今日、自分の博士論文の審査結果の要旨が公表されていることに気がつきました。審査してくださった、主査の榊素寛教授、副査の行澤一人教授および行岡睦彦准教授には感謝の念に堪えません。この結果のおかげで、今になって博士号を授与された実感がわき、先生方にどうやって恩返ししたらよいのかと考えてしまっています。審査結果2023年 博士(法学)(神戸大学)また、「本論文になお求める点」については、論文指導を受ける過程で生粋の研究者が求める研究水準の奥の深さを知ることができました。自分には到達できないレベルだと思いますが、それを知ることができたというだけでも得るものはあったといえます。ここで博士号と修士号に大きな違いがあるのですが、博士号の場合、大学が授与してから3か月以内に博士の学位の授与にかかわる論文の内容の要旨および論文審査の結果の要旨を公表することになっています(学位規則8条)。このような公表義務は、修士号にはありません。たとえば、私の修士論文の評価結果は、「修士学位論文審査報告書」東洋大学大学院(1992)に掲載されています。しかし、公表はされておらず、大学の図書館に行けば閲覧できるのだと思います。この点、出版予定の本で指摘している、博士論文の難易度は修士論文の10倍という根拠の一つが、この公表義務かもしれません。論文を提出する者も、審査する者も相当なプレッシャーだと思います。他者から「なぜこの論文が合格なの?」という印象は持たれたくないでしょう。また、審査する側の教員の立場からすると、おそらく剽窃・盗用が最難関です。いわゆるコピペですが、第三者の指摘で発覚するのは、指導教員にとっては一番怖くて、信用に傷がつくはずです。ですから、しつこいくらい出典は明示しておいた方が安心です。指導教員に安心してもらうためにも、本当に「しつこい」くらいがちょうどよいです。今は、剽窃・盗用をチェックするツールがあるようです。私の論文も最低2回は、そのツールでチェックされていると思います。AIの時代が到来しましたが、おそらく論文の世界で使うのは危険です。自分だけでなく、指導教員や大学にも迷惑をかけます。だからしつこいくらい引用は頻繁にしておくことです。やはり、博士論文は普通のサラリーマンにとって在籍期間を含めて8年計画くらいがプレッシャーがなくていいと思います。今回、博士(法学)を授与された方の中にも、社会人で2年の在籍で取得されている方が1人いるのに気がつきました。連絡を取って体験談を聞いてみようと思います。
頭痛を伴う体調不良で3日間寝込んでいました。土曜日に情報セキュリティマネジメント試験という資格の受験がありました。当日、行くべきか迷いました。試験会場も平塚で、自宅から1時間半はかかるというのに、私の左脳あるいは自我は「行け!」という指示を出してしまいました。たしかに、いつもの軽い頭痛だったので、昼食をとって昼寝をした後に治るパターンの可能性もあったのですが、体は、あるいは本当の自分は「やめとけ」というメッセージを発していたのだと思います。案の定、平塚まで行っても回復するわけでもなく、具合悪いまま受験し不合格。60%の正答で合格のところ、50%程度しか点数が取れませんでした。その後、3日間ダウンで、断食して回復しました。この年齢になって資格試験が意味あるものでもはないことを知っているにもかかわらず、何かがんばった証拠でも欲しかったのか、自我は私に受験をさせました。単に経済産業大臣が発行する紙一枚の合格証書がもらえるだけなんですが。私は、いつになったら、自分の声に素直に従うことができるのかと考えてしまいます。大学の大先輩にあたる植木等さんがいますが、「スーダラ節」の「わかっちゃいるけどやめられない」ですね。明らかに「行くな!」のメッセージが出ているのに、「具合悪くても合格できるかも」、「受験料7千円払っちゃたし」、「現地に到着したら回復しているかも」と、従ってはいけない左脳の屁理屈に従っちゃうわけです。反省しきりなわけですが、それでもサラリーマンの私にしてみれば、深刻な事態にはならず、毎月決まった日に給与がもらえて、今日も安泰なわけです。ここはやはり、「サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ」という台詞を噛みしめて、がんばらない自分を作っていきたいところです。社会人大学院と資格試験の比較でいえば、修士号も博士号も自分の計画で取得できるところがいい点です。一発勝負の試験ではありません。論文指導を受けている過程で「いける!」と確信できる時がきます。親切な指導教員であれば、「これなら大丈夫だよ、論文出しといて」といってくれるでしょう。資格試験とは違いますね。ただ、どちらも「足の裏についた米粒」であることに変わりありません。「とっても食えないが、とらない気持ち悪い」のです。それでも、自分の経験からいって、資格より修士号や博士号を取った実益を感じるわけなので、どのように実務や実生活に活かすかということかもしれません。それにしても、植木等さんは、ただの芸人ではなかったのでしょうね。「スーダラ節」の歌詞は、真理を突いています。
