日蘭交流の記憶――川原慶賀筆「ブロムホフ家族図」修復プロジェクト

長らく公開されることのなかった一枚の絵があります。現在、オランダ国立世界文化博物館に所蔵されている、江戸時代に出島で描かれた川原慶賀筆「ブロムホフ家族図」です。この絵は200年間未公開のまま人々の目に触れる機会がありません。私はこの作品を修復し、日本で初めて公開する文化事業に挑戦します。

現在の支援総額

1,690,500

24%

目標金額は7,000,000円

支援者数

58

募集終了まで残り

30

日蘭交流の記憶――川原慶賀筆「ブロムホフ家族図」修復プロジェクト

現在の支援総額

1,690,500

24%達成

あと 30

目標金額7,000,000

支援者数58

長らく公開されることのなかった一枚の絵があります。現在、オランダ国立世界文化博物館に所蔵されている、江戸時代に出島で描かれた川原慶賀筆「ブロムホフ家族図」です。この絵は200年間未公開のまま人々の目に触れる機会がありません。私はこの作品を修復し、日本で初めて公開する文化事業に挑戦します。

【5万円以上のリターンをご支援いただいた皆さまへ】追加特典のお知らせこのたび、5万円以上のリターンをご支援いただいた皆さまへの感謝の気持ちを込めて、特別な追加特典をご用意いたしました。オランダ国立世界文化博物館では、日本コレクションのうち展示されているのはわずか約5〜6%。残り約95%は一般公開されることなく、収蔵庫で大切に保管されています。そこで今回、5万円以上のリターンをご支援いただいた皆さまを対象に、**オランダ国立世界文化博物館「ビハインド・ザ・シーンズ・ツアー(バックヤード見学)」**へご招待いたします。通常は立ち入ることのできない収蔵庫や保存・修復エリアを学芸員の案内で見学し、展示室では決して見ることのできない世界屈指の日本コレクションや、文化財を未来へ受け継ぐための保存・修復の現場をご覧いただける貴重な機会です。本ツアーは、すでに5万円以上のリターンをご支援いただいた皆さまも対象となります。これからご支援くださる方も、同様にご参加いただけます。ビハインド・ザ・シーンズ・ツアー概要 ・実施期間:2027年3月1日〜2028年2月28日 ・会場:オランダ国立世界文化博物館(ライデン) ・現地までの交通費・宿泊費は各自ご負担ください。 ・見学日時などの詳細は、ご支援者様とメールにてご相談させていただきます。 皆さまからの温かいご支援への感謝を込めて実現した、今回だけの特別な追加特典です。ぜひこの機会に、普段は決して見ることのできない「博物館の裏側」を体験していただければ幸いです。


