それでは宮司による講演 『 浦嶋の歴史と物語 』主催 伊根町文化協会 後半編スタートです。後半編は浦嶋子伝記に描かれた絵巻の部分にスポットを当て、そこを拡大したスライドを見ながら、当時の文化や風習を検証していきます。先ずは浦嶋子が住んでいた風景にスポットを当てたスライド。松が生える海岸の向こうには、嶋子が漁をする海が見えます。そして今も現存する雲龍山・布引の滝が既に描かれています。物語は既に始まっています。浦嶋子は漁に出るため浜に出ました。嶋子の姿を拡大して見てみます。宮司の解説によると色の付いた服を着て履物を履いている事から高貴な人物であったと予測される、と。そして船に乗り込み釣りに出かけます。細かい所まで描写してあります。特に波なんか細かく描かれていると。当時と今の地形はかなり変わっているでしょうが、日本海ですからそんなに波は当時から穏やかでは無かったかな?そんな事が理由かどうかわかりませんが、描かれた波を見る限り、今も昔も伊根湾のように穏やかな海では無かったと予測されます。しばらくして浦嶋子は五色の亀を釣り上げます。釣り上げた珍しい亀を見ている内に浦嶋子は眠ってしまい、目を覚ますと。亀の姿はなく、そこには一人の女性がいます。彼女は名を乙姫(亀姫)と言い、以前からお慕いしていました。私と一緒に、私の国で一緒に暮らしましょうと浦嶋子を誘います。そして船で乙姫の住む常世の国へと向かいます。行く途中に当時の海岸での風景が描かれています。岩場に居る釣り人と飛び交う鵜。宮司の説明では、鵜は神の使いと信じられていた。また、黄泉の国に誘う鳥とも言われていた等、諸説あるようです。こちらは海で洗濯している漁師の夫婦でしょうか?講演内容の記憶が段々と曖昧になってきてすいません。そうしている内に乙姫の住む国に着きます。浜に船が描かれている意味は、船でないと行けない国を強調しているのかもしれないとのこと。そして砂浜の向こうを常世の国として描いているのでは?との事です。常世の浜に船を着けた状況が描かれ、そしてここでも飛んでいる鵜が描かれています。そしていよいよ乙姫の屋敷に案内されます。家の者に連れて来たことを伝えて来ますのでこちらでお待ち下さいと言われて待つ浦嶋子。そしていよいよ屋敷の中へ案内されていきます。屋敷の描写から見てもかなり位の高い高貴な人物が住む屋敷と思われます。そして両親に紹介され2人は結婚することに。結婚する時の正装が描かれています。2人がいる場所はタカミヤグラ(高見櫓?)と言われている場所だそうです。そして不老不死の様々な薬を飲みながら修行もしている描写だそうです。中には葡萄酒もその中の一つにあったそうです。不老不死の薬と言えば、同じ町内の新井崎神社は不老不死を求めて渡来して来た徐福を祀る新井崎神社があります。また、屋敷の中での暮らしは優雅で時には楽団による演奏(雅楽や能)もあったのではと。確かに現在も使われる楽器が細かく描かれています。そうこうしている内に浦嶋子は両親をはじめ家の者に何も伝える事なく、長らくここに居たので一度帰りたいと申し出ます。引き留められましたが、浦嶋子の固い決心に根負けした乙姫(亀姫)は、私を忘れないようにこの玉手箱を持っていってと渡します。でも向こうでは絶対に開けないでくださいと言います。この辺りの話は現代の浦嶋太郎の話とよく似ていますね。そうして玉手箱を持って浦嶋子は故郷に帰ります。景色の変わりように戸惑いながら浦嶋子は川で洗濯している老婆に尋ねます。この辺りに浦嶋子という者の家があったと思うのだがと。聞かれた老婆は、確か300年程前の言い伝えで、浦嶋子という方が海に出たまま帰ってこなかった話を聞いたことがあると伝える。そして屋敷があったと言われている場所に向かうとそこには一本の杉が生えていました。まさかあれから300年の月日が流れていたとは信じられない。途方に暮れた浦嶋子は生家を失った悲しみと乙姫を想う寂しさから、こちらで開けてはならないと言われた玉手箱を開けてしまいます。すると中から白煙が立ち登り、乙姫のいる常世の国に誘うかのように白煙が流れていく。それを追って行く浦嶋子はみるみる内に白髪の老人となり、遂には生家のあった一本杉の元で亡くなった。話を聞いた住民達はそこに浦嶋子を祀る事にします。