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荒廃した奥地人工林を『低コストで管理できる森林』へ!

日本の林業は衰退に歯止めがかからず、里山奥地の人工林は管理がままならぬ事態へと陥っています。私たちは人工林に隣接する天然林から広葉樹の侵入を誘導し、放棄された奥地の人工林を効率よく天然林へと戻すことで、多面的機能が高く、「低コストで管理できる森づくり技術」の開発と普及を目指します。

現在の支援総額

1,560,000

173%

目標金額は900,000円

支援者数

145

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2020/10/20に募集を開始し、 145人の支援により 1,560,000円の資金を集め、 2020/11/30に募集を終了しました

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荒廃した奥地人工林を『低コストで管理できる森林』へ!

現在の支援総額

1,560,000

173%達成

終了

目標金額900,000

支援者数145

このプロジェクトは、2020/10/20に募集を開始し、 145人の支援により 1,560,000円の資金を集め、 2020/11/30に募集を終了しました

日本の林業は衰退に歯止めがかからず、里山奥地の人工林は管理がままならぬ事態へと陥っています。私たちは人工林に隣接する天然林から広葉樹の侵入を誘導し、放棄された奥地の人工林を効率よく天然林へと戻すことで、多面的機能が高く、「低コストで管理できる森づくり技術」の開発と普及を目指します。

