『山ノ頂』の根幹である、鹿踊りと鹿の命の繋がりという、深い着想を与えてくれたのが人類学者の石倉 敏明(いしくら としあき)先生です。
石倉先生は秋田公立美術大学アーツ&ルーツ専攻准教授で、日本や世界の神話や山岳信仰などの調査を行い、多数の論稿、エッセイ、神話集などを発表されています。人類学を芸術領域まで高め、多くの美術作家や音楽家との共同制作活動を行っています。
山ノ頂のプロジェクトを進める中で、鹿踊りと鹿の命の深い繋がりについてお話をお伺いしたいと思い、昨年の秋に石倉先生の元を訪れました。
石倉先生はとても気さくで、私の印象としては研究者というよりもアーティストの雰囲気を感じる方で、芸能や神話におけるとても細かな知識を沢山知っているのですが、難しいことをとても簡単な言葉で教えてくれる凄い人です。
そこで私がまず最初に学んだのが、海外と日本の決定的な神様に対する考え方の違いでした。
海外ではキリストのように単一の神様を信仰しているものが多く、食べ物などは神様が分け与えてくれるという考え方が多いこと。そして自然は神によって作られた被造物であるというスタンスを取っているものが多いということでした。
一方日本は、八百万の神々を信仰しており、野菜や米や肉など、それぞれに神様が宿っているという考え方をしています。
それを食べる我々人間もまた神様であり、一時的にその命のめぐりを自分の体の中に入れ、いずれその命を自然に循環させるという考え方をしているということでした。
この基本的な神様に対する考え方が、日本人の自然との繋がりを大切にしていきた根幹にあると感じました。
獣の命や山の神様に感謝する鹿踊りにもそうした考え方が生きています。
石倉先生は鹿踊りについて「平等の極み」と表現してくれました。
人、獣、自然の境界線をなくし、命のめぐりをありのまま踊る鹿踊りは、『人間的な平等』という考えではなく『宇宙から見た平等』の精神が鹿踊りには宿ってるといいます。
岩手出身の宮沢賢治の作品「鹿踊りのはじまり」にも、人と鹿が登場する話の中で、人間と獣の種としての境がなくなる表現があります。
「鹿踊りのはじまり」は、主人公の嘉十(かじゅう)があえて残した栃の団子を6頭の鹿が分け合って食べながら、ぐるぐる廻りながら踊る印象的な場面が描かれた物語です。
鹿たちは嘉十(かじゅう)が忘れていった手ぬぐいを不審に思いながらも、そこに置かれている団子を一つ一つ食べ、鹿は我を忘れて歌い踊っていきます。
それをススキに隠れて見ていた嘉十(かじゅう)も「もうまったくじぶんと鹿とのちがいを忘れて」しまい、「ホウ、やれ、やれい。」と叫びながらススキを飛び出してしまう。
そんなストーリーが描かれてた物語です。
この時に、嘉十(かじゅう)は人と獣を分ける種の境界を忘れ、同じ命として出会う体験をします。
宮沢賢治の作品『鹿踊りはじまり』は、まさに「平等の極み」を伝えてくれている物語だと思います。
かつて岩手に暮らしていた祖先も、鹿の命を頂き命を脈々と繋いできました。
祖先たちもやがて土に還り、山の草木に命が巡っていきます。
ふと岩手の自然に身を置くと、山と人の区別の基準はどこにあるのかと不思議に思うことがあります。
鹿踊りはやはり私にとっても大切なもので、人と獣のボーダーラインを消してくれる、消しゴムみたいなものです。
自然の中に身を置けば、命の垣根などないことなど身体はちゃんと分かってくれているんだと感じます。
シンプルで大切なことを身体で伝えるこの踊りを次の世代にも繋げていくために、これからも岩手で踊り続けていきたいと思います。
今日がクラウドファンディング最終日。
沢山の方からの応援と共に過ごせた1ヶ月は私の宝物です。
これからも岩手で踊る理由がさらに強くなりました。
皆様のご支援心より感謝しています!
本当にありがとうございます!!