45年の灯を次の世代へ──tottoriカルマ戎町店の閉店を“新しい船出”に

2025年12月tottoriカルマは11年間の幕を閉じます。東京での34年間を足すと、45年。しかし運営者75歳の今、諦めて「全て仕舞う」町の明かりを消す選択は出来ません。次の航路へ舵を。市内拠点「トりんく まんまる」を、ブックカフェ✕私設図書✕小さなイベントスペースへ“新しいカルマ”始めます。

現在の支援総額

3,549,177円

118%

目標金額は3,000,000円

支援者数

478人

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2025/11/01に募集を開始し、 478人の支援により 3,549,177円の資金を集め、 2025/12/31に募集を終了しました

45年の灯を次の世代へ──tottoriカルマ戎町店の閉店を“新しい船出”に

現在の支援総額

3,549,177円

118%達成

終了

目標金額3,000,000円

支援者数478人

このプロジェクトは、2025/11/01に募集を開始し、 478人の支援により 3,549,177円の資金を集め、 2025/12/31に募集を終了しました

2025年12月tottoriカルマは11年間の幕を閉じます。東京での34年間を足すと、45年。しかし運営者75歳の今、諦めて「全て仕舞う」町の明かりを消す選択は出来ません。次の航路へ舵を。市内拠点「トりんく まんまる」を、ブックカフェ✕私設図書✕小さなイベントスペースへ“新しいカルマ”始めます。

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(写真は40年前のジャマイカ モンティゴベイ)カルマの始まり、の、はじまり1980年〜中野時代(連載6回目)◆美味探求の旅路の続きのお話◆前々回、アホになってジャマイカ行った話を書いたけど、その時見聞きしたり食べたり飲んだり熱心にした物も色々美味しかった。まずはビーチ、そして街の屋台みたいなお店などアチコチで必ず売られていたガラス瓶入りの「ジンジャービア」。生姜好きとしては放っておけずにすかさず買って飲んだ。どうもジャマイカでは輸入品のコーラより地元のジンジャービアがポピュラー(そして何よりお安い!)みたい。飲んでみて、大満足!美味しい!辛くなるほどジンジャー成分濃厚じゃなく飲みやすくて、でもしっかり生姜。サラッとした甘さ!これも日本に帰ってきてから、大鍋で生姜を大量に煮てそこにレモンとお砂糖(これは個人的な好みでメッチャ甘くしていた)を入れて丹精込めてぐつぐつして作ってみた。最近、カフェで自家製のジンジャーエール(ビアって言わないのよね)やクラフトコーラが当たり前になりましたが、その当時はこんな風に作るのはなかなか珍しかったと思う。