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南洋材の動向
2021/02/14 23:37
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ヤブコウジの実お久しぶりです。冬の寒さも緩み、春を感じる日が増えてきましたね。昨日は試験地に行く道中でヤブコウジの実を見つけました。ヤブコウジは背丈の低い小さな樹木で、なじみが薄いかもしれません。しかし、恐らく皆様一度は聞いたことがあるはずです。かの有名な落語「寿限無」の名前の中で「やぶらこうじのぶらこうじ」というフレーズがありますね。この部分、漢字で書くと「藪ら柑子の藪柑子」と書きます。この「藪柑子」というのが、ヤブコウジのことです。元々、生命力が強い縁起物の木であることから寿限無の名前に採用されたと言われています。 また、その小さな樹勢が盆栽の世界では気に入られ、よく利用されるようです。そんなヤブコウジは晩秋から冬にかけて、写真のような赤い実をつけます。見れる期間はあとわずかかもしれませんが、本州以南には分布しているので探してみてはいかがでしょうか?間伐の様子間伐は一つの山に設置した分が終わり、別の山での作業が始まりました。新しい試験地この試験地は非常に斜面が急なので、足場が悪い中での作業になります。日本の特に本州以南では、ここのような急傾斜地にも広く人工林が広がっています。日本は地形の問題から、わずかな平野には田んぼと民家を割り当ててきたので、やむを得ず急傾斜の山間部で林業が営まれる形となっています。一方、欧米では平野部でも森林が広がっており、大型の機械が入れるような道が整備しやすい地形です。そのため日本よりも効率的にコストをかけず林業を営みやすくなっています。その点、日本はディスアドバンテージを負っている状況ですが、逆を言えばまだまだ機械化の余地が残されている分野でもあります。生産ロットが向上するような、今後の技術革新に期待です。大径木の伐採さて、様子を見に行った日、一本の大径木がプロット内にあり、伐採することになりました。腕を回しても回りきれないほどの太さで、伐倒する瞬間も地響きのような轟音が響き非常に迫力がありました。55年前に植えられた人工林の中で、明らかに周りの個体よりも大きかったので、前回の伐採で倒されずに残されたのかな?と思って年輪を数えてみました。その様子が下の写真です。伐倒した大径木の年輪すると驚いたことに、この個体も55歳の個体でした!年輪を見ると、初期の年輪幅が非常に太く、恐るべき成長力を持っていたことを示しています。さらに、芯が幹のほぼ中央に位置しており樹形も非常に綺麗な個体だったことが分かりました。まさにスギ界のエリートです!このような優れた成長力や樹形を持つ個体は、枝から挿し木をしてクローンを作ることがあります。この個体も十分その資格があるでしょう。開けた部分から林内に光が差し込む間伐が終了した場所からは、日光が差し込み鬱蒼としていた森林が明るい雰囲気になりました!残りは1/4ほどになります。急傾斜での作業なので!、安全第一で引き続き取り組んでいきたいと思います!リターン制作の様子リターンも順調に制作が進んでおります。4月の初旬に発送予定ですので今少しお待ちいただけると幸いです!南洋材の動向さて、前回まで拡大造林期とそれに続く木材価格の低下について解説してきました。今回は、国産材の競争相手となった外国産材の一つ、東南アジア・オセアニア産の「南洋材」といわれる木材の動向について紹介したいと思います。また、昨年末の日本経済新聞の記事に「南洋材丸太、消える市場 輸入最大手が来春廃業、国産伸び「循環経済」シフト 」というものがあったので、この内容に即した形で解説していきたいと思います。さて、木材価格がピークを迎え下落に転じ始めていた1987年当時、日本は世界の木材貿易のうち丸太の5割、製材の1割、合板の2割を占める量の輸入を行っていました。特に東南アジアやオセアニア産の南洋材は、①大径木であることによる歩留まりの良さ, ②年輪を持たない※1, ③節がないことによる強度の増加, ④安い, といった特徴が合板やコンクリート型枠用合板に適しており、大量に輸入されていました。そのため熱帯雨林破壊を進める国として国際社会から非難を受けてしまいます。しかし、1980年代後半、南洋材産出国であるフィリピンやインドネシアは、自国の森林保護や、自国に存在する資源を自国で管理・開発しようとする「資源ナショナリズム」を進めるため、原木丸太の輸出を禁止しました※2。日本はこれ以降、南洋材の輸入をマレーシアに頼っていましたが、マレーシアのサバ州政府も2018年5月、森林保護を理由に丸太の輸入を禁止しました。そして最後に行きついたのが、パプアニューギニア(PNG)だったのです。ところがその、PNGも2020年2月に木材産業の育成を目的とし、丸太の輸出関税を引き上げることとなりました。さらに、25年には丸太輸出の50%を禁止するという情報もあり、いよいよ南洋材の輸入が難しい状況になっています。また、2000年頃から国産針葉樹材を利用した合板用材の生産量も増加し、南洋材を取り巻く環境は厳しさを増しています。その結果、南洋材の輸入業者は事業の継続を断念せざるを得なくなっているのです。これが日経の記事になっていました。 さて、一連の変化は南洋材関連の業界にとって痛手であることに違いありません。しかし、2000年ごろに平均直径が80㎝あった南洋材が、現在では60㎝程度のものしか入手できなくなっている状況からしても、この資源利用方法に持続性がないことは察しが付きます。今後さらに、SDGsを考慮した資源調達方法が企業に求められるようになると、外材依存の現状から自国資源を有効に利用する方向へ変化する動きが加速するのではないでしょうか?次回は、このような外材の動向が国内林業に与える影響について考察していきたいと思います!お楽しみに!※1:年輪は環境の季節変化による成長量の違いによって生じる。そのため、季節変化の少ない低緯度地域では年輪が発生しない。※2:フィリピンは造林樹種を除くラワン等の有用樹種の制限1986。インドネシアは全面禁止1985。参考文献・東南アジアの木材産出地域における 森林開発と木材輸出規制政策. 立花 敏. 2000.『地域政策研究』(高崎経済大学地域政策学会) 第3巻 第1号 2000年7月 49頁~71頁  ・南洋材丸太、消える市場 輸入最大手が来春廃業、国産伸び「循環経済」シフト 日経 2020/12/19


