日蘭交流の記憶――川原慶賀筆「ブロムホフ家族図」修復プロジェクト

長らく公開されることのなかった一枚の絵があります。現在、オランダ国立世界文化博物館に所蔵されている、江戸時代に出島で描かれた川原慶賀筆「ブロムホフ家族図」です。この絵は200年間未公開のまま人々の目に触れる機会がありません。私はこの作品を修復し、日本で初めて公開する文化事業に挑戦します。

現在の支援総額

3,442,500円

49%

目標金額は7,000,000円

支援者数

120人

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2026/06/28に募集を開始し、 120人の支援により 3,442,500円の資金を集め、 2026/08/31に募集を終了しました

日蘭交流の記憶――川原慶賀筆「ブロムホフ家族図」修復プロジェクト

現在の支援総額

3,442,500円

49%達成

終了

目標金額7,000,000円

支援者数120人

このプロジェクトは、2026/06/28に募集を開始し、 120人の支援により 3,442,500円の資金を集め、 2026/08/31に募集を終了しました

長らく公開されることのなかった一枚の絵があります。現在、オランダ国立世界文化博物館に所蔵されている、江戸時代に出島で描かれた川原慶賀筆「ブロムホフ家族図」です。この絵は200年間未公開のまま人々の目に触れる機会がありません。私はこの作品を修復し、日本で初めて公開する文化事業に挑戦します。

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【ペトロネラ・ムンス ― ティティアとともに日本を訪れたもう一人の西洋女性】ティティア・ベルフスマは「日本を訪れた最初の西洋女性」としてよく知られています。しかし、実は1817年、ティティアとともに出島へ上陸した西洋女性がもう一人いました。それが、ブロムホフ夫妻の長男ヨハネスの乳母であったペトロネラ・ムンスです。 私はこれまでペトロネラについて詳しく調べる機会がありませんでしたが、今回、オランダ王立芸術科学アカデミー(KNAW)傘下の Huygens ING が公開している『Digitaal Vrouwenlexicon van Nederland(オランダ女性人物辞典)』を読むことで、その波瀾万丈の人生を知ることができました。 ペトロネラは1794年、ハーグで庭師の家に十人兄弟姉妹の五番目として生まれました。22歳のときに婚外子となる長男ピーテルを出産します。この出産によって彼女は授乳中となり、ヨハネスの乳母(wet nurse)としてブロムホフ家に雇われました。乳母とは、主人の子どもを自分の母乳で育てる女性です。 1817年、ブロムホフが長崎出島のオランダ商館長に任命されると、ティティア、幼いヨハネス、そしてペトロネラは「アガタ号」に乗って日本へ向かいます。その際、自分の幼い息子ピーテルはオランダに残し、おそらく祖父母に預けたと考えられています。しかし、西洋女性の滞在は幕府に認められず、出島到着からわずか五週間余りで退去を命じられます。一家は1817年12月、日本を離れることになりました。 帰国の航海中、ペトロネラは第二子となる娘アントイネッタ・ヤコバを出産します。この娘の父親については現在も判明していません。オランダの研究者の中にはブロムホフ説を唱える人もいますが、アガタ号の航海士であった可能性も指摘されており、決定的な証拠は見つかっていません。 帰国後、ペトロネラは故郷ハーグへ戻り、1823年には第三子カタリナ・ウィルヘルミナを出産します。この子も婚外子でした。その後1835年、鍛冶職人アドリアヌス・ファン・ウィルヘンブルフと結婚しますが、結婚直前に二人の間に生まれた第四子は出生後まもなく亡くなっています。結婚の際、夫はカタリナを正式に認知しました。 人物辞典には、夫婦は「無資産(onvermogend)」、つまり財産を持たない状態で結婚したことも記されています。裕福とはいえない生活の中で、ペトロネラは四人の子どもを産み育て、1842年、48歳でその生涯を閉じました。 興味深いのは、日本人画家たちがペトロネラを繰り返し描いていることです。作品の中では、彼女は必ず青い縁取りの帽子をかぶって描かれ、ティティアと区別されています。また、ブロムホフとの親密な関係を想像させる図像も存在すると、この人物辞典は紹介しています。ティティアばかりに注目が集まりがちですが、ペトロネラもまた、日本を訪れた最初の西洋女性の一人であり、日本人画家たちの関心を集めた人物でした。 日本への渡航、鎖国下での退去命令、帰国航路での出産、そして四人の子どもを育てながら生きたその人生は、決してティティアに劣ることのない波瀾万丈の生涯だったと言えるでしょう。 ペトロネラにも光を当てることで、1817年の出島で生きた人々の物語は、さらに豊かで人間味あふれるものとして見えてくるように思います。


