監督によるインターナショナル版ができるまで、「其の一」「其の二」の続きです。***当初の予定は、ボイド眞理子先生による完訳の予定を2~3月、途中の3月初旬からクラウドファンディングをはじめて世の中にPRして、4~5月に小川アヤ氏による英語字幕作成、6~7月ぐらいには完成するつもりでした。ところが、まさかのコロナ禍……小川さんの住むニューヨークは3月23日にロックダウンになってしまいました。プロジェクトの延期も考えました。中止が頭よぎったこともありました。悩んだ揚げ句、クラウドファンディングは無期延期とするが、そのほかは各自が無理のない範囲で少しずつでも進めていくことにしました。物事には勢いがあって、もし止めてしまったらもう再開はないだろう、とそんな思いから苦渋の決断でした。ニューヨークはそのような状況でしたので、スケジュール的には時間が掛かりましたが、小川氏はご自身の生活と仕事との折り合いを付けながら作業を進めてくれました。小川氏とも何度も議論を重ねましたが、一番苦労したのは映像の翻訳字幕のフォーマットです。・文字数は1秒17~20文字・1行40文字(42~43までは許容)で・1枚あたり2行以内このような英字の字数制限をはじめ、厳しいルールが多いのです。日本語は漢字という表意文字がありますが、英語は表音文字なので、どこまで削るか、その闘いになります。映像翻訳は80%伝わればいい方、というのがよく分かりました。三者間で作業中の一部(Z列まで使っています)時に、ボイド先生を交えて議論する機会がありました。メールでのやりとりだったんですが、日本語だと、お二人ともどうも窮屈そうで、私が「英語で構いませんよ」と言いだしたら、どちらも一気に饒舌になりました。久々にどっぷり英語に浸かった日々でした(笑)内容についてとても面白い議論があったのですが、一つだけご紹介します。矢太郎:(三味線を手にして宮城野に突き出して)そら、こいつぁ酔狂だ。弾けたら、お前の絵を描いてやる<第1稿>Here you are, ya crazy drunk.If you can play this, I’ll paint an ukiyo-e of you.日本語の台詞は主語が省略されていますし、主述関係もよく分かりません。「こいつ=酔狂」にいたっては、指示語が何を指しているのか、酔狂という単語は解読不能ですよね(苦笑)「酔狂」は「お互い酔っ払ったノリで酒の席のいい加減な約束をするぞ」という意図なんです。こういうのは、どういう意図をもって監督が演出したか、それをお伝えしないと翻訳字幕に収めることができませんよね。結果、このようになりました。<決定稿>All right, let's make a drunken deal.If you can play this, I'll paint a portrait of you.“drunken deal”(酒に酔った取引)なんて絶妙な翻訳ですよね。9月が終わり、ようやく字幕作成が終わりました。英語字幕の最終チェックを終えたボイド先生は「非の打ちどころのない『作品』に仕上がっております。どうぞご安心ください」と太鼓判を押してくれました。「非の打ち所がない」ってなかなか言わないし、聞かないですよね? 一生の中で数回出るか出ないかのような気がします。ただでさえ難しい作業の上、コロナ禍という未曾有の事態、ここまでたどり着けたことに心より感謝いたしております。そして、折に触れて相談に乗ってくれた方にも御礼申し上げます。英語字幕は無事完成し、現在は、それを映像と同期させる作業や変換作業を行っております。11月上旬にはすべて完成し、プレミア上映にはキッチリご覧になれるはずです!映画『宮城野』監督 山﨑達璽
山﨑監督による映画や歌舞伎にまつわるコラム、第二弾をお届けします。***ドラマ『半沢直樹』は歌舞伎俳優のポテンシャルの高さを見せつけたドラマでした。台詞術や表情の作り方などの極端な部分<歌舞伎ガカリ>も注目されました(前回コラム:『半沢直樹』にみる「歌舞伎ガカリ」)が、思わず引きつけられる存在感のようなものも大きいと思います。しかし、歌舞伎俳優たちがその魅力を映像で発揮したのは今に始まったことではありません。是非、市川崑監督の『炎上』(58)をご覧いただきたいと思います。『炎上』(58)(角川映画)より三島由紀夫の『金閣寺』(58)を原作に、時代劇スター・市川雷蔵が主演。三島氏自身も大絶賛するほどの、日本映画史に燦然と輝く傑作です。60年以上前の作品ですが、すでに歌舞伎俳優のポテンシャルの高さは存分に発揮されています。主演の市川雷蔵は歌舞伎の出身です。20歳までは歌舞伎俳優として舞台に立っていました(37歳で没)。そして、もう一人の主演ともいうべき老師を二世中村鴈治郎が演じています。この二人の存在が尋常ではありません。歌舞伎ガカリは微塵もなく、内面を掘り下げた徹底的なリアリズムです。思わず引きつけられる歌舞伎俳優の魅力が全開といってもいいでしょう。我らが愛之助さん、『宮城野』の矢太郎はどうでしょうか?内面も掘り下げつつ、歌舞伎ガカリも時折見せてくれます。欲張りですね。そりゃそうです、日本で一番歌舞伎を愛する監督が作ってますから(笑)映画『宮城野』監督 山﨑達璽Twitter:@yamazakitatsuji
