日蘭交流の記憶――川原慶賀筆「ブロムホフ家族図」修復プロジェクト

長らく公開されることのなかった一枚の絵があります。現在、オランダ国立世界文化博物館に所蔵されている、江戸時代に出島で描かれた川原慶賀筆「ブロムホフ家族図」です。この絵は200年間未公開のまま人々の目に触れる機会がありません。私はこの作品を修復し、日本で初めて公開する文化事業に挑戦します。

現在の支援総額

3,442,500円

49%

目標金額は7,000,000円

支援者数

120人

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2026/06/28に募集を開始し、 120人の支援により 3,442,500円の資金を集め、 2026/08/31に募集を終了しました

日蘭交流の記憶――川原慶賀筆「ブロムホフ家族図」修復プロジェクト

現在の支援総額

3,442,500円

49%達成

終了

目標金額7,000,000円

支援者数120人

このプロジェクトは、2026/06/28に募集を開始し、 120人の支援により 3,442,500円の資金を集め、 2026/08/31に募集を終了しました

長らく公開されることのなかった一枚の絵があります。現在、オランダ国立世界文化博物館に所蔵されている、江戸時代に出島で描かれた川原慶賀筆「ブロムホフ家族図」です。この絵は200年間未公開のまま人々の目に触れる機会がありません。私はこの作品を修復し、日本で初めて公開する文化事業に挑戦します。

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19世紀初頭のオランダの喫茶文化 ブロムホフが日本へ赴任した19世紀初頭のオランダでは、茶はすでに単なる嗜好品ではなく、生活文化の一部として深く定着していました。その実態をオランダ民俗学者J.J.フォスカイル(J.J. Voskuil)の『オランダにおけるコーヒーと茶の普及(De verspreiding van koffie en thee in Nederland)』で語られています フォスカイルは、17世紀から20世紀にかけての茶とコーヒーの普及を、遺産目録、食生活の記録、地方史料、生活誌など多様な史料をもとに分析し、その普及を四つの段階に整理しています。 第一段階は17世紀。この時期、茶は「茶会(theevisite)」という社交文化の中で広まり、人々が集い語り合う「親しさ(*gezelligheid*)」を象徴する飲み物となった。 第二段階は18世紀。この社交文化は家庭へと取り込まれ、茶は家族が共に過ごす時間を演出する「家庭の親密さ(huiselijke intimiteit)」の文化へと発展しました。一方、コーヒーはより早く庶民へ浸透し、「民衆の飲み物」として全国に広まっていきます。 第三段階は、食生活そのものが変化です。朝食のビールはコーヒーへ置き換えられ、やがてコーヒーは朝食の定番となります。しかしフリースラントなど一部の地域では、古くからの茶会文化の影響により、朝食でも茶が飲まれていました。 第四段階では、茶は大衆化した後もなお「社会的威信(status)」を保持し続けたため、19世紀になると、茶は朝食や午後の喫茶へさらに広がり、地域によってはコーヒーに代わる飲み物として受け入れられていきます。フォスカイルは、茶が朝食へ広まった最大の理由を、その高い社会的威信・ステイタスに求めています。 彼によれば、茶は単なる飲料ではなく、社交や家庭生活、教養を象徴する文化として受け止められていました。フォスカイルが繰り返し強調するのは、茶が大衆化した後もなお「社会的威信(status)」を保持し続けたという点です。このことは、日本の茶道と重なる部分があります。日本の茶道もまた、一碗の茶を飲む行為そのものではなく、道具、礼法、もてなしを通して、精神性や教養、美意識を表現する文化として発展してきました。もちろん、オランダの茶会と日本の茶道は起源も目的も異なります。しかし、茶に社会的価値や文化的威信を見いだしていたという点では、両者には共通する側面が認められます。 ブロムホフが長崎へ赴任した1817年は、まさにフォスカイルがいう第三段階から第四段階への移行期にあたります。つまりブロムホフは、茶を単なる飲料ではなく、社交、家庭生活、教養、さらには社会的威信を象徴する文化として受け止める社会の中で育った人物でした。そのような文化的背景に育ったブロムホフが、日本で出会った茶の湯に深い関心を抱いたのは、決して偶然ではなかったのでしょう。彼はそれを単なる異国の喫茶法ではなく、一つの高度な生活文化として受け止めたと考えられます。 さらに注目すべきは、ブロムホフが持ち帰ったのが、茶碗、茶釜、茶入、水指、茶杓、炭、茶、さらには真台子までを含む点前を構成する茶道具一式であったことです。そこからは、彼の関心が工芸品の蒐集にとどまらず、「茶の湯」という総合的な文化そのものに向けられていたことがうかがえます。彼がヨーロッパへ伝えようとしたのは、個々の美術品ではなく、茶の湯の全体像だったのでしょう。※写真はニコラース・アールトマン(Nicolaes Aartman)作「《室内で茶を飲む人々》(Interieur met theedrinkend gezelschap)」:1723年~1760年


