日蘭交流の記憶――川原慶賀筆「ブロムホフ家族図」修復プロジェクト

長らく公開されることのなかった一枚の絵があります。現在、オランダ国立世界文化博物館に所蔵されている、江戸時代に出島で描かれた川原慶賀筆「ブロムホフ家族図」です。この絵は200年間未公開のまま人々の目に触れる機会がありません。私はこの作品を修復し、日本で初めて公開する文化事業に挑戦します。

現在の支援総額

3,442,500円

49%

目標金額は7,000,000円

支援者数

120人

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2026/06/28に募集を開始し、 120人の支援により 3,442,500円の資金を集め、 2026/08/31に募集を終了しました

日蘭交流の記憶――川原慶賀筆「ブロムホフ家族図」修復プロジェクト

現在の支援総額

3,442,500円

49%達成

終了

目標金額7,000,000円

支援者数120人

このプロジェクトは、2026/06/28に募集を開始し、 120人の支援により 3,442,500円の資金を集め、 2026/08/31に募集を終了しました

長らく公開されることのなかった一枚の絵があります。現在、オランダ国立世界文化博物館に所蔵されている、江戸時代に出島で描かれた川原慶賀筆「ブロムホフ家族図」です。この絵は200年間未公開のまま人々の目に触れる機会がありません。私はこの作品を修復し、日本で初めて公開する文化事業に挑戦します。

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前回、【「ブロムホフ家族図」は何枚あるのか】の投稿で、私は「ブロムホフ家族図」には五人構図と六人構図があり、六人構図はブロムホフがオランダへ持ち帰ることを意識して制作させた作品ではないか、という私見を述べました。 では、この六人構図は、どのように制作されたのでしょうか。私は、オランダ国立世界文化博物館(ライデン)所蔵の五人構図こそ、ブロムホフ本人の依頼によって最初に制作された本歌であり、その後、帰国に際して、ジャワ人奴隷の少年を加えた六人構図が新たに制作されたのではないかと考えています。 この考えに立つと、一つ気になる点があります。それは、アムステルダム国立美術館(ライクスミュージアム)が六人構図の作者について、painter: attributed to Ishizaki Yushipainter: Kawahara Keigaと二人の画家の名前を併記していることです。 さらに検索データでは、Made by:Ishizaki YushiInvolved maker:Kawahara Keigaという表記になっています。 しかし、ライクスミュージアムは、なぜこのような作者表記になっているのか、その根拠を公表していません。私は、ここに六人構図成立の鍵が隠されているのではないかと考えています。 私の推測では、ライクスミュージアム本全体を石崎融思が描いたのではなく、川原慶賀を中心として制作された作品に、石崎融思が何らかの形で関与した可能性があります。そして、その関与とは、五人構図には存在しない、右端のジャワ人少年を描き加えることだったのではないでしょうか。 もちろん、これは現段階では一つの仮説にすぎません。しかし、作品の構図の変化と、ライクスミュージアムの作者表記を合わせて考えると、そのような可能性も十分に検討する価値があるように思います。 現在、ライクスミュージアムには、この作者表記の根拠について問い合わせを行っています。どのような回答が得られるのか、大変楽しみにしています。※写真はアムステルダム国立美術館(ライクスミュージアム)