英語字幕制作で【シナリオ翻訳】を担当していただいた上智大学名誉教授・ボイド眞理子先生より、メッセージをいただきました。***Having translated Seiichi Yashiro's The Courtesan Miyagino (1966) for Half a Century of Japanese Theater Vol. VIII edited by the Japan Playwrights Association, I was deeply interested in Director Tatsuji Yamazaki's film version, which featured Yashiro's actor-daughter as Miyagino, the hooker with a heart of gold.I was delighted to find that the director had cut his way through the linear structure of the original, shattering time. Furthermore, he re-styled some sets into pseudo-kabuki, photo-shoot, or pop-up papercraft, with black-clad assistants lurking in the corners.It has been a great challenge, pleasure, and honor to translate The Two Portraits of Miyagino. Mari BoydProfessor Emeritus, Sophia University(日本語訳)私は、矢代静一の戯曲『宮城野』(1966)を翻訳したこともあって、矢代の愛娘が、慈悲深い心を持つ主人公・宮城野を演じる山﨑達璽監督の映画版に深く興味を持ちました。山﨑監督はこの映画で、オリジナルの戯曲が持つ直線的な時間構造を壊すことで新境地を切り拓いています。さらに、監督は黒衣を片隅に忍ばせ、それは歌舞伎を模したり、静的な構図だったり、飛び出る紙細工(立版古)などの斬新な表現技法を用いており、とても感銘を受けました。非常に大きな挑戦となりましたが、このたび、映画版『宮城野』(英語題“Two Portraits of Miyagino”)の翻訳に携わることができ、誠に光栄に存じます。上智大学名誉教授 ボイド真理子
監督によるインターナショナル版ができるまで、「其の一」の続きです。***通常の映像翻訳は、まず日本語の台詞を抜き出してリストにして、そこから翻訳字幕を作っていきます。しかし、映画『宮城野』は内容が内容だけに、もっと緻密な作業が必要だとの認識で、ボイド眞理子先生に依頼したという経緯でした。まずボイド先生が、ト書きも含めて台本の全文を訳して、その「完訳台本」を作ります。それをベースに英語字幕を作るという作業工程です。後者には、NYブルックリンで活躍する演出家・小川アヤ氏が担当することになりました。翻訳字幕は「80%伝えられるか伝えられないか」という字数制限との闘いがあり、実際の制作現場で活動している人の方が適任だとの判断からです。ボイド先生と小川氏は数年にわたって一緒に翻訳の仕事をされています。このように圧倒的な手間暇が掛かりますが、やるならとことんというのが私の信念であり、この作品への執念です。2月、プロジェクトの準備が整い、まずはボイド先生による完訳が始まりました。その作業は「これはこれで売り物になる」と先生がおっしゃるように、とても緻密なものでした。いろんな議論がありましたが、その一つをご紹介します。たびたび登場する「ニセ絵」。 直感的には“fake”と訳してしまいそうなところですが、いろいろ話し合って“copy”と訳してもらいました。原作では「似せ絵」と書かれているのですが、それは単に「肖像画」を意味するので、原作者との認識の違いと思われます。