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パクチー銀行のリアル店舗をつくる:鋸山の入口、鋸南町保田駅前を盛り上げたい!

内房線保田駅目の前の金融機関跡地に、パクチーの種を融資する「パクチー銀行」のリアル店舗をつくります。普段はカフェ併設の物販店として鋸山の登山客を迎えつつ、2018年に世田谷区経堂のリアル店舗を閉店して世界各地で無店舗展開している「パクチーハウス」の準備拠点兼会員制店舗として稼働させます。

現在の支援総額

1,135,739

29%

目標金額は3,890,000円

支援者数

70

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2021/09/30に募集を開始し、 70人の支援により 1,135,739円の資金を集め、 2021/11/20に募集を終了しました

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パクチー銀行のリアル店舗をつくる:鋸山の入口、鋸南町保田駅前を盛り上げたい!

現在の支援総額

1,135,739

29%達成

終了

目標金額3,890,000

支援者数70

このプロジェクトは、2021/09/30に募集を開始し、 70人の支援により 1,135,739円の資金を集め、 2021/11/20に募集を終了しました

内房線保田駅目の前の金融機関跡地に、パクチーの種を融資する「パクチー銀行」のリアル店舗をつくります。普段はカフェ併設の物販店として鋸山の登山客を迎えつつ、2018年に世田谷区経堂のリアル店舗を閉店して世界各地で無店舗展開している「パクチーハウス」の準備拠点兼会員制店舗として稼働させます。

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パクチー柄のTシャツを着初めてから、知人との遭遇確率が飛躍的に上がった。たしかによく目立つ。しかも、僕は数年前から、都内の移動は基本的に走っているので、他の大多数の人と動き方が違い、目に止まるのだろう。思いがけない場所で知人に会うのは、奇跡のようなものだと思っていた。プノンペンで一緒に飲んだ人と、バラナシのガンジス川のほとりで再会したことがある。バチカンの郵便局で突然名前を呼ばれて振り向くと、昔富士山を一緒に登ったことのある仲間だった。そんなことがしょっちゅう起こるようになった。その場で再会を喜び話し込むこともあれば、さっき◯◯で走ってたよねと連絡をもらいSNSで連絡を取り合うこともある。そして、再会は、思いがけない何かを産む。鋸南エアルポルトを立ち上げ、看板をつくった。緑地のコンパネに「エ」「ア」「ル」「ポ」「ル」「ト」と大書した。「エアルポルト」のことを「エアポルト」とか「ポルト」とか「エアボルト」とか呼ぶ人がいる。つまり、この新語はちょっと覚えにくい。でも、薄っすら記憶に残すのが、SNSのいいところでもある。長狭街道の出口に鋸南エアルポルトはある。道の駅保田小学校を訪れ有名な食堂ばんやへ向かう時、鋸山を保田側から登る時、鴨川から内房方面へ向かう時、高確率で通ることになる場所に位置している。薄っすらとした記憶が、緑地のコンパネで目を覚ます。「ここだったんだ!」。鋸南に僕を訪ねてくれる人もいるが、思いがけず発見し、立ち寄ってくれた人も多い。今回、クラウドファンディングを実行していろいろな方から連絡をもらっており、数名から「旅行で行った時に見かけたよ」というコメントがあった。つまり、パクチーTシャツとノイズの少ない鋸南町の大きな看板は、僕と誰かの「再会」を生むメディアとなっている。僕に会うつもりでなく、鋸南エアルポルトにたどり着いた2つの事例を記そう。1例目は友人たちと鋸山にトレランの練習に来たキャシー。ある日、ゲストを見送った直後、後ろから走ってくる足音が聞こえた。「ここだったんだー」と聞こえ振り向くと、彼女がいた。彼女は友人たちと鋸山に行き、下山した後、ばんやで合流して一緒にご飯を食べた。彼女とはメドックマラソン(フランス)やコムラッズマラソン(南アフリカ)をともに走ったこともあるランニング仲間。ツワモノのトレラン仲間が、鋸山って低いわりにけっこうきつかったというので、何度か金谷港からエアルポルトまで鋸山で縦走して「通っている」という話をしたら、「鋸山を通勤」という言葉が刺さったらしい。僕はキャシーの仲間たちに「あれが通勤路っていうのは本当にすごい」と繰り返し唱えられ、いつもそのルートで通うべきだと思い込まされた。キャシーはエアルポルトのサポーターとして、その後、テレワークなどをしに頻繁に来てくれるようになった。そして、GREEN NUMBERの名で自らが製造・販売するアフリカ布の商品(スカート・パンツ・小物など)を、エアルポルトで販売するようになりました。元々ファッション館フナトという洋品店だった場所なので、そこに服が並ぶのは、ちょっと嬉しい出来事でした。それを見て、大家さんも喜んでくれました。2例目は、東向島珈琲店の井奈波さん。再会するまで全然知らなかったのですが、コーヒーポーターを鋸南ビールと一緒に開発したため、時々息抜きがてら友人を連れて南房総地域に日帰り旅行に来ているとのことでした。井奈波さんを紹介してくれたのは、パクチーハウス東京を立ち上げた直後ぐらいに店にいたお客さんです。初対面で「まちづくり」の話で盛り上がり、東(墨田区)と西(世田谷区)から一緒に東京を盛り上げましょうよ、と言ってもらったのが嬉しくて、しばらくして墨田区を訪問した際に連絡しました。その時に、墨田を盛り上げるキーパーソンとして紹介してもらったうちの1人が、井奈波さんでした。その後、全然別ルートの友人が墨田でシェアハウスを始めたり、墨田シャルソンが興ったりして、しかしその度に、やっぱり井奈波さんの名前を聞くことになりました。「エアルポルトの文字が突然飛び込んで来たから寄ってみました」と言って突然入ってきてくれたときは、最後に会ってから5年ぐらい経っていたでしょうか。以前から知っている方が、鋸南でビールを作っているなんてなんという奇遇だと嬉しくなりました。井奈波さんが来られたのは、エアルポルトを作った翌月だったので、僕がたまたま巡り合った鋸南には大いなる可能性があると確信しました。今回、パクチー銀行の機能としてカフェを作ろうと思った時、ぜひとも彼が作っているビールを仕入れたいと思い、先日、久しぶりに東向島珈琲店に行ってきました。これまでのこと、これからのこと、コーヒーのこと、いろいろ語って仕入れさせてもらうことにしました。次の醸造が2022年1月の予定とのことで、その時から、東向島珈琲店オリジナルのコーヒーポーター「 iles 」を鋸南でも飲めるようになります。