ブロムホフという人物は、オランダから見れば、十九世紀初頭の海外政策を支えた実務家です。彼は教養ある上流市民の家庭に生まれました。父は法律家への道を望んでいましたが、自らは軍人となり、その後オランダ東インド会社に入りました。能力を認められて着実に昇進し、やがて日本・出島商館長というオランダを代表する要職に就きます。 そして帰国後には、オランダでも有数の名門であるファン・ブレーゲル家のミミと再婚し、その一員となりました。ナポレオン戦争後、オランダは国として立て直しを進め、インドネシアや日本との関係を通して、再び世界の中で存在感を示そうとしていました。ブロムホフは、その最前線に立った人物の一人でした。 出島では商館長として日本との貿易を守り、江戸へ参府して将軍に拝謁し、オランダを代表して交渉にあたりました。オランダ側から見れば、国の威信と利益を背負った人物だったのです。 しかし、日本から見ると、少し違った姿が見えてきます。ブロムホフは日本で自由に振る舞えたわけではありません。幕府の厳しい法や制度に従い、妻ティティアや幼い息子を出島に残すことも許されず、家族を送り返さなければなりませんでした。 川原慶賀や石崎融思によって描かれた「ブロムホフ家族図」には、商館長としての威厳だけではなく、夫として、父としての苦悩や無念さも描かれています。 彼はオランダの国益を背負って日本へやって来ました。しかし日本では、自国の力がそのまま通用することはありませんでした。日本の制度や礼儀、美意識、そして人々との交流を通して、彼自身も少しずつ変わっていったのだと思います。 彼が持ち帰ったものを見ると、そのことがよく分かります。茶碗や茶入、水指、釜、茶筅、茶巾、袱紗など、彼は茶道具を一つのまとまりとして集めています。ただ美しい器を集めたのではなく、茶の湯という文化そのものに深い関心を抱いていたからこその収集だったのでしょう。 帰国後も、日本は彼の人生から消えることはありませんでした。ビルクホーフェンには日本風の庭を造り、農場の一つを「ミヤコ」と名づけ、日本から送られた植物を育て、日本の品々を生涯大切にしました。 つまり彼は、日本の品物を持ち帰っただけではありません。日本での経験によって変わった自分自身を、オランダへ持ち帰ったのです。私は、ここにブロムホフという人物の本当の価値があると思っています。 彼は、単なる出島商館長でも、単なる日本美術の収集家でもありません。ヨーロッパの価値観を持って日本へ来た一人のオランダ人が、日本文化と出会い、その価値を理解し、自らの人生の中へ取り込んでいった人物です。 だから私は、ブロムホフを「ヨーロッパ最初の茶人」と呼びたいのです。それは、日本人と同じように茶道を修めたという意味ではありません。茶道具を単なる珍しい美術品ではなく、一つの文化、一つの精神世界として受け止め、その価値をヨーロッパへ伝えようとした最初の人物だったと考えるからです。 ブロムホフは、オランダと日本のどちらか一方に属する人物ではありません。二つの文化の間に立ち、その両方を理解しようと努めた、日蘭交流史を象徴する人物だったのです。※画像は、1935年から1950年頃の絵葉書。ホテル・ペンション・レストラン「ビルクホーフェン」。1824年、ビルクホーフェンの別荘地をヤン・コック・ブロムホフ(1779〜1853)が購入しました。彼は建物を改築して「ビルクホーフェン邸」とし、周囲には「日本の森」と呼ばれる一角を備えた庭園を造りました。市へ売却された後はホテル・レストランとして使用されていたビルクホーフェン邸は、このような姿をしていました。