私たちが脚本を書く際には、当初は「贋作」という字を当てようと思いましたが、結果、カタカナで「ニセ絵」としました。矢太郎の描いた絵は、写楽の筆を写した「代作」であり、やがてそれ自体が「真作」に成り代わるからです。“copy”に至った訳ですが、これには私の中に三島由紀夫の『文化防衛論』(1969年初刊)の裏打ちがありました。要約すると、【日本文化は、「オリジナルとコピーの弁別」を持たない。伊勢神宮の20年毎の式年造営のように、いわばコピーに「オリジナルの生命」が託され、「コピー自体がオリジナルになる」のである】日本文化の有り様を的確に捉えた解釈だと私は考えています。このような議論から、エピローグの台詞は以下のように訳されました。<日本語> 本物とニセ物の境なんてものぁ、とっくのとうに消えてなくなっちまった。 写楽そのものが、洒落臭え戯れ言よ ↓<英訳> The border between origin and copy disappeared long ago. Sharaku himself has become an impertinent joke.4月下旬、ボイド先生による完訳が完了しました。別の言語から作品を解釈するのは、非常に客観的な視点が加わり、新たな発見が沢山ありました。それは矢代戯曲へのより深い理解につながり、自分の作品を見つめ直すきっかけになりました。続いて、小川氏による英語字幕の作成に入っていくはずだったんですが――(其の三へ続く)映画『宮城野』監督 山﨑達璽
本プロジェクトにあたり、女流義太夫・鶴澤寛也さんより応援メッセージをいただきました。***毬谷友子さんと片岡愛之助さん(半沢直樹での黒崎)のW主演。竹本綾之助師匠と私は、劇中劇で日本髪のカツラを被って義太夫を演奏しました。目の前での毬谷さんの演技は、無垢な童女でもありコケティッシュな女郎でもあり、重層的で凄絶な美しさを放っていてとてもとても魅力的でした。どうか世界中の皆様にこの映画が届きますように!鶴澤寛也(女流義太夫三味線)***映画『宮城野』で女流義太夫を担当してくださったのが、竹本綾之助さんと鶴澤寛也さんでした。簡単に解説をします。「義太夫(ぎだゆう)」とは、文楽(人形浄瑠璃)や歌舞伎の伴奏音楽の一種です。三味線を伴奏にして、太夫(たゆう)が台詞や描写を語ります。「歌う」と言わないところがポイントで、叙情的な力強さを持っています。「女流義太夫」とは、文字通り女性による義太夫のことで、明治から大正にかけて絶大な人気を誇りました。本作では、毬谷さんに合わせるため女流義太夫にご出演にいただきました。「出語り」とは太夫と三味線奏者が舞台上に姿を出して語ることをいいます。本作では押し入れの襖がくるりとまわって登場します。これを「文楽廻し」といい、美術スタッフがこだわったところです。物語は終盤、宮城野が七歳の夏の思い出を語る場面です。ここは宮城野が己の性分を伝える重要な描写になります。ただ喋るだけではなくて、この映画ならではの、観客の印象に強く残る演出をしたいとの監督の思いから、いろいろとアイディアを出しあって「女流義太夫の出語りによる所作」という演出が生まれました。本作の詞章(語りのテキスト)は、狂言作者の竹柴潤一さんによる書き下ろしで、節付(作曲)もまた鶴澤寛也さんによるオリジナルです。<詞章>一天俄に かき曇り 篠突く雨に 風 いかづち幼いながらも逃げまどう 地肌は崩れ森は折れ 一際だちたる雷は 眼前尺余にほむらを落とす「モシ仏神様 天道様わたしを助けてくださらば 向後いかなる辛き目に遭うとも 不平は申すまじ これぞ今生後生の願い たのむ」と云えども 辺りは 火炎わきたち 岩流るる不思議や紅蓮の奥よりも「川さ飛び込め」の声ぞして はずみにしぶきを上げにける振付もまた、所作指導も担当されている舞踊家の藤間貴雅先生が一から作りあげたオリジナルです。撮影・照明にもこだわり、瀬川カメラマンは印象派の画家エドガー・ドガの『踊り子』のような映像を目指したといいます。……と長くなってしまいましたが、このように監督の「初期衝動」を叶えるために、一流のスタッフたち、そして毬谷さんがフルスロットルで作り上げた場面となっています。あらためて本編をご覧の際にご注目いただけますと幸いです。最後になりましたが鶴澤寛也さん、応援をいただきありがとうございます。撮影時の・竹本綾之助さん(左)・鶴澤寛也さん(右)鶴澤寛也さんは女流義太夫演奏会へのご出演、「女流義太夫 浄瑠璃を学ぶ会」で講師を務めるなど、多岐にわたりご活躍中です。最新の情報はHPで、Twitterでもさまざま発信されています!▶︎鶴澤寛也さん公式HP▶︎Twitter(@tsuruzawakanya)