本日はクラウドファンディングを開始して初めて吉次・大橋で、会って会議をしました。お互い今までアルバイトの合間を縫ってLINEでのやり取りはしていたのですが、やっとスケジュールが調整でき朝から今までいろいろ作業ができました。作業内容としては以下の通りです。1、もう一度表現したいことを見つめ直す。2、動画のストーリー・方向性をきめる。(あらすじを書く)3、先日に取材で行った時に撮った動画の選別。4、選別した動画を作ったストーリーに合わせて編集する。1、もう一度表現したいことを見つめ直す。「え!! 表現したいことが決めてなかったの!?」と思われる方もいるかもしれません。僕らは表現したいことが決めてなかったわけではありません。しかし、これまで何度か現地をリサーチしていって、最初に思い描いていたビジョンが少し変わっていったのです。実際に足をはこんで、現地を見る前の構想では通用しない部分が出て来たのです。もっと正確に言えば「表現したいこと・伝えたいことが増えた」と言った方がいいかもしれません。そのなかで、自分たちはどれを軸にすれば、見てくれた人にとって一番響くかということを話し合いました。そのためにもしかしたら表現したいけど、泣く泣く削らなければならない部分もでました。それは、作品の中に込めるのではなく、今まで通りこの活動報告で自分たちの言葉・想いとして公開していけたらと思います。2、動画のストーリーを考える。決めた表現したい内容に沿って、あらかじめ二人で描いていた内容とかも含めながらもう一度動画のストーリーを構成し直しました! 3、先日の取材で行った時に撮った動画の選別僕たちanoは今まで映像作品を撮った経験がありません。ノウハウがない中どうやって映像作品を作るかという壁は企画を決めた当初からずっとありました。そのなかで、自分たちなりに、あらかじめ狙い撃ちのように撮る画を決めるのではなく、いろいろな所を周り、琴線に触れた景色を見たままおさめようということになりました。そして、そのおさめた映像を東京にもどり冷静になって見たときにどうなのかということを二人で話し合いました。「冷静に見るとなぜか印象が薄い」や「東京で見てもやっぱり感じるものがある」「なんでこのシーンは心が動くんだろう?」など一つ一つの動画に対して議論して、使える動画と使わない動画を審査して行きました。4、選別した動画をストーリーに合わせて編集する。本日は時間がなく、ここまでは時間を使うことができませんでした。オープニングの1分〜2分間くらいを少し編集した程度で終了しました。次回この続きをガシガシ進めていけたらいなと思っています。
生産性という言葉日々生きてる上で生産性のある毎日を生きたい。常々、そう思って生きて来ました。昨日より知識や経験を得て成長した自分であることで、一歩一歩前に進んでる自信がつく気がして……。しかし、人生そんなに甘くないみたいで頑張ったけど1日がなんとなく過ぎてしまう日もあります。そして、社会はさらに甘くないみたいで、常に自分に対して生産性を求めてくるようなきがします。「お前はなにができるんだ?」「お前は何の役にたてるのか?」と。自分が自分に対して課す生産性と他人が自分に課してくる生産性は、言葉の意味も圧力もまるで違います。しかし、生産性という言葉は、すぐに結果を求めるようなニュアンスを含んでいるような気がするのです。 アートに生産性はあるか?では、アートに生産性はあるのでしょうか? もしかしたら、世間の人が求めるような生産性はないのかもしれません。食事や住居、医療や介護、福祉、教育など命を続けていく上で絶対必要なものはあります。そこに、アートを含めない人もいるでしょう。僕も演劇のチケットを手売りする時にいろんな人に感謝と希望をこめて頭をさげます。しかし、やはり興味のない人には演劇やアートは必要ないものになってしまうのでしょう。なかなか、お客さんを集めるのは時間がかかります。そして、作品は制作にも時間がかかり、お客様に会場まで足を運んでもらって時間を使ってもらわないといけません。すぐに結果を求める生産性とは真逆の位置にあるのかもしれません。しかし、僕はアートにこそ生産性があるとおもいます。アートには命をつなぐ力は弱いかもしれませんが、人生を豊かにする力があります。僕はアートは日常で一人一人が抱えてる悩みや喜びを可視化することができるものだと思います。人生の余白のようなものです。