今回、「ブロムホフ家族図」を調べるにあたって、川原慶賀に関するさまざまな資料を探しました。しかし、慶賀の残した作品の膨大さに比べると、参考にできる研究書や論文が意外なほど少ないことに気づきました。 もちろん、これまでにも長崎の研究者や、オランダの博物館関係者によって、慶賀の画業や作品についての研究は行われています。しかし、慶賀の生涯から作品、工房、注文主、海外での評価までを総合的に知ることのできる文献は、決して多くありません。 その理由の一つは、慶賀自身についての記録が、ほとんど残されていないことです。慶賀の日記や書簡、家族や弟子による記録はほとんど確認されておらず、生年や没年さえ確定していません。どこで誰から絵を学び、いつ頃から出島に出入りし、どのような注文を受けていたのかについても、不明な点が数多く残されています。 そのため、慶賀の生涯を調べようとしても、本人の言葉からたどることはできません。残された作品や、ブロムホフ、フィッセル、シーボルトら外国人の記録、博物館の収蔵目録などを、一つずつ照合しながら考えていくほかないのです。 第二の理由は、慶賀の作品の多くが海外に所蔵されていることです。オランダ国立世界文化博物館には、慶賀およびその工房による500点を超える絵画が所蔵されています。さらに、ロシア、ドイツ、イギリスなどにも作品が伝わっています。ところが、日本国内にいると、これらの作品をまとめて見ることは容易ではありません。現在ではインターネット上で画像を見ることのできる作品も増えましたが、解説がオランダ語や英語であったり、作品名や作者の表記が博物館ごとに異なっていたりします。画像だけが公開され、詳しい来歴や制作年代が示されていないものもあります。また、博物館の解説が、後の研究によって改められる可能性もあります。美術館や博物館の解説だからといって、すべてが確定した事実とは限らないのです。 第三の理由は、慶賀の作品数があまりにも多く、しかも慶賀本人の作品と、門人や工房による作品との区別が難しいことです。慶賀は、人物画、風俗画、植物図、動物図、魚類図、職人図、長崎港図など、実に多くの作品を残しています。しかし、そのすべてを慶賀一人が描いたとは考えにくく、実際には門人や工房の絵師が制作に加わっていたと考えられます。 作品に慶賀の署名や落款があるからといって、必ずしも慶賀一人の自筆とは限りません。江戸時代の絵画制作では、師匠の名のもとに、門人や工房が制作を行うことは珍しくありませんでした。 そのため、慶賀研究では、単に落款を見るだけではなく、人物の顔、描線、衣服、構図、彩色、使用された紙や絹などを比較しなければなりません。一点ずつ丁寧に検討していく必要があり、研究には大変な時間がかかります。 また、川原慶賀が、美術史だけでは捉えきれない人物であることも、研究の少なさにつながっていると思います。慶賀の作品には、美術史だけでなく、日蘭交流史、長崎史、博物学、植物学、動物学、民族学、服飾史、工芸史など、さまざまな分野が関係しています。 植物図を研究するには植物学の知識が必要です。出島の風俗図を読むには、当時の長崎の制度や生活を知らなければなりません。オランダ人の注文による作品を考えるには、オランダ側の史料や収集の目的も調べる必要があります。 あまりにも多くの分野にまたがっているため、一人の研究者が慶賀の全体像を捉えることは難しかったのでしょう。 さらに、慶賀は長い間、「シーボルトのために絵を描いた絵師」として語られてきました。もちろん、シーボルトとの関係は慶賀の画業を考えるうえで大変重要です。しかし、慶賀はシーボルトが来日する以前から、ブロムホフやフィッセルらの注文を受けて、出島で絵を描いていました。 慶賀を「シーボルトの絵師」としてだけ見てしまうと、それ以前の仕事や、シーボルト離日後の画業、さらには出島の外国人たちとの幅広い関係が見えにくくなってしまいます。 日本にある作品だけを見ても全体像はわかりません。オランダの作品だけを見ても、長崎の画壇や日本絵画との関係は見えてきません。ブロムホフ、フィッセル、シーボルトのコレクションを比較し、さらに国内に残る作品と結びつけて考える必要があります。 参考文献が少ないことは、調査を進めるうえで大きな困難でした。しかし、それは同時に、まだ明らかにされていないことが数多く残されているということでもあります。幸い、現在はインターネットによって海外の博物館の収蔵品や研究資料にアクセスできる時代になりました。さらにAIを活用することで、これまで点在していたオランダ語や英語の資料、論文、博物館の解説などを横断的に調べ、相互に比較・検証することも可能になっています。デジタル化された博物館資料とAIは、歴史研究の可能性を大きく広げつつあります。 今回、私もそうした新しい手法を活用しながら国内外の資料を読み比べていきました。その結果、従来ほとんど紹介されてこなかった資料や、博物館ごとの見解の違い、さらには作品同士を比較することで初めて見えてくる事実にも数多く出会うことができました。 川原慶賀は、すでに研究し尽くされた画家ではありません。むしろ、デジタルアーカイブとAIという新しい研究環境が整った今だからこそ、国内外に散在する作品や資料を結び付け、新たな視点から再評価することのできる絵師なのです。 今回の「ブロムホフ家族図」の調査からも、従来の博物館解説や作品の人物同定を、そのまま受け入れるのではなく、複数の作品を比較し、画面を自分の目で見直すことの大切さを感じました。 川原慶賀は、すでに十分研究された絵師ではありません。むしろ、これほど多くの作品を残しながら、今なお全体像の見えていない絵師です。だからこそ、作品を一点ずつ見直し、国内外の資料を結びつけながら考えていくことに、大きな意味があるのだと思います。※画像は川原慶賀筆《宇治茶摘み図》(1823〜1829年頃)シーボルトの依頼によって描かれた作品です。


