『殺劫 チベットの文化大革命』決定版刊行へ!不屈の作家ツェリン・オーセルに力を!

チベットにおける文化大革命の実態を写真とルポで初めて明らかにした、北京在住のチベット人女性作家、ツェリン・オーセルさんの代表作『殺劫(シャーチエ)――チベットの文化大革命』の邦訳決定版を刊行するプロジェクトです。オーセルさんは中国当局の監視下にありますが、ペンの力で不屈の闘いを続けています。

現在の支援総額

1,814,000

82%

目標金額は2,200,000円

支援者数

161

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2024/07/04に募集を開始し、 161人の支援により 1,814,000円の資金を集め、 2024/09/21に募集を終了しました

『殺劫 チベットの文化大革命』決定版刊行へ!不屈の作家ツェリン・オーセルに力を!

現在の支援総額

1,814,000

82%達成

終了

目標金額2,200,000

支援者数161

このプロジェクトは、2024/07/04に募集を開始し、 161人の支援により 1,814,000円の資金を集め、 2024/09/21に募集を終了しました

チベットにおける文化大革命の実態を写真とルポで初めて明らかにした、北京在住のチベット人女性作家、ツェリン・オーセルさんの代表作『殺劫(シャーチエ)――チベットの文化大革命』の邦訳決定版を刊行するプロジェクトです。オーセルさんは中国当局の監視下にありますが、ペンの力で不屈の闘いを続けています。

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チベットと香港
2024/09/13 15:24

 周知のように、香港では2020年6月、住民の反対運動を力で封殺する形で国家安全維持法が施行され、返還後、香港に適用されてきた「一国二制度」は事実上、骨抜きにされてしまいました。こうした強硬政策はもとより北京の共産党政権の意向に基づくものですが、中国がいったん約束した「一国二制度」を反古にしたのは香港が初めてではありません。先例は今から60年以上も昔のチベット統治の転換にあったと言うべきです。 1950年にチベットへ侵攻した中国は翌51年5月、チベット当局との間で「チベット平和解放に関する17条協議」を締結しました。この「17条協議」において中国は「チベット人民は中華人民共和国の祖国の大家庭の中に戻る」としてチベットが中国の一部であることを規定したうえで、「チベットの現行の政治制度について中央はこれを変更しない」、「宗教信仰自由の政策を実行し、チベット人民の宗教信仰と風俗習慣を尊重する」などの「現状維持」を約束しました。 当時、共産党政権にとっては、社会主義路線にのっとってチベットの政治・社会体制の改革を急ぐことよりも、まずチベットの安定と民衆の人心掌握に全力を挙げることが優先課題でした。このため、党中央は1956年9月に「チベットでの改革実施の条件はまだ熟していない」として、「民主改革(旧制度の解体や農地分配)の実施は、第1次5ヵ年計画期(1953-57年)ということはありえないし、第2次5ヵ年計画期(1958-62年)のことでもない。第3次5ヵ年計画期まで先延ばしすることになるかもしれない」との通達を出しました。「民主改革」延期の理由について通達は「チベット民族の上層分子に対する一種の譲歩と言うべきだ。我々は、こうした譲歩は必要であり、正しいと考える。なぜなら、チベット民族は今なお漢民族と中央に対して、つまり我々に対してあまり信を置いていないからだ」と説明しています。建国直後の当時の中国には「一国二制度」という言葉も概念も存在していませんでしたが、「17条協議」に基づくチベット政策は今日いうところの事実上の「一国二制度」だったわけです。 しかし、1959年3月のチベット動乱およびダライ・ラマ14世のインド亡命後、中国は何はばかることなく、チベットの支配層を搾取階級として弾圧し、貧農に土地を分配するなどの「民主改革」を断行しました。これにより「政教一致の封建的農奴制度」を解体し、「100万農奴の解放」を達成したと、中国は主張しています。毛沢東は同年5月、「ネルー(ダライ・ラマを受け入れたインド首相)とチベットの反乱分子に感謝しなければならない。彼らの武装反乱はいまチベットで改革を行う理由を我々に提供してくれた」とあけすけに語っています。共産党の本音は、「17条協議」など一時的な便法に過ぎない、チベット側が「反乱」を起こしてくれたおかげで目障りな旧体制をすっきり清算できた、といったところでしょう。 翻って香港を見ると、中国は2003年以降の一連の大規模な民主化運動を、「一国二制度」改変の転機ととらえていたことがわかります。香港で「中国化」を一気に進める機が熟したというのが中国の判断だったに違いありません。中国共産党という政治集団の思考回路や行動原理は時代が変わっても、本質的な部分ではさほど変化していません。チベットと香港におけるそれぞれの変化は歴史的な文脈の中で関連付けて考える必要があると思います。


