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「紙の」雑誌を新しくつくり、ゆっくり考える場を取り戻したい。(宇野常寛責任編集)

現在の支援総額

7,579,881

505%

目標金額は1,500,000円

支援者数

1,129

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2021/07/12に募集を開始し、 1,129人の支援により 7,579,881円の資金を集め、 2021/08/20に募集を終了しました

エンタメ領域特化型クラファン

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「紙の」雑誌を新しくつくり、ゆっくり考える場を取り戻したい。(宇野常寛責任編集)

現在の支援総額

7,579,881

505%達成

終了

目標金額1,500,000

支援者数1,129

このプロジェクトは、2021/07/12に募集を開始し、 1,129人の支援により 7,579,881円の資金を集め、 2021/08/20に募集を終了しました

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宇野です。クラウドファンディング、500万円の「壁」が見えてきました。創刊号、とにかく手間と資金がかかるのでものすごく助かっています……。引き続き、よろしくお願いします。さて、今日は都市特集の最後に載る「飲まない東京」プロジェクトという妄想企画について紹介します。最初に断ってきますが、僕は国の飲食店を生贄として差し出すような一連の政策には前提として反対ですし、そしてお酒の文化にも敬意を払っています。ただ、今の日本だと大人の遊び≒お酒を飲むという構図が強固に存在していて、それは僕みたいな「飲まない」人間にはちょっと窮屈です。そして、大人の「遊び」が「飲み」前提から解放されると、もっと多様な街の楽しみ方がみつかるはずで、それを提案できたらいいな、と思ってこの企画を考えました。陰湿な昭和の「飲みにケーション」を雑談の場として創造性を育むと擁護する人もいるけれど、僕は同調圧力による画一化の弊害のほうが大きいことは明らかだと思います。実際に僕が10年くらい前にかかわっていた、批評とか思想とかの「論壇」周りでは業界のボスが取り巻きを連れて飲み歩き、常に取り巻きがボスに忖度してボスの嫌いな人の悪口を言ってご機嫌をとって結束を固めるという陰湿極まりない「飲み会」文化が定着していて、それがものすごく人間の思考を硬直化していっているな、というのを僕は肌で感じていました(そしてウンザリして距離を置きました)。この企画はそんな「まるでSNSのような」コミュニケーションから街を解放するというのが裏テーマでもあります。さて、この「飲まない東京」プロジェクトは僕のコミュニティ「PLANETS CLUB」内から立ち上がった企画です。月に一度、Zoomで集まって、オリジナルのノンアル飲料の開発や、「お酒を飲まない人」でも夜の街を楽しめる施設をどうつくるか、という議論をしていて、その成果を下敷きにこの特集内特集はできています。ノンアルコール飲料の開発業者への取材、「飲まない」人たちが集まってワイワイと夢の「飲まない」施設の構想を練る座談会、そしてCLUBの中で話し合われている「飲まない東京カフェ(仮)」の素案についての発表……などてんこ盛りです。僕としては「飲まない」という視点を持つことで、いま、日本の中心にいるマジョリティとは異なる生き物の視点から街を観ると、いままで気づかなかった楽しみ方がたくさん見えてくる……そんなページにできたらいいなと思っています。「飲む」人が読んでも、「飲まない」人が読んでも面白いはずなので、よろしくお願いします!紙の雑誌『モノノメ』創刊を目指したクラウドファンディング終了まであと8日。支援はこちらから


