目標金額まで、残り約16万円まできました。ありがとうございます。今日は、身近にあった出来事からテーマをみつけたのでご案内いたします。私の長男は、私立大学で情報学を学んでいます。そんな長男には、修士課程に進学したいのであれば、国立大学か公立大学を探してくれといってあります。当然、学費が安価というのもありますし、特に理系の場合は、実験などの施設や機器が充実しているということがあるからです。昨日、そんな長男から「国立大学って大丈夫なの?」と意外な指摘を受け、2023年6月16日の東京新聞「授業の出席チェックに「マイナカード」?国立大学に「利用実績」求め交付金を増減 学生証じゃダメなのか」の記事が送られてきました。文部科学省がマイナカード普及の達成度合いを評価し、大学への運営費交付金の配分を増減する仕組みがあるそうです。そして、「マイナカードの取得は本来、任意のはずなのに、一部の大学では事実上の義務化が進んでいる」と記事にはありました。つい最近、どこかで聞いたセリフですね。慶応大の堀茂樹名誉教授は「力ずくで政策を実行するため、大学を本来の目的とかけ離れたことに利用しようとしている。言語道断だ」と怒りをあらわにします。東京大の石田英敬名誉教授も「交付金をエサにマイナカードの導入を押しつけている。大学の自治の観点から問題だし、大学も政府の介入に無防備になっている」と指摘します。そして、宇都宮大などでは、マイナカードの導入に積極的で、2021年4月以降の入学生に対し、図書館の利用と授業時間外の建物への入棟について、学生証ではなくカードの利用を原則としたそうです。これは、国立大学に限らず、私立大学にも影響するテーマです。最近であれば、政府が10兆円規模の大学ファンドを創設し、運用益を大学支援に充てるという、国際卓越研究大学制度といものがあります。 国公立大学以外では、早稲田大や東京理科大も申請しており、対象校と認定されれば、ファンドのお金が入ってきます。詳しい仕組みはここで説明しませんが、認定大学に対して時の政府の介入が容易になる制度です。大規模な大学の自治など、実態は内部の人でもわからないかもしれませんが、人知れず文部科学省の天下り先確保や、御用学者の確保が進んでいるともいえます。中央公論二月号の特集で、大学10兆円ファンドについて各大学の学長の見解が出ていました。電気通信大学の学長は、「大学の多様性や自由を奪う危うい制約である。この前提条件が見直されない限り申請しない」といいます。金沢大学の学長も、「いわゆる『稼げる』研究分野が重宝されることは明白である。基礎研究分野や、人文科学分野に代表されるような、中長期的な視点を持つことが重要な研究分野が存在することも忘れてはならない」と指摘します。このように、本当に素晴らしい研究者の方がいると思う一方で、無防備に外部資金への依存を高める大学もあるということは知っておくとよいと思いました。そして、お金の稼ぎ方を知っている社会人が、研究資金の獲得方法等を考案し、普及させるというのも社会的意義があると思います。もちろん、個人レベルの資金調達方法だと思います。しかし、小さな実績が大きな展開を生むこともあると思います。最近、学術系クラウドファンディングの「academist」というのがあることを知りました。世の中を見渡すと、暗い気持ちになることも多いですが、明るくなるテーマをいっぱい探していきたいと思います。
前回、日本の学費の高騰についてお伝えしました。出版予定の本の後半で議論していることなのですが、少しここでも述べておきます。矢野眞和『大学の条件:大衆化と市場化の経済分析』(東京大学出版会、2015 年)の分析をもとに、世界各国の高等教育を分類すると、次の4つに分けることができます。①北欧型②ヨーロッパ大陸型③アングロサクソン型④日本型そして、①の北欧型は学費が無料でしかも給与が支給されます。②のヨーロッパ大陸型は学費が安いが給付型奨学金は充実していません。③のアングロサクソン型は学費が高いが給付型奨学金は充実しています。そして、④の日本型は学費が高くなおかつ給付型奨学金が充実していません。まず、日本が最悪の制度設計になっていることを踏まえておく必要があります。それにしても、なぜ日本の高等教育に多大な経済的負担がかかるのでしょう。また、最大の疑問は、なぜ誰も現状に文句をいわないのでしょうか。かつての学生運動の一つの争点は、学費の値上げ反対でした。当時の感覚がまともで、何も異論が出ない今の感覚がむしろ異常です。矢野氏の経済分析によると高等教育への投資は、本来であれば道路、交通、港湾などのインフラ投資よりもはるかに経済をけん引する力があるといいます。大学で勉強したからといって所得がすぐに上がるわけではないのですが、大学時代の学習経験と就職後の継続学習が所得を押し上げます。大学全入時代に学力がないものまで大学へ行く意味がないという見解もありますが、矢野氏の経済分析によると、教育年数が1年増加することで所得が何パーセント増えるか分析した結果、日本では 9%増えるそうです。この数値は所得格差の大きいアメリカの10%より低いのですが、先進国の平均である 7.4%より高いということになります。そういう意味で、大学に行くことに価値があるのかどうかの複雑な議論は別にして、自分で稼いだお金で、社会人大学院に行くということには、多くの人にとって意義があるように思えました。そして、国が投資してくれないのですから、自分で投資するしかないということなのかもしれません。
