坂の町・長崎に再び荷運び馬を!訓練中の対州馬の移転先に牧柵が必要です

かつて車の入れない長崎市の斜面地で資材を運んだりして人の暮らしを支えた対州馬が、絶滅に瀕しているのを救いたいと思い、同馬を2016年3月より、長崎市の放牧地で飼い始めた。しかし、事情により移転しなくてはならないので、移転先の柵の費用が必要。

現在の支援総額

667,000

148%

目標金額は450,000円

支援者数

93

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2018/02/13に募集を開始し、 93人の支援により 667,000円の資金を集め、 2018/04/30に募集を終了しました

坂の町・長崎に再び荷運び馬を!訓練中の対州馬の移転先に牧柵が必要です

現在の支援総額

667,000

148%達成

終了

目標金額450,000

支援者数93

このプロジェクトは、2018/02/13に募集を開始し、 93人の支援により 667,000円の資金を集め、 2018/04/30に募集を終了しました

かつて車の入れない長崎市の斜面地で資材を運んだりして人の暮らしを支えた対州馬が、絶滅に瀕しているのを救いたいと思い、同馬を2016年3月より、長崎市の放牧地で飼い始めた。しかし、事情により移転しなくてはならないので、移転先の柵の費用が必要。

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平成24年、夜景観光コンベンション・ビューローにより「世界新三大夜景」のひとつに選ばれた長崎市の夜景。それはデザインされた高層ビル群の夜景でもなければ、壮麗な宮殿等のイルミネーションの夜景でもありません。港をぐるっと囲む山裾に這いつくばうようにして建ち並んだ家々のともす灯りがつくり出す、言わば「素朴な生活の灯の夜景」なのです。   そしてその、ひとつひとつの灯りの元となる家屋の多くは、名もき馬たち、特に対州馬と人によって作り出されたものであることを忘れてはならないと思います。   長く続いた鎖国の時代にあっても、外国との窓口という役目を担っていた長崎の街は幕府の直轄地であり、人口の入出も厳しく制限されていました。よってその人口も3万を超えることがありませんでした。しかし明治維新とともに人口は爆発的に増加。平地の殆ど無いこの街に宅地をつくるには、山の斜面を削るしかありませんでした。もちろんトラックなど無い時代。急坂に建築資材や石材を上げるには、馬の力に頼らざるをえませんでした。しかも長崎・対馬産の対州馬は性格が従順でおとなしく、小柄な割りに足や蹄が強かったので、急坂で狭い小径ばかりのこの街の建設には無くてはならない存在だったというわけです。下は長崎の古はがきで、「長崎高野平(たかのひら、或いはこうやびら)住宅建物」と題されています。明治期から開拓・造成されていった坂の街で、長崎らしいめずらしい景観ということで絵葉書になったのでしょう。   高野平は現在の長崎市高平町にあたります。   そして下の写真は昭和50年に高平町で撮影された、荷運びをする馬と馬方さんの姿です。明治期から最近まで、長崎の街の至るところで、このような光景が見られたはずです。   これが現在の同地です。平成25年の現在、40年近くが経過しています。残念ながら荷運びをしていた馬は2009年を最後に途絶えてしまいました。しかし、ご覧のように今でも坂の街では車の入り込めない暮らしが続いており、ゴミ収集の方は写真のような柵付きのゴミ箱を引いて坂段を上り下りされています。   この坂を上ってみると、おそらく石段そのものは明治期から変わらぬ姿で奥へ奥へと続いています。   こういった急坂を最大250kgもの荷物を背負って上ることの出来る対州馬たちが、いかに貴重であったか、察しがつくのではないでしょうか。   しかし、人はより利便性を求め平地に建つ高層マンションへと移り住むようになったせいか、坂の街に空き地が目立つようになったようです。   明治期の茂木街道と愛宕山。まだ愛宕山の斜面は開墾された畑ばかりであるのがわかります。   現在の同地です。畑のあった場所にはびっしりと住宅が建ち並んでいます。移動手段が人力車や徒歩という時代において、牛馬の力がいかに頼られたかがここでもうかがえます。   ちょうど撮影場所の近くでコンクリートのうち直し工事をやっていましたが、セメント袋の運搬はトラックから人の手となっていました。しかし道路から離れている坂段の場所では今日でも尚、不便きわまりないはずです。   そもそも長崎市に一度でも来られたことのある方であればわかると思いますが、市内に入るのに平坦な地上のルートというのは、一箇所もありません。特に江戸時代まで主要なルートであった長崎街道で市内に入るには、「西の箱根」と呼ばれた日見(ひみ)峠を越えなければなりませんでした。つまり街を建設する多くの資材を搬入するにも、この急峻をこえなければならなかったわけで、ここでも多くの馬たちに助けられています。これは昭和初期に撮影された、「日見七曲り」と呼ばれた峠道の難所です。一人の馬方さんと荷車を曳いた馬の姿が見えます。荷は藁のように見えますが、おそらく中身はそのようなものではなく、米や炭などの重量物であったろうと思います。   同地は90年近く経った今でも、ほとんど変わっていません。この場所に立ってみてわかることは、すでにここがかなり標高が高い場所である上に、「七曲り」はむしろここから先、延々と続いていくということです。写真に見える馬の苦労が時を越えて伝わってきます・・・。   峠の頂上を過ぎた茶屋跡には、馬たちが喉を潤したであろう石の桶も残っていました。   七曲りを通ることのできないような大木を引く馬は大正15年完成の日見トンネルを通って長崎の街へ資材を運んでいます。   2009年に引退した最後の馬方さんは、『ここいらの家はほとんど馬で建材ば運んだとばい。馬の建てたようなもんたいね・・・』はつぶやかれていました。そして別の馬方さんは、「荷運びには、本当に対州馬がよかと。向いとると!」と話されました。他の馬にはない従順さとおとなしさ、忍耐強さがあるのだそうです。坂ばかりの街の近くに、このような性質を持った馬がいたことは、何とも不思議な縁と言うか、結びつきを感ぜずにいられません。(写真の馬は対州馬ではありませんが)   街全体がまるで古代ローマの円形劇場のような景観となった、その陰には対州馬をはじめとする馬たちの活躍があったわけで、独特の夜景を創りだしたのも馬たちの存在があったからこそ、と言っても言い過ぎではないと思うのです・・・。「港と坂の街、そして対州馬」。この一枚の写真こそ長崎らしい長崎の写真かもしれません。   (上の写真が撮られた場所です。今でもおじいさんと馬がのぼってくるような気がしますね)        


