前回ご紹介したように、1817年、ティティア・ベルフスマは夫ヤン・コック・ブロムホフ、幼いヨハネス、乳母ペトロネラ・ムンスとともに長崎・出島へやって来ました。しかし、当時の日本では西洋女性が日本の地を踏むことは許されていませんでした。もちろん、出島も例外ではありません。ブロムホフは、1809年から1813年まで一度出島に滞在していた人物ですから、この規則を知らなかったはずはありません。それでも、今度は自分が出島のオランダ商館長という重要な立場であることから、特別に認められるのではないかと考えたのでしょう。長崎奉行は迷いながらも、一家の滞在を許可します。しかし、江戸の将軍徳川家斉はこれを認めませんでした。出島到着からおよそ五週間後、ティティア、乳母ペトロネラ、そして幼いヨハネスは出島を退去するよう命じられます。この命令は覆りませんでした。ティティアは滞在を願って嘆願しましたが、その願いが聞き届けられることはありませんでした。短い滞在でした。しかし、その短さとは反対に、ティティアが長崎の人々に与えた印象は非常に大きなものでした。赤みを帯びた髪、丸い目、西洋風の衣服、香水、そして夫と並んで歩く姿。日本人にとって、それはまさに見たことのない「異国」そのものだったのでしょう。とりわけ、夫と手をつないで歩く姿は、当時の日本人には大きな驚きだったといいます。この論文では、ティティアを「日本人に強烈な印象を残した最初の西洋女性」として紹介しています。ただし、私が興味深く感じるのは、彼女ひとりだけでなく、乳母ペトロネラや、ジャワ人の召使マラティもまた、日本人にとっては同じく異国を感じさせる存在だったという点です。ブロムホフ家族図を見ると、それは単なる夫人の肖像ではなく、当時の日本人が初めて目にした「西洋の家族」「異国の生活」「世界の広がり」を描いたもののようにも見えてきます。(つづく)




