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『殺劫 チベットの文化倧革呜』決定版刊行ぞ䞍屈の䜜家ツェリン・オヌセルに力を

チベットにおける文化倧革呜の実態を写真ずルポで初めお明らかにした、北京圚䜏のチベット人女性䜜家、ツェリン・オヌセルさんの代衚䜜『殺劫シャヌチ゚――チベットの文化倧革呜』の邊蚳決定版を刊行するプロゞェクトです。オヌセルさんは䞭囜圓局の監芖䞋にありたすが、ペンの力で䞍屈の闘いを続けおいたす。

珟圚の支揎総額

1,814,000円

82%

目暙金額は2,200,000円

支揎者数

161人

募集終了たで残り

終了

このプロゞェクトは、2024/07/04に募集を開始し、 161人の支揎により 1,814,000円の資金を集め、 2024/09/21に募集を終了したした

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『殺劫 チベットの文化倧革呜』決定版刊行ぞ䞍屈の䜜家ツェリン・オヌセルに力を

珟圚の支揎総額

1,814,000円

82%達成

終了

目暙金額2,200,000円

支揎者数161人

このプロゞェクトは、2024/07/04に募集を開始し、 161人の支揎により 1,814,000円の資金を集め、 2024/09/21に募集を終了したした

チベットにおける文化倧革呜の実態を写真ずルポで初めお明らかにした、北京圚䜏のチベット人女性䜜家、ツェリン・オヌセルさんの代衚䜜『殺劫シャヌチ゚――チベットの文化倧革呜』の邊蚳決定版を刊行するプロゞェクトです。オヌセルさんは䞭囜圓局の監芖䞋にありたすが、ペンの力で䞍屈の闘いを続けおいたす。

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本日8月6日は東京郜新宿区四谷坂町のチベットレストランカフェ「タシデレ」を蚪問し、店䞻の黒朚露讃ロサンさんず奥様の奈接子さんにお䌚いしおきたした。本プロゞェクトのチラシをお店に眮いおいただけるようお願いに䞊がった次第です。幞いなこずに、快くご協力いただけるこずになりたした。ありがずうございたした。「タシデレ」は日本を代衚する本栌的なチベット料理の専門店で、チベット文化の発信拠点、亀流の堎ずしおも圚日チベット人をはじめ倚くの方に芪したれおいたす。お願いの぀いでにチベット語の固有名詞のカタカナ衚蚘に぀いおもいく぀かご教瀺をたたわり、たいぞん助かりたした。タシデレファンの皆様、本プロゞェクトぞのご理解ずご支揎のほどよろしくお願い申し䞊げたす。


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ツェリン・オヌセルさんはFacebookでチベットに関する最新の情報や自らの近況を発信しおいたす。https://www.facebook.com/woeser1959/文章は䞭囜語で曞かれおいたすが、写真や動画も倚数投皿しおいたすので、ぜひフォロヌしおみおください。昚日8月4日は今回のクラりドファンディングの件に぀いおも情報発信しおくださいたした。最新の投皿を翻蚳しお䞀぀玹介したす。文化倧革呜的痕跡至今還殘留圚衛藏的叀寺桑耶寺里䞀座䜛殿的牆䞊穿軍裝的毛柀東照片以及他的“最高指瀺”等等。而桑耶寺經歷了文革“砎四舊”劫難之埌幞存的䜛殿和壁畫極少。至斌叀老的塑像幟乎蕩然無存。文化倧革呜の痕跡は、今もなおりヌ・ツァン䞭倮チベット地域の叀刹サムむェ寺の仏殿の壁に残されおいる。軍服を着た毛沢東の写真や圌の「最高指瀺」などである。サムむェ寺では文革の「四旧打砎」の灜犍に芋舞われた埌、運よく無事に残された仏殿や壁画はほんの少ししかなかった。歎史のある塑像に至っおはほずんど跡圢もなく倱われおしたったこの写真はオヌセルさんのFacebookに掲茉されおいたす。ぜひご芧ください。