旅と平和
2021/11/15 12:12
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「パクチー」と「旅と平和」の関係について。僕の会社の名前は、株式会社旅と平和といいます。クラファンには会社名は書いていませんが、「パクチー」とか「佐谷恭」で検索すると出てくるかもしれません。今日は、改めてその由来について書いてみようと思います。設立は2007年8月9日の、パクチーの日。「旅と平和」という名前を聞いて「雑誌ですか?」と言われたことが結構ありますが、それはたぶん「山と渓谷」のことだと思います。「怪しそう」「宗教団体か」と言う方もいますが、怪しそうと思うのは主観ですので止められないですが、宗教ではありません。「旅と平和」は、僕が旅を通じて追求しようと思ったテーマです。2002年初夏に、正倉院から中国と中央アジアを通ってイラン・イスファハンでの友人の結婚式に出席するための旅をしました。その時に、キルギスで自分のいたすぐ近くで外交官射殺事件があり、自分がしていたこと(カラオケの最中でした)とのギャップに驚き、恐れを感じました。旅人が世界のために何ができるかということを、その後、旅の道中で出会った人と語り合いました。そして、僕がテーマにしようと思ったのが「旅と平和」です。このことは、平和学を学んだ英ブラッドフォード大学院の入学願書とともに出した小論文に書いていますので、お目汚しですが、下の方に貼り付けておきます(たぶん初公開ですw)。2003年8月末〜2004年7月初旬までイギリスに滞在。修士論文を同年8月末に完成させました。タイトルは「Peace through Tourism」(旅と平和)。翌月27日の「World Tourism Day」に妻と結婚式をユーラシア大陸最西端の地・ロカ岬(ポルトガル)で挙げました。2005年春から初夏にかけて日本パクチー狂会を立ち上げることになり、パクチーのスペルが難しすぎるので(phakchi)もっとシンプルにしたいと2週間ほど考えました。当時流行りかけていた「mixi」をパクってみたら「paxi」というスペルができ、旅と平和(“pax”=ラテン語で平和、“ i ”=旅人)に結び付けられることにしました。この当時は、パクチー料理専門店を作るなど露ほども考えず、「旅と平和」が会社名になることを想像すらしませんでした。当たり前ですが。たまたま友人とやりとりしていたら、日本パクチー狂会のサイトをオープンした直後ぐらいに、明治学院大学で講義したことを思い出しました。取材に来てくれたその友人はそのときに書いてくれた記事を読み直して、「旅と平和」という後に会社名になる文字を見つけて驚いていましたが、もちろん計画的ではありません。自分のテーマを決め、それに合うスペルが見つかったので造語をつくっただけの話です。その後、テーマを追求するうちに、それを事業にするという結果となりました。株式会社旅と平和、創業の目的(2007年8月9日頃執筆) 株式会社旅と平和 は、旅という経験の積み重ねが国を超えた人びとの結びつきや相互理解を深め、世の中を楽しく、人びとを元気にすると考えます。また、その延長として、旅が世界平和を維持するための大いなる原動力となるという立場を支持しています。 「世界愛(人類愛)」には「祖国愛」を持たずして到達できず、「祖国愛」は「郷土愛」を持たずして得ることはできません。また、「郷土愛」は「家族愛」があって初めて成り立ちます。私たちは、旅を「単なる外国への旅行」と捉えるのではなく、「人が自発的に、他人に会いに行くこと」であると定義します。 社名に「平和」という言葉を冠していますが、その崇高な目的のために地域の活性化や子どもの教育こそが、まず必要だと考えています。平和を維持し広めていく仲間を増やしていくためには、他者の存在とその必要性を認識できる旅という行為を広めることや、家族や地域などでのコミュニティー意識を多くの人が持つようになることが、重要になります。 株式会社旅と平和は、旅や家族・地域単位での交流を促すさまざまな仕掛けを提供し、人とのつながりを見直す体験をすること、自分とは異なる世界観を持った人びとの存在を知ることを通じて、人をオープンで元気な存在にしていきます。そして、自分以外の人のために生きる人たちを応援します。その後、起こした飲食事業(パクチーハウス東京・鳥獣giga・地球を救うカレーライス「bija@paxihouse」・PAXi Coworking・TACO PAXなど)、コワーキング事業(PAX Coworking・鋸南エアルポルト・PAX abcなど)、シャルソンの普及は、すべてこの考え方を根底にしています。「パクチーを薬味から主役へ!」は、日本パクチー狂会のスローガンであり、パクチーハウス東京をつくるに際して「すべての料理にパクチーを入れる」ことを決めました。パクチーをメインにすることに対して、世の中から疑義を呈され、友人たちがやけに心配してくれたおかげで、「中途半端なことはしない」と、徹底することができました。「パクチーなんかで店が成り立つわけがない」かもしれないと本気で考えていたのは、忠告してくれた専門家ではなく、他ならぬ僕自身です。妻と0歳の息子を前に、自分のテーマをブレずに追求するには何をすれば良いのかを唯一の行動指針としました。テーマは追求し続け、その表現手段の「パクチー」は変わりうると思っていました。ただ、パクチーのスペルである「paxi」は変わり得ない。テーマですから。そして、嬉しい誤算は、「徹底している」ことが予想以上に面白がられたことであり、その結果としてメディア露出が異常に多くなったことです。取材の千本ノックを受けたことで、店の知名度は上がり、なかなか書いてもらえない本当のコンセプトである「旅と平和」もじわじわ人に伝わり、自分の考えをまとめる機会がたくさんあったので講演などで人が楽しんでくれる話ができるようになりました。パクチーがブームになるとは思いもしなかった!(笑) でも、パクチーですら世の中を少し動かすことができると実体験で感じたことは僕の人生にとって重要なことです。金融機関跡地にパクチー銀行をつくるという冗談みたいなことを実行するのは、体験の積み重ねで生まれた小さな勇気があるからです。最後に、論文を書いた時のアイデアを事業化したという点ですが、パクチーハウス東京の内装工事屋さんを探しているときに、アメリカで書いた修士論文のテーマ・タイトルを会社名にした人に会いました。それが、グリッドフレームの田中社長です。僕と田中さんの共通点として、変数が多いことが挙げられます。熱量は分かるけど、文章は長く、複雑である。パクチー銀行のリアル店舗では、そういう2人がタッグを組みました。「よく分からないけど、何となく面白そう」というのはまだまだ続きそうです。悪しからず!(爆笑)Statement of PurposeTo learn the theory of peace studies and to acquire a broad knowledge about peace building after conflicts are my two main objectives to study at the Department of Peace Studies, Bradford University. After graduation, I intend to work at an international development organization such as UNHCR, UNDP or other related inter-governmental or non-governmental organization in order to have more experience in this area. And my long-term career goal is to contribute to peace building as a Japanese diplomat and to make my country a leader in the international society in promoting peace in the world.Since I was a small boy, my parents often have been inviting foreign people at home as guests. So I have had much experience in communicating with people of different cultures and lifestyles. I gradually got interested in the cultural diversity that exists in the world. Our guests told me about the situation they had in their country. I got to know disparity in wealth and development, and conflicts caused by or resulted in the differences. I got more interested in those topics and more active to increase my experience related to this area after I left home and entered university.When I was a student in Kyoto University, my major was Cultural Psychology. I learned and researched in the perceptual bias and behavioral consequences of cultural differences. And I was one of the founding members of a discussion group on international relations, where we studied about Peace-keeping Operations in Cambodia, Yugoslavia and other places. This is the beginning of my interest in peace building.Furthermore, I have travelled around 