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梅の花が咲きましたあっという間に今年最初の月も終わってしまいましたね。平井ではここ数日暖かい日が続いています。山では梅の花が咲いており、少しずつですが春が近づいているようです。一方、山は花粉のせいか赤く色づいており、花粉症が心配です…。梅の花間伐作業の進捗間伐は、当初の予定よりもかなり早いスピードで進んでおり、昨日で丁度半分が終わりました!スタッフの方の腕が上がっているようで、とても感謝しております。今日は別の山の試験地に移り、林道用地の伐採作業に入っていました。こちらの山は斜面が急なので作業が難しいと思いますが、安全第一で進めてまいります!林道用地の伐採作業の様子リターンの制作通常は山での作業がメインですが、天気の悪い日などを利用してリターンの準備も着々と進んでいます!この木工作業も和歌山研究林の施設を利用して行っており、研究室にも時折作業の音や木の匂いがしてきます。木工場には様々な樹種が置かれていて、見ているだけでも面白いかもしれません。コースターはこの中にある樹種から選ばれるます。発送は4月中となっております!どうぞお楽しみに!リターン制作風景低下した国産材の木材価格今日は拡大造林期のお話の続きをしたいと思います。前々回までに拡大造林が行われたところまで話しましたが、その後日本では急速に木材価格が低下してしまいました。この理由については様々に言われていますが、特に大きかったのは外材の輸入自由化だと言われています(※1)。高度経済成長の木材需要に応えるという目的もあった拡大造林ですが、その成長を待っていてはとても需要を賄うことができず、1964年から外材の輸入が自由化されました。すると、外材は安く大量に手に入ることから注目を集めます。さらにその後、1949年以降1ドル360円で維持されていた円相場が維持できなくなり、変動相場制が導入されると円高が進み、さらに外材への依存度が高くなってしまいました。工法のイメージ図しかし外材の輸入自由化に伴ってすぐに木材価格が低下したわけではありません。実際には1980年まで国産材価格は上昇しました。これは国産材は柱材、外国産材は合板材という住み分けがなされていたためです。ところが、時代の変化に伴い住宅建設の工法も変化してしまいました。従来の柱を中心とした工法(在来軸組工法)に代わり壁面を中心とした工法(2×4工法)の着工数が増加したのです。その結果、外材にシェアを奪われ価格の低迷期に入ってしまいました。安ければ喜ばれるのでは?ところで安いことは良いことではないの?と感じる方もいらっしゃると思います。ごもっともな話で、品質が良く安定供給可能であれば、消費者も安い方を選ぶでしょう。ところが、国産材の場合そう上手くは行きませんでした。ここには2つの原因が挙げられます。1つは量の問題です。価格が低迷している状況になると伐採しても利益が出にくいので、積極的に伐採しようとする林家さんは増えません。その結果、必然的に出材量が減り安定供給が難しくなります。一方で、ハウスメーカーなど大規模な需要者は、コスト面において原木の安定供給を望んでいます。そのため、出材量が不安定な国産材に依存するのはリスクが伴うことになってしまうのです。2つ目の問題は乾燥処理です。木材は湿った状態のまま材として用いると、割れや歪みといった問題が生じます。そのため、予め乾燥させておいた材が必要となります。しかし、この乾燥処理をする設備は投資に対し、すぐに製品価格の向上につながるわけではないので、大規模な業者でなければ積極的に導入することが出来ません。その結果、乾燥設備が整っており乾燥材を入手できる外国産材がさらにシェアを高めてしまいました。ここまでが木材価格が低下した経緯となります。次回は2月中旬を予定しています!お楽しみに!※1:農林水産委員会調査室 稲熊利和. 2010.林業活性化の課題~路網整備と木の徹底的な利用の促進~. 立法と調査. 2010.1. No.300


