今回は上戸暖大(真言宗僧侶)が書きます。安田登(能楽師)が一部、加筆しました。道場観と間・主観的世界こんにちは。真言宗のお寺、香川県の海岸寺の住職、上戸暖大(じょうと・だんたい)です。突然ですが、ジブリ映画の『千と千尋の神隠し』のお話から。昼間に見るときはただの古びた街並みだった場所が、夜になると突然、提灯に火がともり、湯屋が鮮やかな光を放ち始めます。動くはずのない石像や建物が、いつの間にか生き生きとした神々の世界へと変わり、千尋の目の前に迫ってくる。あの「境界を越えてしまった感覚」、実はこの感覚を私たち密教僧たちは、よく体験しています。それが「道場観(どうじょうかん)」というものです。前回までの「間・主観的世界」の話を承けて、まずは「道場観」の話をしたいと思います。道場観というのは、心の中に仏様の世界(道場)を思い描く観想です。ただし、思い描くといっても、ただイメージするだけではありません。本堂に祀られている仏像が、まるでアニメや映画でキャラクターが突然命を得て語りかけるように、「生きた仏さま」として自分と相対するのです。この「道場観」をするときには「身(身体)・口(言語)・意(意識)」すべてを使って行います。最初に心に描くのは、その仏様の「種字(梵字)」です。梵字というのは古いインドの文字です。その一字が、その仏様を表わします。その「種字(梵字)」がやがて「三昧耶形(持ち物)」になります。すると、それがやがて仏様(尊格)の姿となって現れ、さらには眷属・諸尊も周囲に展開していき、仏さまの世界が生き生きと出現するのです。ふだんから道場観をしていると、たとえば護摩の道場に入るときなどは、数多の仏様が道場に遍満しているのが見えます。むろん、物理的(客観的)には何もない空間です。しかし、修行をした密教の僧侶たちと話をすると、みな同じものが見えています。密教僧にとっての「間・主観的」世界がそこにあるのです。インドラ・ネットワーク(帝網)この「道場観」に続いて、「入我(にゅうが)我入(がにゅう)観」を行います。これは仏様が自分の中に入り(入我)、自分が仏様の中い入る(我入る)、つまり自分が仏様と一体になる観想です。「仏様と自分が一体になる」だなんて、他の宗派の方に聞かれたら叱られそうです。しかし、お大師様(空海)は『即身成仏義』の中で、「仏様と人間は同じだ」と書かれ、その理由を「帝網(たいもう)」という語を使って説明されました。「帝網」というのは帝釈天の網のことです。帝釈天の宮殿には巨大な網があります。それが「帝網」です。そして、その網目には無数の宝珠があります。ひとつひとつの各宝珠は、他のすべての宝珠を映し出し、同時にその宝珠は他の宝珠にも映し出され、相互に関係し合って存在しています。もし、ひとつの宝珠にわずかな動きや変化が生じると、その変化はただちに他のすべての宝珠に反映され、「帝網」自体に変化が波及します。この関係は少しも留まることなく、連続的に、かつ無限に続き、個々の存在(宝珠)が、同時に全体の存在(網)を体現しているという「相互依存性」と「相互浸透」の関係で成り立っているのです。そして、その宝珠のひとつが「私」であり、別の宝珠が「大日如来」さまであり、そしてまた別の宝珠が「あなた」なのです。ニューラル・ネットワークちなみに帝釈天をサンスクリット語ではインドラというので「帝網」は、「インドラ・ネットワーク」とも呼んでもいいでしょう。宮沢賢治が『インドラの網』というお話を書いています。さて、これで思い出すのは、人間の脳の神経細胞(ニューロン)の仕組みを模倣した人工知能のモデル「ニューラル・ネットワーク」です。インドラ・ネットワークの宝珠に当たるのが、ニューラル・ネットワークでは「ノード(人工ニューロン)」です。詳述は避けますが、ノードの「重み」と、それによるネットワーク全体との関連は、まさにインドラ・ネットワークを彷彿させるのです。天と地を結ぶ別雷神さて、ニューラル・ネットワークのモデルとなった私たち人間の脳には、ネットワーク状に複雑に絡み合った神経細胞(ニューロン)があり、これらのニューロンは、電気信号と化学物質を使って互いに情報をやりとりしていると言われています。