40 countries and areas by myself, experiencing contacts with various cultures, and talking with the native people living in those places.I was also a participant in the Ship for World Youth Programme sponsored by the Japanese Government. It involved two months of travel on board a ship together with 275 participants from different countries, where we also had seminars, lectures and discussions on various issues of global importance, besides learning about cultures of different countries. Even after five years from the completion of this programme, I continue to interact with other participants from all over the world through Internet and reunions.After graduation from the university, I worked for a computer company for two and a half years, belonging mainly to the Personnel Division of the Telecommunication Systems Group. I chose this job because the group was producing and selling telecommunication equipment overseas including many developing countries, and researching and reporting the conditions of the countries concerned were my main responsibility. I made contacts with people in these countries and collected information in order to establish liaison offices and subsidiaries, and to help employees working there. It was really an excellent experience for me because I had to advise and help the employees with the changing international situation.Later I worked for a start-up company dealing with recycling systems as a sales manager for one and a half years. I helped establish the organization and led several projects and oversaw trading with our customers from East Asian countries.The cross-cultural experiences stated made it possible for me to have so many friends all over the world. Internet and e-mails enable me to communicate with them from home. Almost everyday I talk to somebody and share my thoughts and experiences.I also travel a lot. For example, some months ago, I was in Bishkek while travelling through the Silk Road. It happened that a Chinese diplomat was shot to death very near the place I was staying. I started discussing this incident and other internal conflicts happening in the area with people from Central Asia and travellers from Europe. Our discussion continued for a few hours and it was about how conflicts can be avoided and the area can become safer. I raised the example of the Peace-keeping Operation in Cambodia and expressed the opinion that intervention by third parties can help resolve the conflicts so as to reconstruct their life politically and economically.I think Japan can be a leading country in this area because we went through the experience of economic reconstruction after defeat in the Second World War and we have decided to renounce war in the Constitution of Japan. Our economical prosperity enables us to help the countries involved financially, and by applying the concept of our constitution to each peace building process, we can help them to demilitarize and thus create peace. And in order to take leadership effectively, Japan needs more people with a broad vision and ability to carry out such tasks. I would like to be such a person who can help my country in playing this leadership role in peace building in the world. For this purpose I would like to gain more knowledge and skills, and that is the reason for my desire to study about peace building.The Department of Peace Studies at Bradford University seems an ideal place for me to achieve my career objective. I want to study in this department the history of Peace Studies and the latest topics of international relations especially in peace building. I would also like to interact with people from all over the world who are trying to understand the causes of the conflicts and to promote peace.Your program is the best to enable me to connect my experiences with my objectives, whereby I can help make my country a leading country in the area of peace building and reconstruction after conflicts.I have had discussions with a variety of people from so many countries and I have so many friends all over the world with whom I can discuss and share my thoughts. This is a great treasure for me and it will enable me to participate deeply in your seminars. And on the basis of my many experiences I believe I can make meaningful contributions and bring up different ideas of my own.I have a strong determination and will make every effort to achieve my goal. I request you to consider my application favorably and give me the opportunity to study at your school.With best regards,Kyo Satani