壱州の蒼い風
2018/02/25 17:20

壱州(壱岐)に教師として赴任していた時代の教え子から支援してもらいました。 担任であったというだけで、こういうプロジェクトに実際に力を貸してくれるなんて なかなかできないことだと思います。 彼の名を見た時に、あの蒼い壱州の風が吹いてきました。 今となってなっては、遙か遠くになってしまった壱岐の島。玄界灘に浮かぶ島。   そう言えば、彼の家は牛を飼っていた。 「壱州牛」というのは、こちらではなかなか有名なブランド牛である。 きっと幼い頃から、大なり小なり、家で飼養していた牛の世話をしていたのだろう。 当然そこには、悲喜こもごも、様々な想いが会ったであろう事は容易に想像がつく。 生き物を育てることの本質を知っていたからこそ、今回の支援に応えてくれたのでは ないかと思うのです・・・   壱岐での教え子達に卒業後、再会したのは、約10年前ぐらいのこと。 その彼が幹事であり、フェリーで港についた時の迎えから、旅館の手配など 最高に立派な同窓会をやってくれました。 私はなんの力も及ぼしていませんが、教え子たちが立派に成長したことを とても嬉しく誇らしく思います。   教師時代、独特な「島ルール」に苦労した壱岐でしたが、またいつの日か 訪れてみたくなりました。   ひん太からの暑中見舞い・年賀状は、彼のまだ幼い息子さんの名前で 送ってというコメントが添えられていました。 今から、とても楽しみです。


もう随分と前に亡くなった義父は、山を愛する山男でした。 口数は少ない人でしたが、目の奥に優しさの光る人でした。 つれあいの実家に泊まる時はどうしても緊張感が抜けないのですが、 義父はそんな時、黙ってビールとウイスキーの瓶を私の前に置いてくれ、 義父とただ黙々と飲む。それはとても心地よい時間で、次第に帰省する際の 楽しみにさえなりました。 義父の態度や言葉で嫌な思いをしたことは、ただの一度もありませんでした。   義父は山を愛する人で、休みの日ともなると早朝に起きて出かけていった そうです。   そんな義父の遺した登山用のカラビナを今、「お守り」として持っており、 ひん太の馬具の一部としても使っています。 カラビナは、調べてみるとウェールズにあるDMM社のものでした。 今回、無事に誰の手も借りず、ひん太を馬運車に載せ、移動できた のも、このお守りのお陰かなと思っています。 先日、義妹からも支援を頂きました。 何か目に見えない深い繋がりのようなものを感じます。   毎日行う調教(ルーティーン)の際にも必ずこのカラビナを使っています。 亡き義父の登山中の安全を見守ったカラビナ・・・ これからもずっと持って、使ってゆきます。