【ブロムホフが育ったオランダの喫茶文化】その1『De theezieke juffers(ティーにいかれた婦人たち)』 ブロムホフが茶道具を持ち帰った十九世紀初頭、オランダでは茶はどのように飲まれ、どのような文化として受け入れられていたのでしょうか。 私が最初にオランダの喫茶文化を学んだのは、角山栄氏の名著『茶の世界史』でした。同書では、1701年にアムステルダムで初演された喜劇『De theezieke juffers(ティーにいかれた婦人たち)』が、「茶に熱中したオランダ女性を風刺した作品」として紹介されています。 1701年の初版本を通読したところ、この作品は角山氏が紹介された以上に、豊かな内容を持つ社会喜劇であることがわかりました。 物語は、主人公レオノールが、恋人ヤーコプがいながら両親によって裕福な老人ヨーストとの結婚を決められてしまうところから始まります。そこでヤーコプは召使ウェールハーンとともに、「東インドから帰国した親族」に変装して家へ入り込みます。 二人は東インドから大量の茶を持ち帰った人物として迎えられ、家族や近所の婦人たちは、その珍しい茶や中国磁器に夢中になります。その隙にヤーコプはレオノールとの駆け落ちを図りますが計画は発覚します。しかし、彼の誠実な愛情と叔父の遺産相続が明らかになると、父親は二人の結婚を認め、最後は二組の恋人が結ばれ、「さあ、もう一杯お茶を飲もう」という言葉で幕を閉じます。 この作品には、恋愛結婚と親が決める結婚、東インド会社がもたらした新しい消費文化、女性たちの社交空間、茶・磁器・菓子を楽しむ都市生活、そして東インドへの憧れなど、1700年前後のアムステルダム市民社会そのものが生き生きと描かれています。 つまり、この作品は「茶」を主役としながら、都市文化全体を描いた社会喜劇だったのです。 また、角山氏は、オランダ人が「茶を受け皿に移して飲む」「音を立てて飲む」といった飲み方を紹介し、それを「茶道の真似事」と指摘されています。しかし、私が確認した1701年初版本には、そのような具体的な作法の描写は見当たりませんでした。 劇中で描かれているのは、「茶葉を持ち寄る」「茶の香りを嗅ぐ」「茶の色を論評する」「茶葉の銘柄を比べる」「客には必ず茶を勧める」といった、茶会での会話や振る舞いです。 全文を通読して最も印象的だったのは、1701年という極めて早い時期に、すでに茶がオランダ都市文化の中心的存在として描かれていることでした。 茶は単なる飲み物ではありません。社交を生み、流行を生み、異国への憧れをかき立てる文化の象徴として、人々の暮らしに深く根付いていたのです。 この劇が描く社会は、ブロムホフが日本へ赴任する約百年前のオランダです。この作品は、ブロムホフ来日の一世紀も前から、オランダ人が茶を「社交」と「文化」の象徴として受け入れていたことを具体的に示しています。 そのような成熟した喫茶文化の中で育ったブロムホフが、日本で茶の湯や茶道具に深い関心を抱いたことは、決して偶然ではなかったでしょう。 そして、私は、この成熟した喫茶文化という土壌があったからこそ、ブロムホフはたんに茶道具を蒐集したのではなく、日本の茶の湯そのものに魅せられ、その精神や作法までもオランダへ伝えようとしたのではないかと考えています。 


