大江健三郎さんはノーベル賞作家。高校生は誰もが知っている。 現国の教科書に『鳩』が載っていた。読んだのはそれだけ。大江健三郎さんを体験した高校生の多くは『鳩』。教科書は四百字詰めで十二枚ほど。けれど何故か先生は素通り。授業で取り挙げなかった。それでも高校生はノーベル賞作家に惹きつけられ読んだ。ー夕暮れると僕らあさぎ色いろの服を着こみ、やはりあさぎいろの地に藍の線の入った帽子をまぶかにかぶった者たちは、少年院の昏い光にとざされた中庭を黙りこんだまま横切り、所どころに血いろのしみのふきでている高いコンクリート壁の下に歩いて行くのだった。(『鳩』の冒頭)— 氷空ゆめは教科書だけで満足できなかった。抜粋では本当が分からない。『鳩』は図書館の『見る前に跳べ』に収められていた。十五人が三年の間に借りている。本物の『鳩』は四〇〇字詰めで七〇枚弱の短編小説だった。先生が取り挙げなかったのは少年院の設定と男色に在ったと思う。教師は高校生を舐めている。高校生は少年院もホモも知っている。それらは社会のひとつと知っている。 氷空ゆめは大江健三郎の文体に苦しめられた。助詞と接続詞に続く名詞や動詞は平仮名が多い。これだけで突っ掛かってしまう。春の雪面に突っ掛かるスキーだ。強く踏み込まないと前のめりになって転倒する。平仮名を止めて漢字にして欲しい。句読点が丁寧に打たれていない。僅かしか「、」が打たれていいない。それでセンテンスがやたら長く感じてしまう。云い回しがクドイ。比喩を理解するのに手間がかかる。手間をかけてもピンと来ない。それで情景や『僕』の感受を、なかなか、自分の裡に喚起できない。 大江健三郎さんは意図して分かり難い文と文章を綴っているよう。そう氷空ゆめには思えた。それで読み終えると眼が充血。眼の奥は熱っぽい。ひとつの段落の文章を直ぐに理解できないと後ろへ後ろへと遡る。次には先を読み、理解しようと試みる。その行ったり来たりの眼の動きで殺られてしまった。面白いか、面白くないかよりも、読むのに全力を使い切ってしまう。こんな小説は初めて。小説を読むにはスピード感が大切。一行読む度に、突っ掛かり、後先を 読み返したり、難解をメモってりしていては時速一キロのペンギンの歩行のよう。小説は時速四キロで読みたい。 難解と評判のドストエフスキーの翻訳をスラスラ読めた。時速四キロだった。スラスラ読めると作者が伝えたいイメージの喚起が早い。ドストエフスキーの書くテンポに付いてゆけた。ドストエフスキーを読めたのが氷空ゆめのの自信と自慢。 大江健三郎さんは違った。まるで「ついて来るな」と言われているようだ。理解しようと思うなら「此処までおいで」と。それで『鳩』を三度読んだ。この作品は大江健三郎さんの『罪と罰』なんだ。ようやく三度目で氷空ゆめはそう思った。 大江健三郎さんは異常を表現したかったのだ。そうであるならば舞台設定も登場人物も異常でなければ異常の雰囲気を醸し出せない。異常を追及すると文体も異常になる。少年の罪と罰を表現するにはすべてが異常でなければならぬ。過重な暴力をふるう教官の野蛮。これが少年院での罰だった。罪を犯したにも拘わらず理不尽なヒーロー扱い。ならば罰は自らが課す。少年の一途な想いと一途からの勢いなくして少年の罪と罰は描けない。 氷空ゆめは『鳩』は『セブンティーン』に繋がっていると思った。…わたしは一八歳。『セブンティーン』には一年遅れ。恐らく『セブンティーン』の主人公の少年も孤独。「おれ」はわたしに似ている。「おれ」は自分を賭けられる何かを探していた。「やる」と決められる何かを求めていた。それが文体に現れている。周囲は馬鹿で偽物ばかりと思う「おれ」。「おれ」の感受は攻撃的。それは孤独感からの解放。似ていてもわたしは孤独ではない。心模様を伝えられる友達が居る。父も母も弟もわたしを無視しない。わたしが何かをやろうとした時には黙示であっても応援してくれる。わたしと云う人格を愛し尊重してくれている。だからわたしは近くに居る友や家族を敬愛してしまう。「おれ」にはわたしが持っている心の動きがない。孤独からの一途は暴力的になってしまうのだ。『IS』に世界中から参加する若者の背後には共通した孤独が在るのでは…。