次の図表をご覧ください。国立大学の初年度納付金の高騰に驚きませんか。これは、国からの運営費交付金が減らされた結果、学費を値上げしなければ国立大学が立ちいかなくなった結果です。1975年から2020年で10倍弱の上昇です。当時のかけ蕎麦が200円なのですが、現在2000円のかけ蕎麦というのはみかけません。もう国立大学とはいえないレベルですね。これは大学院の場合も同じです。少なくとも1987年に私の両親が支払った私立大学の初年度納付金は72万円程度だったと記憶します。今の国立大学は当時の私立大学より高額なのです。フランスの大学などは5万円程度の登録料を支払うだけで、授業料というものはありません。そして、この5万円が7万円に上がるというだけでも、フランスの各都市でデモが起きます。なぜ日本人は怒らないのでしょうか。社会人大学院研究会で調査したいことの一つに、家庭の事情で大学に進学できなかった人の代替ルートを模索したいというのがあります。社会人大学院の出願資格には次のような条件が付されていることがあります。「大学卒業またはそれと同等以上の学力があると認められる者であって、入学時に3年以上の社会経験をもつ者」厳しい事前審査はあると思いますが、修士課程の進学に学士号が必須ということではないことになっています。どうしても学士号が必要というなら、安価な通信制大学もあります。また、論文博士については、学校教育法104条3項に、課程博士によって「博士の学位を授与された者と同等以上の学力があると認める者」であれば、博士の学位が授与されるということが規定されています。そこには、学士号も修士号も要件とされていません。高い授業料を支払わなくても、審査料のみで博士号を取得する道は開かれているということです。しかも、フランスやドイツは、多数派が論文博士で、課程博士のほうが少数派です。実現可能性の議論はここではしません。少なくとも経済的理由で大学に行けなかった人も、社会人大学院に行く道はあり、理論的には博士号も取得可能ということです。日本という国が、高等教育を富裕層の贅沢品に仕立て上げるのであれば、それには乗らいない方法も模索したいのです。もし研究会から、そのような道を選択肢し成功する若者が出たとするなら、多くの人のロールモデルとなるでしょう。良質な教育を受けた若者が将来、自分で稼いだお金で税金を払ってくれる。すなわち、教育は投資であると捉えているヨーロッパの国々と日本は違うということです。そのような日本では貧困線以下で生きる子どもが増加しているわけですが、誰もが希望を持てる代替ルートの模索は、研究会のテーマとしてやりがいがあるのではないでしょうか。
おかげさまで、支援者数が30名にまで達しました。ありがとうございます。目標額に対しても70%を超えております。当然ですが、自分の一次つながりの方の支援が多いので、金融業界の方が多い傾向にあります。ぜひ、異なる業種や分野の方をお誘い下されば幸いです。多様性があると、また意外な展開も生まれると思いますので。ところで、大学院合格請負人の藤本研一さんとの対談が、YouTubeになりました。子どもたちにはバカにされそうですが、お父さんはちょっとだけ YouTuberです。https://www.youtube.com/watch?v=FXOHAFIIwAg&t=268s場数を踏んでいる藤本さんが、うまくリードしてくださいました。私にはできないことで、「ちょっとだけ」YouTuber がほどよいかもしれません。
「社会人大学院」という呼び方は日本固有だと思います。国立国会図書館の所蔵資料検索を使い調べると、1990年以前はあまり使用されていなかった用語だということがわかります。その後、生涯教育の文脈で使用頻度が増えてきて今に至っているようです。たしかに、1991年大学院に進学したとき、社会人の方が学生として大学院にいらっしゃいましたが、社会人入試など存在しなかったと思うので、一般入試で進学されていたのでしょう。不思議なことに、日本語の「社会人」に当たる英語やフランス語が存在しません。無理に訳せば「アダルト大学院」でおかしなことになります。でも大学院の前に「社会人」と付けない限り、社会人も大学院に行けることに気がつかないのが日本なのでしょう。その点、アメリカは社会人もよく大学院に行くようです。パーソル総合研究所「APAC就業実態・成長意識調査(2019年)」によるアジア太平洋地域14ヵ国の主要都市に住む人に対する調査結果の報告によると、日本人は、「勤務先以外での自己啓発や学習は何もしていない」という項目でダントツ1位になっています。 しかも、管理職になりたくないでも1位、会社で出世したくないでも1位、起業・独立したくないでも1位です。管理職や出世にこだわらないのは生き方の問題なのでいいとして、どうも日本の社会人は徹底的に生きるエネルギーが奪われているような状態ですね。次の図表をご覧ください。学部生に対する大学院生の比率をみると、日本はダントツで学ばない国なのです。わが国が学歴社会だというのは、大きな勘違いです。そして、学ばないから労働生産性も低いのかもしれません。因果関係は特定できませんが、可能性は否定できないでしょう。一方で、企業が新卒一括採用と終身雇用を維持してくれているので、失業率は低く抑えられています。フランスのように労働生産性は高いが失業率が高い社会は受け入れられませんが、何事もバランスは必要でしょう。そして、従来のシステムを日本企業は維持できなくなっていますので、こちらから先に手を打つ必要があるわけです。そういう意味で、日本の社会人はエネルギーを取り戻す必要があります。いったん実務を離れる、あるいは、実務をやりながら、学術の世界に浸かる時間も確保する。そして、まったく違う地平を切り開くということを通じて、エネルギーの流れを変える必要があるようです。今、私たちは会社や世間から生きるエネルギーを吸い取られているのではないでしょうか。調査報告などをみる限り、そう思わざるを得ません。