(これはあやちゃんの撮った写真です。一夜しか咲かないサガリバナ)あやちゃんは茨城の国際キリスト教大学を卒業して1年目の頃に出会いました。綺麗で優しくて非の打ちどころのないお嬢さん。よく気が合ったので、一緒に「青の洞窟」を見に行ったり、楽しい時を過ごしましたが、その後ご両親の出身地である姫路に帰ってしまい、音信不通になっていましたが、フェイスブックを通じて現在の様子が判り嬉しくなりました。最近は淡路島の方で、「レムリアの村?」に関わているとかで、FBはもちろん、youtubeにもよく姿を見かけるようになりました。もともと不思議ちゃんムードの娘さんだったのですが、今は成長してまるで女神のよう(^^♪その女神の撮った自然界の女神の「サガリバナ」綺麗ですよねえ♡遠くて、会うこともできなくなりましたがSNSはありがたいですねえ、知りたい消息や、現在の写真も見られる、だから私と同世代のシニアにもその世界を見せたいのに、ほとんどの人は「判らない」、し、「第一スマホは字が小さくて読めない」などと仰る。何とか、もう少し時代の流れについて行って頂けるなら、私が一生懸命お手伝いします!と言っても、「あなたは頭が違うから・・」で却下。ちょっと残念。もちろん元気で頑張っている同級生もいますけどね!もっと増やしたい・・ってクラウドファンディングの支援者増やそうとしてませんからね(;^_^今夜は今から商工会のスタンプ会の会議に行きます。多分いや本当に私が最高齢(^O^)/でも意欲的な若い人の集まりに、邪魔をするみたいに押しかけても、皆さん優しくしてくれるし、いろいろな世の中の新事情も教えてもらえるし、判らないことは帰ってからパソコンで調べて知ったかぶりしようかと・・(*‘∀‘)サプラを撤退してしまうのでいよいようちの店にもカード支払いのシステムを入れなくちゃ、今夜若い人に相談してこよう・・うまく理解できて利用できるようになったら、私の頭の中の知識が増えるから嬉しいですね(^^♪ホラ、今日も前向きに頑張ってるでしょ(^^)/では、行ってきま~す(^O^)/今日もたくさんのご支援を頂きました。10月26日までもう少しお待ちくださいね。今はお名前も住所も分かりませんのでリターンの準備だけ始めているところです。今日も暖かいご支援をたくさんいただ来ました。本当にありがとうございます<m(__)m>
(海老原よりさんの写真です。ナスの花?)今日は朝からお客様続きで、忙しい一日でした(^^)とは言え、全部、今後の仕事の話。前向きな話ばかりなのでちっとも疲れませんでした~(;'∀')午前中は恐れ多いことに市役所の法制総務課の課長さんと係長さんがお二人で来社。ご用件は私が長年仰せつかっている市の公平委員の継続のご依頼でした。この年齢では当然引退の話に来られたと思ったのにその反対で(@_@)。名誉なことです。辞退したほうが・・とも思いましたけど、またまた勉強のチャンス!コロナ禍の間は会議等もなかったし、まだ元気だから、少しくらい市のお役に立てれば、と思いお引き受けしました。任期終わるときには81歳、生きてるのかしら(;^_^・・全然心配してないですけど(^^)/午後は常陽リビングさんと打ち合わせ。今回リビングさんの記事に後押ししてもらったのでリビング様様です(^O^)/担当者のIさんは美人でスリムでキャピキャピのお母さん、私とよく性格が似ていて面白いので、話し出すと時間忘却。娘のような若い世代との交流は世の中を知ることができる最高のツールでもありますね♪五時からはこれまたキャピキャピのサプラの店員さんのMさん。サプラが閉店しても、一人も辞めてもらいたくない私は(今は人件費を増やせる状態にはないので)、みんなにお願いして勤務時間をシェアして、少し給料が減っても協力し合ってお店を続けたい旨、話し合いました。勿論快くOK。ありがたいなあと思いました。このコロナ禍でも社員やパートさんは極力守りたい。私一人の力でできなければみんなの協力を得て、時間シェアしても居てもらいたい。これって前向きな話でしょ(^^♪みんなが前向きで、みんなが楽しい未来を見つめている♡ 今日は素敵な一日でした。今日もたくさんのご支援を頂きました。本当にありがとうございました<m(__)m>追記 私は忙しかったのですがお店はまたまた閑散( ;∀;)思い通りに事は運びませんねえ・・負けてないぞワッショイ(^O^)/
(小林さんの写真は龍ヶ崎の「いま」。撮りにいけない私の救世主です~)スナック菓子への対抗策として切り餅を作り始めたとき私はまだ40代でしたから、結構働きましたねえ。切り餅がインスタントラーメンのようにヒットしてすごく売れました。平成5年頃、日本米が不足になり旅館やホテルの食事にもインディカ米が出るような事態のときは代替食としての切り餅は安価で美味しいということで売れた中でも、バラ集めの他社よりきちんと詰めたお餅と、天然の井戸水(美味しいので皆さんがもらいに来ました)の味が良かったことで鍵林の生切り餅も評判となりました。ぶっちゃけ、生切り餅は国内産の餅米ではなく、タイから砂糖を混ぜてフラワー粉と言われたものを輸入して、日本で砂糖と糯米粉を分離したものを使っていたし、手間もかからなかったので非常に安く消費者の手に渡ったのですね。平成5年の9月から12月まで一日も休まずお餅を作っていました(*‘∀‘)関西から糯米粉が10トン車で一日置きに配送されて・・当然製造が間に合わないので近くの流通経済大学の学生さんが毎日10人くらいバイトに来ていて、体の弱い主人の代わりに出ていた私と、競争みたいにしてモチづくりをしました。