 本プロジェクトの広告が9月10日付の『産経新聞』朝刊2面に掲載されました(広告下部)。版元である集広舎の川端幸夫代表のご厚意によるものです。本プロジェクトの募集期間(9月21日まで)も残りわずかとなりましたが、目標金額に少しでも近づけるよう皆様の一層のご支援をお願いいたします!


 チベットの英語表記は国際的に「Tibet」で定着しています。ところが、中国政府は昨年から英文の公式文書において、これまで用いてきた「Tibet」ではなく、中国語でチベットを意味する「西蔵」のピンイン(中国語ローマ字表記)である「Xizang(シーザン)」を使うようになってきています。その理由については明確に説明されていませんが、チベットが歴史的、民族的、文化的な独自性を有することを表す固有の概念「Tibet」ではなく、「中華人民共和国の一部としての西蔵(Xizang)」であることを強調し、チベットの中国化を推し進めるための布石の一つであろうと推察されます。地名として国際的に通用し、中国の人権抑圧のイメージをも想起させる「Tibet」という言葉をできるだけ遠ざけ、代わりに「Xizang」を普及させていきたいといった思惑もうかがえます。 具体的な用例を見ると、行政上の名称である「西蔵(チベット)自治区」は「Tibet Autonomous Region」から「Xizang Autonomous Region」へ、また鉄道路線の名称の「青蔵鉄路(青海―チベット鉄道)」は「Qinghai-Tibet Railway」から「Qinghai-Xizang Railway」へと変更されています。 ただ、「Xizang」は本来、地名として用いられるものですから、これによってチベット関連のすべての表記をまかなうことは困難です。したがって、「チベットの」「チベット人(の)」といった表記をするときには「Tibetan」を使わざるをえないようです。北京師範大学出版科学研究院が公表したガイドラインによれば、「Tibetan people」「Tibetan medicine」「Tibetan language」、あるいはチベットの野生動物「Tibetan antelope」などの固有名詞は従来通りの表記ということのようです。「青蔵高原」も「Qinghai-Tibet Plateau」ということになります。学術的な呼称としてすっかり定着してしまっている用語まで「Xizang」で代替することは非現実的ということでしょう。 しかし、「Tibetではなく、Xizangだ」という中国政府のメッセージの発信は国際社会に対して一種の政治的圧力として作用していく可能性をはらんでいます。中国の意向を忖度してわざわざ「Xizang」を用いるような風潮が今後広まっていく可能性がないとは言い切れません。オーセルさんもそうした懸念を抱いており、最近のSNSでの発信の中で、「Tibet」が「Xizang」に取って代わられることのないよう警鐘を鳴らしています。ことは単なる用語上の問題ではありません。今後の推移を注意深く見守っていく必要があるでしょう。