拡大して見ると横には酒甕が置いてありますね。こうして布引の滝の麓にあった一本杉の所に浦嶋神社が出来、創祀されるようになったと聞きます。当然、そこが浦嶋子の生家であったと言い伝えられています。以下の描写は神社で行われた祭りの様子が随所に描かれています。以上はお祭りをしている人達の描写です。お祭りを見ている人も絵巻の中に描かれています。お祭りを見に来た人達も描かれています。神社では当時の力士が呼ばれたり、中では実際に相撲を取ったりしています。現在80代後半の方々が小学生の時もよく神社内にあった土俵でよく相撲をした思い出があるとおっしゃっていました。また、流鏑馬等も行われていたようです。実際に現在の神社の近くには馬場先等の大字名が多くある事から、当時はかなり大きく有名な神社だった事がうかがえます。絵巻には祭りを見に来る高貴な来客の様子も描かれていますね。↑ 丹後国、浦嶋大明神みたいな事が書かれていますね。かなり高貴な方が見に来ていたと推測されます。後半は長くなるのと、記憶が曖昧になって来たのでかなり端折った説明になりました。宮司の絵巻き解説も、実際に神社に来社された折に生でお聴き頂ければ、当時の世界にタイムスリップした気分になれるかと思います。その際には、これを見て少し予備知識を入れておけば、更に奥深い絵解きが体験できるかな?と思います。絵解きの醍醐味は宮司への質問や、歴史談話のやりとりもかなり奥深い楽しみ方となります。(かなり上級編となりますが。)以上、長くなりましたが後半編の活動報告に代えさせて頂きます。最後までお付き合いくださりありがとうございました。
本日は伊根町文化協会主催の『 浦嶋の歴史と物語 』を演目とした宮司による講演会に参加。前半は主に配布資料に沿って歴史概要の説明。浦嶋伝説の変遷を年表にした資料日本書紀にも記述されている浦嶋子伝記は最後に詳細は丹後風土記を見て!と書いてあります。要は詳細は丹後国風土記の浦嶋子伝記に詳細があるよ!って事なんでしょう。その丹後国風土記をまとめたのが当時の鎌倉幕府下の名古屋から派遣されたお偉い人。赤染右ェ門という人物で禰宜という役職で当時は重職。この方、武士でありながら有力、有能な政治家の一面も持っておられたそうです。確かに風土記資料の冒頭をよく見ると与謝の郡、日置の里、筒川の村あり。筒川の嶋子、水江の浦嶋子という記述がある。現在もその地名が残る伊根町の浦嶋神社が、全国数ある浦嶋伝説の発祥の地と言われる所以はここにある。前回の報告で挙げた日本最古の浦嶋口伝記なる物は、丹後国風土記の逸文を書写した物で、専門チームにより日本最古の浦嶋口伝記の可能性大と鑑定されています。浦嶋伝記の絵巻はこの丹後国風土記逸文を基に描かれた物です。宮司が行う浦嶋絵解きとは、簡単に言うとこの丹後国風土記逸文に書かれている浦嶋子のお話の場面を絵巻きを使いながら説明している物です。簡単に言うなら、「 じゃあ、アンタやってみ!」て言われて出来る代物でもありません。目下、猛勉勉中でございます。ここで約7分間の休憩を挟み、前半は終了します。後半は絵巻きに描かれた部分をクローズアップしたスライドを見ながら、当時の文化や時代背景を検証していきます。
報告か遅れましたが、11/17(水)に郷土の歴史と文化を守る会の会員3名で京都府庁の文化財保護課に行って来ました。会員でもあるこの3名は浦嶋神社奉賛会の会長、庶務、会計の三役でもある事からこの3名で行って来ました。訪問した目的は、過日認定して頂いた補助事業、『地域交響プロジェクト』に関しての件です。この事業で現在制作中の浦嶋絵巻の絵解きDVD制作事業と並行し、年明けに「浦嶋絵巻の絵解き」をテーマにした講演会開催を計画に挙げています。この講演内容や講演者の相談、依頼をお願いし、より充実した事業にする為の教示を受けて来ました。我々この事業を進めていく会にとって、浦嶋絵巻の絵解きを通し、地域の歴史と文化への更なる理解を深め、神社や地域に現存する文化財の存在とそれを保護する重要性を地域住民で共有、継承していく事は使命でもあると考えています。それらは大切な地域資源でもあり、海の京都にとっても伊根町にとっても今後活用し得る大切な観光資源でもあります。