そんなに頻繁に出るメニューにはならなかったけど、好きな人は頼んでくれるマニアックなメニューとなった。帰国後のカルマには「ジャマイカン海老の唐辛子炒め」と一緒に、タイムを効かせた夏野菜の炒め物(干し鱈とアボカド入り。ジャマイカのホテルのラウンジで夜ご飯に出てきた美味しいメニューだった)を添えた「ジャマイカン・スペシャル」というラスタマ〜ン♫なメニュー(よく出るメニューだったので随分長い間出していた)もあって、一時期はホントにジャマイカぽかった。そんな関連である時、中野サンプラザでジャマイカン・レゲエグループのコンサートがあった時、お店の電話が鳴った。コンサートのプロモーションをしている会社からの電話で「お店のキッチンを貸してもらえませんか!?」という連絡だった。面白い笑その時日本に呼ばれたラスタマンの皆様は「アイタルフード」と言う宗教的な料理のルールに忠実なので、お付きのコックさんにジャマイカから遥々一緒に来て貰っていると言う。「カルマのキッチンで、サード・ワールドというバンドのミュージシャンの、みんなの賄いを作らせて欲しい」という、とても面白い話だった。「それはもう是非どうぞ」という事になり、作るトコも見せて貰える事になった。そこでお連れのコックさんが作っていたのが「レッドビーンズ・スープ」だった。小豆にタイムとブラックペッパーたっぷり入れて煮るスープなんだけど、うーむ、これは、なかなか微妙だった。味的には、胡椒とタイム入れたまるっきり塩ぜんざい…。日本では「小豆=甘い」ってもうコレっきりみたいな感じだから何だかちょっと馴染めなかった。1回位、出してはみたんだけど、これはカルマのメニューとしては出なさそうで、そのまま御蔵入りとなった。でも来てくれたコックさんには「ココ!ココにサインしてって!」とカルマの壁にサインを貰い、みんなでキャッキャしてリアルなジャマイカの風を感じるとても楽しい機会となった。こんな風に、都度機会を取り込んでは自分達のしたいようにメニューを作ってみんなで吟味して行くので、沢山の中から超精鋭メニューしか残れない。あっちゃ行ってこっちゃ食べて、自分達が「アッ!コレだ!」みたいな料理をその場その場でばりばり取り入れ、そしてそれがまた混ざり合い「美味しいლ(´ڡ`ლ)!!けどもっとこうしてみたらもっとずっと美味しくなる?!」とかまた新たな独自メニューに発展していく。そうして、カルマのメニューは時々珍しい繊維が織り込まれた精緻な織物のようにミチミチと精製されてきたのでした。さて「美味しさを探求する旅路の話」本日はここまで。また、この後の話は後日お楽しみに…!tottoriカルマ 閉店まで残り 26日この場所でのカルマのファイナルを楽しみに来て下さいね。まだまだ、少しでも出来ることをやっていきたいです。クラファンは12月31日までですが、引き続きご支援のほど、何卒よろしくお願いします。