きっとそうだ。人間の独り一人が繋がり社会を形成している。その繋がりが遮断された時に襲ってくるのが孤独と孤独感。自ら遮断するのも孤独と孤独感から。 写真の岸部実さんには表情が無い。伏眼の奥から人間を見ているようだ。こう云う人は恐い。何を考えているか分からない。掴めない。きっと孤独なんだ。でも孤独でも社会と人間に攻撃的では無さそう。攻撃的な人にはお店を経営できない。お店に人が集まらない。そこが孤独で一途に思い詰めた少年との違い。 やはり大人。リックと呼ばれている…■4/12にリターンを考えました。アップしています。
見られている。 誰かが見ている。 首筋にまとわりつく後ろからの視線。 振り返った。 誰も居ない。 人の姿がなかった。 物陰に隠れているのだろうか。 振り返ると視線は弱まった。 前を向くと再び強くなる。 気味が悪い。 走った。 気味の悪さから逃れたかった。 五〇Mも走ると視線は消えた。 振り返るとやはり誰もいなかった。 通行人の一人もいない。 物陰から出てきた人も居ない。 車の中から見られていたのだろうか。 停止している車も見当たらなかった。 花南は市電の電停まで走った。 図書館に向かおうとする時の初めての粘っこい視線。 電停で走って来た道を見つめ続けた。 視線が消えていた。 市電が来た。 急いで乗った。 電車が動き出した。 その時、キャップ爺さんが突然姿を現した。古紙回収の爺さんだ。走り行く市電を忌々しそうに歩道から見つめていた。市電に乗り遅れたのだ。 その視線はもう花南に届かなかった。 キャップ爺さんのキャップはイチローがかぶっていたNYヤンキースのお洒落でかっこいいキャップではない。三個一〇〇〇円で買えそうなキャップ。ロゴも何が何だか分からない。色あせ形も崩れている。そんなうらぶれたキャップを爺さんたちは愛用している。爺さんたちの半分くらいはかぶっている。 キャップ爺さんには共通する特徴があった。 色は決まって濃紺か黒。キャップを取ると、みんな髪の毛が薄い。最初は薄くなった髪の頭を守っているのかと思った。それが違った。キャップは薄毛を隠す小道具だった。カンカン照りの夏でもキャップをかぶっている。頭が熱くなるのか、人目につかない処ではキャップを取り、薄毛にキャップで風を送っていた。人が通りかかるとあわててキャップをかぶり直す。 かぶっているのは決まって六十五歳以上の高齢者。車を運転していてもかぶっている。チャリをこいでいてもかぶる。歩きの爺さんも同じ。ビルの谷間のつむじ風にキャップが飛ばされたのを見た。その歩きの爺さんはキャップを拾おうと走った。そして足がもつれて転んだ。起き上がると見られている視線に気づいてバツの悪そうな苦笑いを浮かべて遠ざかるキャップを見送った。キャップは風にあおられて空中で踊っていた。その時には薄毛に手を当てて恥ずかしそうに頭を隠した。ヨボヨボの爺さんはキャップをかぶっていない。 キャップ爺さんたちは暇そうだ。少なくとも会社には勤めていない。勤めているのなら平日の午前中から街をうろつかない。目的があって街に出て来ているのではない。退屈だからだ。退屈をまぎらわすのが目的。車の中から外の様子を見ている。チャリにまたがったまま通行人を見ている。周囲の景色を眺めている。何か昨日と変わったことがないかを確かめている。歩きの爺さんは立ち止って車の動きを見ている。交通事故の発生を待っている。発生したならばイの一番で目撃者と名乗り出るのだ。その期待と準備は何時も空振り。 太っているキャップ爺さんは見たことなし。キャップ爺さんたちは群れない。だいたいが中肉中背で色黒。目つきが悪い。だから人相が良くない。恰幅が良く、人柄が良さそうな、キャップ爺さんにはお目にかかったことがない。キャップのつばの下からは不満そうな表情がうかがえる。何時も面白くなさそうだ。文句がいっぱい詰まっているような顔つき。何処かでうっぷんを晴らしたいと願っているとしか思えない。 そんなキャップ爺さんのエジキになったら大変。エジキは何時も子供たち。横断歩道を渡らなかったりしたら遠くからでも駆け寄って来て大声で注意される。それがシツコイ。