日蘭交流の記憶――川原慶賀筆「ブロムホフ家族図」修復プロジェクト

長らく公開されることのなかった一枚の絵があります。現在、オランダ国立世界文化博物館に所蔵されている、江戸時代に出島で描かれた川原慶賀筆「ブロムホフ家族図」です。この絵は200年間未公開のまま人々の目に触れる機会がありません。私はこの作品を修復し、日本で初めて公開する文化事業に挑戦します。

現在の支援総額

3,442,500円

49%

目標金額は7,000,000円

支援者数

120人

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2026/06/28に募集を開始し、 120人の支援により 3,442,500円の資金を集め、 2026/08/31に募集を終了しました

日蘭交流の記憶――川原慶賀筆「ブロムホフ家族図」修復プロジェクト

現在の支援総額

3,442,500円

49%達成

終了

目標金額7,000,000円

支援者数120人

このプロジェクトは、2026/06/28に募集を開始し、 120人の支援により 3,442,500円の資金を集め、 2026/08/31に募集を終了しました

長らく公開されることのなかった一枚の絵があります。現在、オランダ国立世界文化博物館に所蔵されている、江戸時代に出島で描かれた川原慶賀筆「ブロムホフ家族図」です。この絵は200年間未公開のまま人々の目に触れる機会がありません。私はこの作品を修復し、日本で初めて公開する文化事業に挑戦します。

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前回ご紹介したように、1817年、ティティア・ベルフスマは夫ヤン・コック・ブロムホフ、幼いヨハネス、乳母ペトロネラ・ムンスとともに長崎・出島へやって来ました。しかし、当時の日本では西洋女性が日本の地を踏むことは許されていませんでした。もちろん、出島も例外ではありません。ブロムホフは、1809年から1813年まで一度出島に滞在していた人物ですから、この規則を知らなかったはずはありません。それでも、今度は自分が出島のオランダ商館長という重要な立場であることから、特別に認められるのではないかと考えたのでしょう。長崎奉行は迷いながらも、一家の滞在を許可します。しかし、江戸の将軍徳川家斉はこれを認めませんでした。出島到着からおよそ五週間後、ティティア、乳母ペトロネラ、そして幼いヨハネスは出島を退去するよう命じられます。この命令は覆りませんでした。ティティアは滞在を願って嘆願しましたが、その願いが聞き届けられることはありませんでした。短い滞在でした。しかし、その短さとは反対に、ティティアが長崎の人々に与えた印象は非常に大きなものでした。赤みを帯びた髪、丸い目、西洋風の衣服、香水、そして夫と並んで歩く姿。日本人にとって、それはまさに見たことのない「異国」そのものだったのでしょう。とりわけ、夫と手をつないで歩く姿は、当時の日本人には大きな驚きだったといいます。この論文では、ティティアを「日本人に強烈な印象を残した最初の西洋女性」として紹介しています。ただし、私が興味深く感じるのは、彼女ひとりだけでなく、乳母ペトロネラや、ジャワ人の召使マラティもまた、日本人にとっては同じく異国を感じさせる存在だったという点です。ブロムホフ家族図を見ると、それは単なる夫人の肖像ではなく、当時の日本人が初めて目にした「西洋の家族」「異国の生活」「世界の広がり」を描いたもののようにも見えてきます。(つづく)


11月からハウステンボス美術館で開催される「OTEMAE ブロムホフ 茶道を愛した異邦人」展に向け、オランダの資料を読み進めています。先日、2021年にオランダ・フリースラント州の歴史専門誌『Historisch Tijdschrift Fryslân』に掲載された「ティティア・ベルフスマ―日本で大きな印象を残した最初の西洋女性」という論文を読みました。この論文は、「日本人はティティアという西洋女性をどのように受け止めたのか」という視点から書かれた、とても興味深い内容です。私自身、ブロムホフや茶道具を中心に研究を進めていますが、オランダ側ではこのような切り口でティティアが語られていることも、大変勉強になりました。これから4回に分けて、この論文の内容をご紹介したいと思います。 江戸時代、日本と西洋世界を結ぶ唯一の窓口だった長崎・出島。 その広さは、オランダ・アムステルダムのダム広場ほどしかない小さな人工島でした。1641年以来、この島で暮らすことを許されていたのは十数人ほどのオランダ商人だけ。それも男性に限られていました。 ところが1817年、その歴史に初めて例外が生まれます。フリースラント出身の女性、ティティア・ベルフスマが出島へやって来たのです。ティティアは法律家の家に生まれ、後にヤン・コック・ブロムホフと結婚します。1816年、長男ヨハネスが誕生。同じ年、ブロムホフはバタヴィアへ赴任し、その後、長崎出島のオランダ商館長に任命されます。1817年、一家は乳母ペトロネラ・ムンスとともに「フラウエ・アガタ号」に乗り、日本へ向けて旅立ちました。 しかし、この旅が日本美術史に思いもよらぬ足跡を残すことになるとは、誰も想像していなかったでしょう。(つづく)


