みなさんこんにちは!Legacy3.11実行委員会の柳澤です。8日の出国報告から、あっという間に10日が経ってしまいました。報告が遅くなってしまったこと、心からお詫びいたします。この怒涛ともいえる10日間のあいだに、設営ならびにオープニングパーティーの準備など、メンバー全員で全力で取り組み、なんとか開催することができました。ようやく少しだけ時間が取れるようになったので、今日は到着から設営の様子をお送りします。私たちは9月9日無事にミラノに到着、翌日10日は会場視察および資材の買い出しを行い、11日から本格的に設営を開始しました。まずは到着済みの荷物で最も大きい10m×10mのプロジェクトFUKUSHIMAの大風呂敷2枚を、会場の中心に敷きつめ、さらに上から吊るす作業。 台となる木枠を組むのが最大の課題でしたが、奇跡的に会場の備品で大きな屏風が見つかり、それを回避することができました。そのほか、会場に壁の代わりに置く大きな箱の組み立て、配置や、映画上映の部屋のプロジェクターのセッティングなど、あさ9時から閉館時間の19:30まで、メンバー全員が全力で設営に取り組んだすえ、12日の段階で、大風呂敷は無事設置、その他の作品もほぼ設営できる環境が整いました。全員が毎日ヘトヘトでしたが、資材の買い出し以外ででかける時間的・金銭的余裕はないため、敷地内にあるレジデンスに戻り連日みんなで自炊しました。幸いメンバー全員が料理好きだったため、連日大量に作るパスタは絶品。それをみんなでワイワイいいながら食べる様子は、まさに部活の合宿所そのもので、若き頃を思い出させてくれました。が、しかし!7日に日本から送り、10日到着予定だった肝心の展示作品が、空港の税関で税金の支払いを命じられ、停められたまま配達されてきません。開催まであと3日、メンバー全員が焦りを感じるなか、ついに13日に荷物が到着。残りの展示を一気に進め、オープン前日の15日は、夜9時まで残業し、ようやくお客さんを迎えられるようになり、本当にホッとしました。 これら設営のようすを撮ってくれたのは、自費でイタリア旅行の途中に寄ってくれた横浜の橋本さん、そしてこちらも自費で奥様と参加してくれた出展者の河野さん。本当にありがとうございました。 明日は16日のオープニングの様子をお伝えします。クラウドファンディングは2,462,900円。ようやく一つのベンチマークである30%を越えました。 残りは42日間、約550万円。ここからが正念場。引き続きの拡散やご支援を何卒よろしくお願いいたします。
みなさんおはようございます!実行委員会柳澤です。2年以上にわたり少しづつ少しずつ進めてきたLegacy3.11展、いよいよ明日9/9に、現地に向けてメンバーが出国します。昨日は平井・中村と私で、最終パッキングと輸送業者への持ち込みを完了しました。それぞれの私物を除き、約100キロの資材や作品を運ぶことになりました。汗だくになりながらの梱包です!約50キロ。細心の注意を払って異常なまでに頑丈に梱包。さらにこの二つは私物以外のハンドキャリー。この二つだけで30キロ以上あります。そこでようやく今日は、私たちの私物のパッキングです。1ヶ月ともなると、洗濯しながらのローテーションとなるため、そこそこの荷物になりそうです。なるべく予算を節約するため、全員の成田空港までのアクセスをどうするかなどを連日協議。私は神奈川の端っこから電車で行くことになりました。 とまあこんなバタバタのなか、フライヤーとポスター、メディアリリースもようやく完成!!現地での広報も本格的に開始することになりました。ポスター英語版フライヤーイタリア語版フライヤーそこでみなさんにお願いがあります。こちらに添付したポスター、そしてフライヤーをダウンロードいただき、SNSなどで大拡散してほしいのです。また、ミラノにお友達がいる方などがいれば、本展のお知らせに併せ、私たちにご紹介くだされば、なおさらありがたいです。幸いなことに会期が長いので、市内であれば期間中に私たちがシフトを組んで、ポスターやチラシをもってご挨拶にまわろうと思っています。 現地にはイタリア人のスタッフもおりますし、もちろん日本語での対応は可能なので、その他なんでも「こんなお手伝いできるよ!」とかあれば大歓迎です。到着後にお返事させていただきますので、不明点や質問などはいつでも info@nipponawakes.com 柳澤までメールをください。精神的にも肉体的にも大変ではありますが、これを読んでくださっているみなさんをはじめ、「神はいる」としか形容しようのない奇跡が続きここまで来れたことを心から感謝しています。そしていよいよ明日からが本当のスタート。クラウドファンディングは現在1,923,800円24%。残680万、53日です。ここからは全く私たちの知らない方々への拡散がキーになりますので、どうぞ引き続きご支援のほどお願いいたします。被災地への思い、みなさんの思いと共に精一杯やってきます。また、一緒にLegacy3.11展を作ってもらえたらと思っていますので、何卒よろしくお願いいたします。
