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#令和の大仏 【みんなの心を前向きに 新たな世へ歩み出すシンボル造り】

私たちが生きる現在に、みんなの力を集めて【コロナ大仏】を造りたい。コロナをきっかけに、改めて気づき、得ることができた「教訓や指針」。それを形に込め、その記憶を未来に繋ぐ為の「新たな大仏」を造るプロジェクトを立ち上げました。この大仏を造るには皆さんのお力が不可欠です。どうか大仏造立に参加してください。

現在の支援総額

3,045,000

20%

目標金額は15,000,000円

支援者数

178

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2020/11/06に募集を開始し、 178人の支援により 3,045,000円の資金を集め、 2021/01/24に募集を終了しました

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#令和の大仏 【みんなの心を前向きに 新たな世へ歩み出すシンボル造り】

現在の支援総額

3,045,000

20%達成

終了

目標金額15,000,000

支援者数178

このプロジェクトは、2020/11/06に募集を開始し、 178人の支援により 3,045,000円の資金を集め、 2021/01/24に募集を終了しました

私たちが生きる現在に、みんなの力を集めて【コロナ大仏】を造りたい。コロナをきっかけに、改めて気づき、得ることができた「教訓や指針」。それを形に込め、その記憶を未来に繋ぐ為の「新たな大仏」を造るプロジェクトを立ち上げました。この大仏を造るには皆さんのお力が不可欠です。どうか大仏造立に参加してください。

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これまでご支援いただいた皆様の「プロジェクトへの応援メッセージ」を、いくつかご紹介させていただきます。「がんばれ〜!楽しみにしてます!」「応援してマッスル。」「閉塞感の漂う世の中に、一石を投じて下さい!」「友人アーティストさんが教えてくれて、ユニークだし、この第三派で滅入るし、ポップで入魂のコロナ大仏にすがりたいです。わたしたちも予防、対策がんばるんで、コロナ大仏様、よろしくお願いします!」「応援しています!頑張ってください!なまんだぶなまんだぶ」「応援しています!頑張ってください!無魔成満されることを祈念しております。」「息子が欲しいと言う事で購入。なのでbuddyは返してもらえるかしら」(前回のクラファンリターンのBuddyが息子さんの手に渡ったらしく、今回のTシャツと交換で返してくれるかな?とのことでした。)「応援してます。上々だ。」「今が正念場! 身体に気をつけて頑張れ!」「応援しています!頑張ってください!南無三宝!」「きわめて現代的な手法に目を奪われがちですが、そこには貴賤を問わずあらゆる人々に救いをもたらしてきた仏教の物語が、確かに受け継がれていると思います。キャラバン勧進によって、仏教の物語に多くの人が出会い、仏教がコロナ後の時代を生きていく力となっていくことを願います。」「いよいよ建立へ向けてのチャレンジですね!心より応援しています。大変な道のりと思いますが、信念を貫いて頑張ってくださいね!」「応援致しております。健康に留意して頑張ってください。」「大仏をつくりたいという意思に先人の心意気を感じとりました。是非とも大仏が形になるところまで、頑張ってください。」「作り上げましょう。そして、共にありつづけましょう。時間にゆだねながら。」「応援しています!想いがかたちになりますように。」「大仏造立楽しみにしております。」「大仏が好きで全国を行脚している者です!自分の支援で大仏建立の手助けができると思うと嬉しいです!勧進キャラバンも行けるタイミングで参加したいやと思います!頑張って下さい!!」「FBで勧進拝見してます!法律関係でお困りの際はお気軽にメッセージください!」「感染症の早期収束と、大仏の完成を願っています。」「実際に行動されたからこその素敵なお写真、魅力的なアイデアや、本気のリターンたち…本当に天心さんを尊敬&応援しています!がんばってください~!!」「少しですが、コロナ大仏造立に向け応援しています。」「新しいかたちの大仏様!! 応援しています!」「一歩ずつ一歩ずつですね。応援しています。」「いよいよ、大仏造立ですね。アート作品としてもいいプロジェクトだと感じています。応援しています。」数々のメッセージ、また上記以外の方も含めた、ご支援、誠に有難うございます。第二弾のクラウドファンディングも折り返し地点を迎え、「大仏造立プロジェクト」自体はまだまだ道半ばです。ご友人への情報拡散も含め、引き続き、ご支援を宜しくお願いいたします。