カルマのクラファンに本日までに222名様からのご支援、そしてたくさんの応援メッセージ戴いております。引き続き頑張らせてください〜!さて、以下からそのtottoriカルマの前身である中野カルマのはじまりの話。カルマの始まり、の、はじまりむかしむかしその昔1980年〜中野時代(連載5回目)◆お店を知ってもらう事/「美味しい物」行脚◆さて連載5回目は「オープンしたてのお店を知ってもらう為にしてきた事」そして生来、食いしん坊だった自分が「食のヨロコビ」を感じられる美味しい物を求める旅路について。「美味しい物を求める旅路ってお店関係無くない?」って思われるかもしれませんが「うわあ〜何てウマいんだぁ〜!!」って思える物って、やはり「美味しさを作り出している原因」がある。食を愛する人間が、愛情を持って生み出してきたその「公式」に、もし自分の数字を上手く当てはめる事ができれば。新しくスパークするメニューが出来るのかもしれないと、とにかくジャンルを限定せず色々沢山!食べて来ました。さてそれでは中野時代のカルマのオープンして間もない初期の頃。当時、まだまだ「sns」なんて無い時代です。まずは、知って貰えないと来店もしてもらえない。どうしたらお店を知って貰えるか、散々考え色々トライしていました。当時、流行りのお店情報はみんなその頃盛んになり出した情報誌で知るようになってきていました。「angle」そして女性誌のクロワッサンなどが有名でしたね。そして取材した記事とは別に読者からの投稿ページもあった。取材して貰えればそりゃすっごく有り難かったけど、そんなツテもないし流行ってもいない。なので頑張って「こんな素敵な店見つけましたよ!」って自分で投稿(ナミダぐましい努力…?!)したりして。もちろんそんなの無(TдT)反(TдT)応だった。でもね…。これは後でスタッフから聞いた話なんだけど、どうもクロワッサンからの取材依頼電話!が1度あった!らしい。「え。なんで『らしい』って。取材受けたんでしょ!?」って思うじゃないですか。それがね…丁度忙しい時間帯に掛かってきた取材依頼電話に出たスタッフ「今忙しいんで〜!」と断っちゃったんですって。ガックリ(TдT)クロウシタノニイ!情報共有は、大切にしないとね…って話です。その後も「知って貰うための試行錯誤」はずっと続いたのですが、何故かその試行錯誤はアフリカンドラム演奏やアートスクール「セツ・モードセミナー」でのモデル活動なんかの違う道を示してくれて、全く予期していなかった扉がパカパカ拓いていったのには驚きました。お店を何とか存続させる為にやっていた事が、何故か自分の人生の道を大きく好転させる。最初からお客さんがドンドコ来てくれていたら、きっとこんな面白い道程を歩めなかったなぁ。お店閉めた後に1人賄いゴハンを食べている時、しみじみそう思ったりします。さて知って貰ったら次は「お店自体が持つ美味しさ」も大切です。そしていつも目新しい美味しさの持ち駒はあって困るものでは無い、ので沢山あるほど有難い。大人になって、自由に大好きな外食ができるようになったヨロコビに打ち震えつつ「これは勉強だから!」と業務っぽい言い訳も準備しつつ(誰も聞いてないけど!)情報誌と口コミを頼りに、そしていつも通らない道を歩く時にはもう目一杯アンテナを張り巡らして気になるお店見つけたりして、あちこちのお店に食べに行きました。今は超絶老舗となったロシア料理屋さんのロゴスキー(当時もう既に立派な老舗だった)も大好きでした。嗚呼最近食べてないウズベク焼飯〜!美味ლ(´ڡ`ლ)しいよね!その頃、雨後のタケノコ的に出来始めたアジア料理屋さん、タイ・ベトナム・カンボジア・インドネシア…知らない国の料理店が開店したという情報が入れば即座に行っていました。食べつつ湧き出すアイデアを(忘れちゃうからね…)お皿の横にメモを置いてせっせと書き込んでたりして、お店からしたら「何メモしてるの…!?」って感じの嫌なお客さんだったかなぁ((;´Д`)ゴメンネ…)そう言えば高円寺にあった仲屋むげん堂。レストランが出来たと聞いてすぐ行ってみたんだった。そこのメニュー「バイセロリ」セロリの葉っぱって意味らしんだけど現地にそんなメニューあった訳では無いみたい。これが美味しかった!実は、中野オムライスの原点はそのメニューにあったりします。原点って言っても随分違うんだけど…ウーン、子孫から見た立派な先祖みたいな原点です。茎が主役のセロリ。それの葉っぱだけが、ひき肉の中にたっぷり入っていたのが衝撃だったなぁ。さて本日のお話はここまで。次回も美味探求のお話、続きます!お楽しみに(*´∀`*)#中野の小さな無国籍食堂カルマ#セツモードセミナー#オムライス#アフリカンドラム#仲屋むげん堂#銀座ロゴスキー#ウズベク焼飯#残り37日#達成率65パーセント https://camp-fire.jp/projects/884031/view