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今年の初め、鋸山縦走チャレンジというイベントを主催しました。コロナ騒動でマラソン大会は軒並み中止というのを見て、できる方法を考えればいいじゃないと、自分が大好きな鋸山縦走コースを多くの人に体験してもらうため考案しました。昨日、参加者の1人からメールが入り、イベントの景品としてプレゼントした「らかん寿司 松月お食事券」を使うため、鋸南町を再訪してくれたとのことでした。前回は鋸山を、今回は地魚とお酒を満喫。二度の訪問で鋸南と鋸山のファンになってくれたようです。鋸南の雰囲気に惚れ込んでしまった僕は、とにかく1人でも多くの人にこの町を訪れてほしいと思っています。そして、「なにもない」からこそ、自分たちで「なにかをつくる」余白があることに気づいてもらい、なんどもなんども来てもらうことを意識して町を案内(そして時に放置)しています。同じ場所を歩いても、時間や季節、自分が持つ感情により、見えるものが違います。都会や出来上がった場所では、選択肢から選ぶことしかできませんが、鋸南町のような場所では真っ白なキャンバスに自由に絵を描くことができるのです。<クラウドファンディングに関する更新>★パクチー・オーナー制度を公式発表http://paxihouse.com/blog/2021/11/paxi-owners/このクラウドファンディングでも1年分のオーナー権というリターンがありますが、上限(89口)に達するまでは随時お申し込みができます。★一日頭取の募集を開始リターンに、一日頭取の権利を追加しました。一般的にいう一日店長に近いですが、しっかりと事前打ち合わせした上でご希望のメニューを出すとか、将来の店舗経営を見据えた実験をするとか、友達を集めてパーティをするなど、頭取の希望に合わせてアレンジできます。当日、僕は緑子(黒子)に徹します。