今回皆さまにご支援をお願いしていますクラウドファンディングは、本年11月13日から来年2月21日までハウステンボス美術館で開催される展覧会「OTEMAE ブロムホフ 茶道を愛した異邦人」の企画・監修を務めることになったことが、大きなきっかけです。 しかし、この展覧会の構想は、実は二十年近く前に芽生えた一つの思いから始まっていますその実現に向けて調査を進める中で、私はオランダ国立世界文化博物館に所蔵される《ブロムホフ家族図》と出会いました。この作品が約二百年ぶりに日本へ里帰りできる可能性が見えてきた一方で、深刻な傷みが判明し、修復が不可欠であることも分かりました。そこで、この貴重な作品を未来へ受け継ぐため、修復プロジェクトとしてクラウドファンディングを立ち上げることにしたのです。 ここでは、その展覧会がどのような思いから生まれたのか、その歩みをお話ししたいと思います。 二十年前、ライデン国立民族学博物館(現・オランダ国立世界文化博物館)のマティ・フォラー先生の講演で、私は初めてヤン・コック・ブロムホフという人物を知りました。江戸時代、長崎出島のオランダ商館長であった彼は、日本から茶道具一式をオランダへ持ち帰っていました。 しかも茶碗や茶入だけではありません。茶筅、茶巾、柄杓、袱紗など、実際に茶を点てるための道具まで揃えていたことに、大きな驚きを受けました。 茶道史を学んできた私にとって、ブロムホフという人物は、それまで一度も耳にしたことのない存在でした。長く茶の湯に携わってきたつもりでいましたが、まさに「井の中の蛙、大海を知らず」。日本の茶道史という枠の外にも、まだ知られていない茶の湯の歴史が広がっていることを、ブロムホフの存在によって初めて気づかされたのです。「いつか、この茶道具を日本へ里帰りさせ、多くの方々にご覧いただくことはできないだろうか」その思いが、本展覧会の出発点となりました。 その後資料を読み進めるにつれ、このコレクションが単なる異国趣味の蒐集ではないことに気が付きました。茶碗や茶入だけではなく、茶筅、茶巾、茶、炭など、本来なら使われて失われてしまう消耗品までが、一つのまとまりとして約二百年間保存されてきたのです。 これは単に古い茶道具が残ったということではありません。江戸時代後期、人々がどのような道具を使い、どのように茶を点て、茶の湯を楽しんでいたのかを、そのまま伝える「生きた茶の湯」の記録なのです。私はこのコレクションを、「江戸時代の茶の湯を封じ込めたタイムカプセル」と考えています。 これまでの茶道史は名物道具や大名茶・流儀・数寄者を中心に語られてきました。しかし、このコレクションから見えてくるのは、江戸時代に広く社会へ浸透した茶の湯の姿です。そこに、このコレクション最大の価値があります。 いつか実物を見たいと思い、博物館へ見学をお願いしました。快諾をいただき渡欧準備を進めていた矢先、新型コロナウイルスの流行により計画は中止となりました。しかし、その経験によって「いつか日本で公開したい」という思いは、むしろ強くなりました。日本の美術館や博物館は、それぞれ独自の収蔵品や研究テーマに基づいて展覧会を企画・開催しています。そのため、一個人が企画した展覧会を新たに実現することは、現実には極めて難しいのが現状です。かつてであれば、新聞社や百貨店、企業などが文化事業として展覧会を企画し、美術館と協力して開催する機会も少なくありませんでした。しかし、時代の変化とともに文化事業を取り巻く環境は厳しさを増し、そのような挑戦的な企画が実現する機会は決して多くありません。私も、この構想を心の中で温めながら、「いつか実現できれば」という思いを抱き続けるしかありませんでした。 そんな中、この企画の価値をご理解くださり、「ぜひ実現しましょう」と手を差し伸べてくださったのが、ハウステンボスでした。私は以前から、この展覧会を開催するならハウステンボス以外にはないと考えていました。その思いとハウステンボスの理念が重なり、この企画は現実のものとなりました。今振り返れば、それはまさに運命的な出会いだったと思っています。 ハウステンボス美術館は、オランダ王宮を忠実に再現した「パレス ハウステンボス」の中にあります。一方、ブロムホフは帰国後、自ら収集した日本コレクションをオランダ国王ウィレム一世へ献納し、世界初の体系的な日本コレクションを成立させました。 つまり、日本からオランダ王宮へ渡った文化財が、二百年後、オランダ王室の宮殿を再現した空間で披露されるのです。この歴史的背景を考えると、本展覧会に最もふさわしい場所はハウステンボス以外にありません。 国宝や重要文化財を集めた茶道具展は、これまで数多く開催されてきました。しかし、本展は少し違います。ご覧いただくのは、茶碗だけではありません。茶筅があり、茶巾があり、柄杓があり、茶があり、炭があります。 それらが一体となって初めて「茶の湯」は成立します。だから展覧会名を「OTEMAE」としました。この展覧会は名品を鑑賞する展覧会ではなく、「二百年前の茶の湯」を丸ごと体験する展覧会なのです。 二十年前、一人のオランダ人の名を知ったことから始まった私の思いは、こうして一つの展覧会となりました。二百年前、長崎からオランダへ渡った茶の湯が、再び長崎へ帰ってきます。 本展は、単なる茶道具展ではありません。江戸時代の「生きた茶の湯」と、日本とオランダの交流の歴史を未来へ伝える、新しい茶の湯の展覧会です。ぜひハウステンボス美術館で、ブロムホフが見つめた日本と、二百年前の茶の湯の息づかいを感じていただければ幸いです。 