高山なおみがよく参考にしていた料理本カルマの始まり、の、はじまり1980年〜中野時代(連載4回目)◆声に出して言いたい事…( ̄ー ̄)ニヤリ「無国籍料理!!って初めて言ったのは私で〜す!」◆イキナリ何言ってんだ…って始まった連載4回目。でもホントにそうだったのです。だってそれ以前にそんな単語、無かったから。だいたい◯◯国料理の専門店、というのはあっても、色々取り混ぜて出してるお店も無かった。だから、言葉も作るしかなかったのです。でもそれには「キッカケ」は、やっぱりあって。ある日、NTTから「電話帳にお店を掲載するのですが、あの、どの料理のジャンルに載せれば良いですか…?」と電話があった。「ムムッ?!」と思ったんだけど、その頃すでに自分達が手当たり次第出したいメニュー、とにかく国決めずに美味しけりゃいいってんで自分達の都合やアイデアを混ぜ倒してメニュー作って出すようになっていたので…咄嗟に「あ、無国籍ですね!」と答えたのでした。その頃、勿論そんなジャンルは皆無。なので実際何に分類されたかは、その後追跡してないし今となってはホントに藪の中…皆目分からない。でも、咄嗟に出た単語とは言えそれが口から出て耳に届いた途端、自分で言っててナンだけど「おおおお!そうだコレだこれだ!」と何だか深々と納得してしまったのだった。その後、中野カルマは「小さな無国籍料理店 カルマ」と名乗るようになったのです。でもしみじみ思い出すに開店当初、そしてそれからも暫くは思ったようにお客さんは来てくれなかったんだったナァ。よく知ってる「洋食」はたまた「中華」「フランス料理」…馴染みの単語じゃないものね。「無国籍料理…ハァ?何が出てくるの?!」みたいな感じだったと思う。でも店内ではお構い無し(ホントは構わなくちゃいけないけど!)に、みんなで「アレ作ってみよ!こんなのは?」って日々その場を楽しんでいた。そんな、料理の実験工房のようなお店を面白がって通ってくれるようになったお客さん、そしてスタッフになんとか支えられつつ、のスタートだったと思う。そしてその頃「喫茶店でケーキを焼いてます」という人に入って貰った。それが、高山なおみさんだった。彼女はちょこちょこっとしたつまみを作るのが上手く、飲み客にとてもウケた。愉快な仲間が頼もしく増え、スタッフみんなであんまり楽しげにやっているので「…何だナンだ?楽しそうだな」って来てくれるお客さんがまたお客さんを呼び、そして段々とあんなに狭いところに面白がってギュウギュウ来てくれるようになってきたのだ。時々、ランチやお夕食分が残ってもソコはスタッフの多さと食の好奇心旺盛なカルマの事、アッという間にみんなで美味しく食べてしまって美味しさも共有できるのでもう全然無問題!その頃、スタッフが熱心に参考にしていた膨大な料理本は、鳥取で「私設図書カフェ トりんくまんまる」のまるまる棚1つ分を今、静かに占有しています。キッチンにギッシリ置かれていて、いつも手に取られていた料理本たち。トマトの染みや油の飛んだの等で彩りも賑やか(*^_^*)に添えられている。鳥取に定住を始めた頃、本棚に並べるために表紙に染み付いた油汚れを拭き取る時、何だかあの頃の時間を一緒に取ってしまうような気がして、だいぶセンチメンタルな気持ちになってしまった。色々あったけど、あの時間はなんとも愛おしいのです。なんか青春ぽい笑さて本日の写真は、前々回紹介した「料理の四面体」開店時にたまたま出会って、その後の料理人生の軌跡がガチャコンと変わった本。もう文庫本でしか手に入らないようですが、料理本としても面白いけど考え方が変わる、そんな読み物として面白い!あったかくして寝床でトロトロ読んで欲しい1冊です。もう一冊は特に高山なおみがよくみていたエスニック料理本。一度も食べたことも見たこともないのになまえが面白いので作った「アドボ」枝元さんが大根を入れようとなって肉汁の染みたすっぱい大根がまた格別。それからカルマの定番料理となりました。お客さんに現地で食べた料理と同じ味!懐かしい!と言われたなぁ。さ。続きはまた後日…(*^_^*)あ。重ねてのお願いですがこの頃のカルマの様子がわかる写真どなたかお持ちの方〜!画像(&エピソードも!)欲しいです。どうか是非ご連絡ください〜。(1980〜2000年位の間)カルマ常連お客認定された久島宏君から送られてきた中野カルマの貴重なキッチンの写真をお見せします!本日まで203人の皆様からご支援と、有難い応援メッセージを頂いております。読み物としても楽しめるよう、引き続きカルマのアーカイブ文章綴ったり等も頑張ります!どうか、皆様も1人でも多くの方に鳥取の魅力の拡散お願いできればと思います。そして本を読んだり人と会ったり散歩したりする鳥取の場所を作るためにTottoriカルマのクラウドファンディングの拡散&御支援を!何卒よろしくお願いします。#残り40日#開店物語 #地域の絆#達成率59パーセント#何より楽しく#料理の四面体#高山なおみ#中野無国籍カルマ#Tottoriカルマ