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パクチー銀行のカフェでは、西経89°線が通る国のコーヒーを使います。西経89°線が通る国は7つあります。そのうちの一つが中央アメリカ中部に位置するホンジュラス。ホンジュラスのコーヒーについて調べていたら、昨年行われたクラウドファンディングのサイトに行き着きました。続・あなたと紡ぐコーヒー物語『ホンジュラスからの一通のSOS』コロナ禍で苦しむホンジュラスの生産者を守りたいと、ホンジュラスのコーヒーを直接輸入し焙煎するカトラッチャ珈琲焙煎所(愛媛)と1898年創業の老舗酒蔵・博多焼酎「天盃」(福岡)が、コーヒーリキュール「コーヒースペシャリテ」を作ってクラウドファンディングに挑んだということでした。 *詳しくは、ぜひ当該クラファンのページをお読みくださいぜひこれを仕入れたいと思い、蔵元にメール。いただいた返事に書いてあったのが、タイトルに記した「今回のお問い合わせに大変驚いております」でした。冒頭にこちらからの問い合わせに対する返答が書かれていました。その後に、「個人的な話で恐縮ですが」と続き、文章が綴られていました。僕は、個人的な話をするのも聞くのも大好きで、パクチーハウス東京の予約メールの返事も、可能な限りその人に対してでしかありえないものを書くようにしていました。メールのやり取りでお互いにシンパシーを感じ、初対面で意気投合した体験は一度や二度ではありません。返事をくれた五代目は、実家の蔵元に帰る前、東京にしばらく住んでいたそうです。その間、「経堂のお店にも友人と何度か足を運ん」でくれたとのこと! 何という縁でしょう。「コーヒースペシャリテ」のストーリを読んだだけでもぜひ購入したいと思っていましたが、このようにその時の気持ちを伝えてくれる方が作っていると知って嬉しく思いました。そして、このような形でお客さんと「再会」できたことを嬉しく思います。福岡県朝倉郡の天盃がつくる逸品(まだ飲んでないけど!)を、ぜひ飲みにいらしてください。どうしても鋸南に来れないという方は、こちらから購入できますよ!https://www.tenpai.co.jp/coffee-spclt/