これまで私なりの「ブロムホフ家族図論」を展開してきました。 そのような考察が可能になった最大の理由は、昨年、ブロムホフ家の子孫からオランダ国立世界文化博物館へ、現在クラウドファンディングで修復を目指している《ブロムホフ家族図》が寄贈されたことにあります。 この作品の存在自体は以前から知られていました。しかし、長らくブロムホフ家に伝来する個人蔵であったため、美術史研究者でさえ実見する機会はほとんどなく、まさに「幻の家族図」ともいうべき存在でした。 さらに重要なのは、その来歴が極めて明確であることです。今回寄贈された作品は、ブロムホフの長男ヨハネスの子孫に代々伝えられてきた作品です。一方、アムステルダム国立美術館所蔵の六人構図は、ヨハネスの妻サラ・マリア・ファン・デ・ポルの家系に伝来したことが知られています。 つまり、二つの作品はともに由緒の確かな伝来をもち、それぞれ異なる家系に受け継がれてきたことが確認されています。このこと自体が、《ブロムホフ家族図》を研究するうえで極めて重要な意味を持っています。 その作品が公的な博物館に収蔵されたことによって、初めてアムステルダム国立美術館所蔵作品をはじめとする他の《ブロムホフ家族図》との本格的な比較研究が可能になりました。 私の考察も、その比較から得られた一つの仮説に過ぎません。しかし、この作品の公開によって、《ブロムホフ家族図》の制作順序や川原慶賀工房の制作実態を考える、新たな研究の扉が開かれたことは間違いないでしょう。 私は、この世界文化博物館所蔵作品こそ、現存する《ブロムホフ家族図》の本歌、あるいは少なくとも制作の基準となった作品ではないかと考えています。この作品を基準に比較することで、これまで一括して「川原慶賀筆」とされてきた作品の中にも、慶賀本人の制作だけではなく、工房による制作が含まれている可能性が見えてきます。 そして、なぜヨハネスの家系と妻サラ・マリアの家系に、それぞれ一枚ずつ家族図が伝わったのかという点も、新たな研究課題となります。 私見では、世界文化博物館所蔵作品は、ヨハネスにとって幼少期の家族の記憶を伝える肖像として受け継がれたのではないかと考えています。一方、アムステルダム国立美術館所蔵作品は、ジャワ人召使いの少年を加えた六人構図であり、十九世紀初頭のオランダ植民地社会において、奴隷や召使いを従えた家族像が社会的地位や成功を象徴する意味を持っていた可能性も考えられます。 もちろん、これは現段階では一つの仮説です。今後、美術史や保存修復、絵画技法などの専門家による精密な比較調査によって、その妥当性が検証されることを期待しています。 今回のクラウドファンディングは、単に一枚の絵を修復するためだけのものではありません。川原慶賀研究、そして日本とオランダを結ぶ美術史研究を大きく前進させる第一歩となるプロジェクトです。 ぜひ多くの方にブロムホフと川原慶賀の存在を知っていただき、この歴史的な研究の新たな展開を、ともに見届けていただければ幸いです。


