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安芸高田市吉田町に68年続いた、たった一軒しかないハンコ屋を守る。

広島県安芸高田市に琴崎哲山あり。刻字歴65年の名人が引退を決意。孫、信一郎へ刻字技術の一子相伝を試みるも老齢の為断念。信一郎はハンコ屋を絶やさぬ為、印章彫刻機を購入し祖父の後を継ぐ決意をする。機械購入代金の一部を支援して頂きたい。

現在の支援総額

316,000

105%

目標金額は300,000円

支援者数

34

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2019/04/01に募集を開始し、 34人の支援により 316,000円の資金を集め、 2019/05/15に募集を終了しました

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安芸高田市吉田町に68年続いた、たった一軒しかないハンコ屋を守る。

現在の支援総額

316,000

105%達成

終了

目標金額300,000

支援者数34

このプロジェクトは、2019/04/01に募集を開始し、 34人の支援により 316,000円の資金を集め、 2019/05/15に募集を終了しました

広島県安芸高田市に琴崎哲山あり。刻字歴65年の名人が引退を決意。孫、信一郎へ刻字技術の一子相伝を試みるも老齢の為断念。信一郎はハンコ屋を絶やさぬ為、印章彫刻機を購入し祖父の後を継ぐ決意をする。機械購入代金の一部を支援して頂きたい。

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実は 本人は逃げ腰なのです。   昭和7年生まれの哲山は、インターネットのことは全くわかりません。   個展を開くのは 大それたこと。 どこかの偉い先生がされること。 自分ごときが、することではないと信じております。 謙遜は美徳の時代に生まれ育ってきた、昭和一桁人間です。   私は昭和の中ごろの生まれ。 インターネットを少しはかじり、一般の人が投稿されたYou Tubeの動画なども楽しく拝見させていただいております。   現在は、謙遜するよりも むしろ自分のできることを精いっぱいアピールするのが美徳ではないでしょうか。   腕が拙いことを恐れて、発表することもなく、倉庫の片隅に置いておかれる作品の山。 やがてそれらは埃をかぶって粗大ごみとなってしまう。   昨年、吉田町は水害に遭っています。 埃をかぶるだけならまだしも 水に浸ってしまっては、もう救いようがありません。   現在の状態なら、まだ作品も鑑賞していただけるし、本人も人前に出ることができるということで、個展開催を勧めました。   哲山は、最後まで個展を開くことに反対しました。 誰か自分を知っている人がこのことを聞いたら、恥知らずのことをしていると笑われるというのです。   誰が笑うの?、笑う人は誰? と聞いてみたら、指折り数えて名前を挙げた方たちの大部分は、既に亡くなっておられました。     「たった一度の人生を 世間の顔色 うかがって やりたいことも やらないで、 死んでいく身のくちおしさ。   どうせもらった命なら、 一花咲かせて 散っていく サクラの花の潔さ。」   上の7行、斎藤一人さんの「仁義」から、言葉をお借りしています。   68年間頑張り続けた哲山の二日天下。 こんなに頑張ったよ!と 思い切り自慢させてただいて、 花道を去るつもりでおります。   この機会を与えられたことを 本当にありがたく思っております。 また、ご支援や たくさんの応援の言葉を頂きありがとうございました。 心から感謝しております。     以上で哲山ストーリーは 完  


  生きるために彫り 彫るために学んだ人生   昨日の続きです。   哲山は生きていくために ハンコを彫る技術を身につけました。   終戦後から昭和20年代にかけては、自分がどんな職業に就きたいかより、生きる為にとにかくやれることをするのが当たり前だったようです。   哲山が昔住んでいた大阪の家から 北野高等学校が見えたそうです。 北野高校は 阪大や京大に多くの卒業生を送り込み、現在も進学校として有名です。   秀才と一目置かれ、北野高校へ行くのが夢だった少年が、広島の田舎で農作業をし、学業をあきらめ、生計を立てるためにハンコを彫ることを職業としました。   一人の若者が、この現実を受け入れるのは、辛いことだったに違いありません。 しかし、当時は戦後の混乱にふりまわされた若者はたくさんいます。 出征したまま帰ってこれなかった人に比べたら、命があることだけでどんなにか幸せなことか。    哲山には家族もでき、吉田町で生活するようになった自分の運命を受け入れました。   しかし生来の勉強好き。    学びたいという思いは、刻字技術の腕を上げるという方向に向かい、通信教育で書道の勉強を続け、その後、有名な書道の先生につき練習に励むようになりました。   その後、ジャンルを書道から篆刻部門に変えて、さらに精進を続けてまいりました。     娘の私は、父の行動をまったく理解することができず、何のために、どうして、そんなに気合を入れて彫り続けるのだろうと思っておりました。   父の偉さが理解できるようになったのは、ごくごく最近のことです。   明日へ続きます。