余白は純粋な目で見ると意味のないものかもしれないですが、その余白にはまた新たにいろいろ書き込める可能性がある。余白には想像力がうまれる。アートは人生に潤いを与えるものなのではないでしょうか? さて、少し脱線したところで、アートの生産性に話を戻します。アートは普段生活していると考えることがない社会の問題を可視化する力があります。その問題を解決することはできないですが、その問題をみんなで考えることができます。僕はそこに生産性を感じます。もちろん「そんなの時間かかるし、面倒くさい」と放棄することは可能ですが。生産性=結果の方程式を問い直すこれまで言って来たことが矛盾していますね……。ここからが本題です。僕は「生産性は結果だけが全てでは無い」のではなかろうかと思うのです。結果はあくまで結果で、大事なものはその結果についやした過程だと思うのです。結果が出なければ意味がないのではなく、結果を産み出すための活動や過程に意味があると思うのです。日々生活してて、まえに進めず気づけば過ぎてしまった1日があったとしても、前に進むためにもがいた1日はとても価値のある1日だと思います。つまり、生産性に結果や結果が出るまでの即効性を求めるのは少しもったいないなと思うのです。生産性を考えるとき、過程も含め結果というものを見ていく「長い目で」というキーワードがあったほうがいいのではないだろうか、そう思うのです。先の参議院選挙でれいわ新選組の代表である山本太郎さんはこう言っていました。「何もかもを生産性ではかる世の中を変えたい。意味がなきゃ、誰かの役に立てなきゃ生きていられない日本を変えたい」と。そして、ふなごやすひこさんと木村英子さんを国民の協力を得て国会に送り出しました。僕は山本太郎さんがやったことは、生産性を否定したのではなく、生産性の意味を変換したのだと思います。これから、国会は変わっていかざるおえないでしょう。長い目で見てみんなで議論しながら徐々に変化していくでしょう。被災地に対する生産性被災地にとっても「いち早く復興を」という即効性を求める傾向があると思います。もちろん、復興が早いに越したことはありません。しかし、復興は誰のものでしょう? 被災された全ての方々のものです。被災された方々の心を置き去りにする復興は本末転倒だと思います。また大熊町など、放射能で住めなくなった場所は、人が住めないから人を移住させておわる話なのでしょうか? 使えなくなった土地は捨てておしまいなのでしょうか? そこにすむ動物たちは? 植物は? さまざまな問いがうまれます。それをすぐ結果が出ないから生産性がないからと蓋をするのではなく、みんなで考えていきたいのです。そこに真の生産性があると僕らは思うのです。作品を通して時間や労力がかかることをみんなで考えていけたらと思っています。少しでも共感、ご賛同いただけたらこの活動のご支援と拡散よろしくお願いします。
7月27日〜29日に福島県の南相馬市の伝統行事である野馬追祭りをみてきました!鎌倉時代から始まったというこの祭りは、相馬中村神社・相馬太田神社・相馬小高神社の3つの神社の祭礼です。雲雀ヶ原祭場地を中心に旧中村藩領各地で開催され、御行列・甲冑競馬・神旗争奪戦・野馬懸などをおこないます。大興奮馬つまり動物とともに催すお祭りは珍しく、日本全国をさがしても、これほど大規模に人が集まるお祭りはここだけなのではないでしょうか?僕たちが二日目に見に行った、甲冑競馬は圧巻の迫力で風に舞う旗の音、甲冑の擦れる重々しい音、力強いうまの足には血が沸き立つように興奮しました。また神旗争奪戦で獲得した旗を持って馬が総大将のいる丘へ勢いよく駆け上がる様は、まるで馬も喜び駆け上がっているようでした。地域の誇り震災後は参加者や参加する馬が激減した野馬追は、いちじは廃止に追い込まれたそうです。しかし、この間の野馬追を見て僕らが感じたのは、このお祭りは地域の誇りとなって、復興の支えとなり、希望を生み出しているということです。南相馬博物館の学芸員である板倉さんは「まだまだ、震災前のような人の参加人数には及ばないが、震災当時にくらべると少しずつ参加人数はもどってきている」と仰っていました。また板倉さんはこうもおっしゃていました。「いくらその町の道路や建物が綺麗に元どおりになっても、そこに住む人の生活や文化コミュティーが潤わないと真の復興とは言えないのでしょうか。」