神戸市立博物館と東京大学総合図書館には、五人構図の「ブロムホフ家族図」が所蔵されています。 神戸市立博物館の作品は、画面寸法が69.0×85.5センチで、衝立の一面に貼り込まれています。反対側には、19世紀の長崎を描いた鳥瞰図が貼られており、衝立の両面に長崎の風景とブロムホフ一家の肖像が配された構成となっています。 一方、東京大学総合図書館の作品は、画面寸法が56.5×98.5センチで、掛軸として伝えられています。 いずれも、今回クラウドファンディングで修復を目指しているオランダ国立世界文化博物館所蔵の作品、83.0×158.4センチより小さく制作されています。 神戸市立博物館と東京大学総合図書館の作品は、構図や人物配置が極めてよく似ています。私は、この二作品を同一系統の作品と考えています。 また、両作品には川原慶賀の署名や落款があります。しかし、人物の描写や筆致を比較すると、今回修復を目指しているオランダ国立世界文化博物館の作品とは、明らかに異なる特徴が見られます。 神戸市立博物館の解説によれば、この衝立は川原慶賀がシーボルトへ贈ったものの、文政11年、1828年のシーボルト事件に際して長崎奉行所に没収されたという伝承があります。その後、長崎奉行の侍医を務めた北川家に伝わり、昭和6年、1931年に池長孟が購入したとされています。 あくまでも伝承を含む来歴ではありますが、シーボルト事件、長崎奉行所、さらに長崎奉行の侍医・北川家へ伝来したという経緯を踏まえると、この作品は単なる市中向けの複製ではなく、長崎の支配層や知識人の間で受け継がれてきた、特別な作品であったことをうかがわせます。一方、東京大学総合図書館の掛軸には、作品の由来を記した箱書きが残されています。箱書きには、次のように記されています。「文政元戊寅歳夏阿蘭陀加比丹妻子等召連肥州長崎江致着舩候、珎敷儀ニ付於 公邉人物寫茂被 仰付候由ニテ、右寫繪圖一枚御出入大通辞末 永甚左衞門ゟ指上候事」 おおよその意味は、「文政元年戊寅の夏、オランダ商館長が妻子らを伴って肥前長崎へ到着した。大変珍しいことであったため、公辺から人物を写すことも命じられたという。その写絵図一枚を、御出入の大通詞・末永甚左衛門より差し上げた」というものです。 この箱書きに記された「文政元年戊寅歳夏」という年代は既に指摘されているように誤りです。ブロムホフ一家が長崎へ到着したのは1817年、文化14年です。文政元年は1818年ですから、記された出来事と年代が一致しません。 この食い違いは、単なる一字の書き損じではなく、この箱書きは、ブロムホフの来日当時に記されたものではなく、ブロムホフが日本を離れた後、さらに相当の年月を経てから、過去の出来事を伝聞や記憶に基づいて書いた可能性があると考えています。 私が本歌(最初の作品)と考えているのは、オランダ国立世界文化博物館所蔵の五人構図の家族図です。 まずブロムホフ本人の依頼によってこの作品が描かれ、その後、公辺の許可を受けて写しが制作された。その写しの一つが東京大学総合図書館の作品であり、掛軸へと仕立てられたのではないかと考えています。 箱書きにある、「公邉人物寫茂被仰付候」という言葉は、公辺、すなわち幕府または長崎奉行所から、人物を写すことが命じられたことを示しています。 また、「右寫繪圖一枚」と記されていることから、原画そのものではなく、それをもとにした「写絵図」一枚であったとも読むことができます。 さらに、末尾には、「御出入大通辞末永甚左衞門ゟ指上候事」とあります。末永甚左衛門は、1818年半ばから1830年まで大通詞を務め、1828年のシーボルト事件では関係者として処罰されています。 この経歴を考えると、東京大学の作品は、末永甚左衛門が大通詞を務めていた1818年から1828年までの間に制作または献上され、その後に掛軸へ仕立てられた可能性があります。 また、「御出入」という表現にも注目しています。ここでいう「御出入」は、末永甚左衛門が日常的に出入りし、御用を務めていた相手を示しているものと考えられます。そして「指上候」とあることから、この作品は末永甚左衛門が、しかるべき身分の人物へ差し上げたものだったのではないでしょうか。 献上先が誰であったのかは明らかではありません。しかし、長崎奉行、あるいはそれに準ずる身分を持つ大名など、長崎の事情に関心を持つ有力者であった可能性は考えられます。 ここで、四つの家族図を比較してみます。 オランダ国立世界文化博物館所蔵の五人構図、アムステルダム国立美術館所蔵の六人構図、神戸市立博物館所蔵の五人構図、東京大学総合図書館所蔵の五人構図の作品です。 オランダ国立世界文化博物館とアムステルダム国立美術館の作品には、人物表現や筆致に共通した特徴が認められます。一方、神戸市立博物館と東京大学総合図書館の作品も、互いによく似た特徴を示しています。 特に興味深いのが、顔の表情はもちろんですが、ブロムホフの左手です。 オランダ国立世界文化博物館とアムステルダム国立美術館の作品では、ブロムホフの左手は軽く握り込まれています。これに対し、神戸市立博物館と東京大学総合図書館の作品では、左手の掌を上に向け、指を開いた状態に描かれています。 顔貌や衣服の描写だけでなく、この左手の表現まで二つの系統に分かれていることは、単なる模写の際の誤差とは考えにくいように思います。 私は、この比較から、神戸市立博物館と東京大学総合図書館の作品は同一系統に属し、いずれも川原慶賀自身がすべてを描いたものではなく、慶賀工房で制作された作品ではないかと考えています。 神戸と東京大学の作品には、いずれも慶賀の署名があります。しかし、署名があるからといって、必ずしも慶賀の自筆とは限りません。むしろ、工房の絵師が制作した作品に、慶賀工房の正式な作品であることを示すため、慶賀の署名や落款が加えられたのではないでしょうか。 そう考えると、慶賀の署名は単なる作者名ではなく、工房作品の品質や正統性を保証する、いわば認証の役割を果たしていた可能性があります。そして、そのような認証が必要であったのは、神戸や東京大学の作品が、しかるべき身分の人物に贈られる作品であったからではないかとも考えられます。 私は美術史の専門家ではなく、この分野では門外漢です。しかし、作品を並べ、寸法、構図、筆致、左手の表現、署名、箱書き、伝来を一つひとつ照らし合わせていくと、これまで別々に見えていたものが少しずつつながってきます。 今回、クラウドファンディングによってオランダ国立世界文化博物館所蔵の家族図が公になったことで、これまで謎とされてきたことが、少しずつ明らかになりつつあります。 この家族図の存在は、「ブロムホフ家族図」の本歌と写しの関係だけでなく、長らく謎に包まれてきた川原慶賀工房の制作体制、さらには工房作品における署名や認証のあり方を解く鍵になるのではないかと考えています。