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「生活の中にある、ゆるい信仰」前回、「西洋のアートは宗教性の脱却から始まっている」とお話しました。僕は、「日本人も同じように『宗教』から脱却した『アート』を作るべき」と言いたいのではありません。初回でも触れたように、日本人にとっての芸術的価値は、そもそも「生活の中」にあるのです。そして、「宗教」という概念に惑わされる前の日本人には、独自の信仰がありました。食事の前には手を合わせたり、「勿体ない」といってモノを大切にしたり、お寺だろうが神社だろうが、安泰や豊作を祈りに足を運んだり。それもまた「生活に密着した信仰」だったのです。「だった。」ではないですね。僕たち今の日本人も何ら変わりはありません。日本人にとって、「アート」も「信仰」も、「生活」の中で融合していることが自然なのです。つまり、日本人の性質に適したアートとは、宗教性(信仰)をあえて切り離す必要のないアートなのです。お寺にあったら拝む仏像が、博物館にあったら鑑賞する仏像になる。そんな良い意味で「ゆるい」信仰をもっているのが日本人なのです。そんな「宗教とのゆるい関係性」を素直に受け止めて生み出すのが、日本人がつくるアートなのだと思うのです。勧進仏像の中に入っている胎内仏(尼崎市GermanSuplexAirlinesのスタジオ付近にて)「日本人みんなのアート、大仏」これまで述べてきたように、明治以前の日本人と、現在の日本人の間には「西洋のアート」が挟まってしまっているのです。僕が美大で学んだ結果、感じとった違和感は、「これ(輸入された西洋のアート)」だったのです。「これ」をうまく外すことで、そもそも日本人が培ってきた「ゆるい宗教を伴ったアート」を、今を生きる日本人にも「繋げなおす」ことができます。そして、その「繋ぎなおし」をするためには、僕のような「アーティスト」と「僧侶」の両方をもち、2つの分野に分けられてしまった「アートの世界」と「宗教(信仰)の世界」をも、繋げなおす必要があるのです。そう考えていくと、日本にあるアートを担ってきたのは、どんな人だと思いますか?仏像をつくった「仏師」? 浮世絵を描いた「絵師」? 武具や工芸品をつくった「職人」? 民藝をつくったのは名も無い「民衆」です。日本においては、その皆が「アーティスト」に値するのです。そのアーティストたちは、誰しもが「ものづくり」の当事者になれるのです。そんなアーティストの皆さんと共に、僕たちが作ろうとしているのが、 大きな大きな日本人みんなのアート、「大仏」です。広島県呉市にある「源宗坊寺」。稲田源宗さんが作り上げた大仏と共に。https://gensouboji.localinfo.jp/「魂」を込める以前の活動報告で、仏像に魂を入れる「開眼(かいげん)」の話をしました。僕たち日本人は、何かモノをつくりだすときに「魂(たましい)」を込めようと思いませんか? そして、良い作品を見たときには、「魂がこもっている」と感じませんか?日本人は「仏像」だけではなく、つくりだすもの全てに「魂」を込めようとするのです。 僕は、これこそが日本人の「アート感」だと思うのです。「魂」を込めるためには、当然ながら技術は必要ですが、それだけでは足りない気がします。そこには、「集中力」が必要です。「意思」が必要です。「心」が必要です。そして、自分自身の努力だけでは推し量れない「授かりもの」が必要です。「授かりもの」を得るためには、僕たちだけの力ではなく、みなさんからの「志(こころざし)」が集まることが重要なのです。風間天心