【ライクスミュージアムが残した「二人の画家」の謎】の投稿で、アムステルダム国立美術館 への問い合わせの返答がきました。 「お問い合わせの件について調べましたところ、2014年刊行のアジア美術コレクション・カタログに、この問題に関する記述があることが分かりました。該当するページを添付いたします。また、このカタログ項目を担当した学芸員に、共有できる基礎的な調査資料があるかどうかを問い合わせております。回答が届き次第、改めてご連絡いたします。」というお返事をいただきました。2014年刊行のアジア美術コレクション・カタログには下記の記述があります。 ブロムホフ家族石崎融思(1768–1846)または川原慶賀(1786頃–1860頃)1817年絹本着色 95.7 × 173.3cm所蔵番号:NG-2008-641817年8月15日、オランダからの船が長崎港に入港した。それ以前は1806年まで毎年オランダ船が来航していたが、その年ルイ・ボナパルトがオランダ王となって以降、日本との交易は完全に途絶えていた。1809年から1817年までの間には、わずか3隻のイギリス船が長崎港への入港を試みたものの、いずれも成功しなかった。この間ずっと出島商館長を務めていたヘンドリック・ドゥーフは、ヨーロッパで何が起こっているのかを知らなかった。彼は困難な状況の中で職務を果たしていたが、1817年、ようやくオランダ船が水平線上に姿を現したときには、さぞ安堵したに違いない。その船には、ドゥーフの後任としてヤン・コック・ブロムホフ(1779–1853)が乗っていた。彼は、日本当局を大いに困惑させることになる妻ティティア・ベルフスマ(1786–1821)、生後18か月の息子ヨハネス、乳母ペトロネラ・ムンス、そしてジャワ人の女中マラティを伴って来日した。これは、出島にはオランダ東インド会社の職員しか居住を許されていなかったため、規則に明らかに反する行為であった。ドゥーフとブロムホフは日本側当局に家族の滞在を願い出たが許可されず、12月6日、妻子と召使たちは長崎港を出帆し、ブロムホフだけが出島に残された。これは悲劇的な結末であり、夫妻は二度と再会することはなかった。出島で過ごしたこの4か月間は、非常に綿密に記録された。この前例のない出来事は、できる限り正確に記録される必要があると考えられたため、ブロムホフ一家を描いた絵画は、まるで記録写真のように細部に至るまで精密に制作された。この肖像画では、一家は互いに間隔を置いて配置されているが、これは明らかに演出された構図である。夫妻は椅子に腰掛け、乳母は立ち、女中は床に座り、もう一人の召使は後方に立っている。幼いヨハネスは恥ずかしそうに母親にしがみついている。この家族肖像には複数のヴァージョンが制作された。当時、石崎融思は出島で記録画家として活動していた。しかし、この無署名の作品は、石崎融思の弟子であった川原慶賀が描いた同じ構図の作品群に、より近い特徴を示している。そのため、この作品はブロムホフが私的に川原慶賀へ依頼して制作させたものである可能性がある。ブロムホフはこの肖像画を生涯手元に置き、1823年にオランダへ帰国した際にも持ち帰った。アムステルダム国立美術館は2008年、この作品を彼の子孫から取得した。何世紀もの間、日本にはヨーロッパ人女性が存在しなかった。そのため、ティティアの姿は長崎で制作された版画に大きな影響を与え、外国人を描いた土産物版画を求める国内旅行者の市場拡大に寄与した(図92A)。サイトの表記は曖昧で、実はアムステルダム博物館もこの家族図をブロムホフが依頼して川原慶賀に描かせたとみているようです。担当学芸員からの引き続きの回答を待っております。


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