Lagacy311実行委員の中村です。今日は、震災で被害に遭われた家族の姿とオモイを『ダキシメルオモイ 』シリーズとして麻布に描き続けている小林憲明さんを紹介します。小林さんは、ご自身のお子さんが生まれたことをきっかけに家族をテーマに描き始めました。そして東日本大震災後、『ダキシメルオモイ 』プロジェクトを始動します。震災でお子さんを亡くしたご家族や、原発事故による放射能からの避難でバラバラに暮らすことを余儀なくされた家族、避難先で受けた差別や偏見などの「人災」による家族の負荷。もう2度とそのような家族があってはならない、という想いで作品を描かれています。小林さんは直接足を運んで家族から話を聞く取材をとても大切にされていて、時にはモデルになる本人たちだけでなく、その両親や先祖までさかのぼって家族の歴史や人となりを知ることも。だから取材するだけでも膨大な時間がかかります。そうして様々な素材や想いを持ち帰り、アトリエで麻の布に家族の姿とオモイを可視化する作品を描いています。13年の間に取材した家族は500、作品になった家族は280を超えたそうですが、なんと目標は1000家族!!亡くなったお子さんの成長した姿を一緒に入れて描いて欲しいとか、普段離れ離れの家族が一緒にいる姿を描いて欲しいなど、家族の想いに寄り添い、取材をもとに丁寧に仕上げています。その貴重な作品を、この度Legacy3.11展に出展いただけることになりました。国内向けに掲載許可をいただいたモデルとなったご家族の「ダキシメルオモイ」(メッセージ)をどうぞご覧ください。宮城県名取市閖上で被災された丹野祐子さんからのダキシメルオモイこの絵のモデルを務めました丹野祐子(たんのゆうこ)と申します。 東日本大震災で13歳だった息子を失いました。 自宅も流されてしまい写真もビデオも思い出も全てが瓦礫に変わってしまいました。 この絵が唯一の『私に息子が居た証拠です』 世界中の方から沢山の応援をいただき町は綺麗になりました。 一度は被災地と呼ばれた場所で息子ともにこれからも生きてゆきます。 機会があれば是非 日本へお越くださいませ。 丹野さんは、閖上で語り部をされています。 閖上の記憶 https://tsunami-memorial.org/名取市では954人が犠牲になり、38人が行方不明となりました。中でも沿岸部の閖上地区は8.5mもの津波が押し寄せ、750人が犠牲になりました。 2000軒の家々・5000人が暮らしていた町が流されてしまいました。丹野さんは町中を探し回ったけれど、公太くんのへその緒も、鉛筆1本すら見つけることができなかったとのことです。語り部としての丹野さんの伝えたい思いは、仙台放送によるLINE NEWS向け「東日本大震災特集」https://news.line.me/detail/oa-sendaihoso/v09ic65xy1iv にて読むことができます。ぜひお読みください。丹野さんは、亡くなった公太くんが大好きだったジャンプをいつでも見れるようにと震災の翌週から欠かさず買っています。 かさ上げした閖上に新しく建てた新居の公太くんの部屋の本棚にジャンプが並んでいます。いつでも帰っておいで、という願いを込めて。そして、中村は、今回、丹野祐子さんからの願いを小林さんから託されています。それは、津波で流されて亡くなった公太くんとお母さんのこの作品を、ミラノの会場の外へ連れ出して屋外で写真を撮って欲しい、というものです。小林さんが、絵が完成してお母さんに持っていったときに、「中2の公太が行けなかったところに連れて行ってください」とお願いされたのだそうです。当時中学生だった公太くんは、13年経った今、すっかり成人しているはず。 あどけない笑顔の公太くんはどんな大人になったかな。そんなことを想像しながら、ミラノの風景の中に公太くんとお母さんの作品をお連れして写真を撮り、公太くんのお母さんにみていただきたいと思っています。