これらを継承、活用して行く事で地域、町の存続、活性化に繋がればと考えています。今回、我々の訪問に対応して頂いた吉野氏は以前、宮津市にある丹後郷土資料館にも赴任されていました。赴任中は何かとお世話になり、浦嶋神社が所有する文化財の鑑定、保護に関してもこれまで指導、提言等も頂いており、今回も大変お世話になりました。対応して頂いたお話の中で現在、神社が所有する『浦嶋口伝記』の重要性についても意見交換させて頂きました。『浦嶋口伝記』を分かりやすく説明すると、日本人の多くが見聞きしたことのある浦島太郎の物語、昔から口伝されていたこの浦島太郎の元となる話を文字に起こし紙に記した原文です。昔から口伝されていた浦嶋子の話を、昔の人達も継承して行く為に、今から数百年前に文字にして紙に記録し保存されていた物です。専門家の方々に鑑定して頂いた結果、おそらく現存する浦嶋伝説の口伝記としては、日本最古の物である可能性大という鑑定結果が出ている物です。これだけ重要な物が今まで発見もされず、鑑定もされず、蔵の中?箱の中?で眠っていた為、経年劣化も激しいとのことでした。当然、文化財保護の観点から大至急、修繕の必要があります。しかし修繕にはおそらく2〜3年の期間と数百万円の修繕費が必要と予測されています。幸いな事は、現時点で既に重要な文化財としての鑑定も修繕の必要性も鑑定済という点です。そして修繕に向けた準備も鑑定によって整っている事です。なにわともあれ早期に京都府の文化財指定を受け、その後財団による文化財保護の支援事業等に申請し、認定されれば費用面の自己負担率も軽減されます。また、早期の修繕によって経年劣化による原文の損傷を防止出来ます。我々、浦嶋神社の氏子衆としても、神社と浦嶋伝説の継承を担う団体としても、一刻も早くこの件について前に進めて行く必要があると強く感じました。修繕に3年の月日を要したとしても、令和7年に予定している浦嶋神社創祀1200年祭と、京都への文化庁移転の節目に間に合うと予測しています。そうなれば発見された現存する日本最古の浦嶋口伝記の修繕が、この大きな節目を迎える同時期に揚がって来れば、これほどおめでたい事はないと考えます。1200年創祀と文化庁移転、浦嶋口伝記の補修完了は、京都府にとっても、海の京都である丹後にとっても、伊根町にとっても、めでたいビッグニュースとなり格好の観光都市としてのPR材料にもなると予測します。今回の文化財保護課への訪問は、とにかく前を向いて突き進んでいった結果の御利益とも感じた訪問でした。これを機に改めて皆様の今後の御指導御鞭撻を切にお願いし、今回の活動報告とさせて頂きます。
長年、外宮から浦嶋神社を見守って来た二本の松。近年の流行り病を患い定期的に樹医にも診て貰い、延命を計っていました。しかし病気により上部から枯れ始めた事に加え、度重なる台風による暴風暴雨、と冬季の降雪により弱い箇所から枯れ折れた枝等が下に落下し始めました。このままでは、参拝に来られた方に危険が及ぶと判断し、危険な箇所から伐採をする対応を段階的にしていました。しかしながら、近年になりいよいよ伐採やむなしと判断し森林組合さんにお願いし、伐採する事となりました。プロの職人さんは流石です。命綱一本で木に登り、上から順番に切っていきます。近くで切り口を見てみると圧巻の年輪です。一本、一本の年輪を数えてみようと試みましたが、時間の都合上、20秒で諦めました。宮司との話の中で、「年輪の幅が広い年ほど暖かい年らしい」という話を聞きました。確かによく見ると所々、年輪の幅が広い箇所がありました。この話をしていて思い出した事があります。石化した数万年前の木が化石で発見されると、それは古代の気象を解読する貴重なサンプルであると何かで見聞きした事を思い出しました。さて伐採された松はこの後どうなるのでしょう?今後、神社の修理、改修箇所の材料として使うのか?それとも森林組合さんを介して売却することが出来るのか?府民税を活用した事業で伐採をして頂いた事もあり、何らかの制約があるのかは未確認ですが、この後の処置や対応は現時点では不明です。ただ奉賛会の立場からすれば売却処分が可能ならば、少しでも本殿改修の足しにしておきたい所です。切株の所も見せてもらいましたが、やはり大きく感慨深いものを感じました。今日は、浦嶋神社外宮にあった老木の松の木伐採のお話を活動報告とさせて頂きました。