幼くして運命に翻弄される   哲山は幼少期を大阪で過ごし、おぼっちゃまだったようです。 家は大きな印刷屋さんで、お札が山ほど置いてある一部屋があったとのこと。 ある日、その中のお札をつかんで、駄菓子屋へお菓子を買いに行ったら、お店の人がびっくりして家まで飛んでこられたそうです。   近くにお寺があり、その境内でいつも一人で猫と遊んでいたとのことです。   しかし、終戦後、縁のあった広島の安芸高田市吉田町の旧家、琴崎の家に跡取が必要な為、養子に取られることになりました。   この時点で哲山の運命は 大きく変わりました。   哲山は吉田町で その後の人生を送ることになります。   広島に来た最初の日、自分は半ズボンを履いているのに、どうしてみんな長いズボンをはいているのだろう?と不思議に思ったそうです。   昭和20年8月6日、原爆が落ちた時に発生するキノコ雲を実際に見ています。   数日後、広島市内まで身内の者を探しに行ったこともありました。  そして終戦。   それから戦後の混乱期が始まります。   終戦後の混乱期に便乗し、養父は、吉田町で新たな事業を起こそうとしますが失敗し、借金を背負うことになります。   哲山は進学校である三中へ行くことをあきらめ、近所にある吉田農業高校に進みました。   小さいころから秀才といわれ頭は良かったものの、農作業はからきしできないで、今でいうところのいじめにあって退学してしまったようです。   哲山の仕事は、養父の残した負債を支払うためにマイナスからスタートしました。   自分一人で生計を立てられるようになりたいと、印鑑を彫る技術を身につけました。   これが篆刻士 哲山のはじめの一歩となりました。       明日に続きます。      


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ポスター、4枚も貼っていただきました! 4月20日、21日に「琴崎哲山・てんこく展」を開催させていただく会場は、安芸高田市民文化センターです。その外観からクリスタル・アージョと呼ばれています。   安芸高田市、吉田町は小さな町で、人口密度も低く、あまり行事がありません。 だから掲示板も空きが多くて、このようにたくさん貼っていただけたのでしょう。 都会では考えられないようなことですね。   若くてキレイなお姉さんのポスターなら、美しいのですが、むさくるしい年寄りが、出しゃばって申し訳ございません。   一週間だけ 広い心で許していただけるとありがたいです。


プレスリリースってご存知ですか?   報道関係者の方に 取材していただきたい情報を提供することです。   私は言葉は聞いたことがありましたが、自分がまさか実際にするようになるとは 夢にも思っていませんでした。   がしかし、今回、勇気を振り絞って「琴崎哲山・篆刻展」と「楽しいハンコ作りん祭!」の情報を報道関係の方にお伝えしました。   勇気が必要だったのは、素人のプレスリリースは、あまり使えるものがなくて、報道関係の方からは数秒で捨てられてしまうことが多いということを聞いていたからです。   たとえそうでも、かまわないのです。 クラウドファンディングが終わったあとで、目標金額に達しなくて、ああ・・・あの時こうしていれば・・・ と悩むよりも、やるべきことはすべてやった!とすっきりできるほうが良いにきまっています。   とりあえず、送ってみました。 あとは、何とかなる、何とかなる・・・です。   「まっ、いいか!」と「何とかなる」 「ツイテル!」「ラッキー!」はイージーな私の口癖です。