11時頃に仕事が終わると、学生さんを引き連れてまだ一軒しかなかった山岡家にラーメンを食べに行ったり、牛久の回転寿司を食べに行ったり・・学生さんのいろいろな人生相談に乗ったり(恋愛から卒業謝辞まで)、大変な時期を楽しんで乗り越えましたね(^^)/その頃の学生さんの中に今の鍵林の専務もいたのです(^^♪全国に散っていった学生さんの中には今も連絡が取れている子もいます。みんなオッサンになってるでしょうね(;^_^しかし、その生切り餅も簡単にできるためにライバルが林立して鍵林はまたもや危機に陥るのです(;^ω^)でもまあ長く喋り過ぎたので今日はこの辺で・・いつも変わらぬご支援、本当にありがとうございました<m(__)m>まだ達成してないけど、終了は目前、ちょっと寂しくなっちゃうのかなあ・・
(小林さんお世話になります。写真です_(._.)_)宣言解除になったことと、2日の常陽リビングさんに記事を載せていただいたことで、驚いた中学時代のクラス仲間が急遽集まってくれました。長い人で2年ぶり、短い人でも1年3か月振りの再開でした。菜の花会と言う名前を付けて、5~6人で会食したり、旅に言ったり・・でも、みんな貞淑な奥様方なので、ご主人と家庭を守り、コロナ禍の間はほとんど家にこもっていたので、再開が今になってしまったわけです(^^♪私は貞淑のかけらもない暴走機関車ですから、一年以上家にこもるなど考えられないから、皆の中では一番のハッチャキ。だから、みんなが私に会うのも恐る恐るだったかも(;^_^でも、いつも私の心配をしてくれる優しい同級生たちで家庭的なことはずいぶん教わってきました。(^^)/しかし、ちょっと驚きました、それぞれの年の取り方があまりにも違うのです。世間との交流があった人、運動を続けていた人、いろいろ興味を持って動いたひとと、何もしなかった一年間でとても年を取った感じの人もいます。「コロナ禍」ですよね~お互いに言いたいことを言う仲だから、「わあSちゃん、背中曲がっちゃったよ、ちゃんとピンとして歩かなきゃ駄目だよ!」と言っても「?だってどこも痛くないし、いたって健康だよ!でもコロナ前は一日、何千歩も歩いていたのに、今は買い物も行かないかな」と笑いながら仰る・・年を取ってから動かないと驚くほど早く筋力が衰えます。恐ろしいことに年を取るほど動かなくちゃ駄目なのです(-_-;)やっと、今そのことに気づいた私は娘のマシーンを借りて楽ちん運動をやり過ぎないように続けていたら、東京にも難なく行けるようになりました。脳も同じ、年を取るほど使う努力をしないと‥みんなはガラ携好きでラインが怖い、クラウドファンディングの説明をしても分かってもらえないところもあり‥チラシを作って名前を書いてもらえばよいなどとタカをくくっていた私は大反省しました。私が何かすると「『解らないこと』を押し付けて友達を悩ませることになる」「チラシ、息子さんや若い人にあげてくれる?ごめんね悩ませて( ;∀;)」・・そして彼女たちは安堵。それからは楽しく会食をして、数時間の楽しいお喋り。「バイバイ、またね~」子供のように手を振って別れました。スマホやPCからご支援してくださった皆様、本当にありがとうございました<m(__)m>そして、今のご自身の若さに自信を持って、そしてその若さをずっと持ち続けられるよう、一緒に頑張りましょうね♡
(田中加代さんの写真です。龍ヶ崎から見える筑波山)台風16号と言う嵐で始まった10月。クラウドファンディングも大詰め、こんなにもたくさんの支援者がいてくださるなんて、私の人生無駄じゃなかったかも(^^♪同時に政治も、経済も、コロナ禍の行く末も大きな変化をとげようとしていますよね(^^)/コロナ禍は私が人生で経験した一番大きな変化かも・・第一の変化は昭和49年にフランスから新しい製菓機械が日本に入って来たとき。トウモロコシやイモなどを粉にしたものを圧縮して成型して味付けした、「カール」や「かっぱえび煎」などが爆発的に売れ始め、昔ながらの米の粉を使って成型した固焼き煎餅などは振り向きもされなくなりました。当然固焼き煎餅一筋に製造してきた鍵林製菓も存続の危機。製造に関わっている人から近くの親戚迄集まって今後どのようにすればよいのか、話し合いが続きました。同じ頃世の中はIC基盤産業がスポットを浴び、県内にも中小のIC基盤産業が増え脚光を浴びました。すると、周囲の人がみんなで、もう煎餅なんか作っていてもだめだ、煎餅作りなんかやめて工場をIC産業に変えようという話になり、まず嫁の私を筆頭に若い女性が作り方を習ってこいみたいな話が出てきたのです。内心はギャー、針仕事もできないボタンも付けられない私にそんな細かい仕事できるはずない(-_-;)大反対しているうちに餅製造機械の大手さんが今千葉で流行っている生切り餅を作ったらどうか、と言う話を持ってきたのです。生切り餅と言っても杵でつくのではなく粉を蒸して練って冷やして切る、いわば餅のインスタントラーメン。米と水と火で作る餅なら煎餅に近い、私も賛成してそこからピークの平成5年頃まで、煎餅と生切り餅を作るメーカーになり、鍵林の煎餅は今も生き残っている、と、言うわけです(^O^)/ま、次々変化は起こるのですが長くなりますのでこの辺で・・今日もたくさんのご支援ありがとうございました<m(__)m>