前回、【「ブロムホフ家族図」は何枚あるのか】の投稿で、私は「ブロムホフ家族図」には五人構図と六人構図があり、六人構図はブロムホフがオランダへ持ち帰ることを意識して制作させた作品ではないか、という私見を述べました。 では、この六人構図は、どのように制作されたのでしょうか。私は、オランダ国立世界文化博物館(ライデン)所蔵の五人構図こそ、ブロムホフ本人の依頼によって最初に制作された本歌であり、その後、帰国に際して、ジャワ人奴隷の少年を加えた六人構図が新たに制作されたのではないかと考えています。 この考えに立つと、一つ気になる点があります。それは、アムステルダム国立美術館(ライクスミュージアム)が六人構図の作者について、painter: attributed to Ishizaki Yushipainter: Kawahara Keigaと二人の画家の名前を併記していることです。 さらに検索データでは、Made by:Ishizaki YushiInvolved maker:Kawahara Keigaという表記になっています。 しかし、ライクスミュージアムは、なぜこのような作者表記になっているのか、その根拠を公表していません。私は、ここに六人構図成立の鍵が隠されているのではないかと考えています。 私の推測では、ライクスミュージアム本全体を石崎融思が描いたのではなく、川原慶賀を中心として制作された作品に、石崎融思が何らかの形で関与した可能性があります。そして、その関与とは、五人構図には存在しない、右端のジャワ人少年を描き加えることだったのではないでしょうか。 もちろん、これは現段階では一つの仮説にすぎません。しかし、作品の構図の変化と、ライクスミュージアムの作者表記を合わせて考えると、そのような可能性も十分に検討する価値があるように思います。 現在、ライクスミュージアムには、この作者表記の根拠について問い合わせを行っています。どのような回答が得られるのか、大変楽しみにしています。※写真はアムステルダム国立美術館(ライクスミュージアム)