鈴木かなみさんからのダキシメルオモイダキシメルオモイの絵の中で、ダキシメていないのは我が家くらいかも。3.11当時11歳と13歳だった息子たちは、生まれ故郷の福島県ではなく、考えてもいなかった北海道での母子避難生活で大人になりました。家族4人集まることがめったにない中、この絵は貴重な家族の証です。原発がなかったら、どんな人生を歩んでいたのかと辛くなることもありますが、この絵を描いてくださったオモイにダキシメられ励まされています。森松明希子さんからのダキシメルオモイ誰でも命の危険を感じたら逃げるでしょう?逃げることは基本的人権です。 被ばくを避ける権利も基本的人権です。 ❝誰の子どもも被ばくさせない❞ 私は地球上のすべての人に気づいて欲しいのです。 被ばくからの自由 という世界共通の基本的人権を誰もが持っていて、絶対に手放してはいけないこと。命に対する権利を放棄しないこと。核と人類は共存できないということを。誰もが平和のうちに生存する権利を等しく有するということを。大内仁美さんからのダキシメルオモイ2011年3月11日、あの日も私達家族は別々に過ごしていました。伊豆下田にある実家に2人の娘を連れて帰省中、主人は南相馬市で仕事中でした。まさかそのまま13年間ここで暮らすことになるとは思いもしません。 地震、津波の混乱の中始まった、見えない敵(放射能)との戦い、住む場所、仕事を失い、9人で住んでいた家族はそれぞれ別々に生活をすることになりました。 この13年間本当にあっという間でしたが、色々な葛藤がある中で必死に駆け抜けてこられたのは子ども達がいてくれたおかげです。この笑顔を守ろうと必死になれたのだと感じています。私達家族は普通の家族の形とは違うかもしれませんが、この完成した絵を見た時に目に見えない家族の絆がはっきりと見えました。今はこの笑顔がずっと続く事を願っています。福島県福島市から新潟市へ母子避難された荒木田さん家族のダキシメルオモイ 2011年3月12日の晩、友人からかかってきた電話を切った直後 「すぐに出発だ」と夫が言った。幸いガソリンは満タンだった。 私たちは避難所から自宅に戻ることなく、福島を離れた。 あれから5年以上になるが、子どもたちは一度も福島に戻っていない。 当時2歳だった娘は、福島のことをもうほとんど覚えていない、 小学校入学直前だった息子は来年は中学生になる。 吾妻山、安達太良山を望む川沿いの土地に家を建て、子育てする夢は 諦めなくてはならなくなった。 狭い借り上げ住宅、3枚の布団に4人で寝る生活の中、家を設計することが 息子の将来の夢になった。 もう5年、まだまだ5年。まだまだ渦中の私たち。見通しのきかないということがこんなにしんどいとは思わなかった。 家族のからだとこころの健康が何より一番大切だと、守らなくてはと、 子どもたちとの何気ない日常を大切に過ごす日々。 私たちはいつかこの日々をどんなふうにふりかえるのだろう。 家族として生活しはじめ、子どもたちを授かった福島 絶たれた縁、失った時間はとても大きく、取り返しがつかない。 けれど、より深いものに気づき、より温かい縁にも恵まれて、私たちはとりあえず元気に生きています。 子どもたちを日々守っているつもりだったけれど、 守られていたのは私たちでもあったね。 この子たちの未来を見据えたら、大切なことが何か、 心がぶれることは無い。 大切な、かけがえのない、家族。-------------------------------------------------------------------------------お読みいただきありがとうございます。作家さんのオモイとともに、このようなモデルさんのオモイを、ミラノで多くの方に伝えることができればと思っています。Legacy3.11展開催へのご支援を、どうかよろしくお願い申し上げます。9月3日午前9時30分時点の支援金額は、1,622,700円(20%達成) 残り58日です。どうか周りの人に「こんなことやってる人たちがいるよ」と伝えていただければ幸いです。