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「『日本人の信仰心』って宗教?」 「芸術」と同様に、「宗教」もまた輸入された概念です。僕がヨーロッパに滞在した時に、いつも聞かれて困ったのが「あなたの宗教はなんですか?」という質問です。多くの日本人は「無宗教」もしくは、「神道と仏教」と答えます。相手は怪訝な顔をして、「宗教がないのにどうやって生きているの?」とか、「2つの宗教があるってどういうこと?」と更に尋ね、さらに混乱することになります。最初、僕たち日本人が「宗教を知らないから」なのだと思っていましたが、よくよく考えてみると、そもそも「宗教」という概念の捉え方が違うのだということに気がつきます。西洋の「宗教(Religion)」とは、一神教を前提とした概念です。「どんな場所にも神様がいたり」(アミニズム)、「神様と仏様が融合してしまった」(本地垂迹 ほんじすいじゃく) 日本人とは、信じること自体のあり方が全く違うのです。そこにまた「宗教」という概念を丸写しで輸入してしまったが故に、日本人は「無宗教」と言わざるを得ない状況に陥ってしまったのです。クリスマスを祝ってすぐに、お正月に初詣に行く日本人は、西洋でいう「宗教」を持っていないかもしれませんが、独特の「信仰」は持ち合わせているのです。廃仏毀釈の影響を受けて、東京から北海道の寺に移されてきた天狗の像「宗教画から脱却した西洋のアート」西洋における「芸術(アート)」には、どんな歴史があるのでしょうか。(そもそも「アートの歴史=西洋の歴史」であり、日本人が簡単にはアートの土俵に上がれないのも、ここに理由があります。)西洋でのアートは、はじめは宗教と共にありました。みなさんご存知の宗教画と言われるものです。文字の読めない人たちに対し、キリストや聖書の世界を知ってもらうために、絵や彫刻をつかって理解を深めさせていました。しかし、ルネサンスや産業革命などの転換期を経て、次第に宗教性を省いた絵画が生まれだします。それまでアーティストのパトロン(後援者)は教会でしたが、市民の中にも大きなパトロンが現れ、表現の上でも宗教的制約から脱却する流れが起こります。つまり西洋におけるアートの歴史には、まず「宗教性からの脱却」が明らかに存在するのです。西洋のアーティストは、その流れを十分に理解した上で、新たな表現を生み出しているのです。(現代の抽象的な作品にも、実は宗教的なテーマが背景にあるものが多く存在します。)ギャラリー CAI02 (札幌) での風間天心の個展(西洋の額縁に切り取られた、日本の落雁や灯籠の光)http://cai-net.jp/exhi_schedule/2018/10/2790/「日本人にとってのアートを探して」一方、日本におけるアートはどうでしょうか。明治期に日本に入ってきたアートは、既に「宗教性からの脱却」を果たしたアートでした。その上っ面のものを日本人は「純粋なアート」として学んだのです。しかし、そこで起こるべき矛盾点が、実は今現在も解決されないままなのです。その矛盾点とは、「日本のアートは、いつ宗教から脱却したのか?」という点です。つまり、「日本のアート」には「西洋のアート」が通ってきた「宗教との歴史」が存在しないのです。これがどういった結果をもたらしているのでしょうか。西洋の「印象派展(宗教性から脱却したアート)」と、日本の「国宝展(宗教性ド直球の仏像)」が同様に長蛇の列をつくる構図です。それらの上にあるべき近代現代の日本人アーティストには、価値が見出されていないのです。その原因の一つは、日本人が「アートと宗教の関係性」に対し、いまだに踏み込めていないからなのです。風間天心(③へ続きます。次回は、「なぜアートと宗教をつなぐ必要があるのか?」 に言及します。)


