【クラファン15日目〜!】支援者79人!目標額の84%まで来ました!毎日確実に伸びているのが、有難いです!引き続き、ご支援とシェアをお願いします〜!こんにちは、はるおです。先日に続き、京極湯の近くで日本料理店「おさらぎ」を営む細間さんのインタビューの後半をお届けします。豊岡市内で子ども時代を過ごした彼の京極湯の思い出。水の出るライオン型の蛇口の隙間からドキドキしながら女湯を覗いていた細間少年と、お友だち。それよりもいい女湯の覗き方があると気づいてしまったらしく・・・?ぜひ、他のエピソードも併せて続きも楽しんでご覧くださいね。いかがでしたでしょうか?細間さんの子どもの頃のやんちゃなエピソード、多様な人々が日常的に一緒にお風呂に入っていた風景、そして銭湯に付随する当時の大衆の娯楽文化などが垣間見える、とても楽しいインタビューでした。ただ、このように京極湯に昔から通っていた方、思い出を語ることができる方は、これから少しずつ減っていってしまうということもまた現実です。少し寂しい気持ちではありますが、今回のようにお話を伺いそれを記録していく営みの大切さを実感する機会にもなりました。もし「私も京極湯の思い出を話してもいいよ」という方がいらっしゃいましたらぜひ、bozzoさんかはるおまでご連絡ください!細間さん、ありがとうございました!はるお(佐藤春華)
【クラファン15日目〜!】支援者79人!目標額の84%まで来ました!毎日確実に伸びているのが、有難いです!引き続き、ご支援とシェアをお願いします〜!昨日は16時35分から地元コミュニティラジオ局FMジャングルで『京極湯』について、はるおと二人で話してきました。(収録は日曜日)マイクの前で話すことで、そして聴き返すことで、飛び出してくる言葉から…「自分はこう思っていたんだぁ」と客体化できるのが、ラジオの面白いところ。そもそもなぜ銭湯が好きか?そんな自問自答も生まれてきます。京都烏丸『錦湯』ボクが大学を出たのは1991年、バブル絶頂期。広告代理店「電通」直轄の広告写真家のアシスタントに付くのですが、その時に借りていた高円寺のアパートが風呂なしで、「夜中にトイレでぼくは、きみに話しかけられていた」その経験が、ボクを銭湯好きにさせるのだけど、銭湯の良さって、「ハダカの付き合い」に尽きると思うのです。「公衆浴場などではなく自宅で入浴するようになったことは、人々の自身の身体への意識、羞恥心、身体への経年変化への感受性も大きく変えたと考えられる。簡単に言えば、自らの身体の変化のみに意識が集中し、老いは誰の身にも必ず訪れるものであることを受け入れにくくなったと言えよう。他者の身体を実際に見る機会が少なくなり、老若男女、体型や身体がさまざまあることも徐々に実感ではなく、観念的にとらえるようになった。」(山本芳美著『イレズミと日本人』より)日暮里『帝国湯』安普請の風呂なしアパートで、帰れないこともしょっちゅうだった底辺の生活。それでもなんとか銭湯の時間に間に合うと、さまざまな人がハダカでその日の疲れを癒やしている。要町『山の湯』手足の一部が欠けた人や、背中に大きな画を掲げた人。太った人や痩せた人、痣や斑点や手術痕が目立つ人。実にさまざまなカラダを、都度ながめるコトが、ボクにとっての癒やしになってました。ラジオでも話しましたが、「そのままでいいんだよ」…という全肯定が、昭和から引き継がれた時間の蓄積と、行き交う人々の「生き様」に溢れている。横須賀『当り湯』そんな人たちとの「共生」を体感できるのが、銭湯。城崎温泉では味わえません。「公共」を育む場、それが銭湯だと思います。他者の交流が希薄な現代こそ、必要な社交場であり、居場所だと思うのです。bozzo京都五番町遊廓跡『亀の湯』
【クラファン14日目〜!】こんにちは、はるおです。支援者77人!目標額の81%まで来ました!ありがとうございます〜!引き続きのご支援、シェア、何卒〜!先日、京極湯にほど近い豊岡市中央町にて日本料理店「おさらぎ」を営む細間さんにインタビューをしてきました。豊岡市内で幼少期を過ごした彼から、当時の京極湯の様子のみならず、豊岡にあった銭湯とそれにまつわる子どもたちの日常のことを聞きました。実際に子ども時代を経験した人からしか聞けないようなリアルで鮮明でちょっと笑えてしまうようなお話がたくさんあり、インタビューの最中にはbozzoさんと一緒に大笑いしてしまいました。盛りだくさんですが、ご覧ください。もはやここまででもとっても面白エピソードなのですが、細間さんからの話は止まりません。というわけで、後半に続きます!お楽しみに!