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パクチー種の融資パクチーの種を誰にでも審査なしで融資します。返済の義務はありません。パクチーを育てて、うまく育ったら食べてください。食べきれなければ、そのうち花が咲いて種ができるので、次の世代に繋いでください。それでも種が余ったら、家族や友人に種を渡しましょう。要は、パクチーの種を差し上げます。自分で楽しみ、楽しみを誰かにおすそ分けしてください。SNS等で情報発信をしていただくのも大歓迎です。カフェパクチー銀行は、周辺に住む方、鋸山登山などで鋸南町を訪れる方が交流するカフェでもあります。スペシャルティコーヒーとクラフトビールをお楽しみください。西経89度の国々(メキシコ・ベリーズ・グアテマラ・ホンジュラス・エルサルバドル)のコーヒーを、東経89度の国々(ロシア・モンゴル・中国・ブータン・インド・バングラデシュ)の飲み方で提供します。コーヒー豆の調達は、僕が鋸南町ともう一つの拠点としている世田谷にある中南米コーヒー豆専門店の「カフェテナンゴ」から。店主の栢沼さんは高校の同級生の幼馴染(つまり、知り合ったのは数年前だけど同じ学区の出身者)であり、輸入する豆のほとんどの生産者とアミーゴ(直接会ったことがある)ということです。つまり、信頼できる、出どころのはっきりしたものだけを扱うということです。ちなみに、全ての豆は鋸山を縦走して運搬します。クラフトビールは鋸南および周辺で作られたもの、世田谷の僕の自宅付近で作られたもの、僕の親友たちが作っているものを主に提供する予定です。SOTOCHIKUショールーム鋸南その他にあるSOTOCHIKU素材を使って内外装を行い、また、SOTOCHIKU素材を転用した商品を販売します。SOTOCHIKU(外築)とは、風雨に晒された古い建築資材のこと。廃屋その他で、一見捨てるしかないと思われる素材に価値を吹き込みます。パクチー・オーナー制度パクチー銀行新本店にて、パクチー・オーナー制度を開始します。敷地内に専用プランターを配置します。オーナーは1契約につき1台を所有し、お好きなときに収穫が可能です(年4回程度採れます)。播種する種は、パクチー銀行が融資しますし、プランターで採れた種を他のオーナーや全国のパクチー好きに届けることもできます。また、パクチー・オーナーはコミュニティ農園の共同管理者となり、また、パクチーハウス鋸南をいつでも開催できる権利を持ちます。インスタレーション(パブリックアート)SOTOCHIKUを提唱する株式会社グリッドフレームとのコラボで、パクチー銀行の内外装は常に変化していきます。季節ごとに鋸山を登るために保田駅を降りたら、いつも違う外観が見られるかも。パクチーの種を配る活動を一種のアートとして行い始めてもうすぐ15年。パクチー銀行はリアル店舗を持つことで、コンセプトから誰もが見て楽しめるパブリックアートに移行します。SOTOCHIKU & 89 unLtd.パクチー銀行の店舗の名称は「SOTOCHIKU & 89 unLtd.」です。Google mapsなどではこの名が表示されます。パクチー銀行を目指してもらうというより、保田駅を降りたらパクチー銀行に出逢うという仕様です。地図: https://goo.gl/maps/3XFaMNKUTfFRvC9w8その他、鋸山縦走センターやイベントスペースとしての機能や、エアルポルトと2箇所でキッチンカーを並べてお祭りするとか、衝動買いしたキッチンカーを使ってもう1つ店舗が作れるとか色々ありすぎるんですが、またよく分からなくなりそうなので、今日は割愛しますwクラウドファンディングでできるだけ分かりやすく書いたつもりですが、5589文字もあり、応援してくれた人でも読み切っていないという衝撃の事実があったので、パクチー銀行の機能のみをまとめてみました。