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宇野です。クラウドファンディングの終了まで、あと9日になりました。想像の何倍もの反響と支援があって、驚いています。ちょっとだけ、ぶっちゃけ話をすると今回はコロナ禍の影響か、一見地味な内容に見える(分かりやすくインフルエンサーや権威のある人が並んでいない)からか、広告がさっぱりで、このクラウドファンディングがなければかなり厳しいことになっていました。本当に、感謝しています。さて、今日はこの「都市」特集の目玉企画の一つ、松田法子さんの論考を紹介します。松田さんは京都府立大学の都市史、建築史を専門にしている研究者で、『ブラタモリ』などへの出演でも知られています。僕らとのかかわりは「遅いインターネット」のウェブマガジンで上妻世海さんとの対談がきっかけで、僕はこの対談の原稿を最初に読んでから、次の紙の本は絶対にこの人に依頼しよう、とずっと思っていました。京都の松田さんと何度かZoomで打ち合わせをして、松田さんが選んだテーマは「東京」です。松田さんは、6月に5日間に及び東京を歩きました(最終日は僕たちも合流しています)。そして東京の「湧水」をその足で巡りました。湧水は台地と低地の間に表れます。そしてそこは人間の居住地と生産地(漁場や水田)との境界線にある。この湧水をめぐることで、いまは東京と呼ばれているこの土地を人間がどう利用してきたかを浮かび上がらせます。そして、そこから、現在の鉄道網を中心とした東京の構造を重ね合わせます。そして、二枚の地図が重ね合わされることで、この東京という街の特徴、いびつさ、そして課題が意外な側面から現れてくる。そんな、スリリングな論考です。ページ数もたっぷり撮って、贅沢に図版も載せました。早く松田さんの描き出す世界のもたらす知的な興奮を、読者に共有してほしい……そう思いながら、編集作業を進めています。この雑誌では、こうやって専門領域でいい仕事をしている人が、ちょっとそこから離れて分野をまたがる横断的な仕事をしてもらい、そして新しい読者に出会い、そして新しい視点を持ち帰ってもらう。そんな回路になればいいなと思っています。あとふた息くらいで完成です。応援、よろしくお願いします!紙の雑誌『モノノメ』のクラファン終了まであと9日です。支援はこちらから!


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宇野です。新雑誌「モノノメ」は編集作業もクラウドファンディングもいよいよ大詰めになってきました。そしてこのタイミングで、一度「ほぼ完成」の表紙を公開します。なぜ「ほぼ」なのかというと……これはデザインとしては「完成」なのですが、いま使用する表紙用の紙や印刷に最適になるように、藤原印刷さんの方で画像データを調整してもらっています。なので、「ほぼ完成」です。デジタルデータでどこまで違いが出るかはわかりませんが本当に「完成」したらまた改めて公開します。と、いうことで「ほぼ完成」表紙をお披露目します。仮表紙のレイアウトをほぼ踏襲していますがこの海……どこの海か気づいた人はいるでしょうか?そう、これは気仙沼市の大島にある小田の浜(こだのはま)のビーチです。ここは透明度が高くて、地元では有名なビーチなのですが2011年と2020年はそれぞれ、東日本大震災とコロナ禍で閉鎖されました。夏の終わりに出ることは分かっていたので、創刊号の表紙は海の写真にしようというのは最初から決めていました。そしてもっと言えば東北への取材の中でそれを撮ってこよう、というのも同時に考えていました。取材の中で、どのようなエピソードに出会ってもその土地にうつくしいものがあれば、それを正面から撮ろう、というコンセプトです。そして僕が選んだのがこの小田の浜でした。ここは本当に日本とは思えないくらい澄んだエメラルドグリーンの海が見える場所で、足を踏み入れた瞬間に表紙はここしかないと確信したのを覚えています。(そして、一生懸命打ち上げられた海藻を拾って、写真を撮りました。)さて、こうやって『モノノメ』創刊号は表紙写真の質感の調整をするような段階まで進行し、いよいよゴールも見えてきました。いや、まだ○○○の原稿が上がっていないとか、ページ数の確定していない記事があるとか、クラウドファンディングは順調だけれど、広告がさっぱり取れなくて資金が……とか、いろいろ問題はあるのだけれど、とりあえず完成が見えてきた、と僕は思っています。そして僕と編集部のスタッフはこれから校了まで、ただひたすら突っ走るしかないのですが……編集長の僕はもうひとつ、別のことを考え始めています。それは「次号」のことです。この「モノノメ」は定期刊行を予定しています。そのためにはお金のかかる創刊号をきっちり黒字にしないと行けない。そして、次の号からもしっかり「やりたいことをやって、採算を合わせる」方法を考えないといけない。そのための仕組みづくりもはじめないといけないのだけれど、それ以上に「次の号」つまり、「モノノメ #2」の内容が勝負だと思っています。僕の試みへの応援として創刊号を読んでくれた人が、次号を読んでくれるかどうかはまず「創刊号」が面白いことが大大大前提なのだけど、同じくらい「#2」が「面白そう」であることが大事だと思っています。つまり、「この雑誌を定点観測しておきたい」と思ってもらわないと続けられない。そしてこの雑誌を「4ヶ月から半年のサイクルで回す」のだとすると、もう次号の企画は考え始めないといけない。僕はそう思って、作業の合間にいろいろ考えています。次の特集は「身体」にしたいとか、創刊号の取材を通して見聞きしたもの、たとえば地方創生の問題とか、食の話とかを掘り下げていきたい、とか次はあの人に短編小説を書いてもらおうだとか、思い切って知り合いが手がけているあの翻訳を解説付きで載せようだとか、まだ妄想のレベルですが、いろいろ考えています。もしかしたらそれは、膨大な作業を前にしたただの現実逃避なのかもしれないけれど……前向きな現実逃避なので、許してください。 紙の雑誌『モノノメ』創刊に向けたクラウドファンディングは8月20日までです。支援はこちらから。