 中国の漢民族世界では伝統的に自らを文明的に最も優れている「中華」と位置付ける一方、チベット、ウイグル、モンゴル、満洲などの周辺異民族を文化的に野蛮な「夷狄」と見なして峻別する「華夷之辨」という統治原理がありました。反面、これと一見矛盾するようですが、「夷狄」を漢民族に帰順させ、「中華」の下に諸民族を統合する「大一統」という統治原理も働いてきました。排他的な「華夷之辨」と、統合的な「大一統」――中国の統治者はその時々の情勢に応じて二つの原理を使い分けてきたと言えるでしょう。 例えば、清朝打倒を目指した孫文の光復革命はもともと韃虜の駆除、中華の回復をスローガンに掲げ、漢民族国家の建設を志向していましたが、革命後は一転して五族共和(漢、満、回、モンゴル、チベット)の旗を振るようになりました。実は、中国共産党の革命も、孫文のような「華夷之辨」をあからさまに打ち出したわけではありませんでしたが、当初は漢民族世界と異民族世界の区別を意識し、異民族の自治、中国の連邦化を構想していました。その証拠に、1922年の中国共産党第2回大会は、モンゴル、チベット、回疆〔新疆〕を「民主自治邦」とし、「中華連邦共和国」を樹立するとの決議を行っています。 しかし、毛沢東は革命に勝利し、天下を掌握すると、基本的に中華民国の版図を継承する中央集権国家の樹立に固執し、かつての党の正式決議である「中華連邦共和国」構想を放擲しました。要するに、孫文も毛沢東も国家観としては最終的に伝統的な「大一統」に帰着したということになります。 この「大一統」の時代は現在まで一貫して続いています。しかも、それは中国の歴史上、例を見ないほど徹底的に推進されていると言っていいかもしれません。習近平総書記は2017年10月の第19回党大会報告で「わが国の主権、安全、発展の利益を擁護し、祖国を分裂させ、民族団結と社会の調和、安定を破壊するあらゆる行為に断固反対しなければならない」と訴え、その文脈で「中華民族の共同体意識をしっかりとつくり上げる」と強調しました。「中華民族」とは共産党の定義によれば、漢民族のみならず、中国領内のすべての民族を包含した概念ですから、究極的な「大一統」を体現するスローガンと見なすことができるでしょう。 孫文はかつて「三民主義ノ具体的方策」(『孫文全集 中巻』)の中でこのように述べています。「余ノ現在考ヘテ居ル調和方法ハ、漢民族ヲ以テ中心トナシ、満蒙回蔵四族ヲ全部我等ニ同化セシムルト共ニ、彼等四族ニ譲歩セシメテ我等ニ加入セシメ、建国ノ機会ニハ、「アメリカ」民族ノ規模ニ倣ツテ、漢満蒙回蔵ノ五族ノ同化ヲ以テ一個ノ中華民族ヲ形成シ、一ノ民族国家ヲ組織シ、米国ト東西両半球ニ在ツテ、二個ノ大民族主義的国家ヲナシテ相照映スルニアル」 「漢民族をもって中心とする」、「五族の同化によって中華民族を形成する」――習近平政権が現在進めている少数民族の漢化(漢民族への同化)政策は、本質において、まさしく孫文の「中華民族」国家構想を継承したものであると考えられます。ただ、注視しなければならないのは、孫文の「中華民族」国家構想が文字通りの構想であったのに対して、習近平政権のそれは構想を現実化する政治力、行政力、経済力、軍事力を備えており、現に着々と実行中であるという点です。 さて、これは共産党独裁の中国が民主化された後の問題になりますが、「中華人民共和国」が「中華連邦共和国」へと移行する可能性はあるのかないのか。共産党政権の目下の漢化政策は、ある意味で、そうした可能性の芽を摘み取るのが狙いでもありますから、予断を許さないと言うしかありません。確かなのは、現路線が続く限り、今後数十年の間に「中華民族」化がさらに急速度で進行するであろうということです。