震災がおき住んでいた場所を離れざるおえなかった人は大勢います。僕らの取材をうけてくれた板倉さんもそのひとりでした。そして、数年前にまた自分の故郷である南相馬市にもどってきたそうです。しかし、戻ってきた時にご近所の人たちが変わっていたそうです。違う場所に住み着いた人、そのまま住んでいる人、外から来た人など当時できていた地域の関係性は変化し、ゼロ地点のフラットなものへなっていたそうです。僕たちは地元のコミュニティがうしなわれ、このコミュニティが築けなければこの地に復興はないと、お話を聞いておもいました。今回の野馬追は震災でバラバラになった関係性を束ねる糸口になるのではないかと感じました。相馬野馬追祭は地域のバラバラになった人々一人一人が持っている共通の記憶であり、地域の誇りです。離れていても自分の故郷にこんなにも素晴らしい祭りがあるというのは、プライドにもなるだろうなと思いました。規模は少し小さくなってもこれは本来のあるべき姿で、人がお祭りや祝祭を催す原点ではないでしょうか。野馬追の賑わいと南相馬の復興は切っても切り離せないものになっていると思いました。今後この野馬追がどのように変化し盛り上がっていくかが楽しみです。南相馬市博物館〒975−0051福島県南相馬市原町区牛来字出口194番地開館時間 9:00~16:45(最終入館は16:00まで)休館日 毎週月曜日及び12月29日〜1月3日(月曜日が休日の場合は翌平日)観覧料 一般:300円(250円) 高校生:200円(150円) 小学生:100円(80円) ( )は団体料金※企画展開催中は観覧料が異なる場合があります。※「団体料金」は20以上の場合です。※障がい者の方は無料です。(手帳の提示が必要です)※市内に居住・通学する(飯館村を含む)小中高生は無料です。
震災ということの語りづらさ僕らが震災をテーマにしようとした今年5月、まだその当時は実際に福島に訪れる前でした。社会との関わりの中で“アート”というモノをどの様にして役立てていくか、自分以外の人の人生をどのように豊かにしえるのか、を考えようとしていた僕らは現代にまんえんする問題をまず挙げていきました。移民問題、北朝鮮問題、少子化問題、ジェンダー、復興問題、オリンピック問題、等々……。どの問題も僕らにとって当事者性(自分の事として捉えられるか)が低く、作品をつくることを考えたときに取っ掛かりが見つけにくく感じていました。ただ唯一復興問題だけは、他の諸問題よりも言葉にしづらさにおいて僕らにとって身近だったのです。 震災当時、埼玉と福岡で暮らしていた僕らは程度の差はあれど、震災というモノをどこか遠くの出来事に感じる部分がありました。学生だったこともあり目前に迫っていた大学受験にすぐに意識が向いていきました。そして大学に進学し福島や宮城出身の人から当時の話を聞くとき、話す裏にあるだろう壮絶な体験を想像してしまい、どう言葉をかけたらいいのかわかりませんでした。気軽に聞くことも、聞いたことに返す言葉も、必要以上に不用意な発言で傷つけないようにと考えてしまい、結局震災について曖昧なイメージを膨らませる事にしかなっていなかったような気がします。だからこそ僕らは震災が起こってから、復興というものがどこまで進み、どんな現状なのかを知りたいと思いました。そして直接被災してはいない人々がどう被災地や被災者と向き合い、関係性を築いていくべきなのか考えることができたらいいのではないかと思いました。 現地取材での衝撃そして6月に福島に取材に行こうと決めて、情報収集を開始しました。しかし、まず震災や復興の情報そのものにアクセスすることの難しさに直面したのです。復興庁や市役所の出す情報はほとんどが情報をまとめたPDFの羅列があるばかりで、情報を求める人が理解しやすかったり、手に入れやすかったりするようには整理されていませんでした。情報も数年前のままであったり、最新の現状を知らせる資料を見つけ出すのにも苦労しました。その結果、国道6号線とそれ以外の道はどこまで通行可なのかすら判然としませんでした。実際に被災地を訪れた人を調べても、ほとんど福島の富岡⇔浪江間の代行バスから見える風景と放射線量を示す機械の画像ばかりで有益な情報はほとんどありませんでした。何よりもそういった旅行記やルポからはそこに住む人々の事はほとんど触れられていません。 