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2021年もどうぞよろしくお願いします!昨年はご支援有難うございました!今年も引き続き活動報告をしてまいりますので、どうぞよろしくお願い致します!寒い日が続いていますが皆様いかがお過ごしでしょうか?平井も今年に入ってからか何回か雪がちらついています。元日も夜に降った雪が薄っすらと積もっていました。雪は滅多に降らないと聞いていたので、何回も雪景色を見ることが出来たのはむしろラッキーかもしれません。薄っすら雪の積もった平井集落峯薬師の御開帳1月12日は古座川町内にある峯集落の薬師如来堂が年一回の御開帳をしていました。峯集落は平井と串本の中間地点付近にある集落です。その名の通り山の峰付近にあるため、川沿いを走る国道からは全くその姿が見えず、狭い山道を暫く通らなければいけません。地図をご覧いただくとその位置関係が想像しやすいかと思います。「矢倉神社」と書いてあるところが峯集落です。峯集落 民家の裏手には無社殿神社の矢倉神社があるこのように山間部にひっそりと存在する集落につきものなのが平家の落人伝説ですが、この集落も例外はありません。 集落住民のご親戚に伺った話によると、平家の落人が厨子を担いでここまで逃れてきたとのことでした。その厨子を祀っているのが、この峯薬師です。普段は秘仏とされ閉じられていますが、1年に1回、1月12日だけ御開帳されます。峯薬師如来堂古座川町史によると、この御開帳の当番は集落住民によって順番に決まっていたそうで、当番になった人は精進料理等の費用を負担したり、餅まきやぜんざいづくりをしたりするそうです。もともと規模の小さな集落だった峯集落ですが、現在では3名の方しか残っておらず、こういった祭礼の継承も難しくなってしまうかもしれません。しかしながら、実際に訪問してみると代わる代わる人がやって来ていました。聞けば、古座川や串本に檀家の方々がある程度いらっしゃって、年一回のこの日には必ず参拝する方も多いそうです。また、薬師堂の近くには、サクラとしては100年ぶりの野生新種として注目を集めたクマノザクラがあり、春にはそれを見に来る人もいるそうです。小さい集落ですが、見どころが多い峯。今後も文化が継承されていくことを願います。平家の落人が担いできたという厨子平井を作ったのは平家か?源氏か?ところで平井集落も峯同様、平家の落人伝説があります。ところが、平井では源氏の落人伝説も伝わっています。前林長がまとめた論文によると、集落住民に平家の落人伝説が伝わっている一方で、周辺の神社の由緒書には源氏の一派が切り拓いたとする2通りの記述が残っているそうです。また、集落の神社である八幡神社は源氏の信仰対称であったことからも、どうやら源氏の末裔らしいとされています。いずれにせよ、長い時間の中で真逆のルーツが混在することになった経緯を是非知りたいものです。案外、全国に散らばる平家の落人伝説も一部は源氏由来だったりするのかもしれませんね。集落を見下ろす位置にある若宮八幡神社間伐の進捗状況間伐作業はいよいよ1セット目(5・10・20m×40m)が終了しました!5m幅は林道のような雰囲気。10m幅は2車線道路の雰囲気。20m幅はちょっとした公園程度の開き具合となっています。このセットを残り3セット、計4セット作ることで反復としています。事前に行った調査では、林床にサカキやシキミ、アカガシなどの実生が見られました。今後、数年かけてどのように変化するか、非常に気長な実験ですが、今からとても楽しみです!間伐処理区参考文献古座川町史編纂委員会. 2010. 古座川町史 民俗編森平さと. 1999. 熊野紀行 鮎の道・古座川. (新和歌山新報社)揚妻直樹 小西富美代. 2019. 熊野地方・古座川流域最奥部の平井集落に伝わる屋号. 北海道大学演習林研究報告, 71(1), 39-46  