 私がオーセルと知り合ったのは北京特派員時代の2006年のことで、その後、チベットの文化大革命を題材にした彼女のルポルタージュ『殺劫』を翻訳する機会を得ました。この作品は彼女の代表作であり、原著は台湾で発行されましたが、そうせざるをえなかったのは、内容が政治的な意味合いであまりにも衝撃的だったからです。中国当局は共産党の宣伝になる本は一度に何万、何十万部と大量に出版しますが、共産党批判の本や共産党の公式見解と異なる主張の本は基本的に発行を認めません。共産党が秘しておきたいと思っている歴史の「真実」を明らかにした本などもってのほかです。 したがって、中国当局が『殺劫』の国内出版を許可する可能性はもともとありませんでした。逆にいえば、それはこの本の価値を裏づける証左です。まず、これまでほとんど外部に知られることがなかったチベット文化大革命の批判闘争、紅衛兵運動などの現場写真多数が同書で初めて公開されました。中国内地における文化大革命の写真は珍しくはありませんが、少数民族地域、とりわけ当時は秘境と目されていたチベットの文化大革命に関する写真は「門外不出」でした。文化大革命は中国共産党の最大の政治的汚点であり、これに少数民族問題がからまってくると、二重の意味でタブーとなるからです。これらの貴重な写真は、ラサの軍幹部だった彼女の父親が個人的に撮影し、保管していたもので、父親の死後、彼女によって発見されました。 オーセルの仕事の敬服すべきところは、これらの写真を手がかりに、何年もかけて、当時の関係者たちを探し当て、一人ひとりにインタビューし、極めて実証的なルポルタージュに仕上げたことです。この困難で粘り強い作業によって、長いこと政治的に封印されていた「赤いチベット」の実態が初めて明らかにされました。約40年間眠っていた歴史が息を吹き返したのです。 共産党は、自分たちが「ダライ・ラマ政権の圧制下にあった農奴たちを解放した」として、チベット統治を正当化しています。もちろん、チベット人の側から見ると、共産党による軍事侵略以外のなにものでもないわけですが、そういう理屈に立つ共産党からすれば、そもそも毛沢東主義とは縁もゆかりもなかった仏教王国チベットにむりやり階級闘争を持ち込み、無知な紅衛兵をあおって寺院や仏像をめちゃくちゃに破壊し、人道を踏みにじり、仏教に根差すチベットの精神文化そのものを深く傷つけた文化大革命は、いまだに「後ろめたい歴史」「語りたくない歴史」なのです。 例えば、中共中央文献研究室、中共チベット自治区委員会の編集による『西蔵工作文献選編』という文献集があります。1949~2005年の共産党・政府のチベット政策関連文献161件を集めた本ですが、文化大革命10年間の文献はたった1件しか収録されていません。この時期の文献が決して乏しいわけではなく、政治的理由からあえて省いているわけです。また、中国政府は2009年に『西蔵民主改革50年』というチベット白書を発表していますが、文化大革命期のチベットの状況には全然触れていません。まるでチベットには「1966~76年」という時代が存在しなかったかのようです。白書に書いてあるのは、共産党がいかにチベットの「民主改革」や「近代化」「経済発展」に貢献したかという手前味噌の自慢話ばかりです。いかにプロパガンダの文書とはいえ、歴史への謙虚な姿勢の片鱗もうかがえないのにはあきれ果てます。 ですから、中国国内で出版されている中国現代史、共産党史、文化大革命史などの一般書に至ってはチベットの文化大革命に関する出来事はまったくといっていいほど書かれていません。ほぼ完全に無視されている。当然ながら、大多数の中国人は、当時、チベットで何が起きたのかを知らないし、関心も疑問も持たない。「文化大革命では国民みんなが多かれ少なかれ被害を受けたのだから」という心理も働いているからなのでしょうが、圧倒的多数派の漢族は概して少数民族の苦難を知ろうとせず、彼らの心の傷に鈍感です。中国で民族摩擦が絶えないことの原因の一つはそこにあります。 私はここで一方的に中国の少数民族政策を批判しようとは思っていません。日本も北海道の先住民族としてのアイヌに敬意を払わず、同化政策を推し進め、固有文化をないがしろにしてきた歴史があります。指摘したいのは、一つの国家、社会におけるマジョリティーはマイノリティーが抱える苦悩に対し、往々にして傲慢なほど無関心であるということです。私たちは国境を超えて、そういう矛盾にもっと敏感でなければなりません。中国は被害者の立場から日本に対して歴史認識を厳しく問いかけますが、内にあってはチベットなど少数民族の側から加害者としての歴史認識を鋭く問われているのです。