そうであるならば、私たちの《意識》や《想像》といった「主観」と、「客観的世界」である現実世界とを結びつけは、神経細胞間の電気化学的な信号伝達による脳内の活動によって成り立っているといえるかもしれません。ざっくりいえば、《私》という主観と《世界》という客観を結びつけるものは「電気」であるといってもいいでしょう(というのは、むろんちょっと言い過ぎですが:笑)。そして、電気といえば「雷」です。『蔦島の大蛇』で、龍を退治するのは賀茂の神様で、雷のエネルギーを体した「別雷(わけいかずち)の神」です。雷神というのは天から地に降りて来る神、天と地を結ぶ、やはり《あわい》の神さまなのです。龍と密教では、退治される龍とは何か。日本の神話や伝説の中では「オロチ(大蛇)」は《破壊者》として登場するのことが多いのですが、仏教や中国では「龍神」、つまり神様となって登場します。お大師さま(空海)は、唐の長安で恵果和尚から真言密教を学びましたが、そのお寺を「青龍寺」といいます。青い龍とい名のお寺です。真言宗・醍醐派の総本山である醍醐寺の鎮守神は「清瀧大権現」ですが、「清瀧」からサンズイを取ると「青龍」になります。「清瀧大権現」も龍神です。また、仏教では龍樹という人がいます。「空」の思想を伝えたことで有名です。インドの名前では龍樹はナーガルジュナ(龍樹)といます。彼は、その名の通り「龍(ナーガ)」一族の人だったという説もあります。そして、龍樹は密教を伝えた八祖の第三祖に位置づけられています。やはり密教と龍には深い関係があります。そして、ここ四国には弘法大師(空海)と龍にまつわる伝説やお寺がたくさんあります。ひとつは焼山寺の伝説があります。この地を訪れた弘法大師が一本杉の下で休息していた際、夢に阿弥陀如来が現れました。目覚めると眼前は火の海となっていたので、お大師さまは身を清めた後に「摩廬(水輪)の印」を結び、真言を唱えながら山を登っていくと、大蛇が岩窟から姿を現しました。この大蛇は、火を吐いて農作物を焼いたり、村人たちを襲ったりしていました。お大師様は虚空蔵菩薩の加護によって、この大蛇を岩窟に封じ込めたのです。その後、三面大黒天を岩窟の上に安置し、土地の五穀豊穣を祈願しました。また太龍寺ではお大師様は『虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)』を行いました。太龍寺の龍にまつわる話は2種類あり、一般的には守護した龍にちなんだ話ですが、一方で悪い龍の話も残っています。山のふもとの村人たちが悲しそうな顔をしているので、お大師様は不思議に思い、その訳を訪ねますと「大きな龍が現れて、一生懸命作った農作物を荒らしてしまいます」と言い、悪い龍に怯えてどうしようもなかったところ、お大師様は仏法の威力で悪い龍を懲らしめ山麓の石窟に封じ込めました。この石窟は(龍の窟)と呼ばれ、奥行き100メートル余りあり、道内の最も広いところを千畳敷と言い、狭いところを龍之背割と言われています。龍には「守護」するものとしての性格と、そしてお大師様に退治される悪龍としての2つの性格があります。本地において一致する神と龍さて、仏教で龍といえば「八大龍王」が有名です。仏法を守護する天龍八部衆の一員であり、法華経にも登場する八人の龍族の王です。龍樹も、この一族、ナーガラージャ(龍族)の一員だったのではと言われていることはさきほど書きました。日本の仏教には「本地仏(ほんじぶつ)」という考え方があります。日本の神さまなどは、もともとは仏や菩薩で、それが人々を救うために神さまなどに姿を変えているという考え方です。そのもとの仏や菩薩を「本地仏」といいます。この八大龍王の本地仏であり、統率者として描かれるのは観音様、十一面観音です。頭上に10の観音の顔と阿弥陀如来を乗せた仏様です。そして、実は退治する側の「別雷神」の本地仏も観音様なのです。退治される存在と退治する存在が本地において一致する。実は、退治される龍(オロチ)と退治する神様(別雷神)も同一体だった。これは、前の記事にあった、龍は「守護者」と「破壊者」の両方の性格を持つということにも近いし、そして「帝網(インドラ・ネットワーク)」においてはあらゆる存在は同一体であるということにもつながります。合掌