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宇野です。気がつけばこのクラウドファンディングもあと11日です。昨日、300%(450万円)を達成しました。創刊号はとにかく手間と時間と費用がかかるので、本当に、本当に助かります。そしてたくさん支援が集まるほど、全力を出し切って少しでもいい本にしないといけない……というプレッシャーも感じています。やる気、もらっています!さて、今日は昨日ちょうど作業していた「都市」特集内の記事「虫の眼、鳥の眼、猫の目ーー人間「外」から都市を読む」について、書きたいと思います。これはタイトルだけ見たらよく分からないかもしれません。実はこの記事については7月16日の進捗報告で一度紹介しています。そう、僕が都内某所に「猫」を探しに行ったあの記事です。あのとき書いたように、この記事では人間「外」の生物の眼を借りることで、普段は気づかない都市(東京)の側面を浮かび上がらせるのがねらいです。いまSNSの浸透によって人間がどんどん「他の人間からの目」しか気にしなくなって、東千茅的に述べれば「同種間に閉じた」コミュニケーションしか取れなくなってしまっている。そして僕はそれをひどく窮屈だと感じている、という問題意識から出発した企画です。そして、この夏は都市の中に暮らす生き物たちをいくつかピックアップして、それらを探し出して、それぞれの生き物の目で都市を眺める、ということをやっていました。人間にとっては貧しいコンクリートジャングルがある生物にとっては酒池肉林のパラダイスになる。その逆に、一見緑と水の豊かな空間が、まったく生物多様性を欠いた空間になってしまっていたりする。人間「外」の生きのものの眼を借りることで、僕たちが住むこの東京の、意外な側面が次々と浮かび上がる。そんな記事です。これ、普通にやったらものすごく大変なのだけれど、僕にはちょっとした勝算がありました。近所に住んでいてとても親しくしている人がいて、その人は動植物にとても詳しくて、やたらと道端に生えている木や花に詳しく、そして僕のカブトムシ探しの師匠的な存在でもあったりします。ただ生物学者のたぐいかというとそんなことなくて、どちらかといえば都市論やメディア論の立場から、こうした動植物のことを考えてるーーまさにこの企画にうってつけの人です。東京工業大学の柳瀬博一さんーー僕はこの企画を思いついた瞬間に柳瀬さんに頼んで、この夏一緒に都内を蒸しと鳥を探して歩いてくれるようにお願いしました。そして、実際に僕らは柳瀬さんに連れられて都内を自転車で走り回っていたのだけど……とにかく柳瀬さんの話が面白い。『ダーウィンが来た』的な動植物そのものの解説も面白いのだけれど、それが東京の地層の成り立ちから、下水処理技術の発達史、カメラ雑誌の投稿欄の闇、そして戦後の都市開発にまつわる政治的なすったもんだまで縦横無尽に話題が展開していくので、まったく飽きません。言ってみればそれはまるで『ダーウィンが来た』と『ブラタモリ』の解説が有機的に絡まり合って、そこからテレビ的なヌルさを取り去って、社会時評的なエッジを加えたもので、当日の柳瀬さんの話のテープ起こしを読み返していても、これは本当に面白いなと仕事を忘れて読み込んでしまうくらいでした。紙幅の都合で、この柳瀬さんの膨大な話はほんの一部の、核になる部分しか載せられないのだけど、この記事はきっとこの雑誌の、少し、いやかなり変わった都市特集の精神的な支柱になってくれる。そう感じています。力の入った記事です。お楽しみに! 


