違った浪江町僕らは今年6月に初めて福島県双葉郡浪江町に訪れました。実際に訪れる前にgoogleマップを使って浪江町の様子を確認した時、2013年〜2016年の画像データしかなく、2019年の状態がわからないまま現地を訪れました。僕らが事前に調べた時の印象としては、「町は荒廃し人が少なく建物も少ないのではないか? 沿岸部などは封鎖されているのかもしれない」といったものでした。実際に訪れてみるとその印象は「あっている面もあるが、違う面もあった」というのが正直な感想です。確かに町には人は少なく閑散とした所はありますが、僕らが思い描いていた荒れ果てたような印象はなく、復興に向けて少しずつ歩き出そうとしている町という印象でした。震災当時大きな被害を受けた町、という印象が僕らの中でとても大きく、メディアやネットからのイメージが肥大化していたのだなと改めて思いました。ただ沿岸部などは大規模な護岸工事や道路工事もあり、通行できない道もありました。震災当時のまま残っている建物もあり、取り壊しの作業をしていたり、イメージ通りだった場所も確かにありました。沿岸部に残っていた建物現地に訪れることでそうした断片的なイメージが、現実の浪江町として認識できたことだけでも僕たちとしては収穫でした。ここで生きている人がいる、復興に向けて歩もうとしている人がいる、その方と直接触れ合えただけでも東京でアートをつくろうとしていた時よりも語れる言葉や、語り方が変わったと思います。自分の実感のこもった言葉が少しだけ話せるようになった気がするのです(もちろん僕たちはどこまで行っても、外部の目線でしか復興については語れないのですが)。暖かく迎えてくれた町民の方々 ~浪江町はこんな場所だった~さて僕らは野馬追取材の一日目に、「一般社団法人まちづくりなみえ」さんが主催する~なみえ まちづくりを考える駅近キャンプ~に参加させてもらいました。「まちづくりなみえ」さんは、世界で一番、過酷かもしれないまちを、世界で一番、ワクワクがあふれるまちに。をスローガンに2017年3月末の避難指示一部解除から、浪江町の再生事業に取り組まれています。僕らが到着すると既にキャンプ会場には町内の人が準備を進め、イスに座りながら談笑をされている所でした。「おお、来たんだね。まあここ座って、とりあえず駆け付け一本だ」そういって鮎の塩焼き(!)を出してくれました。見ると円状に並んだイスの中心には大量の串に、大量の鮎が塩焼きになっていました! 食べてみるとめちゃくちゃおいしい! 昔は時期になると300匹以上は軽く獲れていたんだそうです。また鮭狩りも有名で、1日1000匹~3000匹もの水揚げがあったんだとか。水もおいしく、ということはお酒もおいしく、本当に豊かな自然に囲まれた町だった場所なのだと伺いました。ただ現在は山間部は未だに帰還困難区域となっているため、漁の全面再開などの目処は経っていない状態です(今回の鮎は町外からの仕入れだったそうです)。今回お話を聞かせて頂いた方たちは、みなさんそれぞれに浪江町の事が本当に大切で、これからどうしていくべきなのかを真剣にお話されたりしていました。でもそんな中にもイオンが出来たことや日常の出来事などのお話も聞けて、本当に内部というか、本音のお話を聞けた気がして参加させてもらえて良かったと思った瞬間でした。どの方も急な連絡での参加だったにも関わらず、笑顔で迎えてくれ僕たちの質問にも快く答えてくださいました。浪江町の現状は未だ「世界で一番、過酷かもしれない」ですが、そこで復興に向け着実に歩んでいこうとする方たちが、今日も生活されています。「まちづくりなみえ」さんでは、毎月何らかのイベントを行われています。興味がある方はぜひ「まちづくりなみえ」や公式facebookページ「つながろうなみえ」、「なみえまるみえ」など調べてみてください!アートの取り組みお話の中で浪江の小学校で演劇WS(ワークショップ)をやっていたみたい。というお話がでました。どうやら調べてみるとメンバーの大橋が現在参加しているWSファシリテーター養成講座で、お世話になっているNPO法人pavlicという方たちのWSだったようです(興味がある方は調べてみてください)。こうした取り組みが既に行われる環境になりつつあることが、僕にとっては驚きと共に喜びでもありました。ようやく芸術やアートが人々の役に立てる時期が浪江町にも来ているのかなと感じることができるお話でした。このページを読んでいる方は、もし少しでも興味があったら何かのイベントなどで浪江町を訪れてみたりして頂きたいです。おそらくネットでは本当の浪江町の姿は分かりません。実際に訪れることで、人と触れ合うことでたくさんの事を感じることが出来ると思います。最後までお読みいただきありがとうございました。また次回もよろしくお願いします!