エッセイ①
2018/02/23 19:07

『 三井三池炭坑では、坑内馬として対州馬が非常にむごい使われ方をした 』   昭和初期頃まで、各炭坑の坑道内で使われていたという「坑内馬」。その坑内馬に関する記録はほとんど存在しないのですが、北部九州に炭田が分布していたことと、馬の体格と気質、能力を考えると、対馬産の対州馬が使われないはずは無いとずっと思っていました。そしてその悪い予感は残念ながら一冊の本、「坑内馬と馬夫と女坑夫」 武松輝男著 創思社出版によって証明されたばかりではなく、その実態たるや身の毛もよだつような残虐かつ悲惨なものであったということが明らかになりました。     『 坑内馬ネー、私はそのときはまだ小さかったんで詳しいことはわからんが、対州馬、対馬の馬ですたいな、それと島原馬を取り扱っていたことは知っとります。背の高さは五寸五寸と言っとりました。四尺五寸のことで、今の寸法で136センチぐらいですたいな。こまぁか馬でしたバイ・・・・ 』 これは祖父が坑内馬の売買を生業にしていたという方の証言です。大資本の三井三池炭坑では、昭和の初め頃まで、坑内の石炭運搬に対州馬と島原馬(現在は絶滅)が使われていたということです。証言には「島原馬」ともありますが、島原馬は馬車などを曳く、割と大きな馬だったと聞いたことがあるので、天井が低く、勾配がある足場の悪い坑内作業を考えると、やはり対州馬が主に使われたのではないでしょうか。 「粗食に耐え、小柄の割に力が強く、性格は温厚で従順」この特質が炭坑にとってはうってつけだったということですね。何千(或いは何万?)という馬たちは、馬たちは一度坑内に下げられると、二度と地上に上げられることはなく、気温40℃、湿度95%、ガスや細菌の蔓延する、昼も夜もない、季節もない暗闇の中で平均2年あまりという短い年月で、弱り果て、苦しんで苦しみ抜いて死んでいっています。作業中の状況たるや、悲惨なもので、同書内の表現を借りると、以下のようなものとなります。『 一頭の馬が一回に運ぶ距離は、片道で307m、これを炭函(車)を曳いて28分費やしている。 10mの距離を1分もかかる。坑内というところは底盤は殆ど岩盤で、しかも凹凸があって平坦な道筋ではない。レールにしても、いま私たちの目の前にあるようなあの頑丈なものでもない。炭車の車輪もベアリングの車軸ではない。 坑道の要所要所に設けられた燈火にしても、今のような昼光色ではない。そういう軌道上を、背丈の低い矮小馬が重たい炭函を、10mを1分も費やしてあえぎあえぎ曳いた。 』『 坑内はですな。ひらったか道ばかりじゃなか。上がり坂もあるが、下り坂もありますタイ。 上り坂を馬に曳かせて上る時には”ソラー!”チ、馬に気合いバ入れんといかん。 そんとき、手で馬の尻を叩こうもんなら、馬も人も汗ビッショリになっとるもんで、汗が飛び散ってワタシン顔にかかっとデス。そいけん私は竹ヒゴ持っといて、それで馬ン尻バ叩こりました。 馬ン口には白かねばっこか泡ンつこりました。馬はきつかったっでしょナ。 (中略)馬に曳かせんと、馬方は金にならんもんですケン、少々くたびれとるとわかったっチ、叩いてでん曳かせよりました。ハイ 』   馬たちは、唯一食事だけが楽しみだったと思うのですが、その食料さえ馬夫たちにピンハネされて、ろくに食べられなかったといいます・・・・平均2年で死んでいくということは、たった数ヶ月で衰弱死したり事故死したりする馬も多かったのでしょう。ならばある一定期間が過ぎたら、地上に上げて回復させれば良いのではないかと思いますが、そういうことはいっさいなく、死ねばその分をまた補充しただけということですから、坑内馬として使われた対州馬たちは、「生き物」としてでなく、「働き手」でもなく、ただの「取り替えの効く消耗品」として扱われたのだということがよくわかります。人類史上、これほどにむごたらしい動物虐待は他にないかもしれません。  


皆さんがご支援くださる時に一緒に添えてくださる応援メッセージほど、ありがたく励まされるものはありません。 その中には、ご自身がかつて町中で荷はこび馬を見たという方も少なくないのですが、数日前電話を下さった方の体験は かなり印象的なものでした。   その方は中学生の頃、大浦辺りに住んでおられたそうなのですが、ご自身のおうちが改築か何かをされた際に 荷はこび馬が建築資材を担いで上り下りしていたそうです。 しかし、ある時その馬が重い荷に耐えきれず転んでしまい、足を折ってしまったそうです。 獣医さんが判断した結果、これはもうどうしようもないということになって、その場で安楽死の処置がされたということです。 確かに、馬にとって足を折ることは即「死」を意味しますので、その処置は十分にわかります。 それで、その様子を見ていた電話の方は、そのことが忘れられず、何とか荷はこび馬のためにしてやりたいということで 連絡をくれたということでした。   そういう荷運び馬の話は、正直今まで聞いたことがなかったので、少なからず私にとってもショックなことでした・・・。   (*画像は記事内容とは直接関係のない参考の為の借り物の画像ですので、二次使用等はご遠慮ください)


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