中国が本心から少数民族地域の安定を願っているのであれば、歴史の過程で生まれたひずみをしっかり直視する必要があるでしょう。 ちなみに、オーセルはチベット語の読み書きがうまくできません。日常会話は問題ないのですが、読み書きとなると、漢語(中国語)の方がずっと自由に操れます。本人は「文化大革命のせいよ。学校に上がってもチベット語の授業がなかったの。私と同世代のチベット人はだいたい、チベット語の読み書きは不得手ね」と、まったく漢族と変わらない漢語で語ります。文化大革命期、中国社会は漢族優位の大漢族主義に染まり、少数民族の言葉は「後進的で野蛮」として蔑視され、教育の場から消えました。こうして、彼女のように母語の苦手な少数民族がたくさん見られるようになったわけです。彼女はチベット語の読み書きでわからないことがあると、チベット語の達者な同胞に教えてもらうそうですが、それでも「私の母語はチベット語」と言い切るところに複雑な民族感情をのぞかせます。 『殺劫』の「訳者あとがき」で、私はこんなことを書きました。読者にこれだけはどうしても訴えておきたいと思いながらペンを走らせた箇所です。 「『殺劫』は、残念ながら中国国内では発行されていない。願わくは、チベット人はもちろんだが、中国人(漢人)にこそ読んでもらいたい。文革世代であれば、「殺劫」の含意を、自らの体験に重ね合わせて噛みしめてもらいたい。本書で明らかにされている史実は国家や民族のあり方を改めて考え直す重要な手がかりになると思うからである。いつか大陸の読者にも受け入れられる日のくることを、著者とともに切に願っている。周知のように、中国における言論統制は相変わらず厳しい。しかし、困難な環境にもめげず、ペンの力を信じて中国社会の様々な矛盾や不正と戦っている多くの知識人がいることを、私は長年の現地取材体験を通じてよく知っている。オーセルさんは疑いなく、そうした勇気と良識を備えた知識人の一人である」 共産党当局は、劉暁波のノーベル平和賞受賞以降、国内の民主化要求が活気づくことを恐れて、民主活動家はもとより、リベラルな知識人に対する監視を一段と強化しました。その影響はオーセルにも及びました。彼女のブログによると、2010年11月初旬、帰省先のチベット・ラサで地元警察から突然、理由説明もないまま出頭を求められたということです。当局側は以前から、彼女にはパスポートを発給しないなどの嫌がらせを重ねてきましたが、彼女が中国知識人による民主化要求宣言「〇八憲章」の署名者の一人だったことから、よけい動向を注視するようになったようです。歴史の真実を究明する行為がとがめられ、人間が人間らしく暮らす権利が侵害される。道理の機軸がずれてしまっています。 人間は歴史の真実を知らずに、現実の状況を正しく判断することはできません。将来の問題に適切に対処することもできないでしょう。とりわけ、若い世代に、過去の歴史の教訓をきちんと伝えていかなければ、将来、同じ過ちが繰り返される恐れがある。その意味からすると、もちろん日本の歴史教育も不十分な点が多々あります。ただ、中国の歴史教育について指摘しておかなければならないのはその特殊性です。言論の自由がないがしろにされ、知的環境が政治のいたずらな干渉によってなんともアンバランスな状況にあるということです。歴史が政治の思惑から恣意的に解釈され、都合のいい部分だけが国民に押しつけられている状況は、結局のところ、共産党体制が根本的に転換しなければどうにもならないのではないか。正直、そんな悲観的な思いにかられることもあります。 しかし、中国にはオーセルのような良識派が確かに存在しているのです。一口に中国知識人といっても共産党の代弁者のような御用学者も少なくなく、玉石混交ですが、健全な批判精神を持ち、物事を理性的に判断できる知識人たちの言論を通じた地道な闘いには、私自身、強い共感を覚えるとともに、勇気づけられます。私たち日本人はなんとなく自由を空気のように感じてしまっているところがありますが、見えざる政治の圧力のもとで自らの志を貫こうと踏ん張る反骨の知識人たちを見ると、自分の緩くなった感性に活を入れられる気分になるのです。「絶望の虚妄なることは、まさに希望と相同じい」。魯迅がハンガリーの詩人ペテーフィ・シャンドルの言葉として引用して有名になった言葉ですが、不確実性に包まれた中国の未来に対して、安易な希望を抱くこともなく、またいたずらに絶望することもなく、一歩引いた冷静な目を持ち続けたいと思っています。(藤野彰著『「嫌中」時代の中国論』から抜粋、一部修正)


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