決死救命僕らは先の野馬追を取材に行っている合間をぬって、希望の牧場にお邪魔して来ました。野馬追がおこなわれている、小高の街よりも放射線量が高い森に囲まれた小道を車で走っていると、その看板は急に姿を現します。物々しい看板と迫力のある重機をみると、ここが帰還困難区域になった場所ということを改めて実感します。身が引き締まる思いで看板の横の入り口から小道に入っていくと、奥に放し飼いにされている牛たちがポツポツと見えて来ます。車を駐め近くへ歩いていくと、迫力のある牛たちが僕らをお出迎えしてくれました。イメージしていた牧場と違いそこは柵などなく、一本の針金がはってあるだけのエリアで、牛がこっちに向かって来ないかすこし怖くなるくらいでした。泥の中でパイナップルの切れ端を食んでいた牛たちを観察していると、そこに「待たせたね」という声がしました。牧場主の吉沢さんです。吉沢さんは震災が起き福島第一原発が事故を起こした後、帰還困難区域に取り残された家畜や動物たちのおせわをしています。吉沢さんは僕たちを牧場の横の納屋に案内してくれました。そこには多くの資料や当時の写真があって牧場での活動や生活を僕らに説明してくれました。命を扱っている吉沢さんが見せてくれた写真の中には、死んで行った家畜たちの姿がありました。骨と皮だけのミイラになった牛、ピンク色の液体のようなものに浸かっている牛(近くでよく見るとその液体は全てウジ虫の集まりだった)などの写真をみながら吉沢さんはこう言っていました。「自分の育てた牛たちがこんな状態になった仲間たちは、トラウマで、もう牛飼いなんかできない。ここは物理的に戻ってこれない場所になった。でも精神的にも昔に戻れない状況になってしまった」と。そして、「ここの牛たちは牛肉になるための牛だが、放射能で被曝してもう金にもならない。でも、俺らは命を扱っているんだ。金にならないからと言って意味もなく殺してしまっては命に失礼じゃないかと思うんだよね。だから俺はこいつらが、いつまで生きられるかわからないけど死ぬまで世話をするつもりだよ」とも仰っていました。なかには、帰還困難区域から避難せず、牛を世話している吉沢さんを批難するひともいるようです。でも、吉沢さんは「そんな人たちの気持ちもわかるんだよ。必死に育てはぐくんできたものを一瞬で持って行かれたんだから、悔しくてたまらないよ」と仰っていました。記録として残す国は今回のこの事故を隠そうとしていると吉沢さんは仰っています。被爆した牛や豚を殺してその事実を消そうと。現に希望の牧場にも牛の殺処分命令が来ているそうです。しかし、こんな事故を起こしてしまったからこそ、その記憶を風化させてしまってはいけないんだという想いで、震災後ご自身も被爆する覚悟で牧場を運営して来たそうです。「自分の牛は国の命令で泣く泣く殺さなければいけなかったのに、なんでお前のとこの牛は生かしてるんだ?」って言ってくる同業者のためにも、ここを続けて行かないといけないという想いもあると思います。僕らはここまで命をかけて原発事故の記憶を残そうとしている方の活動やお話を聞いて、この牧場を多くの人に知ってもらわないといけないと思いました。そして、少しでも多くの人に足を運んで考えて欲しいと思いました。「命ってなんだろう?」「原発の事故ってなんだったんだろう?」と。その答えは僕らもまだ出ていませんが、時間をかけてみんなで考えていくことが、この時代に生まれ原発事故を引き起こしてしまった我々人類の責任ではないのだろうか? とすら感じました。希望の牧場での取材はとても内容が濃く長くなるので、続きの活動報告は【希望の牧場パート2】で報告させていただきます。また、希望の牧場について気になる方には木村友祐さんが書いた『聖地Cs』という小説をご紹介します。希望の牧場を取材されて書かれている作品なので、僕らが現地で吉沢さんから聞いたようなお話の内容がたくさん詰まっているので、オススメです! ぜひご興味ある方読んで見てください。