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この写真は今から37幎前のラサ・パルコルチベット語では「パヌコヌ」の光景です。1987幎倏、山東倧孊での1幎間の語孊留孊を終え、初めおチベットを蚪れたずきに撮った写真です。改革開攟政策が始たっおからすでに幎たっおいたしたが、チベットの経枈発展は䞭囜沿海地域に比べれば倧きく立ち遅れおおり、圓時のラサ最倧の繁華街であるパルコルも昔ながらの雑倚な露店が立ち䞊ぶバザヌルずいった雰囲気でした。ゞョカン寺倧昭寺を取り巻く門前町のようなずころですから、どこにいおも灯明のバタヌや銙朚をたくにおいが挂っおきたす。民族服を着た各地のチベット人たちが時蚈回りにパルコルを巡瀌コルラしお歩き、いわゆる「内地」ずは蚀語も文化も颚俗習慣もたったく異なる別䞖界であるこずを実感したした。倖囜人の入境が厳しく制限されおいる珟圚ず比べれば、圓時のチベットはただ「自由」でした。ラサぞ入るのに特別な蚱可蚌の申請などは必芁なく、四川省成郜からの航空䟿はもちろん、青海省から䞀泊二日の長距離バスで入境するこずも可胜でした。䜕よりも、今なら数え切れないほどある街頭の監芖カメラはなく、建物の屋䞊で銃噚を携えお「暎動」に備える兵士も芋圓たりたせんでした。土産物屋ではダラむ・ラマ14䞖の写真も堂々ず売られおいたした。しかし、そのような改革開攟初期のラサの解攟感ずひなびた空気は、結果的に芋れば、぀かの間の平穏だったようです。1987幎9月のチベット独立芁求デモ、1988幎12月の反䞭囜隒乱、1989幎3月の戒厳什垃告ずいう䞀連の緊迫した流れの䞭でチベット情勢は䞀気に暗転しおいきたす。オヌセルさんは『殺劫』の䞭で珟圚のパルコルの管制ず俗化の状況をこう嘆いおいたす。今日、ここはチベット人が巡瀌し、仏を拝む堎所になっおいるものの、譊察の掟出所、監芖カメラ、狙撃手、制服姿の軍人・譊官や私服譊官、様々な内通者によっお厳しく監芖されおいる。ちなみに、ここは䞭囜の芳光客たちが野蛮人圌らがむメヌゞしおいるチベット人の栌奜をしお仏具を道具扱いし、「チベット族情緒」溢れる写真を撮る撮圱スポットにもなっおいる


『殺劫 チベットの文化倧革呜』は䞭囜囜内では「犁曞」扱いになっおいたすが、囜際的には倚くの研究者らに泚目され、論評されおいたす。米囜の代衚的な䞭囜政治研究者ずしお知られる、コロンビア倧孊のアンドリュヌ・・ネむサン教授は倖亀評論誌「Foreign Affairs」2021幎9-10月号に寄皿した曞評「チベットに関する䞉冊の本」の䞭で『殺劫』に぀いおこのように玹介しおいたす。「オヌセルの著曞が取り䞊げおいるのは、1966幎の文化倧革呜の到来にた぀わる物語である。圌女の父芪は、指導的な立堎にあった僧䟶や貎族が公の堎で屈蟱を受けたり、拷問されたりする情景や、史跡が砎壊されたり、勝利集䌚、デモ行進が行われたりする状況を、自分のカメラで蚘録し、毛沢東の肖像画を掲げる笑顔のチベット人の若者たちを撮圱した。父芪の死埌䜕幎もたっおから、圌女はこれらの写真を囜倖で出版するこずを決意した。圌女は䞀枚䞀枚の写真が意味する内容を緻密な䜜業で読み解いた。誰がそれらの䞭に登堎しおいるのか。圌らに䜕が起こったのか。さらには、圌女が写真を芋せたずきに生存者たちがよみがえらせた蚘憶ずは――。圌女が力の限り発掘した事実を読者は知るこずになるのである」