拡大造林期1
2020/12/31 00:26
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意外に寒い和歌山寒い日が続いておりますが皆様いかがお過ごしでしょうか?古座川町は本州最南端の串本町に隣接する町なので温暖なイメージでしたが、いざ住んでみると朝晩の冷え込みが厳しく驚いています。つい最近は隣の集落にある気象庁の観測所では最近-3.4℃を記録したようです。山間部だからこんなに冷え込むのかと思っていたのですが、集落の方の話ではこの12月は近年稀にみる寒さっだったようです。家屋は北海道ほどの防寒仕様にはなっていないので、部屋の中は札幌より寒いんじゃないかと思います。そんな寒さが続いていたので、この周辺では滅多に積もることの無い雪がうっすらと積もった光景を目にすることが出来ました。平井集落ではすぐに溶けてしまったようですが、研究林内の山の上では長い時間雪が残っていました。洋風の官舎に雪が良く似合いますね最近塗り替えた屋根の青も良く映えます研究林内に積もった雪研究林内の雪間伐の進行具合を見に行っただけで手がかじかんでしまいました。この寒い中、山の中で間伐作業をしていただいている職員の皆様にも感謝です。拡大造林期さて前回まで木炭の歴史を見てきて、エネルギー革命と共に木炭製造が衰退し広葉樹の需要も減少したところまで説明してきました。ここからは、急速に針葉樹の植林が進められた拡大造林期の話をしたいと思います。針葉樹人工林が急速に広がった背景には大きく2つの要因がありました。1つは国土保全です。もう一つが、木材需要の変化です。拡大造林の大きな要因戦時中の軍需物資の供出に伴う大量伐採と、それに続く戦後復興のための大量伐採によって、戦中・戦後の日本の森林は酷く荒廃していました。その結果、昭和20年代から30年代にかけて日本各地で荒廃に伴う山地災害が発生するようになり、速やかに国土緑化を行う必要がありました。また、エネルギー革命に伴い薪炭材にする広葉樹の需要が減る一方、復興に必要な建材や梱包材のための針葉樹材の需要が増加していました。このような経緯から成長速度が比較的速く、建材や梱包材としても優秀なスギ・ヒノキの一斉造林が開始されました。このグラフは日本の人工林の年齢別の面積を表したグラフです(2012年時点, 林野庁平成25年度林業白書の数値を参考に作成)。横軸が森林の年齢で縦軸が面積です。拡大造林が最も盛んだった1950年代から1960年代にかけて植えられた部分が非常に大きな割合を占めていることが分かります。また、一般的な人工林の"収穫"時期は植えてから50年程度とされており、当時植栽された人工林がまさに今、収穫時期に達しています。その一方で国内林業は衰退してしまった(その経緯は次回以降にお話しします。)ため、この豊富な資源をどう利用するかが問題となっています。さらに、このグラフの重要な問題点は面積の分布に偏りがあることです。収穫時期にある森林は沢山あっても、将来利用できる森林が少ないと安定的な国産材供給が出来ません。そのため、利用期に達した森林を利用して、新たに植栽しておく必要があります。ちょうど人間の少子高齢化が問題になっているように、日本の針葉樹人工林でも少子高齢化が深刻になっているわけです。次回からは、なぜこの大量の資源が使われずに蓄積してしまったのかお話したいと思います。2020年は誠にお世話になりました。来年からもどうぞよろしくお願いします。さて、2020年はコロナで思い通りにならない日々を過ごした方が多かったのではないでしょうか?僕自身、同級生が一人もいない和歌山研究林に所属し、県外に出ることができない1年間は非常に心細く感じました。しかしながら、クラウドファンディングを通じ皆様との関係を築いたことで、森林の抱える問題を世に広めるという非常にやりがいのある仕事に関わることができ、有意義な時間が過ごせたと思っております。プロジェクトは来年以降が本番です。ここからさらに力を入れて取り組んでいきたいと思いますので、どうぞ来年からもよろしくお願いします。それでは皆様、良いお年を!2020年12月31日 井口光