歩道でスケボーしているのが見つかったらガミガミ言われる。「歩道は遊ぶ処ではない。何処の学校なんだ。何年生だ。担任の先生は何て言うんだ」。うっかり担任の名前を言おうものなら得意そうに「その先生なら知っている」と言う。嘘ばっか。「知っている」と言うのがキャップ爺さんの殺し文句。そう言えば子供たちは恐れ、シュンとして家に戻って行くと思っている。知らなくとも「知っている」は自分が子供たちよりも一段も二段も高み立つと信じているようだ。もうひとつの殺し文句は「ルールを守れ」。そう言いつつも車が来ないと見るや赤信号でもチャリを転がし道路を渡る。 信号待ちでキャップ爺さんと並んだ。キャップ爺さんは携帯で誰かと喋っている。声が大きい。「何時お迎えが来ても良いように準備しておかなくては…。お前もそうしたら良い。善行が何よりも大切だ」。ゼンコウって何だろう。その時に思ったのが「ルールを守れ」だった。通学路から外れて歩いていたら怒鳴られる。「そこは通学路ではないだろう」。買い物に行く時は当然通学路から外れる。それでも守らなければならないのがキャップ爺さんのルールみたい。ルールを守るよりも守らせるのがゼンコウなんだ。 キャップ爺さんの目は何時も泳いでいる。ひと言で云うならキョロキョロ。周囲が気になる人たち。同じようにキャップをかぶっている同人種を見つけると密かに値踏みをする。自分と比較する。 歳はどっちが上か。俺よりも身体が動くのか。やることを持っているのだろうか。持っているなら此処を通らない…。俺よりも金が在るのか。。 どう見てもシアワセそうな目つきではない。 キャップ爺さんたちは始末が悪い。若者は避けている。体力に自信がないからだ。若い女の人も避ける。変態と思われるのを恐れているからだ。狙うのはもっぱら子供。それも小学生。これからもキャップ爺さんは増え続けるのだ。古紙回収の爺さんもその一人。とにかく近づかないのが賢明な人たち。それを薄々分かりながらも、お金が欲しくて、近づいたのが間違いの元だった。■4/12にリターンを見直しました。4/12をご覧下さい。
■ 政治少年死す(岸部実) 来年の七月に講談社から『大江健三郎全集』が刊行される。その 中に『政治少年死す』が収められている。それを知ったわたしは興奮した。やっと読める。講談社の勇気を讃えたくなった。『政治少年死す』は『文学界』(一九六一年二月号)に発表されたものの単行本の出版は見送られた。右翼から執拗な抗議があったのだ。 ワタシが『セブンテーン』を読んだのは十七歳の夏だった。一九六五年。その時には『政治少年死す』のお蔵入りが報じられていた。「出版社に迷惑をかけられないから」と大江健三郎は『文学界』に載せただけで出版を断念した。―今日はおれの誕生日だった。おれは十七歳になった、セブンティーンだ。家族のものは父も母も兄もみんな、おれの誕生日に気づかないか、気づかないふりをしている― これが『セブンティーン』の始まり。物語は少年の孤独感から始まる。『セブンティーン』と『政治少年死す』の主人公は「おれ」。「おれ」は山口二矢(おとや)がモデル。彼は浅沼稲次郎を壇上で刺し殺した。ワタシはそれをテレビで観ていた。浅沼稲次郎社会党委員長が演説中に衆目の下で刺されるとは思いもよらなかった。「刺されました‼」 テレビの絶叫で理解したが、それでもピンとこなかった。まさか、の方が強かった。 山口二矢は獄中で自ら命を絶った。この瞬間から彼は神になった。一人一殺を果たした彼は右翼運動の鏡になった。『セブンティーン』では主人公が覚醒してゆく、そのひとつひとつが丁寧に書かれている。覚醒してゆく過程で「おれ」は孤独感から脱する。大江健三郎の何時もの粘液質な文体ではない。孤独と向き合いつつも躍動しようとする少年。躍動するには、自分が何者であるのかに気づかなければならない。何者で在りたいかのかと願い、求める心の動き。然して少年の心は日々揺れる。未熟。それでも少年は自己確立を遂げる。それが政治少年。その萌芽は在っても、この作品では現れて来ない。それは『政治少年死す』の役割。 ワタシは『セブンティーン』を読み終えると『政治少年死す』をどうしても読みたくなった。