1817年、日本へ妻ティティアと幼い息子ヨハネスを伴ってやって来たヤン・コック・ブロムホフ。しかし幕府は西洋人女性と子どもの滞在を認めず、ティティアたちはわずか数か月で帰国を余儀なくされます。 その後、ティティアは1821年、35歳の若さで夫と再会することなく亡くなりました。 ブロムホフが日本から帰国したのは1824年。愛する妻を失い、幼いヨハネスと再び暮らし始めた彼は、1827年にマリア・アドリアナ・ファン・ブレーゲル(愛称ミミ)と再婚します。 ミミは名門ファン・ブレーゲル家の出身でしたが、二人の間に子どもは生まれませんでした。彼女はヨハネスの継母となり、母を失った少年を温かく育てます。 夫妻はアメルスフォールト郊外のビルクホーフェンという広大な農園で暮らしました。ブロムホフは日本から帰国した後も日本を忘れることはありませんでした。 農園には「ミヤコ(Miaco)」という名の農場を造り、日本庭園を設け、日本の友人から送られてきた種子を育てます。日本で集めた品々に囲まれながら、まるで日本とともに生きるような暮らしを送っていたのです。 その生活を陰で支え続けたのがミミでした。 1853年にブロムホフが亡くなると、彼女はその遺した膨大な日本関係資料や書簡を整理・保存します。そのおかげで、ブロムホフの文書は1907年にオランダ国立公文書館へ収蔵され、現在でも私たちは彼の手紙や記録を読むことができます。 また、日本から持ち帰ったコレクションも一族によって大切に守られ、今日ではライデンのオランダ国立世界文化博物館をはじめ、各地の博物館に伝えられています。 もしミミがそれらを守り伝えなかったなら、私たちは今日、ブロムホフの足跡をこれほど詳しく知ることはできなかったでしょう。 ブロムホフを語るとき、多くの人は最初の妻ティティアに注目します。しかし、帰国後約30年にわたって彼を支え、日本との思い出を未来へ伝えたもう一人の妻・ミミの存在も、決して忘れてはならないのです。※画像はミミと再婚した頃のブロムホフの肖像画、そして晩年のミミの写真


ヨハネス・コック・ブロムホフは、1816年3月6日にオランダ・ハーグで生まれました。父は長崎出島オランダ商館長ヤン・コック・ブロムホフ、母はティティア・ベルフスマです。翌1817年、生後わずか1歳半ほどで両親とともに日本へ渡りました。 しかし、当時の日本は鎖国下にあり、西洋人女性や子どもの滞在は幕府によって認められていませんでした。父ブロムホフは何とか妻子の滞在を願い出ますが、その願いは受け入れられず、ヨハネスは母ティティア、乳母ペトロネラ・ムンスらとともに、わずか数か月で日本を去ることになります。 滞在期間は短かったものの、金髪で青い目をした幼いヨハネスの姿は、日本人に大きな衝撃を与えました。当時の日本人は西洋の子どもを見る機会がほとんどなく、その愛らしい姿は長崎の絵師たちによって盛んに描かれました。川原慶賀や石崎融思(祐旨)らによる「ブロムホフ家族図」には、母ティティアや乳母ペトロネラとともに抱かれたヨハネスの姿が描かれ、日本における異国文化受容の象徴的な存在となりました。現在確認されているブロムホフ家族図の多くに、幼いヨハネスが描かれていることからも、その存在がいかに印象深かったかがうかがえます。 日本を去った後、一家は長い航海を経て帰国します。しかし、その過酷な旅は母ティティアの心身に大きな負担を与えました。ティティアは1821年4月2日、35歳という若さでハーグにおいて亡くなります。ヨハネスはわずか5歳で母を失ったことになります。 一方、父ブロムホフはその後も出島商館長として1824年まで日本に留まりました。つまり、ヨハネスは幼少期の大半を父と離れて過ごしたことになります。1824年に父が帰国すると再び親子は生活を共にし、その後ブロムホフは1827年に再婚します。 成人したヨハネスは法律を学び、「Mr. Johannes Cock Blomhoff(法学士ヨハネス・コック・ブロムホフ)」として知られるようになりました。1852年にはサラ・マリア・ファン・デ・ポルと結婚し、父ヤン・コック・ブロムホフが1853年に没すると、その遺品の中でも最も重要な二枚の「ブロムホフ家族図」を受け継ぎます。 その一枚は、現在オランダ国立世界文化博物館(Wereldmuseum)が所蔵する五人構成の家族図であり、もう一枚は現在アムステルダム国立美術館(Rijksmuseum)が所蔵する六人構成の家族図です。ヨハネスはこの二つの作品を大切に守り続けました。 1900年1月29日、ヨハネスは83歳でその生涯を閉じます。六人構成の家族図は未亡人サラ・マリア・ファン・デ・ポルに受け継がれ、その後ファン・デ・ポル家に伝来しました。そして最終的にはファン・デ・ポル=ウォルテルス=クイナ財団を経て、2008年にアムステルダム国立美術館の所蔵となっています。一方、五人構成の家族図もブロムホフ家に大切に伝えられ、現在はオランダ国立世界文化博物館に所蔵されています。 彼自身が日本について語った記録はほとんど残されていません。しかし、生後わずか一年半で体験した日本での出来事は、多くの日本絵画や版画の中に今なお生き続けています。幼いヨハネス自身には日本での記憶は残っていなかったでしょう。それでも、日本人にとって彼は「初めて目にした西洋の子ども」の一人であり、その姿は約二百年を経た現在でも、「ブロムホフ家族図」を通して江戸時代の日蘭交流の情景を私たちに静かに語りかけています。 さらに、今日私たちがこれらの作品を目にすることができるのは、ヨハネスとその家族が二枚の家族図を代々大切に守り伝えてきたからにほかなりません。もしヨハネスが父の遺品として受け継ぎ、後世へ伝えることがなければ、「ブロムホフ家族図」は現代まで残ることはなかったかもしれません。その意味でヨハネスは、自らが描かれた作品の最初の継承者であると同時に、日本とオランダを結ぶ貴重な文化遺産を未来へ伝えた重要な継承者でもあったのです。  