【クラファン13日目~!】竹野浜ビーチは、夏を満喫すべく京阪神からどっとクルマがやってきてます!暑い夏をいかがお過ごしですか?bozzoです。今日の京極湯エピソードは、CAT…芸術文化観光専門職大学の3回生、まりりんこと、押川真里佳さんから。広島は呉の出身で、お姉さんが京都に居るとかで、よく京都の銭湯に足を運んでいたそうです。大学では、記憶をアーカイブする…というテーマで東日本大震災のその後をリサーチすべく、今度気仙沼に行く予定だとか。東日本大震災直後の陸前高田市観光の目線とは少し角度を変えてこれからの地方の在り方を考える。だから、ムラツムギの指針にとても共感するものがあると、彼女。豊岡市は「豊岡稽古堂」や「出石永楽館」、出石の城下町や竹野の焼板のまちなみなど、古き佳きものが共存しているところ。今後のまりりんの活躍に、期待しちゃいます~!bozzo
【クラファン12日目】皆さん、このページをご覧いただきありがとうございます。はるおです。ご支援いただいた皆さん、本当にありがとうございます。まちでも「クラファン、応援してるよ!」と声をかけてくださる方もたくさんおり、とても心強く嬉しい毎日です。今日は、私が京極湯の現在の持ち主の福井さんにお話を聞いたときのエピソードについてお話ししようと思います。今回の制作のために、私は何度も福井さんの生家であり、住む家であり、生涯仕事をしてきた京極湯に足を運びました。京極湯初代店主、福井徳次郎さんとマサさん。右端は福井さんの父、忠義さん。京極湯の歴史を話してくださる福井さんはいつも、苦しかったことや楽しかったことをとても表情豊かに話してくださり、単なる過去の事実を聴取するだけではないとても貴重な時間を過ごさせてもらったと思っています。父、忠義さん。福井さんの思いだけにとどまらず、「あの時母さんがこう言っていた」「父はこう思っていたんじゃないか」「あのお客さんは…」と、京極湯に関わるさまざまな人の顔を思い浮かべるようにしてお話をしてくださった福井さん。母、タツヱさん。私は京極湯が営業している頃の時代を知りません。京極湯に入ったこともありません。けれども、福井さんにお話を聞く中で、歴史が重なった銭湯の建物を見ることで、この地に京極湯という銭湯がたしかにあったこと、そしてこの銭湯をめぐって、様々なドラマがあったことをしみじみと感じました。福井さん、6歳の頃。人間は必ず命に終わりを迎えますし、建物や形のあるものはいつか壊れてしまいます。ただ、そのたくさんの歴史の上に私たちが今生きているのだと想起する手がかりを作ることが、歴史の中の様々なドラマと出会う機会が未来に残されるような取り組みが、今回の家史づくりでかなえられたらなと思っています。2階で家庭教師をしていた頃の福井さん。何よりも、目の前にいるbozzoさんや私にうれしそうに京極湯の歴史のお話をしてくださった福井さんの表情が、この家史のもつ力を信じさせてくれるものだなと思いました。京極湯で生まれ育ち、銭湯業を続けていく中で、ご子息を持たなかった福井さん。今回家史が出来るということは、福井さんだけにとどまらず福井さんのご先祖の皆さんの思いが絶えず紡がれること。 このような取り組みが形になることは、きっとこれからの色々な人の希望になる、そう信じています。 引き続き、なにとぞご協力よろしくお願い致します。はるお(佐藤春華)