カルマの始まり、の、はじまり1980年〜中野時代(連載3回目)さて保育園のお仕事は、やりがいはあるし熱心に働いていたけど、も〜どーにも約束した時間に始動できない。上の人に「実はこんな感じで…」と打ち明け、相談の末に、やっぱり退職させてもらう事になった。今あの時お世話させて貰った小さな子達は、もう40歳過ぎの立派な大人に、きっとなってるはず…(ビックリ(@_@;)時の流れ)その後、だいぶ経ったある日、中央線に乗ってたら新宿で「あの、失礼ですが◯◯保育園の丸山先生でしょうか…!?」って1回だけ声を掛けて貰った。園児のお母様だった。その途端、ゴワッと当時の事を思い出して何だか小汗をかいてしまいました。懐かしいあのギリギリだった日々…みんなどーしてるのかな〜。そーいえば、保育園退職してすぐ「ウヒョ〜自由な時間がたぁくさんあるゥ〜!そーだ今しかナイ!行っちゃうぞお」とかってアホと化して(若かったのよ…)ジャマイカ行って音楽フェス参加したりしたな〜。「日本人が大挙してやってきた」って、現地では新聞ネタになったらしい。(ボブ・マーリーが亡くなった直後くらいだった)さてお店に戻って…最初に揃える道具によって、お店のその後の歩みも決まる!と、道具や設備はしっかり揃えることにしたのでした。それで厨房にはドカンとでっかいオーブンのついた三口ガスレンジを入れてもらった。そしてこの決断、その後すんごい大吉と出たのでした。あのバカでかいオーブンは、カルマが「喫茶店」の枠からビョ〜ンと飛び出て、様々な料理を生み出す言わば「料理の実験工房」となる為の大切な礎となった。それはカルマで働いた人の、その後の人生すらちょっこり変えたのではないだろうか。オーブンの活躍、ホントに凄かった。でも夏は暑かったな…モ〜アッヅ(;´Д`)アヅウさあ、お店がオープンして3ヶ月も経った頃。ランチと夜飲みが中心になったけど、まだ隙間時間は手持ち無沙汰…。「お茶の時間位とかにも、もっとお客さんに来て欲しいね」ということになって、ヨシそれではというので自宅でケーキを焼いていた枝元さんが「お店でケーキ焼こう!」と言い出した。それがね、最初はケーキ型が無かったんです。ので、枝元さんは「タルトタタン」りんごのケーキを本から見つけ出して一人黙々と挑戦してくれた。それならフライパンでできるから!って。一生懸命ごそごそと素敵な作業が行われ…そのうちに、おおなんと!素晴らしく甘酸っぱい香ばしい香りが店内いっぱいに立ち込め始めたのです。「さ、そろそろいけそうですよお〜」おおお。なんとワクワク。大皿を一度フライパンにかぶせ、ひっくり返して軽く底を焼いて出来上がり!だと言う。もうたまらない、りんごの甘酸っぱい香り!わたしも脇で固唾を飲んで、焼き立てを試食させてもらおうとフォークを握り締め(今更ですがとても食いしん坊なのです…)お茶の用意をして待つ。「もういいかな〜」と枝元さんがオーブンからケーキを取り出す…そして、そっと持ち上げて底をみると…焦げ…(TдT)しっかり黒焦げだった。ボエ(TдT)ボエエエ〜ン固唾を飲んで待っていたスタッフ(私も)と枝元さんは全員でガックリとしょげ返ったのでした。でもよく見ると、焦げてないりんごのトコはすごい美味しそう…!という事で、ファーストケーキのタルトタタンは時間をかけて丁寧に焦げを削り取り、お茶と一緒にみんなで美味しく戴いたのでした。焦げてもホントに美味しかった!まだ、大型の業務用ガスオーブンの扱いに慣れていなかった極初期の頃。失敗も多かったけどそれにめげずにどんどん試して試して、みんなで色々楽しく挑戦した時期でした。そして、この初期の頃に色々何でも試してみた事が、後々、大きく実を結ぶ事になったのです。今回の写真は、初期によく枝元さんが見ていたケーキの本 「マドモアゼルいくこ︰秘密のケーキづくり」です。手描きのイラストだけで写真は無かった。面白い名前のお菓子が並んでます。この続きはまた明日(*^^*)※この記事をご覧になった方の中でこの頃のカルマの様子がわかる写真、どなたかお持ちですか?是非ご連絡ください〜!(1980〜2000年のもの)本日までに、200名様からご支援とたくさんの応援メッセージを戴いております。引き続き頑張らせてください!みなさんからも少しでも多くの方に鳥取の魅力を伝えていただけたらと思います。何卒、拡散よろしくお願いします。#残り41日#達成率58パーセント #300万円まであと124万円#ケーキづくり