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宇野です。今回、新しい雑誌をそれも定期刊行でやっていこうと考えたとき、真っ先に決めたことがあります。それは、Twitterの動員ゲームに積極的に参加している人は呼ばない、ということです。ある問題があったとき、問題を解決したり問題自体を問い直すことはせずに「この話題にYESかNOかどちらかに賭けたら得をするか」とか、「負けそうな方を冷笑するとプライドばかり高いコンプレックス層をうまく動員できる」とか、そんなことばかり考えているジャーナリストや言論人や批評家は絶対に寄り付かせない、ということです。そうではなくて、きちんと問題そのものにコミットしていてそれでいて、専門領域に閉じこもることなく横断的にその仕事を展開している人を積極的に呼ぶ。それを最初に決めました。そして最初に浮かんだのか、福嶋亮大さんでした。彼は僕がもっとも信頼する同世代の知性であり、そして、僕の知る限りもっとも誠実に「問題そのもの」に向き合っている人物です。彼とは古い友人ですが、数年前から「文学」の枠組みを問い直すようなものを書いてもらえないか、と話していました。福嶋さんのデビュー作『神話が考える』の延長で、小説という表現の現在の全体像と、その向かう先を現代の情報技術やインターネットによる「言葉」を用いたコミュニケーションに変化を前提に論じる……といったイメージを僕はもって打ち合わせていたのだけど、しばらくして送られてきた原稿は、僕の想像を大きく超える長い射程のあるものでした。噛み砕いでいうと、福嶋さんのこの文章は「小説」という人間が言葉(のみ)で物語を記述するという行為そのものを、まず「言葉」と「心」の関係を考え直すことで定義し直す、という試みからはじまります。要するに、人間の心の機能の特徴が生んだもの、たとえていうならプログラムのエラーが「小説」という行為を生んでしまい、特徴づけているのだと福嶋さんは主張します。そして、最後まで読むと分かるのだけれど、これも井庭さんの論考と同じように、大きな著作の序章的な位置づけになっています。つまり、福嶋さんはここで、小説という膨大な蓄積をもつ表現を語っていく上で、ひとつの基準となるものさしというか、原理論を作り直そうとしている。いわゆる文芸批評的な作品論にはあまり関心のない人、でもインターネットに吐き出された「言葉」の「心」への影響とか、そういったことに興味のある人なら、かなり面白く読める、というか衝撃を受けるはずです。今号でいちばん、読んでほしいページのひとつです。この巨大な構想に触れたときの興奮を、早く読者のみなさんにも味わってもらいたい……そんなことを考えながら、編集長の僕は見出し周りの表記に朱入れを指示しながら、この進捗報告を書いています。