ティティアには三つの「はじめて」があります。 一つは、日本を訪れた最初の西洋女性二つ目は、ピアノを日本へ持ち込み、演奏した最初期の西洋女性そして三つ目は、抹茶をいただいた最初の西洋女性 日本で現存する最古のピアノは、シーボルトが持ち込んだものとされています。しかし、シーボルトよりも前に、日本へピアノを持ち込んだ女性がいました。それがティティア・ベルフスマです。 下関の大年寄で阿蘭陀宿をつとめた伊藤家のコレクションの中に、スクエア・ピアノを弾く女性を描いた細密な白描画(写真)が現存しています。そこに描かれているのが、ピアノを弾くティティアと思われる女性です。 ティティアの来日は1817年。シーボルトの来日は1823年です。 つまり、ティティアはシーボルトよりも先に、西洋の音を日本へ運んできた女性であった可能性があります。 さらに興味深いのは、彼女の書簡に見られる一節です。 彼女の書簡より—— 年配の紳士が正装で現れ、藺草の敷物に跪き、緑の飲み物が入った小さな黒い椀を差し出した。三度回し、頭を下げ、両手で。通訳が言った。「これは敬意です。ゆっくり受け取ってください。」その所作は、音のない舞のようだった。静けさは深く、ペトロネラさえ息を止めていた。苦いが、温かい。彼は語らなかったが、私は招かれていると感じた。耳ではなく、心で。—— この「緑の飲み物」は何だったのでしょうか。これは抹茶であった可能性が高いと考えています。もちろん、書簡に「抹茶」と明記されているわけではありません。しかし、小さな黒い椀、緑の飲み物、三度回して両手で受ける所作、そして静寂の中でいただく様子。そこには、茶道の一服を受けた情景が重なります。日本を訪れた最初の西洋女性。日本にピアノをもたらした女性抹茶をいただいた最初の西洋女性。 ティティア・ベルフスマという存在は、日蘭交流史の中で、まだまだ語られるべき余白を持っているように思います。


【オランダで語られるティティア・ベルフスマ④】ティティア・ベルフスマを描いた肖像には、いくつか共通する特徴があります。多くの場合、彼女は左向きに描かれています。また、日傘を持ち、耳飾り、髪飾り、西洋風のドレス、赤い珊瑚の首飾りを身につけています。これらは、日本人画家たちが考えた「西洋女性らしさ」の象徴だったのでしょう。一方で、とても興味深いことに、ティティアの目は多くの作品で日本画的なアーモンド形に描かれています。ここで筆者がいう『アーモンド形』とは、日本画によく見られる様式化された人物表現を指していると考えられます。切れ長の両端が細く中央が少しふくらんでいるような目をアーモンド形(almond-shaped eyes)と表現したのでしょう。 つまり、画家たちは西洋女性を写実的にそのまま描いたというよりも、日本の絵画表現の中で「異国」を描こうとしていたのです。幼いヨハネスも、子どもというより小さな大人のように描かれることがあります。ここにも、当時の日本絵画における人物表現の特徴が見て取れます。 ティティアは結局、1817年12月に日本を去ることになります。滞在はわずか三か月ほどでした。しかし、その姿は忘れられることがありませんでした。川原慶賀や石崎融思らが描いたティティア像は、その後何度も模写され、小さな絵画、磁器、土産物などにも写されていきました。二百年を経た今もなお、ティティアの姿は日本の肖像文化の中に残っています。 今回紹介したオランダの論文は、ティティアを「日本で大きな印象を残した最初の西洋女性」として描いています。 ただ、私自身はブロムホフ家族図を見るとき、ティティアだけでなく、ブロムホフ、乳母ペトロネラ、幼いヨハネス、そしてジャワ人召使マラティを含めた、より大きな物語を感じます。そこに描かれているのは、一人の西洋女性の珍しさだけではありません。 鎖国下の日本が、出島という小さな窓を通して初めて見た「世界」の姿です。そしてまた、日本人がその異国を、自らの絵画表現の中に取り込み、理解しようとした痕跡でもあります。 11月からハウステンボス美術館で開催される「OTEMAE ブロムホフ 茶道を愛した異邦人」展では、こうした日蘭交流の物語も、ぜひ感じていただければと思っています。