自己確立を遂げた少年が、標的を定め、刺し殺すまでの懊悩や葛藤、そして不安。不安とは一撃必殺をやりとげられるのか。失敗するかも知れない。刺した後の恍惚。死の知らせを聞いた時の達成感と至福。後悔は描かれないであろう。自らの死に辿り着き、覚悟を決めるまでが…。そして死の直前を。 ワタシの願いは叶わなかった。海賊版すら封印されていた。図書館の『文学界』一九六一年二月号は貸出禁止。言論への弾圧に屈した出版社と図書館が腹立たしかった。 大江健三郎は『政治少年死す』の主人公を、おとしいれたり、揶揄したり、嘲りなどは決して書かない。褒めたり、まして英雄視もしない。少年の真直ぐな、想いの丈を、一途に描きたかったのだと 思う。それでも右翼は許さなかった。作品の内容を問題視したのではない。昇天した神を扱うのは許されなかったのだ。 それが五八年の歳月を経て世に出る。やっと読める。 山口二矢は、ワタシと同じ、札幌市立柏中学校の卒業生だった。■4/12にリターンを考えました。アップしています。
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母が癌を患った。その看護と介護で鎌倉に戻ったのぞみ。支社長には長期の休暇を願い出た。母が亡くなってしまった。鎌倉に戻るのか、サンタンデールで以前と同じように仕事に励むのか。思案するのぞみ。鎌倉に戻るのを決断。支社長には退職を告げる。 バスク人医学生アジェールの想い出が詰まったサンタンデールも今日が最後。アジェールはわたしの望みを叶えてくれた。バスクのお祭りに合わせて実家に戻りバスクの音楽をLiveで伝えてくれた。それからバスク人の歴史と今の暮らしもピロタも。アジェールのお陰でスペイン語を話せるようになったしバスク語も少し。そうしてわたしはスペイン旅の目的を果たしたのだ。 アジェールは『Soboney』の二階に下宿していた。マスターもバスク人。マスターが「アジェールから写真が送られて来た」とわたしに写真を差し出した。見つめた先には子どもを肩車しているアジェールが居た。傍らにはバイオリンの彼女が。『国境なき医師団』に加わり横浜の尊敬する総合診療医の下で二年間修業した後はモザンビークに妻子と共に赴任していたのだ。バイオリンの彼女にアジェールの力になって欲しいと頼んだのが間違いのもと。他にも修行の二年間を終えた時にはアジェールとのこれからを考えると伝えたのも大間違い。…わたしが好ましく想った男たちは何時の間にか何処かに消えてしまう… サンタンデールの部屋の片付けを終えると『Siboney』で送別会。その時に支社長から提案。「嘱託であるが新設する出版部の副編集長として務めて欲しい。それと私のアドバイザーも」と。応じるのぞみ。これなら鎌倉で仕事できる。 ビスケー湾への母の散骨を終えて鎌倉に戻り遺品整理していると手提げ金庫の底に敷かれていた写真週刊誌にReiを発見。場所は大阪西成区愛隣地区だった。消えたReiが母の秘められた念で突如姿を現した。自力では探し出せないと思い知ったのぞみは探偵事務所に人探しを依頼。Reiは此処に潜伏していたのだ。今は小樽に居るとの調査報告。のぞみはReiとの決着を決意して小樽に飛ぶ。小樽にはReiとの想い出が数々在った。榎本武揚もそのひとつ。ニセコでのスキーの帰りに立ち寄った小樽は忘れられなかったし美味しかった。 Reiとの決着を終えたのぞみが鎌倉に戻ると編集長から『熊野古道の歩き旅』を提案された。熊野は両親と一度訪れた。歩き旅では無かった。それでも神倉山で対面した『ゴトビキ岩大権現さま』には度肝を抜かれた。これで再会できる。一度は古道を歩きたいとの念願が叶う。熊野古道ではスペインでの音楽の旅の時と同じように好奇心の赴くままSketchした。熊野での好奇心の赴くままの知的冒険とは縄文の神さまたち。それと「伊勢に七回。熊野に三度」と伝わる江戸町人の信仰を体感したかった。なかでも『ゴトビキ岩大権現さま』との対話は楽しみ。のぞみは熊野を満喫。Sketchも盛り沢山。 突如、龍也君が訪ねて来た。彼はのぞみのピアノ教室の生徒だった。■4/12にリターンを考えました。アップしています。