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「なぜアーティストと僧侶?」今日は、そもそもなぜ、僕自身が「美術家(アーティスト)」と「僧侶」の両方を続けているかについて書かせていただきます。その大きな理由の一つは、「芸術(アート)の世界と、宗教の世界を繋げなおすため」です。でも、お寺で守られてきた美術品はいっぱいありますし、「国宝展に展示されているものってお寺の所蔵品でしょ?」と、思われるかもしれません。「わざわざ改めて『繋げなおす』必要はないんじゃない?」そうも思うかもしれません。しかし、繋げなおす必要はあるのです・・・。風間天心の水引と神棚を用いた作品「『芸術(ART)』と『宗教(Religion)』は輸入された概念」実は、僕たちが自然に使っている「芸術」という言葉、「宗教」という言葉も、明治期に輸入された概念です。そもそも日本には、「芸術(アート)作品」というものは存在しませんでした。日本にあったのは、陶磁器や竹細工など「民藝(みんげい)」といわれる日用品、茶道に使われる「茶器」、日本刀や甲冑などの「武具」、今でいう雑誌のような扱いの「浮世絵」、そして「仏像」や「仏具」など。どれも現在では海外でも日本でも芸術品としての価値をもっていますが、明治以前の日本人にとってはどれも「鑑賞」するものではなく、「実用」していたものばかりです。つまり、日本では西洋でいう純粋な「芸術」は存在しなかったのです。しかし、そのどれもが芸術的価値を見出すほどのクオリティ(質)を有していました。つまり、日本人が生み出す「クオリティ」とは日常生活や慣習、時には「信仰」と、切っても切り離せないものであり、西洋人が芸術品に求める「クオリティ」とは、生み出す動機も性質も異なるのです。そこに後から輸入された「芸術」という概念が、日本人のもつ審美眼を混乱させてしまいました。美大で学んだ「デッサン力」などは、今の活動にも活かされています。「美術教育」僕自身は、東京にある武蔵野美術大学でアートを学びました。大学院までの6年間、いろいろな美術/芸術を学びましたが、結局、僕が生まれたお寺で見ていた仏像や仏具、(廃仏毀釈の影響によって所蔵されている古い絵や面)などを理解するための手助けにはなりませんでした。日本の美大、芸大で学ぶ内容の多くは、「西洋のアート」です。ヨーロッパやアメリカの美術史やアート作品は徹底的に学びますが、それらと日本の伝統技術や文化が、どう繋がっているのかは全く教えてもらえません。「どう違うのか」すらも教えてもらえません。それは、日本の美術教育自体が、明治期の輸入概念「芸術(ART)」の丸写しになってしまったからです。その一方、そこに抵抗した東京芸大の創始者の一人「岡倉天心」という人もいます。彼は、「西洋の絵」と「日本の絵」は性質からして違うことを示すために「日本画」という分野を作りました。しかし、その功績をもってしても、日本の美術は「西洋のアート」を純粋な「アート」として扱ってきました。誰しもが高校で、なんの理由も聞かされず、当たり前のように「キャンバス」に対して「油絵具」で絵を描くことを強要される・・・、日本の「美術」とは、そういった背景があるのです。風間天心(②へ続きます。次回は、「日本人にとってのアート、宗教とは?」 に言及します。)


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big buddha やGermanSuplexAirlinesのSNS上で時々画面を賑やかにさせている小さな仏像たちがいます。これらは、キャラバンで赴く現場では、常に法要中の本堂なりの隅っこで進行を見つめています。この小さな仏像、通称<ミニ大仏>はそもそも勧進仏像のマケットとして制作されました。それが、置物としての可愛らしさを醸し出すもので、大仏を造るための資金を担う販売物へと昇格しました。(現在までに30個以上法要に参列された方々に購入して頂きました。)勧進大仏と違いミニ大仏は貼り付ける紙をコロナに限定せず様々な新聞や雑誌の記事を色とりどりに貼り付けています。主に制作している僕も、一応作家の端くれなもので、どのような色合いにすれば可愛くできあがるのかをいちいち考えてしまいます。しかし、個人的な色彩の趣味だけで作っていくと、どうにも一辺倒なものになってしまうので、時々「あえてこれは好きな配色ではないが貼り付けてみよう」と試みたりもします。どちらが選ばれやすいかを見ていても、どちらも同じくらいというのが答えで、多くの人はそれぞれ自分の好みをしっかり持っているんだなぁということがよくわかります。ミニ大仏は、シリコンの型にセメントを流し込んで、基本の仏像を作っています。それを乾燥させて顔に色を塗り、紙を貼り付けていきます。シリコン型は軟質で、合わせが悪かったりすると変なところに筋が入ったり、顔が段違いになったりと出来上がる仏像をまったく同じ形に産み出してはくれません。しかし、僕はその方がいいと思っています。紙の貼り方もそうですが、どこをどうひねくりまわしてもまったく同じものはできないので、結果的に唯一無二のものになります。量産しておきながら唯一無二という矛盾が、何故だか心地いい響きだったりします。顔が悪かったり、鼻が欠けていたり、目が段違いだったりするミニ大仏も多いですが、持ち帰って自分のものになればとても可愛いものです。現在は、僕一人でミニ大仏を制作していますが、可能ならキャラバン再開後にワークショップ形式で多くの方にミニ大仏制作体験をして頂きたいと思っています。セメントのボディをしこたま作っておいて、紙貼りをみんなに体験してもらい、自分のミニ大仏を作ってもらいたいです。そこから、この度のプロジェクトで造立しようとしている大仏へ興味が繋がったら、ミニ大仏は単なるマケットから功労者へと昇格するに違いありません。前田真治