正直もう少し具体的に、福島の現状を知ることができるだろうと考えていた僕らは、やはり現地に行って自分の目で確かめるしかないという結論に至りました。そうして6月僕らが訪れた時、福島にあった現状はそれまでの復興のイメージをすっかり塗り替えてしまうようなものでした。 僕らは現地は8年という月日が経って、ある程度復興が進んでいるだろうと思っていました。そして、当然人々の生活が以前と同じまでとはいかぬとも、実際に戻ってきている場所もありました。ソーラーパネルや巨大な風車が立ち並んでいる場所もありました。しかし沿岸部の周辺には不自然なまでに広い平野が広がっており、話を聞くと全て家が立ち並んでいた場所だったり、海は僕らのイメージする砂浜ではなく真っ白い防波堤が万里の長城の如く建設されていたのでした。そしてその手前には区画整理の柵が張り巡らされ、防波林を作るため木が植えられていました。そのあまりにも現実だけれど、どこか現実味がない風景に圧倒されました。なにより空はあまりに青く、それを反射したかのような海はあまりにも綺麗で、それがより非現実な印象を強くしました。沿岸部から歩いて駅のほうに向かうと途中には、塀だけが残された野原や、家の土台だけが残されている空き地が点在していました。 そういった震災の爪痕を感じる場所はいくつもありましたが、一番如実に残っているのは双葉町・大熊町の街並みでした。そこは本当に映画のセットのように荒廃したゴーストタウンで、震災が起こったその日のまま時が止まったようでした。放射能という目には見えない脅威によってもはや戻ることができない場所がある。そこに住んでいた方の心は計り知れないと思わざるを得ませんでした。ここでは復興というモノはほとんど進められていませんでした。というよりも進めることができないまま8年もの月日が経っているのです。除染された土は黒いフレコンバックに詰められずっと8年間、白い鉄板で覆った空き地に整然と並べられ続けています。それが少し車で移動すればどこにでもあるのです。 地元の方は「ソーラーパネルも風車も、道路とかたくさん工事してるけど全部勝手にやってるんだからね。知らぬ間に増えていくんだから。きれいに建ててさ。それで復興したようにあなた方には映るでしょ? でも汚染土や汚染水の問題は全然進んでない。この周りの森だって池だって手付かずなんだから、未だにそのまんまなんだよ」と語っていらして、復興が少しでも進んではいるんだなと思っていた僕らにとって、目から鱗が落ちるお話でした。 この国全体の問題として実際に現地を見て、お話を聞いて思ったのは、この復興という問題は福島という土地だけの問題ではなく、日本に生きる全員が付き合い、考えなければならない問題だということでした。福島に住む人だけが考えるのでも、語るのでもなく、たくさんの人の考えと意見が、認知が必要だと感じました。 僕らは自分たちの非当事者性による語れなさを問題にしようとしていましたが、それによる弊害は僕たちの予想を超えて大きな問題だったと思いました。どの人も多かれ少なかれ抱えているように思う震災を語ることへのうしろめたさ。既に8年経っている震災を、語ろうとする際のボキャブラリーの少なさ。これは僕たちが今まで語ることを怖がり、口をつぐんできたことで、この先もずっと残っていく感覚だと思われます。そして語らないことによって僕らの知らないところで問題はさらに深刻化していき、いつの間にか取り返しのつかないことになってしまいかねない。僕らは純粋な震災の当事者ではありません。未だにその感覚は深く刻まれ残っています。しかし震災を語れないことに関しては僕らは今まさに当事者であり、被災地の復興という問題も現地に行ってみれば、日本全体が抱える問題の縮図でもあったのです。それを考えることは誰が先頭に立つべきだとか、声を上げるべきだとかではないと思うのです。誰もが当たり前のように震災や復興について話せる環境に少しずつでも整えていく、変えていくことが必要であるし、なによりそうして社会を変えていくことにこそアートが必要だと思ったのです。 僕らがまずやろうとしているのは、その第一歩として「一緒に考えて少しでもいいから自分の言葉で語ってみようよ」という取り組みです。そしてそれは誰がいつやるべき問題ではなく、誰でもいいから今すぐやるべき問題だと思ったのです。それがなぜanoがいま震災を考える作品をつくるのか、という問いの僕らなりの答えです。