ブロムホフ家族図には、三人の女性が描かれています。妻ティティア、乳母ペトロネラ、そして召使いのマラティです。ティティアは「日本へ渡来した最初の西洋婦人」として私も皆さまにご紹介してきました。しかし、同行した乳母ペトロネラもまた、日本に足を踏み入れた最初の西洋女性の一人でした。そしてもう一人、マラティという女性の存在も見落とすことはできません。マラティは、当時のオランダ植民地の奴隷制度のもとでブロムホフ家に仕え、日本へ連れて来られた東南アジア出身の女性です。十九世紀初頭、オランダ東インド会社の支配地域では、奴隷制度は合法であり、社会制度の一部として存在していました。マラティは、そのような時代を象徴する存在でもあります。ティティアやペトロネラとともに来日した彼女もまた、日本の歴史に足跡を残した人物として記憶されるべきでしょう。記録で確認できる限り、マラティもまた、最初に来日した東南アジアの女性の一人といえます。 再建された出島の商館長の部屋を訪れると、寝室の隣には「女中部屋」が復元されています。実はこの部屋は、長崎・丸山遊郭の遊女たちが寝泊まりした部屋でした。 江戸時代、出島に出入りできたのは、幕府の役人や商人、そして丸山の遊女たちでした。オランダ人は日本へ妻子を伴うことが許されていなかったため、幕府はその代わりとして、丸山の遊女だけに出島への出入りを特別に認めていたのです。 ブロムホフも最初に長崎へ赴任した際、糸萩という遊女と親しい関係となり、二人の間には娘が生まれました。しかし、その娘は幼くして亡くなっています。また、シーボルトと「お滝さん」の関係は広く知られています。 このような禁令があることを十分承知していたにもかかわらず、ブロムホフは二度目に商館長として来日した際、妻ティティアと幼い息子、乳母ペトロネラ、そして召使いのマラティを伴っていました。彼は「病気療養のため妻の看病が必要である」という理由を掲げましたが、一度将軍が下した命令が覆されることはありませんでした。結局、ティティアたちは約三か月後、オランダへ帰国することを余儀なくされます。 ブロムホフ家族図は、家族の最後の肖像を描いているだけでなく、その背後にあった出島の制度、丸山遊女の存在、そしてオランダ植民地社会の現実までも映し出しています。一枚の絵の中に、十九世紀初頭の世界の複雑な姿が刻まれてます。


先月は、日本とオランダの交流がさまざまな形でメディアに取り上げられた「日本・オランダ月間」ともいえる一か月でした。天皇皇后両陛下はオランダをご訪問になり、多くの報道がなされました。また、サッカーワールドカップでは日本代表とオランダ代表が熱戦を繰り広げ、日本とオランダのつながりに改めて注目が集まりました。そのような中、天皇陛下はオランダ・ライデンもご訪問になりました。そして陛下をご案内されたのが、今回のクラウドファンディング「ブロムホフ家族図」修復プロジェクトの依頼者でもあるオランダ国立世界文化博物館の学芸員、ダーン・コックさんです。挨拶動画をご覧いただいた方はご存じかと思いますが、ダーンさんは日本語も大変堪能で、日本文化への深い理解をお持ちの研究者です。そして今回、ダーンさんから大変うれしいご連絡をいただきました。このたび、本プロジェクトをご支援くださった皆さまへのリターンとして、オランダ国立世界文化博物館のミュージアムグッズをご提供いただけることになりました。どのようなグッズになるかなど詳細につきましては、決まり次第あらためてご案内いたします。日本とオランダ、そして文化財を未来へつなぐこのプロジェクトを、引き続き応援していただけましたら幸いです。どうぞよろしくお願い申し上げます。※写真は、ライデンで天皇陛下にご説明されるダーン・コックさん(読売新聞掲載)。読売新聞の記事はこちらをご覧ください。読売新聞


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