「ブロムホフ家族図」と一口に言っても、実は一枚だけではありません。現在確認されているだけでも複数の作品が存在し、大きく分けると、六人構成、五人構成、四人構成の系統があります。 私が最も重要だと考えているのは、今回クラウドファンディングで修復を目指しているオランダ国立世界文化博物館所蔵の家族図です。 この作品は約200年にわたり、ブロムホフ家の子孫によって大切に受け継がれ、昨年になって初めてオランダ国立世界文化博物館へ寄贈されました。 一方、アムステルダム国立美術館所蔵の家族図(写真)は、ブロムホフの死後に息子ヨハネスが相続し、ヨハネスの死後はファン・デ・ポル家へ受け継がれ、その後、財団を経て、2008年にアムステルダム国立美術館が購入して収蔵されたことが分かっています。つまり、この二つの作品は、約200年という歳月の中で、まったく異なる道を歩んできたのです。アムステルダム国立美術館や大英博物館所蔵の作品は、ブロムホフ、ティティア、ヨハネス、乳母ペトロネラ、女性召使マラティ、そして名の分からないジャワ人少年(大英博物館の作品では少年と思われる人物)の六人構成になっています。 私は、この六人構成にはブロムホフ自身の意図があったのではないかと考えています。単に日本人に見せるための絵ではなく、母国オランダへ持ち帰ることを意識した肖像画だったのではないでしょうか。 18〜19世紀のヨーロッパでは、東インドで成功した人物が、異国の召使や奴隷身分の人物を従えて描かれることは、海外での成功や社会的地位を象徴する表現でもありました。 そう考えると、六人目の少年は、ブロムホフの権威や東インドでの成功を視覚的に示すために描かれた存在だった可能性があります。もしそうであるならば、ブロムホフは、家族の記憶を残すための家族図と、東インドで成功した商館長としての姿を示す家族図という、性格の異なる二つの作品を制作させたことになります。 もちろん、これは現時点では一つの仮説です。 しかし、私がさらに興味深く感じるのは、その後の作品の歩みです。約200年もの間、ブロムホフ家が子孫へ大切に伝え続け、決して手放すことなく守り抜いてきたのは、今回修復を目指しているオランダ国立世界文化博物館所蔵の家族図でした。もしブロムホフ自身、あるいはその子孫が、「わが家を代表する一枚」と考えていた作品があったとすれば、それがこの作品だったと考えるのは、ごく自然なことではないでしょうか。 だからこそ、この作品を修復し、約200年ぶりに日本へ里帰りさせることには、単なる修復事業を超えた大きな意味があると私は考えています。


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