おはようございます。Legacy3.11実行委員会 柳澤です。いよいよ9月に入り、出発まであと1週間となりました。そこでこれからは、Lagacy3.11展に出展する作家さんと作品を紹介しながら、みなさんに展示のイメージをお伝えしていきたいと思います。そこで最初にご紹介するのは、宮城県に在住のフォトジャーナリスト河野透さん。河野さんと出会ったのは、震災後の脱原発イベントだったでしょうか。もう10年くらいになるかもしれません。出会った当時の河野さんは渋谷でダイビングショップを経営するプロダイバーでした。震災後ボランティアで、宮城県石巻の小渕浜というところに入り、それ以来現在に至るまで私財を投げ打って支援を続けています。クラファンのトップになった写真。車が屋上に。40mの津波で壊滅した女川のまち。中央遠くに見える病院の駐車場まで津波は押し寄せ、お年寄りが多数流された。その内容がまたすごい。小渕浜の名産であるわかめを漁師さんと一緒になってわかめを取り、それをSNSで販売した利益で花火を購入。地元の人を励ますために花火師の資格まで取って、10分間の小さな小さな花火大会を12年間、仲間たちと開催するために毎年毎年通い続けてきたのです。今年2024年、一つの区切りとして花火大会は終了しましたが、彼とお仲間が灯した花火の明かりは、小渕浜の子どもやお年寄りの心に永遠に残ることでしょう。小渕浜の名産のわかめ。リターンに入っています。流された獅子舞も復活。復興住宅で喜び手を合わせるおばあちゃん。夏祭りもみんなの力で復活させた。河野さんはその後東京の自宅を引き払い、宮城県に移住。地元産品の6次産業化とコミュニティの情報発信などをメイン事業とする「小渕浜通信」という会社を立ち上げられ、正真正銘の「東北人」になりました。さらに河野さんは今回、ミラノ行きの作品出展を快諾してくれただけでなく、自費でミラノに来てくださり、設営ばかりか前半は在廊してくれることに。「すべてはおせっかいなんだけどね」と淡々と語る河野さん。どこまでいい人なんだろこの人。今回のクラファンも「柳澤さん、奇跡は起こるんじゃなくて起こすもんです」と励ましてくれました。そんな彼の作品は全部で19点。タイトルは「消えたまちと復興に挑んだ漁師たち」。会場からも動画でご案内しますので、楽しみにしていてください。
「Legacy3.11」発起人、Nippon AWAKES共同代表の平井有太です。有太マンという名前で、仕事をしてきました。 私は3.11を受けた福島で食の安全、農の復興に従事し、人生が変わった人間です。 唐突に降り注いだ放射性物質が、もともとあった問題すべてを早送りさせ、見えにくかった問題も白日の下に晒され、「地域」そして「顔の見える関係」の威力、当時頭になかった言葉で言えば「自律分散」や「循環型経済」の大切さを思い知らされました。 今回の取り組みである、はじめて日本を出て国外へ発信するグループ展「Legacy3.11」は、その成り立ちと存在から、ここで言う「大切さ」を体現しています。 アートであるけれども、アートの外のものである。チームであるけれども、それぞれが個である。大きな点のようでいて、必然的な偶然が連なった文脈の上で、小さな取り組みの蓄積として、遂にここまできました。 歴史的に新しく、後世に語り継がれる表現は、社会の歪みやシワ寄せが凝縮された時代や場所から生まれてきました。平和で、誰もがのびのび幸せに生きている環境からは、心を突き動かしたり、触れてしまった人間の一生を変えてしまうアートは出てきません。それは小説に音楽、舞台や漫画など、どんな表現にも通底しています。 私が福島で見つけたのは「生命を軸とした判断の蓄積でつくる社会」でした。それが結局、よく期待されがちな「民主主義」では、そこで語られていることはしょせん「民=人」を主とした価値観です。 むしろその結果が、今。 福島に住んだ約2年半、対話を続けた幼子を抱えた若いお母さんや、その土地の土と作物と生きる農家さんの話から見えてきたのは、人間はもっと謙虚に、そこに住まわせていただいている存在。 覚えた四字熟語で語るなら、「身土不二」。 つまり考えるべきは、私たちが生きる環境そのものをつくってくれている微生物や植物を含む、あらゆる生命を尊重し、判断を積み重ねていく社会の在り方でした。 ましてや現在は、誰もが加速度的に感じている気候”崩壊”(”変動”どころか、もう”危機”でも足りない)、戦争2つ、新しいウイルス、格差に貧困に差別と、あらゆる社会課題が溢れています。それらはもう、付け焼き刃の対処療法では、どうにもなりません。 根底からの、国境も人種も超え、時には宗教まで、そこはたとえ超えられなくとも同じ課題意識の中で結束できる、そのような価値観が必要なのです。 瓦解しかけた世界を治すため。 地球をリジェネレイト(環境再生)するため。 その方法が、実は3.11以降の東北から生まれていた証明をまずミラノから、世界に向けて発信していきます。*クラウドファンディングは残り61日、671万。達成率16%。ご協力、どうぞよろしくお願いいたします。