11/10(水) 動画撮影に同行浦嶋絵解き解説を次世代へ継承していく為に動画による保存を計画し、今回その撮影の一回目に同行しました。この事業は『 郷土の歴史と文化を守る会 』が主体の事業ですが、奉賛会のメンバーも多く在籍しています。また、このプロジェクトのリターンであるイベント体験の一つにも大きく関わる事なので同行しました。当日は撮影日和の快晴。先ずはドローンによる神社全景の撮影から始まりました。ちなみにこの日は京都新聞さんも取材に来てくれました。宝物館にて宮司による浦嶋絵解き解説を午前中いっぱい使い撮影。午後からは浦嶋史跡巡りの撮影に案内役として、撮影隊の皆さんと共に、いざ!出陣!先ずは浦嶋太郎が漁をしていた常世の浜(本庄浜 ) に向かって出発。〈龍穴〉この⿓⽳には、「⿓宮に通ずる⽳」「浦嶋⼦が⿓宮より帰郷した⽳」「浦嶋⼦が⿓宮より帰郷時に休息した場」など、様々な説話が残っていて、過去には様々なTV番組もロケに来ている場所。この⽳に⽩い⽝を放ったところ、この地の北東、海岸に⾯した隠れ⾥の⾵⽳に出たとの伝承があります。〈大太郎( 垂乳根) 神社〉⼤太郎嶋神社は垂乳根神社とも呼ばれ浦嶋⼦の両親が祀られています。浦嶋⼦の⽗であるこの浦島太郎は、曽布⾕次郎、今⽥三郎の兄になります。【若宮神社】この若宮神社は少し時代背景が浦嶋子と異なります。祭神の三野対馬守郎女命は、三野対馬守(? -1623)の妻であり、三野対馬守が亡くなった承応2年の2年後、寛永2年(1625)に亡くなっています。三野対馬守は藤原太郎忠勝とも称し、室町時代には丹後守護一色氏の配下で本庄城(水之江城)の城主を務めていました。元亀4年(1573)には退城、民間に下り本庄浜の名家平松家の祖となっています。この平松家の末裔には、戦前に爆発的な大ヒットとなった『東京音頭』(昭和9年/1933)を歌った三嶋一聲(本名:三野哲太郎)を輩出しています。ヤクルトスワローズのファンは勿論、皆が知っている東京音頭を歌っていた歌手として当時の大スターの一人だったんでしょうね。この方の人生は波乱万丈で本にもなっていますね。晩年は生家のあった本庄浜で余生を送られました。白髪に白髭を蓄えられ、長い間郷土を離れていた事から当時、現代の浦嶋太郎と揶揄される事もあったようです。神社境外にも三嶋一声氏の石碑があります。話が少し脱線しましたが、三野一族は、代々浦嶋子を守護し、浦嶋神社にも大きく貢献し、神事にも携わってきた地元では名家の一族。長らく氏子総代も代々務めていました。【曽布谷次郎屋敷跡】現在の屋敷跡石碑のあるところから南に50mほど先の田圃の中に1本の杉の木があり、そこに屋敷跡が残されていました。が、昭和53年の圃場整備により、現在の山麓に移されました。また、石碑の隣にある陰陽石は、子宝の神として昔より現在に至るまで地域から厚い信仰があります。【今田三郎屋敷跡】本庄上今田地区の土地の人達によって今田三郎の屋敷跡はこの地であったと古くから語り継がれています。この今田三郎は、この地の上にある今田三柱神社に祀られています。【白鷺鼻】元禄9年(1696)の浦嶋子口伝記に「浦嶋子仙人のように身軽く、天に昇り飛ぶ鳥のようで、ある時は泳ぎも魚の如く泳ぎまわり、雲龍山より流れ落ちる布引滝、高さ七十有余丈を鯉に乗りて上がり下がりをし、小舟に乗りて白鷺埼の沖合いで魚釣りを楽しむ」と記されています。現在この地は海から約2.5km離れた所にあるか、この碑周辺は海に関係する地名が数多く残っている事から、当時はこの碑周辺は海だったと予測されています。〈雲龍山・布引の滝・滝山〉浦嶋⼦の亭跡が滝の下にあったと『丹後奮事記』『丹哥府志』に記されており、最初に嶋⼦が筒川⼤明神として祀られた場所としても可能性が指摘されています。標⾼357mの雲⿓⼭(滝⼭)から流れ出る布引の滝。浦嶋伝承に「帰郷した嶋⼦が⽟櫛笥を開け、⽴ち上る⽩雲が棚引き、この滝になった」とあります。落差96mで全⻑131mと、京都府内で最も⼤きな滝であり、京都の⾃然200選にも選定されています。以上、長文となりましたが今回の活動報告とします。