ブロムホフという人物は、オランダから見れば、十九世紀初頭の海外政策を支えた実務家です。彼は教養ある上流市民の家庭に生まれました。父は法律家への道を望んでいましたが、自らは軍人となり、その後オランダ東インド会社に入りました。能力を認められて着実に昇進し、やがて日本・出島商館長というオランダを代表する要職に就きます。 そして帰国後には、オランダでも有数の名門であるファン・ブレーゲル家のミミと再婚し、その一員となりました。ナポレオン戦争後、オランダは国として立て直しを進め、インドネシアや日本との関係を通して、再び世界の中で存在感を示そうとしていました。ブロムホフは、その最前線に立った人物の一人でした。 出島では商館長として日本との貿易を守り、江戸へ参府して将軍に拝謁し、オランダを代表して交渉にあたりました。オランダ側から見れば、国の威信と利益を背負った人物だったのです。 しかし、日本から見ると、少し違った姿が見えてきます。ブロムホフは日本で自由に振る舞えたわけではありません。幕府の厳しい法や制度に従い、妻ティティアや幼い息子を出島に残すことも許されず、家族を送り返さなければなりませんでした。 川原慶賀や石崎融思によって描かれた「ブロムホフ家族図」には、商館長としての威厳だけではなく、夫として、父としての苦悩や無念さも描かれています。 彼はオランダの国益を背負って日本へやって来ました。しかし日本では、自国の力がそのまま通用することはありませんでした。日本の制度や礼儀、美意識、そして人々との交流を通して、彼自身も少しずつ変わっていったのだと思います。 彼が持ち帰ったものを見ると、そのことがよく分かります。茶碗や茶入、水指、釜、茶筅、茶巾、袱紗など、彼は茶道具を一つのまとまりとして集めています。ただ美しい器を集めたのではなく、茶の湯という文化そのものに深い関心を抱いていたからこその収集だったのでしょう。 帰国後も、日本は彼の人生から消えることはありませんでした。ビルクホーフェンには日本風の庭を造り、農場の一つを「ミヤコ」と名づけ、日本から送られた植物を育て、日本の品々を生涯大切にしました。 つまり彼は、日本の品物を持ち帰っただけではありません。日本での経験によって変わった自分自身を、オランダへ持ち帰ったのです。私は、ここにブロムホフという人物の本当の価値があると思っています。 彼は、単なる出島商館長でも、単なる日本美術の収集家でもありません。ヨーロッパの価値観を持って日本へ来た一人のオランダ人が、日本文化と出会い、その価値を理解し、自らの人生の中へ取り込んでいった人物です。 だから私は、ブロムホフを「ヨーロッパ最初の茶人」と呼びたいのです。それは、日本人と同じように茶道を修めたという意味ではありません。茶道具を単なる珍しい美術品ではなく、一つの文化、一つの精神世界として受け止め、その価値をヨーロッパへ伝えようとした最初の人物だったと考えるからです。 ブロムホフは、オランダと日本のどちらか一方に属する人物ではありません。二つの文化の間に立ち、その両方を理解しようと努めた、日蘭交流史を象徴する人物だったのです。※画像は、1935年から1950年頃の絵葉書。ホテル・ペンション・レストラン「ビルクホーフェン」。1824年、ビルクホーフェンの別荘地をヤン・コック・ブロムホフ(1779〜1853)が購入しました。彼は建物を改築して「ビルクホーフェン邸」とし、周囲には「日本の森」と呼ばれる一角を備えた庭園を造りました。市へ売却された後はホテル・レストランとして使用されていたビルクホーフェン邸は、このような姿をしていました。


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