炭の歴史2
2020/12/14 22:21
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進捗報告今年も残すところ半月ほどとなって参りましたが、皆様いかがお過ごしでしょうか?「古座川は本州でも南の方だし暖かいだろ…」と思っていた私ですが、実際過ごしてみると朝晩の冷え込みが厳しく、ここ数日しもやけに悩まされています。間伐作業は前回からもう一列伐採が完了しました。これで5m幅と10m幅が一区画ずつ完了しました。そこで斜面上部から比較写真を撮ったのでご紹介したいと思います。こちらがその写真です。上の一枚が伐採を行っていない箇所で、下の二枚が伐採を行ったところです。さらに左下が5m幅で伐採を行ったところ、右下が10m幅で伐採を行ったところです。こうしてみると、空の開き具合が結構異なることが分かるかと思います。植物は種類によって好む環境が異なるので、誘導される樹種はこの環境の差に影響を受ける可能性があります。今後の調査でこの点について見ていく予定です。研究との兼ね合いのため、活動報告の頻度は2週間に一度ほどとさせて頂きます。ご了承ください。戦時中の木炭需要さて以前、炭の歴史についてご紹介しましたが、今回はその続きである近代以降の炭の歴史をご紹介したいと思います。皆さんは戦時中、「ガソリンの一滴は血の一滴」という標語があったことはご存じでしょうか。この標語からも分かるように、日本は資源に乏しかったので貴重な石油は戦争に優先的に使われ、日中戦争以降日常的な燃料の不足が深刻化していました。そのため、薪や木炭がガソリンの代替燃料となり、木質資源の伐採量が年々増加していきました。林野庁の示す伐採量の推移によると、1943年には伐採量が1億立方メートルを超えていました。現在の国産材の供給量は3020万、外国産材を含めても8000万立方メートルなので、現在と比較してもいかに大量に伐採されていたかが分かります。紀州備長炭記念公園に展示されている木炭車(※ただしこれは戦後型)当時のガソリン不足を象徴するものが木炭車です。戦時中、ガソリンを主燃料とする自動車は当然、燃料不足となっていました。そのため、日本では木炭を燃料として車を走らせていました。この木炭車は世界的にも珍しく、いかに日本が鉱物資源に乏しく、木質資源に頼る他なかったかを表わしているとも言えます。木炭自動車はガソリン車に比べ出力が3割程度低下したと言われ、坂道の多い地域を走っていたバスは坂道を登りきることが出来ず、乗客が降りて押して登ったというような話も残っています。紀州備長炭記念公園に展示されている木炭発動機1940年を過ぎ、アメリカとの原油の貿易がストップすると、いよいよ燃料がなくなった日本は飛行機まで木材資源に頼ろうとしました。1945年に開始した松根油緊急増産運動は、全国のマツから油分を採取しようとしたものです。しかし、200本のマツを使っても1機の飛行機を1時間しか飛ばすことが出来ず、非常に非効率だったとされています。当時の採取痕は現在でも見られるようです。終戦とともに石油が少しずつ戻ってくると、木炭の需要は減少することとなります。最盛期の1940年に270万トン生産されていた木炭は、2016年には2.6万トンまで減少してしまいました。その結果、炭焼きを生業としていた人々は職を求め山村を去ることとなります。炭焼きを主な産業としていた集落の中には、木炭販売の不振が原因で離村が進み、無人化してしまったところもありました。この視点で言えば、木炭産業の低迷は過疎の一員ともいえるでしょう。かつて炭焼きで栄えたであろう古座川町内の集落跡 隙間が分からないほど美しく積み上げられた石垣が残っている伊東屋敷跡さて、木炭の需要が減ると共に、今度は高度経済成長期を支える建材や梱包材の需要が急増します。そこで必要となるのが、成長が早く真っ直ぐ育つ木でした。そのため、従来は薪炭材生産のために維持されていた広葉樹林も、人里に近いところから針葉樹が植えられるようになります。加えて、戦時中に荒廃した林地の早期回復も必要だったため、やはり成長の早い針葉樹が多く用いられ、日本中に針葉樹林が広がっていきました。このような背景で急速に針葉樹人工林が広がった時期を「拡大造林期」と呼びます。次回はこの拡大造林期の後からご紹介したいと思います。お楽しみに。