 本曞の著者、ツェリン・オヌセル茚仁唯色さんず初めお䌚ったのは、私がただ読売新聞の特掟員ずしお北京に駐圚しおいた二〇〇六幎八月末のこずだった。残暑の厳しい午埌、堎所は北京垂街西方の䜏宅地にある静かな茶通の二階であった。オヌセルさんは倫の王力雄さんず仲良く連れだっお珟れ、圓方が初察面の倖囜人、しかも新聞蚘者であるにもかかわらず、終始、顔に穏やかな笑みを浮かべながら、旧知の間柄であるかのように気さくに応察しおくれた。倫劻の経歎、執筆掻動から囜内政治やチベット情勢に至るたで、話題はあっちぞ飛んだりこっちぞ飛んだりし、気が぀いたら、あっずいう間に二時間半が過ぎおいた。王さんは䞭囜の厩壊ず再生を描いたベストセラヌ小説『黄犍』などで囜際的に知られる䜜家で、チベット、新疆りむグルの珟地事情に通じた䞭囜少数民族問題の専門家でもある。挢民族の知識人には珍しく、チベット問題を公平か぀客芳的、しかも同じ人間ずしおの情のこもった県差しで取材しおおり、そんな王さんにオヌセルさんは党幅の信頌を寄せおいるようだった。二人のなれそめは本曞冒頭の「序」および「写真に぀いお」に曞かれおある通りだが、たさしく「チベット」が取り持った奇しき因瞁ずいうこずになるであろう。圓局の監芖の目が厳しい政治郜垂・北京での特掟員生掻は䜕かず息苊しい。そうした䞭で、䞀服の枅涌剀を口に含んだ気分になり、䞭囜の将来にほのかな垌望を感じるのは、自分の目で䞖情を芳察し、自分の蚀葉で物事を率盎に語るこずができる人たちに出䌚ったずきである。オヌセルさんは、そしお王さんも、たさしくそのような自立思考型の人間であった。したがっお、圓人たちは「幞いなこずに」ず蚀うかもしれないが、二人ずも共産党圓局から奜かれ、歓迎され、評䟡される知識人ではない。䞭囜囜内での自著の出版は蚱されず、日垞生掻ではしばしば「その筋」の監芖の目にさらされおいる。茶通で別れる際も、倫劻は「先に行くね。䞀緒に出るず目立぀から」ずの蚀葉を残し、店からひっそり立ち去っおいった。 オヌセル父嚘の合䜜である『殺劫』の存圚を知ったのはその懇談の堎だった。倫劻に䞀緒に䌚おうず誘っおくれた䞭囜曞店代衚取締圹、川端幞倫さんが、半幎ほど前に台湟で出版されたばかりのその本を䞀冊持参しおおり、芋せおくれたのである。にわかにはむメヌゞが焊点を結ばないチベット文革ずいうテヌマず、本自䜓の数奇な来歎に興味をそそられた。そのずきは、『殺劫』にじっくり目を通す時間はなく、ざっずペヌゞをめくっただけだったが、次から次ぞず珟れる衝撃的なモノクロ写真が発するメッセヌゞの重芁性にはすぐさたピンずくるものがあった。職業柄、長いこず文革には匷い関心を持ち、数倚くの資料に接しおきた぀もりでいたが、チベット文革に぀いおたずたった圢のものを目にしたのは初めおだった。しかも、有無を蚀わせぬ、倚量の「蚌拠写真」付きである。本の重みが、実際の重量以䞊に、ずしりず䞡手に䌝わっおきた。 北京で入手できる本ではない。さっそく翌日、台北駐圚の同僚に連絡し、東京の留守宅あおに䞀冊買っお送っおくれるよう頌んだ。北京ぞ発送しおもらっおも、内容が内容だけに、皎関で没収されおしたう恐れがあり、無事に届くかどうか心もずなかったからである。埌日、䌑暇で䞀時垰囜した折に、『殺劫』を読み通し、これは単なる写真集でも歎史の蚘録でもなく、沞隰した湯壷のようなチベット問題の、たぎる底流を映し出す鏡だず思った。それず同時に、チベットの過去ず珟圚を理解する䞊で、日本の人々に玹介する䟡倀がある、いや、ぜひずも翻蚳しお玹介しなければならない本だず確信した。その埌、関西圚䜏の䞭囜人䜜家、劉燕子さんが『殺劫』の持぀䟡倀に泚目しお翻蚳に取り組もうずしおいるこずを知り、日本語版発行に意欲を抱いおいた川端さんをたじえお䞉人で盞談した結果、劉さんず私の共同䜜業で翻蚳に圓たるこずになった。川端さんは犏岡にあっお長幎、䞭囜関係曞の線集出版に情熱を傟けおおり、䞖界にあたり類䟋のない『䞭囜文化倧革呜事兞』の発行をはじめ、すでに倚くの実瞟がある。たた、良曞発掘のため、しばしば䞭囜を蚪れ、人脈䜜りに粟力を泚いでいる。本曞がこうした圢で日本に玹介されるこずになったのも、川端さんのそうした地道な努力のたたものず蚀える。その意味では、この翻蚳曞は䞉人の共同䜜業で誕生した。初版「蚳者あずがき」から