一瞬の演劇、残り続ける映像僕らが大学で専攻していたのは演劇という、アートの一ジャンルでした。演劇というのは今の時代には何とも非効率なアートで、稽古するにも一か月、二か月掛け、本番はたった3日間だけなど(もちろん大きな劇団やプロダクションはロングラン公演をやっていますが)、膨大な時間をかけても目に触れてもらえる機会はどうしても限られてしまいます。しかしだからこそ、その場に来て下さったお客様と直接交流ができる、生の感動や反応が掛け合わさって演じている自分たちすら思ってもみなかった舞台が出来上がるなど、演劇ならではの素晴らしさが良さがあります。僕はその演劇の魅力に取りつかれ、大学時代はとにかく演劇ばかりに邁進していました。ただ、一つ大きな欠点があるとすればやはり、見たいと思って下さる全ての人には届けられないということです。客席にも限りがあるし、公演日数にも限りがあります。一瞬一瞬の出会いが生み出す感動や一体感という、演劇の持つ長所こそ逆に最大の短所でもあるのです。それに比べ映像は一度作り上げた後は何度でも人々の目に触れることが出来る。そして世代を超えた人々と作品が出会い続けることが出来るという魅力があります。また演劇よりも圧倒的に長くこの世に残り続けるという点が長所のように思えます。もちろん、100年、200年というスパンで見たときに、どちらがより人々の心に強く訴えかけ、人々の意識に焼き付く力があるかと問われれば、優劣つけがたいだろうと思っていますが。anoが映像作品をつくる理由今回僕たちが挑戦しようとしているのは、演劇ではなく映像作品の制作です。僕らがなぜ自分たちの慣れ親しんだ演劇ではなく、映像を作るのかといえば一つには他ジャンルへ挑戦したいという意欲からです。僕らはずっと演劇だけをやってきて、そのほかのアートの可能性を考える機会があまり多くありませんでした。しかし大学を卒業し美術展や展覧会を見るようになり、他のアートの表現の魅力に出会って、自分たちの表現の幅の狭さを改めて認識しました。そこからanoのコンセプトでもある様々なアートの境界を越えた創作活動を目指すようになったのです。今回はそうしたanoの取り組みの第一歩なのです。もう一つの理由は「復興」というモノを"今現在の僕ら"が扱うときの向き合い方に、一番合っているのが映像なのではないかと考えたからです。「復興」そして「震災」という大きなテーマに立ち向かうとき、限られた人に届ける演劇という手法よりも、より広い人達と共有ができる映像というツールのほうが良いのではないだろうか。そして僕らがまずできるのはありのままを伝える事なのではないかと思いました。「復興」というモノが今どういった位置にあるのか、見た人が想像ではなく実際の風景や経過を目の当たりにするほうが、与えられるモノが多いのではないかと考えたのです。現地で見た風景を超える表現を、演劇を含め他のアートで表現する術が思いつかないほど現実の衝撃が強かったこともあります。この先まで残す価値を生み出していく僕らが考えるのは、この先の未来の「復興」も見据え、「今」を記録しておくことで10年後、20年後に「あの時」として振り返ることが出来る「点」を生み出すことです。これから先も定期的に作品作りを行い、いつの日か後ろを振り返った時に「復興」という大きな時代の流れを、僕たちの作品から垣間見ることが出来るような作品を作りたいと思っています。そして我々含めこの時代を生きる人々の歩みの記録は、現に生きている人々にとっては必要のないものかもしれません。しかし「未来」に生きる僕らより後の世代にとって意味のある価値になってゆくと思うのです。アートはこれまでの歴史を見ても、その作品がつくられた当初は何の価値も評価もされていないような作品が、はるか後に評価され価値が新たに見い出されるということがままあります。そうした作品を作ってゆきたい、作ろうとしてゆく必要があると思うのです。震災から8年経ち、オリンピックを控えた今、「復興」という言葉はもはや終わりを告げ新たな時代の幕開けすら感じるような流れを、今の世間から感じることがあります。しかし僕らは「復興」がまだまだ求められていること、そしてその「復興」が非常に複雑で多様な求められ方をしていることを、現地で目の当たりにしてきました。だからこそ今後の「復興」の行く末を、今を生きる人々と共有し共に考えてくことと同時に、大きな流れとして捉えるための「点」を生み出し続けていく必要があると思うのです。だからこそ僕らは今回、「復興」というモノを映像作品としてつくりたいと思っているのです。今回も最後までお読みいただきありがとうございました。また次回もよろしくお願いいたします!!