とても嬉しいです。支援していただきました皆さんのおかげで、ここまできました!おかげさまで3/14で「150%」の達成となりました。心より感謝と御礼申し上げます。ひき続き「足尾銅山の歴史が生んだ国産非加熱ハチミツを日本全国に届け、地域を盛り上げたい!」拡散含めご支援宜しくお願いいたします。写真は、通洞変電所です。この建物は2系統で日光から送られてくる66000ボルトの高圧電力を足尾銅山で使う電気に変電し配電する為の施設です。明治39年(1906)日光中禅寺湖の水を利用した日光細尾第一発電所にあわせてつくられました。
庚申草は、栃木県西部や日光周辺の深山にまれに見られる、日本特有の貴重な食虫植物です。この植物は、岩壁に生えることがあり、特に日光の庚申山などで見られます。庚申草の特徴は、根元から葉が生え、葉の形は卵状楕円形で、長さは7〜15ミリメートル、幅は5〜8ミリメートルほどです。葉の先端は丸く、縁は全縁で少し内側に巻いています。葉の表面にはたくさんの腺毛があり、これらから分泌される粘液で小さな虫を捕らえ、消化します。庚申草は、6〜7月ごろに葉の間から細い花茎を伸ばし、通常は下部で2本に枝分かれして高さ3〜6センチメートルほどになります。それぞれの先には、淡紫色の小さな左右対称の花が一つついています。この貴重な植物は、日光の山々で見られる美しい花でありながら、同時に小さな虫を捕らえて生きる生態系の一部を担っています。
日光足尾銅山の古河橋は、明治23年(1890年)に架けられ燃えない橋としてドイツから輸入されたもので、日本に残されている道路用鉄橋(橋長48.5メートルのワーレントラスト橋)としては古いものに数えられます。現在は新橋が平行して架けられ使用禁止となっていますが、平成26年には、重要文化財に指定され貴重な近代化産業遺産として残されています。古河橋は、その歴史的な価値と美しい風景から、日光足尾銅山の象徴的な存在として親しまれています。現在でも観光客や地元の人々が訪れ、足尾銅山の過去の面影を偲ぶ場所として愛されています。明治23年頃に撮影された古河橋の建設写真は、当時の建築作業の大変さを生々しく伝えています。木造の足場の上に立つ労働者たちの姿は、高所での作業がいかに困難であったかを物語っています。この写真は、当時の建築現場での労働者たちがどれほどの努力と勇気を要したかを示しています。木造の足場の上で、高所作業に従事する彼らは、命を預けるかのような緊張感と共に、橋の架設に全力を注いでいたことでしょう。
わたらせ渓谷鐵道は、群馬県桐生市から栃木県日光市足尾町を結ぶ鉄道で、足尾町にあった足尾銅山と深いつながりがあります。1877年(明治10年)、古河財閥の創業者・古河市兵衛が、この廃山同然の足尾銅山を買い取り、最新の技術を取り入れて日本の銅の半分を生産する銅山にしました。 明治時代の初めまで、産出した銅や鉱山で使用する材料の運搬は馬や牛に頼っていましたが、生産量の増加によってこれでは運びきれなくなりました。 その後、馬車鉄道による運搬を始めましたが、さらにたくさんの荷物を運べるようにするために、 桐生から足尾まで鉄道を建設することになりました。 1912年(大正元年)12月30日、桐生から延伸してきた足尾鉄道が、足尾駅まで開通しました。 その後、足尾鉄道は国の重要路線であることから、1918年(大正7年)、国が買い上げて鉄道院(後の国鉄)の足尾線となりました。 国鉄として営業してきた足尾線は、戦後、蒸気機関車がディーゼルカーやディーゼル機関車に変わって近代化されましたが、1973年(昭和48年)に足尾銅山が閉山されると旅客・貨物ともに輸送量が大きく減少し、1980年(昭和55年)ころから赤字線の問題が起こり、1985年(昭和60年)までに廃止されることになりました。 しかし、沿線市民の間で足尾線を残そうと言う活動が起こり、1989年(平成元年)までJR東日本足尾線として残りました。 その後は、第三セクターである、わたらせ渓谷鐵道株式会社が路線を引き継ぎ、現在に至っています。
小滝地区の賑わい!小滝地区の中心部で右手前には選鉱所が写っている。庚申川を挟んで対岸に並んでいるのが社宅で南夜半沢社宅と北夜半沢社宅で、画面左端の中央の洋館が小滝病院です。両岸を結んでいた馬立橋は現在はなくなっている。(大正7年頃撮影)※社宅の家賃は無料同様で、電気・水道・燃料などの光熱費も無料でした。写真は現在の小滝中央の写真です。山の傾斜地を切り取って階段状になっています。春から秋は緑が生い茂って見えにくいですが、冬は葉が落ち、雪が降ると雪の白と、石垣の黒のコントラストが浮き上がって見えます。