カルマの始まり1980年〜中野時代(連載第2回)クラウドファンディング活動報告、第2回です。現在、達成率56%、支援者の皆様の人数は183名様となりました。御支援募集終了日まで、あと43日。そしてtottoriカルマ…!戎町の店舗での営業も、あと31日となりました。さて本日は、前回までの続き。約45年前、tottoriカルマの前身である中野のカルマがどう始まったか、その“始まりの始まり”のお話。「中野カルマ」の場所が決まり、「さあ、やるぞ!」とモゴモゴお店が動き出します。私がお店をやりたかったのは、前回の枝元なほみさんの話でも出ましたが「人が集まり化学変化を起こして楽しさの生まれる場所」を自分で作りたかったから。ロック喫茶の「高円寺movin'」での経験や、保育士として子供達と過ごした日々から、人が集まる場所には面白い事が起こる。そのワクワク感、スパークする輝きを見ると「生きるのって、やっぱりスゴい事だな!」って思える。そこに美味しいゴハンや飲み物がいつもあれば、もうサイコーじゃない?「良いお店だな。やっててホントに楽しい。そんなお店に…!!」とココロの中で静かに拳を握り、今までは自分の頭の中にしか存在しなかった物を現実世界に出すべく行動を開始しました。まずは枝元さんに入ってもらうのは勿論、事前に根回ししていたネパールやチベットから帰ってきた知人、フリーの雑誌編集者、新宿のラウンジにお勤めの方など5、6人に声を掛けて協力してもらう事に。それでこれは、みなさんも何となく肌感として「そうだな」って思うかもですが「オーナーが店舗決めてメニュー決めてバイトさん募集して営業時間指定してマニュアル通りに働いて貰う」…って「わぁ楽しそう!!」ってこう…ワクワク!!みたいな感じ出て来にくいかなって。なのでそんな感じは、も〜すんごく避けたかった。何の為に今までアチャコチャ嗅ぎ回ってみんながスパークする為の場所になるようにって魅力的な人達に頼んで回ったのか。やっぱり、何とかその場所に集まった人達が醸すものが最大限に生かされる場所になるといい!メニュー決めてマニュアル作って「この通りに!はい万事守って働いて!ホラそこミリもはみ出さないで!」なんて…。それは何か、超絶良い酵母が沢山揃ってサァ美味しいパンやオサケができそうって脇から塩素の消毒タンク持って「消毒しま〜ス!」って辺り一面マッ白ケみたいになっちまう。ので、ですね。まずはみんなで集まってテンでに好きなものワシワシ飲みつつ食べつつ「どんなメニュー出したら自分達がやってて楽しいか?美味しいか?何が好き?」と、どんどんアイデアを出してもらいました。ネパール帰りの人からは「チベタンモモ」が出ました。これは皮を粉から作るので、後々カルマ内で様々な粉ものメニューへと広がっていく基盤となる、歴史的メニューとなりました。そしてやっぱりカレーは欲しいよね、どんなのがいいかな、と色々して「ナスとひき肉のキーマカレー」に決定。枝元さんは大型スーパーでその頃やっと出回り始めた輸入品、それも珍しい物を試しに使ってみる事が大好きだったのでスパイスについても詳細に調べ上げ、これまたカルマ内で長々と作られ大きく育ってゆくスパイス料理への流れを作ってくれました。美味しくなるなら何でも試して、色々な料理方法を混ぜ合わせていこう!そんな非常にオリジナルな料理作りへ広がっていくベースが、この「始まりの始まり」の時期に作られていきました。