【オランダで語られるティティア・ベルフスマ②】出島に滞在したティティア・ベルフスマは、まもなく長崎の絵師たちの関心を集める存在となりました。当時の長崎には、異国の人々や風俗を記録する絵師たちがいました。出島のオランダ人、唐人屋敷の中国人、珍しい器物や風俗などを描き留めることは、彼らの大切な役割でもありました。 その中で、ティティアほど人々の好奇心を誘った人物はいなかったのかもしれません。なぜなら、長崎の人々は自由に出島へ入ることができず、自分の目で彼女を見ることができなかったからです。 だからこそ、彼女の肖像には大きな需要が生まれました。川原慶賀や石崎融思をはじめ、多くの日本人画家がティティアを描きました。画家たちは彼女をさまざまな姿で描き、多くの場合、夫ブロムホフ、幼いヨハネス、乳母ペトロネラ、召使マラティらとともに表現しました。 興味深いのは、日本人画家たちがティティア個人を描こうとしただけではなく、彼女を通して「オランダらしさ」そのものを描こうとしていた点です。 たとえば、ティティアがピアノを弾き、夫ブロムホフがパイプをくゆらせ、ペトロネラが幼いヨハネスの世話をし、ジャワ人の召使が飲み物を運ぶ場面があります。これは単なる家族の肖像ではありません。当時の日本人にとって未知であった「西洋の暮らし」を、絵画として見える形にしたものだったのでしょう。 一方で、これらの作品には日本絵画らしい特徴も見られます。背景や室内空間はあまり細かく描かれず、奥行きも強調されません。その結果、見る人の視線は自然と人物へ向かいます。異国の服を着たティティア、乳母、幼子、召使。それぞれの姿が、当時の日本人にとっていかに珍しく、驚きに満ちたものであったかが伝わってきます。 私は、ここに日本人の「異国を見る眼差し」と同時に、「異国を日本の絵画様式の中で理解しようとする試み」を感じます。また、江戸時代の日本絵画には、背景や室内空間を簡略化し、人物や物語を主役として表現する様式的な特徴があります。しかし、出島やオランダ商館を描いた作品については、それだけでなく、幕府による情報管理のもとで、「描いてよいもの」と「描きすぎてはならないもの」が存在した可能性も考えられます。特にブロムホフ家族図のような作品では、画家が空間を描けなかったのではなく、人物像を中心に据え、背景をあえて抑制したと見ることもできるでしょう。そのことは、川原慶賀が描いた風俗図や植物図を見れば明らかです。写真は慶賀が描いた日本狼です。慶賀は動植物の細部や衣服の質感、建築や風俗までも驚くほど緻密に描き分ける卓越した描写力を備えていました。その類まれな筆致を知れば、ブロムホフ家族図の背景が簡略なのは、作品の目的や当時の社会的・政治的背景を踏まえた意図的な表現であった可能性をも考えたくなります。(つづく)


【予告】誰もが入れる場所ではありません!現在進行中の「ブロムホフ家族図修復プロジェクト」のクラウドファンディング。新たなリターンとして、オランダ国立世界文化博物館の「ビハインド・ザ・シーンズ・ツアー」を準備しました。実は、オランダ国立世界文化博物館の日本コレクションのうち展示されているのは、わずか約5~6%。残りの約95%は一般公開されることなく収蔵庫で大切に保管されています。つまり、普段私たちが目にしている展示は、ほんの氷山の一角なのです。収蔵庫には、日本の貴重な文化財だけではなく、世界各地から集められた驚くようなコレクションが眠っています。今回掲載した写真は、その一つである「人魚のミイラ」こんな不思議な資料も、普段は一般の方が目にすることはありません。今回、オランダ国立世界文化博物館の全面的なご協力により、5万円以上ご支援くださった方への特別なリターンとして、この収蔵庫を見学できる「ビハインド・ザ・シーンズ・ツアー」をご用意する予定です。実際にオランダまで行かれる方は多くないかもしれません。それでも、「いつかライデンを訪れ、世界有数の博物館の舞台裏を見てみたい。」そんな夢を叶えることができる、クラウドファンディングならではの特別なリターンです。詳細は近日発表いたします。どうぞご期待ください。


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