あと7日で終了になりますが、目標額に対して80%まで達成しています。ご支援いただきありがとうございます。ところで、出版予定の本の「はしがき」に、支援者の皆様のお名前のみ掲載させていただければと思っています。ファンディング終了後にあらためて掲載の許可の確認をさせていただきたいと思います。以下のような掲載方法を想定しておりますので、どうぞよろしくお願い申し上げます。「最後に、本書はクラウドファンディングによる支援で出来上がっています。ご支援いただいた皆様、本当にありがとうございます。支援者の方々は次のとおりです(敬称略、順不同)。山田太郎鈴木花子山本次郎佐藤夢子・・・・・・・・・・・・」
研究会(コミュニティ)の活動イメージの一例ができてきました。まず、会費は1,000円に設定してはどうかと思います。15%はキャンプファイヤーの手数料になりますから、850円がネットの会費です。850円×12カ月=10,200円です。運営費はかかりますが、細かな議論は割愛します。1人年間1万円の会費で会員が20名になれば、1年で20万円です。20名で共著を執筆するなら、1年で一冊オンデマンドの本が出版できる金額になります。これは一例ですが、このような活動をしていくことで、いろいろな広がり出てくると思います。世の中には、最近流行りのリスキリングやリカレント教育に関する組織もあります。そこと連携することも可能でしょう。最初の1年や2年で何か成果が出るとは思えませんが、継続していれば必ず結果は出ます。さらに、時代は大きく動いていますので、思いがけない追い風も吹くかもしれません。他力本願は大いに結構だと思います。そもそも、自分の「実力」と思っているものの、他者の助力がなければ実現しない成功もいっぱいあります。私は遠慮なく他者とも連携し、助けていただこうと思っています。ちなみに、すでに今回のファンディングで支援者になっていただいた方の中には、研究会に1年招待の方もいるので、1年間は会費が発生しません。1年経過しても、「月1,000円の会費だし、続けておこうか」と思ってもらえる研究会にする必要があります。その水準を目標に焦らずに続けていきます。そのうち「神風」が吹くのを待ちながら(笑)。
残り10日になりましたが、支援が停滞しました。クラウドファンディングの典型的なパターンなのでしょうね。ラストスパートとといってもできることもないので、成り行きにまかせます。ところで、1990年代初めから各大学では「大学院重点化」ということが行われています。大学における教員のポストが増えるわけでもないのに、なぜ研究者を養成する大学院を強化していったのでしょうか。いろいろな理由があるようですが、酒井敏『野蛮な大学論』(光文社新書、2021年)に興味深い見解がありました。酒井氏によると、博士を増やしてもポストがあるわけではないので、研究者の養成が目的であったはずはないといいます。実際、文部科学省が掲げていた大義名分は国民の「生涯学習」の促進であったということです。しかし、生涯学習として大学院を修了した人たちはどこに行くのでしょうか。それはやはり企業しかありません。アメリカ等では、博士号を持つ人たちが好待遇で企業に迎え入れられることがあり、文部科学省には、日本にもそういう企業文化が広まることへの期待があったのではないかといいます。 酒井氏は、福利厚生の一環で従業員を大学に送り込むことも提言します。ただしその場合、「会社の研究開発に役立つ知識を仕入れてこい」といった具体的な目的を決めないほうがよいといいます。比喩的表現を用いて、大学院で身につけるのは「筋肉」ではなく「脂肪」であるといい、大学院を保養施設と同じように利用させるとよいと提言します。これは、藤原正彦氏の考えと共通するところがあります。『国家の品格』(新潮新書、2005年)でも、文学、哲学、歴史、芸術、科学といった、何の役にも立たないような教養をたっぷりと身につけるとよいといいます。そうした教養を背景に、圧倒的な大局観や総合的な判断力を持つことを提言しています。大学院に行ったからといって年収が上がるわけではありません。今回、博士号を取得しても会社から手当てが出るわけでも、給与が上がるわけでもありません。「よくやりましたね」というくらいでしょうか。悪ければ、よっぽど暇だったとでも思われるかもしれません。ですから、大学院と経済的な豊かさは、必ずしも連動しないといことです。ただ、研究テーマが自分の仕事に関するものであれば、自分の仕事は楽になるし、収入の複線化も可能になります。じわじわとその可能性が広がり、将来の選択肢も広がることでしょう。