して私はトマト好きなので、当時の料理本を参考に「南仏風トマト焼き」も考案…お醤油と日本酒が決め手ってドコが南仏だよって感じですが、言われると「そうかな」って味になるのよ。トマトは焼くと、元々持ってる味わいがめちゃくちゃ強くなるし、ちょと時間は掛かるけど美味しいしね。こうして…みんなのアレコレなアイデアから、お店のメニューやその後お店の後々にまで長く続いていく「カルマの性格のベース」のようなものが少しづつ、着実に形作られていきました。そして店名。覚えやすさを重視した。のと、その頃読んだ藤原新也さんの「チベット放浪」に載っていた「カルマ」という言葉がやけに印象深かった。自分の「こんなのやりたい!」っていう「人生のナリワイ」と重ねたって部分もあります。仏教用語としてマイナスイメージもあるけれど、だからこそ誰もつけない唯一無二の店名となるかな〜と。今でもとても気に入っています。さて1980年当時「カフェ」という業態はまだ今ほど確立されておらず「カフェバー」が出始めたばかり。個人で気軽に開けるような業種ではなかったけれど、何しろ私のナリワイ。心強い仲間たちもいるしな!と1980年7月「中野カルマ」は世の中に漕ぎ出しました。オープン初期、こんな変わり種を珍しがってよく来てくれる、デザイナーのお客様にメニュー表作りも依頼。当時とても好きになって読み込んでいた、玉村豊男さんの『料理の四面体』のトレーシングペーパーを使った洒落た装丁ぽくして、表紙の次にメニューが透けて見える凝ったデザインにして貰った。仏教ぽい鹿のマークも作り、色々なお客様グルグル巻き込みながら、やりたいことヽ(=´▽`=)ノナンでもやったもん勝ち〜って感じのお店作りでした。までもそれはそれとして、現実のシビアなトコも見ないとです。開店当初から頻繁に飲みに来てくれる大グループのお客様がいてくれたのはめちゃくちゃ助かりましたが、お店のオープン時間は朝11時から夜12時まで必須!1人2人ではとてもできません。しかも、オープンしてるからって、必ず集客がある保証は無かった。今みたいなSNSも全て無い時代、資本力や人脈がある店と違って、膨大な数のお店の中からピョッコリ出てその存在を人に伝えるのは至難の業です。その点についてはホントに苦労しました…。何しろお店のストックは宝石や木材とかではない、生鮮食品。時間とも戦わないといけないのです。加えて毎日、夜12時まで営業し時にゲストに付き合ってから閉店すると自動的に帰宅はAlways深夜。開店初期は保育士を兼業していた私は遅刻が続き、当然大叱責!を受けました。さて始まりは始まったけど早速どうなったかというのは…また後日。どーぞオタノ♫ヽ(=´▽`=)ノ♪シミニ〜写真は今年亡くなってBIG ISSUEの表紙になった故枝元なほみとこれはカルマ時代かな?というものです。#枝元なほみ #BIG ISSUE#お店開店#クラウドファンディング#料理の四面体#キーマカレー#中野カルマ#tottoriカルマ#高山なおみ   #高円寺movin'#カルマ物語#アイデアどんぶり料理徳間書店#原点 #56パーセント達成#300万円まであと131万円続きはまた明日…


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